第一弾は、Jazz at the Philharmonic の "Blues, Part 2" (1944)
です。なぜパート2かというと、当時はレコードの収録時間が短かったので、全部で10分以上あるこのライブ演奏はAB面に分けなけらばならなかったのです。で、なぜパート1ではなくパート2かというと、パート2でのイリノイ・ジャケーのサックス演奏にロックンロールが感じられるからでしょう。
メンバーは次のとおり
イリノイ・ジャケー Illinois Jacquet:サックス
ジャック・マクヴィー Jack McVea:サックス
JJジョンソン J.J. Johnson:トロンボーン
ナット・キング・コール Nat King Cole:ピアノ
レス・ポール Les Paul:ギター
ジョニー・ミラー Johnny Miller:ベース
リー・ヤング Lee Young:ドラム
ナット・キング・コールとレス・ポールは各々 Slim Nadine と Paul Leslie
という変名になっています。この事情が本文に書いてあったと思うので、近いうちに紹介します。
「このレコードに影響を与えた」のは、サキソフォン奏者レスター・ヤング Lester Young とハーシェル・エヴァンズ Herschel
Evans。そして、イリノイ・ジャケー自身の1942年の "Flying Home" でのソロ演奏。"Flying Home"
はライオネル・ハンプトン楽団によるもので、1943年にポップチャートの23位まで上昇。
「このレコードが影響を与えた」のは、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore、ビッグ・ジェイ・マクニーリー Big Jay McNeely
からキング・カーティス King Curtis に至るまであらゆるサキソフォン奏者。
「重要なリメイク」は、チャック・ベリー Chuck Berry の "Rockin' at the Philharmonic" (1958)
(シネシャモ日記2007年4月21日)
1944年、MGMで映画の編集をしていた26歳のノーマン・グランツ Norman Granz は、ロサンジェルスの331クラブで毎週ジャムセッションを開いていた。セッションが人気を呼んだので、通常はクラシックを演奏していたフィルハーモニック・オーディトリアムで日曜の午後にコンサートを開くこととなった。7月2日に行われた最初のコンサートは満員だった。
グランツは録音を考えていなかったが、米軍ラジオ放送部(Armed Forces Radio Service)で働いていたジミー・ライオンズ Jimmy Lyons が16インチのディスクに録音させてくれとグランツに頼んだ。米軍ラジオ放送部は、黒人兵士向けの番組のために、ロサンジェルスでジャズやスウィングを録音していた。録音されたコンサートは、12インチ(30センチ)または16インチ(40センチ)で78回転のレコードに編集され、世界中の短波放送局に送られた。Jazz at the Philharmonic (JATP) はうってつけのコンサートだった。
グランツは、ドラマーにリー・ヤングを雇った。27歳のリー・ヤングは、ニューオリンズ生まれで、サックス奏者レスター・ヤングの弟だった。ナット・コール・トリオも雇った。コールがピアノ、オスカー・ムーアがギター、ジョニー・ミラーがベースだ。過去にR&Bチャート1位になった曲を2曲持ち、このとき "Straighten Up and Fly Right" が1位に君臨していたコールのトリオが出演したことは、グランツに対して地元ジャズメンが持っていた敬意の表れである。このときキャピトルレコードに所属していたコールは、商業的価値の高いものとしてベルベットボイスを前年に確立しており、スリム・ネイディーンという別名で参加し、ピアノに専念した。ちなみに、ネイディーンというのは彼の妻の名前だ。
このコンサートが大成功だったので、翌月もフィルハーモニック・オーディトリアムでコンサートを開き、同じミュージシャンを呼んだ。ジャケーは "How High the Moon" の演奏で聴衆をノックアウトし、JATPの運命を変えた。聴衆は荒れ狂い、座席をはぎ取ったので、フィルハーモニックの経営陣に嫌われ、次回からはシュライン・オーディトリアムで開催された。フィルハーモニック・オーディトリアムには二度と戻ってこなかったが、"Jazz at the Philharmonic" という名称は残り、15年後に海外で行ったときでさえその名称が使われた。
このコンサートを米軍ラジオ放送部が全世界で放送したのち、グランツはJATPの商業的魅力について再考した。ジミー・ライオンズからマスター盤が戻ってくると、ニューヨークに乗り込んだ。コロンビアレコードからはきっぱりと断られた。グランツはモーゼス・アッシュ Moses Asch と接触した。ポーランド移民であるアッシュは、30年代後期から、レッドベリーやウディ・ガスリーなど、ブルーズ、ゴスペル、フォークを録音していた。ジャケーが演奏する "How High the Moon" に針を落とした途端、アッシュは夢中になり、JATPの最初の二つのコンサートを一組のアルバムとして発売することに同意した。
"How High the Moon" とともに伝統的なブルーズが収められた。単に「ブルーズ」と名づけられた。10分半あったので、両面に分割された。「パート1」はジャック・マクヴィーとJJジョンソンのソロで、「パート2」はジャケーのソロとナット・コールとレス・ポールのかけ合いである(私が持っている Jasmine Records というイギリスの会社から発売されている "Jazz at the Philharmonic" は、7分の「パート1」がジャケーのソロまで含まれており、3分半の「パート2」はナット・コールとレス・ポールのかけ合いだけです。2001年7月にウィークエンドサンシャインでかかったときも7分ぐらいのところでくっつけたものでした。ジャケーのソロは3分半ぐらいから6分ぐらいまで続き、誰だってジャケーの前で中断するよりジャケーの後で中断するだろうから、この本の説明は間違いだと思います)。
ジャケーは、最初のコンサートのすぐあとでカウント・ベイシー楽団に加入し、次第に華々しさが消えて、まともなジャズミュージシャンになった。ナット・コールは、最初の黒人ポップスターとなり、数多くのバラード歌手に影響を与え、1965年に肺がんで亡くなった。レス・ポールは、メアリー・フォード Mary Ford とチームを組んで成功し、多重録音技術の開拓に貢献し、ロックンロールのギターソロを明示した。JJジョンソンは国際的に有名なトロンボーン奏者となった。リー・ヤングはハリウッドの権力構造に立ち向かい、映画撮影所、ラジオ、テレビのオーケストラに加入した最初の黒人ミュージシャンの一人となった。ジャック・マクヴィーは1947年の最大のヒット曲 "Open the Door, Richard" を共同で作り、自ら演奏した。
(シネシャモ日記2007年4月28日)
2
Joe Liggins and His Honeydrippers The Honeydripper
(1945)
リギンズは自分のバンドを作った。リトル・ウィリー・ジャクソン Little Willie Jackson
がアルトサックスで、ほかにテナーサックスとベースがいた。レオン・ルネは自分のレーベルを設立したばかりで、自作曲を演奏してくれるバンドを探していた。ある日、ルネは、ジョー・リギンズの覚えやすい新曲が街の話題になっているという話を耳にした。
ルネは、片面3分しか録音できない10インチ盤にどうやって15分の曲を収めるか考えた。ルネはリギンズに短縮するよう頼んだが、リギンズは両面に録音することを提案した。片面は歌が中心で、もう一方は演奏が中心だ。リギンズは、もっとエキサイティングなレコードにするために、ドラマーを加え、それまでのベーシストをジョージ・「レッド」・カレンダー
George “Red” Callender
と交代させた。カレンダーは若いジャズベーシストで、のちに、チャーリー・パーカーや、リッチー・ヴァレンス、エディ・コクランなどのロックンローラーたちと演奏することになる。
1949年にエクスクルーシヴが倒産すると、リギンズはスペシャルティ・レコードSpecialty Records
に移籍した。スペシャルティのオーナーは、ルネの債権者に、エクスクルーシヴのマスター盤を売ってくれるよう頼んだが、断られた。それで、リギンズの二つの大ヒット曲「ハニードリッパー」と
“I’ve Got a Right to Cry”
を一枚のレコードの両面に収めて発売した。凝縮したアレンジだったので、より引き締まって無駄のないものとなった。スペシャルティはこの1950年の「ハニードリッパー」を常にカタログに入れ続けたので、現在ではオリジナルよりも知られるようになっている。
重要なカバー:
The Glenn Miller Orchestra, "Hey!
Ba-Ba-Re-Bop"(ポップチャート4位)
Lionel Hampton, "Hey!
Ba-Ba-Re-Bop"(R&Bチャート1位16週、ポップチャート9位)
Big Jim Wynn,
"Ee-Bobaliba"
Dizzy Gillespie, "Bob A Lee Ba"
Tina Dixon,
"E-Bop-O-Lee-Bop"
Wynonie Harris, "Hey-Ba-Ra-Re-Bop"
重要なリメイク:
Helen Humes, "E-Baba-Le-Ba" (1950, Discovery Records)
Thurston
Harris (1958)
(シネシャモ日記2007年5月26日)
テキサス生まれのビッグ・ジム・ウィン Big Jim Wynn は自分のバンドを持つサックス奏者で、ロサンジェルスで活躍していた。戦時中、彼のバンド
The Bobalibans は "Ee-Bobaliba"
というバカバカしい歌詞の曲を演奏していたが、1942年から44年にかけてジュークボックス印税をめぐりミュージシャンがストライキを行ったことと、レコードの原料であるシェラックが不足していたために、その曲をレコード化することができなかった。
ウィンの曲にはどれくらいのオリジナリティがあったのだろう。ジェリー・ロール・モートン Jerry Roll Morton は、「ビー・ババ・リーバ
Be-Baba-Leba」のブギ・ラインを「かなり古くからあるリフ」だと述べている。昔からのエイトビートのリフをより現代的にした曲は、1937年にカウント・ベイシーがデッカで録音した「ブギウギ
Boogie Woogie」で、ボーカル・リフレインはジミー・ラシング Jimmy Rushing だった。ただ、ラシングは「ウー・ババ・リーバ ooh
baba leba」 とは歌っていない。
1944年、メズナー兄弟 Ed and Leo Mesnerが Philo Records
をロサンジェルスに設立した。レコード産業はまだストライキや戦争から復興しておらず、ほとんどのミュージシャンは自由契約だったので、ミュージシャンを獲得するのは容易だった。Philo
Records は、イリノイ・ジャケー Illinois Jacquet、ワイノニー・ハリス Wynonie Harris、ジェイ・マクシャン Jay
McShann、そしてカウント・ベイシー楽団のヘレン・ヒュームズ Helen Humes を獲得した。
ヒュームズは、1913年6月23日、ケンタッキー州ルイスビルの中流の上の黒人家庭に生まれた。「ルイスビルにはリンカーンという名前の劇場があって、そこで小さい頃マ・レイニー
Ma Rainey、ベッシー・スミス Bessie Smith、ジョセフィン・ベイカー Josephine Baker、エセル・ウォーターズEthel
Watersを見たけど、歌手になりたいなんて思ったことなかったわ」と1970年代のインタビューで彼女は述べている。
1927年、彼女が13歳の時、Okeh Records のためにエセル・ウォーターズ風のブルーズを何曲が録音した。伴奏はロニー・ジョンソン Lonnie
Johnsonだった。1930年代中期には、白人トランペッター、ハリー・ジェームズ Harry James
とともにレコードを録音した。1937年、カウント・ベイシー楽団の専属歌手としてビリー・ホリデイ Billie Holiday
のあとを継ぎ、3年以上在籍し、1938年12月には、さまざまな黒人音楽が初めて白人に紹介された伝説的なカーネギーホールでの "Spirituals to
Swing"
コンサートに立つという栄誉にあずかった。ただ、彼女が在籍中、カウント・ベイシー楽団はヒット曲に恵まれなかった。1941年、ベイシーは、ヒュームズと関係を持っていたことを妻に知られ、妻にせがまれてヒュームズを解雇する。
ヒュームズは、カウント・ベイシー楽団で仕事をしている間、男性専属歌手のジミー・ラシングが「ブギウギ」を歌うのを何度も聞いた。これはパイン・トップ・スミスPine
Top Smith の1929年のヒット曲 "Pine Top's Boogie Woogie" に基づいていたが、歌詞は全然違っていた。
ビーバップ(またはリーバップ)は、1940年から41年ごろに現れたジャズの一形態で、トランペッターのディジー・ガレスピー Dizzy Gillespie
とエレキギタリストのチャーリー・クリスチャン Charlie Christian
が作り出したと一般に言われている。何でも盗んでいく白人ミュージシャンをまごつかせるために、仲間内の暗号言葉のようなものとして調子はずれの音程を使ったのだ。ジャズライターでミュージシャンのバリー・ウラノフ
Barry Ulanov
の推測によれば、チャーリー・クリスチャンが「ビーバップ」という言葉を生み出した。というのも、クリスチャンが演奏中にハミングする音に似ているからだ。「ビーバップ」は、ラテンバンドが気合を入れるときのかけ声、「アリバ
arriba」や「リバ riba」の変形だという者もいる。いずれにせよ、「ビーバップ」という言葉は1942年までに "go, man, go"
という意味で広く使われるようになっていた(「もっとやれ!」という意味?)。しかし、当時、録音が禁止されていたため、ビーパップの初期の発展はレコードに記録されていない。
ピアニストでアレンジャーのウィリアム・バラード・ドゲット William Ballard Doggett
は、ヘレン・ヒュームズから一緒にセッションをしてほしいと頼まれた。ドゲットは、自分の小さな楽団を連れていった。リハサールなしにただ現場に行っただけだ。ヒュームズは各々の曲のキーとテンポを告げるのみで、素早く練習し、そして録音した。
ドゲットのバンドのテナーサックス奏者はその日開いていなかったので、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore を使った。
少なくとも5曲録音した。3曲は、ヒュームズがカウント・ベイシー楽団で歌っていたようなバラードで、4番目は "He May Be Your Man"
というジャンプブルーズで、最後が「ビー・ババ・リーバ」だった。彼女の高い声にマッチした曲で、次の10年間、R&B界での彼女の地位を築いた。
ヘレン・ヒュームズにとって「ビー・ババ・リーバ」は最大のヒットとなったが、彼女がより知られているのは、1950年のライブ録音の「ミリオン・ダラー・シークレット
Million Dollar Secret」によってだろう。彼女が「ビー・ババ・リーバ」に我慢できるとしたら、それはB面の "Every Now and
Then" のおかげで、この曲は彼女がカウント・ベイシー楽団に入る前から好きだった曲だ。
「ビー・ババ・リーバ」は、ヒュームズをR&Bファンに知らしめただけではなく、32歳のベテランシンガーを未成年の少女だと錯覚させた。彼女の甲高い声は、1927年に初レコーディングしたときのように若々しかった。彼女がきわどい歌詞を少女のような声で歌ったことで、思春期や思春期前の女性歌手が次々と輩出することとなった。たとえば、8歳の
Toni Harper("Candy Store Blues")や13歳の Little Esther Phillips である。彼女の "The Deacon
Moves In" は、R&B界で最も恥知らずな小児性愛への賛歌の一つだ。
1947年、ヒュームズは、ディジー・ガレスピーと彼のビーバップ・オーケストラとともに、"Ee-Baba-Leba"
という10分の映画に参加した。同時に、ガレスピーは、"Jivin' in Be-Bop" というミュージカル映画で "Bob A Lee Ba"
を演奏した。ヒュームズは、1950年に Discovery Records のために、この曲をライブ録音した。タイトルは "E-Baba-Leba"
だった。察するに、もともとこの曲のタイトルは "E-Baba-Leba" だったと思われる。
重要なリメイク:
メリル・E・ムーア Merrill E. Moore (1952)
チャック・ミラー Chuck Miller
(1955、ポップチャート9位)
アール・リチャーズ Earl Richards
(1969、カントリー&ウエスタンチャート39位)
アスリープ・アット・ザ・ウィール Asleep at the Wheel
(1987、カントリー&ウエスタンチャート17位)
エラ・メイ・モースは、1924年9月12日にテキサス州ダラスに近い小さな町で生まれた。彼女の父親はジャズバンドのドラマーで、12歳からプロ歌手として父親のバンドで歌い、地方のラジオ番組に出演した。1939年、彼女が14歳の時、ジミー・ドーシー
Jimmy Dorsey
が彼のバンドに彼女を雇い入れたが、たった2ヵ月ツアーに参加しただけだった。しかし、ここで当時29歳だったピアニスト兼アレンジャーのフレディ・スラックと出会った。
スラックは、1935年ごろ、ベン・ポラック Ben Pollack
のバンドで演奏していたが、そのときパイン・トップ・スミスのブギウギレコードを初めて耳にした。その一年後、ジミー・ドーシー楽団に参加して、ビッグバンドのためにブギウギナンバーをアレンジすることを思いついたが、国民がブギウギに熱狂する1939年まで、その考えは実現しなかった。
ブルーズと血縁関係にあるブギウギは、1900年代初期に南部の安酒場や売春宿で発達した。旅回りのピアノ奏者は、安酒場や売春宿で、ぼろぼろで音程がおかしくなったアップライトピアノを弾いて、みんなを楽しませた。左手でベースのリフを弾き、右手で即興のメロディを弾く。初期のピアノ奏者は、走る列車のカタコトいう音を左手でまねた。実際、最初のブギウギレコードは、ミード・ラックス・ルイス
Meade Lux Lewis の1927年の「ホンキー・トンク・トレイン・ブルーズ Honky Tonk Train
Blues」だった。ブギウギという名称は1920年代にシカゴで付けられたと言われている。
9年後、ついにブギウギが流行し始めた。ピアニストのミード・ラックス・ルイス、ピート・ジョンソン Pete Johnson、アルバート・アモンズ
Albert Ammons
によるブギウギトリオがカーネギーホールの「スピリチュアルからスウィングへ」コンサートでブギウギを紹介し、その後全国ツアーで大人気を博したからだ。同年、トミー・ドーシー
Tommy Dorsey
が「パイン・トップのブギウギ」を「ブギウギ」に作り替え、大ヒットとなった(カウント・ベイシーの1937年の「ブギウギ」とは違う)。
スラックが小編成バンドを結成した時、ボーカルにエラ・メイ・モースを迎えることを考えた。彼女は17歳になっていた。スラックはハリウッドに乗り込み、1942年に設立されたばかりだったレコード会社キャピトルに参加した。スラックがエラ・メイ・モースと録音した「カウ・カウ・ブギ
Cow Cow Boogie」はヒットした。その原曲であるラグタイムピアニストのチャールズ「カウカウ」ダペンポート Charles "Cow Cow"
Davenport の「カウ・カウ・ブルーズ」は、映画 "Ride 'Em Cowboy"
のために書かれ、エラ・フィッツジェラルドが歌ったが、誰も強く売り込まなかった。モースとスラックは、この曲を取り上げ、活気のある曲に仕上げ、映画からレコードへというプロセスを逆にした。キャピトルが二人の「カウ・カウ・ブギ」で稼いでいる間に、二人はコロンビア社の新作映画
"Reveille with Beverly" (1943) でこの曲を演奏したのだ。
次の二人の曲 "Mr. Five By Five"
も10位まで上昇したヒットとなり、アンドリューズ・シスターズのカバーを少し上回った。この曲はR&Bチャートでも1位となった。
その後すぐにエラ・メイとスラックは別れたが、エラ・メイはブルーズのスタイルで歌い続けた。多くの黒人リスナーたちは彼女を黒人だと考えていたかもしれない。というのも、彼女の
"Shoo Shoo Baby" (1943) と "Buzz Me"
(1946)は黒人チャートで1位と2位になったからだ。しかし、白人も彼女のレコードを買った。"Shoo Shoo Baby"
はポップチャートでトップテンヒットとなり、デッカレコードがアンドリューズ・シスターズの俗受けするカバーを出さなければ、もっと上昇しただろう。そのカバーは1位に9週間君臨した。エラ・メイの
"Buzz Me" もヒットした。この間、彼女は映画に出演し続けた。
1946年、エラ・メイ・モースとフレディ・スラックは再び一緒にレコードを作ることにした。スラックは、ソングライターのダン・レイ Don Raye
を連れてきた。彼は、"Down the Road Apiece"、"Beat Me Daddy, Eight to the Bar"、"Boogie
Woogie Bugle Boy"
(あとの二曲hアンドリューズ・シスターズの大ヒット曲)の歌詞を書いて名声を築いていた。レイが何曲か持ってきた中で、エラ・メイとスラックは "Hey Mr.
Postman"
と「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」を選んだ。(ここで、冒頭の二人のセリフについて説明しているけど、残念ながら、割愛させてください。本当は重要なんですけど)
「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」という場所はホットだったに違いない。リトル・リチャードは、「グッド・ゴリー・ミス・モリー Good Golly, Miss
Molly」の中でハウス・オブ・ブルー・ライツを訪れているし("From the early early morning to the early early
night, when it comes Molly's rockin' at the house of blue
lights")、チャック・ベリーも1958年に訪ねているが、チェスレコードは1974年まで発売しなかった。
フレディ・スラックは1965年8月10日に死去。(International Movie Database
によれば、エラ・メイ・モースは1999年に75歳で死去。この本 "What Was the First Rock 'n' Roll Record?"
が発行されたのは1992年だから、まだ健在だったようです。)
影響を受けたのは:
"My Black Mama" by Son House (1930)
"Keep on Trying" by
Tampa Kid (1936)
"If I Get Lucky" by Big Boy Crudup (1941)
"Keep Your Arms
Around Me" by Big Boy Crudup (1944)
メロルーズは、J・メイヨ・ウィリアムズ J. Mayo Williams (13曲目の "Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee"
に登場するようです)とともに、不況時代の初期からコロンビアとビクターという大会社のためにシカゴの黒人音楽制作を独占していた。メルローズは、ブルーズミュージシャンと直接契約し、レコード会社に貸し出していた。彼が規則を作り、価格を設定していたので、ミュージシャンたちはいやもおうもなかった。クルーダップは、後年、この契約を後悔することになる。
1940年代の半ばに RCA(Radio Corporation of America)
がビクターレコードと合併し、クルーダップは子会社のブルーバードから新たなRCAビクターに移籍した。クルーダップは1945年から46年に2曲のヒットを飛ばし、そのうちの
"So Glad You're Mine"
はR&Bチャートで3位まで上昇したが、「ザッツ・オール・ライト」はヒットしなかったし、彼の代表的なレコーディングでさえなかった。1944年の "Keep
Your Arms Around Me"
など、それ以前の曲を数曲つなぎあわせた程度のものだった。220ポンド(100キロ)という体格は「ビッグボーイ」というあだ名にふさわしかったが、甲高い声は体格にそぐわなかった。彼の演奏でもっとも特徴的なのは彼の声で、力強いフィールド・ハラー(field
holler。働きながら上げる叫び声)とゴスペルのシャウティングを混合させたものだった。一方、ギターの腕前は初歩的なものにとどまった。通常Eのキーでしか演奏しなかったし、主にシンコペーションのためにギターを使用し、スタッカートで弦を打ち鳴らし、絶えず拍子を飛ばした(曲のリズムや小節構造を変えた)。
「ザッツ・オール・ライト」は、1946年にはそこそこ売れただけだったが、その3年後、RCAビクターはこの曲をレコーディングの歴史の一部にしようと決心した。話は1900年ごろにさかのぼる。フィラデルフィアの
Improved Gram-O-Phone Record Company
は、1分間78回転で演奏される、セラックを原料とする10インチのレコードを開発した。それまでは72回転から85回転の間で回っていたものだから、結果はたいてい笑えるものだった。1948年までは、1930年代半ばにビクターが33
1/3回転のレコードを導入しようとして破産しかかったことを除いて、録音技術にたいした変化はなかった。
1954年、RCAビクターは、アーサー・クルーダップとの契約を失効させた。彼のレコードは売れていなかった。皮肉なことに、同じころ、メンフィスのサンレコードが、クルーダップの名前を歴史書にとどめることになるセッションの録音を行っていた。1954年夏、プレスリーは、ギタリストのスコッティ・ムーアとベーシストのビリー・ブラックとともに最初のセッションで「ザッツ・オール・ライト」を録音した。1946年のクルーダップのアレンジとほとんど同じで、ドラムがないことと最後の2番を省略していることが主な違いだった。のちにプレスリーはクルーダップの
"My Baby Left Me" をサンレコードのために録音し、クルーダップのいたRCAビクターに移籍してからは "So Glad You're Mine"
を録音した。これら三曲によって、この古いブルーズマンが若いプレスリーに大いに影響を与えたのは明らかだ。
晩年、アーサー「ビッグボーイ」クルーダップは、フェスティバルで演奏し、アメリカとヨーロッパで数枚のアルバムを録音した。ブッダレコードは、1973年のニューポート・ブルーズ・フェスティバルでライブ録音された「ザッツ・オール・ライト」を
"The Blues - A Real Summit Meeting"
というアルバムに収録した。ボニー・レイットと巡業公演したのち、1974年3月28日にバージニア州フランクタウンの自宅で脳卒中によって亡くなる。
(シネシャモ日記2007年8月13日から15日)
6 Jack McVea and His All Stars
Open the Door, Richard
(1946)
R&Bチャート2位、ポップチャート3位
カテゴリー:ノベルティR&B(「ノベルティ」は冗談ソング)
作者:当初はジャック・マクヴィー Jack McVea とクラーク Clarke、のちにダスティ・フレッチャー Dusty
Fletcher、ジョン・メイソン John Mason、マクヴィー、ドン・ハウエル Don Howell
重要なカバー:
カウント・ベイシー(R&Bチャート2位、ポップチャート1位)
スリー・フレームス the Three
Flames(R&B3位、ポップ1位)
ダスティ・フレッチャー(R&B2位、ポップ3位)
ルイ・ジョーダン Louis
Jordan(R&B2位、ポップ6位)
チャリオティアーズ the Charioteers(ポップ6位)
パイド・パイパーズ the
Pied Pipers(ポップ8位)
重要なリメーク:
ピッグミート・マーカム Pigmeat Markham (1964)
ビル・ドゲット Bill Doggett
(1965)
9月終り、マクヴィーは、ハリウッドの独立系レコード会社ブラック&ホワイトのために「オープン・ザ・ドア・リチャード」を録音した。プロデューサーのラルフ・バス
Ralph Bass
は次のように回想する、「マクヴィーに何曲かブルーズを演奏させたが、どれも似たり寄ったりで、死ぬほど退屈だった。それで、彼のライブで聴いたことがある「オープン・ザ・ドア・リチャード」を提案したんだ。」
曲の中で、マクヴィー、ドラマーのレイボン・タラント Rabon Tarrant、トランペッターのジョン「レッド」ケリー John "Red" Kelly
は、リチャードが一つしかない家の鍵を持って早く家に帰ったあと、夜遅く家に帰る。バンドメンバーがノックや呼び声を繰り返しても、リチャードは出てこない。そしてコーラス部分になり、メンバーがユニゾンで「ドアを開けろ、リチャード。ドアを開けて入れてくれ。ドアを開けろ、リチャード。リチャード、なんでドアを開けてくれないんだ!」と歌う。隣人たちが騒ぎ始める。通りの向かいの女性がカーテン越しに様子をうかがっている。マクヴィーは再びノックする。彼はリチャードが中にいるのを知っている。というのも、「彼の息づかいが聞こえる」からだ。しかし、曲がフェードアウトしているときも、酔っぱらったおしゃべり連中がドアをガンガンたたく音はやまない。
ルイ・ジョーダンは、録音する前からこのコントを知っていたはずだ。というのも、1944年3月に "How High Am I"
を録音したときに、「ヘイ!リチャード。降りてきて、このドアを開けろ!」と言っているからだ。実際、マクヴィーはずっとお決まりの出しものにしていたようで、1945年12月にスリム・ゲイラードがチャーリー・パーカーとともに録音した
"Slim's Jam" の中で、スタジオのドアを叩いて、「ドアを開けろ、リチャード!」と叫んでいる。
ミンストレル・ショーは19世紀前半に誕生した。初期のミンストレル・ショーは顔を黒く塗った白人が演じていたが、南北戦争後は、黒人の芸人が、黒人のまねをする白人をまねた。黒人自身が顔を黒く塗ることもあった。1900年までにミンストレルショーは時代遅れとなり、ボードビル劇場とラグタイム音楽に取って代わられた。しかし、20世紀に入っても、黒顔の白人によるレコードがミリオンセラーとなることがあった。Arthur
Collins の "The Preacher and the Bear" (1905) や Moran and Mack の "Two Black Cow"
(1926) などである。
マクヴィーのレコードは100万枚以上売れているはずなのに、マクヴィーの手元にはほとんど金が入ってこなかった。作者の印税に関して、ダスティ・フレッチャーのコントは自分のコントがもとであると主張するジョン「スパイダー・ブルース」メイソン
John "Spider Bruce" Mason
というコメディアンが出てきた。訴訟が決着するまで2年かかり、結局4人の名義となった。マクヴィー、フレッチャー、メイソン、そしてドン・ハウエルである(最後のはフレッチャーのレコードを録音したナショナルレコードの架空名義)。
夏真っ盛りになる前にリチャードブームは終わりを告げた。マクヴィーの "The Key's in the Mailbox"
など1ダースのアンサーソングはヒットしなかったし、マクヴィーのレコードを発売したブラック&ホワイト・レコードは倒産した。マクヴィーは1962年までサックスを演奏し続け、T・ボーン・ウォーカー、ビッグ・ジョー・ターナー、ワイノニー・ハリスなどのバックを務めた。サックスをやめたあとは、ディズニーランドを歩きながら演奏するデキシーランド・トリオでクラリネットを演奏した。(80年代半ばに引退、2000年死去)(シネシャモ日記2007年9月29日)
7
Lonnie Johnson Tomorrow Night
(1948)
R&Bチャート7週1位、ポップチャート19位
カテゴリー:R&B、ブルーズ
作者:サム・コスロー Sam Coslow、ウィル・グロス Will Grosz
レーベル:オハイオ州シンシナティのキング King
B面:"What a Woman"
録音日:1947年12月10日、シンシナティ
発売時期:1948年1月か2月
なぜ重要か:初めてポップチャートでヒットしたカントリーブルーズ
影響を受けたのは:
ホレス・ハイト楽団 Horace Heidt and His Orchestra
の「トゥモロー・ナイト」(1939年にポップチャート16位)
影響を与えたのは:
エルビス・プレスリー、BBキング、バディ・ホリー
重要なリメイク:
エルビス・プレスリー(1954)
ラバーン・ベイカー LaVern Baker(1954)
カール・スミス Carl
Smith (1959、カントリーチャート2位)
ビッグ・ジョー・ターナー(1959)
BBキング(1962)
ダミタ・ジョー Damita
Jo (1965)
チャーリー・リッチ Charlie Rich(1973、カントリーチャート29位)
ブルーズ歌手兼ギタリストのロニー・ジョンソンは、最初のヒット曲「トゥモロー・ナイト」を録音したとき60近かった。彼は1925年から録音していた。ブラインド・レモン・ジェファーソン
Blind Lemon Jefferson
とともに、20年代後期に最も人気のあったブルーズマンだった。1930年までにかれは100枚を優に超えるレコードを作っていた。ギター奏者として彼はブルーズもジャズも弾くことができたので、素朴なブルーズ歌手テキサス・アレクサンダー
Texas Alexanderやブルーズの歌姫ビクトリア・スパイビー Victoria
Spiveyからデューク・エリントンやルイ・アームストロングの洗練されたバンドまで、誰とでも共演できた。1929年、彼は、ベッシー・スミスのミッドナイト・ステッパーズ
Bessie Smith's Midnight Steppers
とともに演奏旅行をした。彼は、ジャンゴ・ラインハルト、チャーリー・クリスチャン、ロバート・ジョンソン、エルビス・プレスリーに深い影響を与えた。
ロニー・ジョンソンはニューオリンズ出身で、たぶん1889年生まれだが、1894年生まれや1900年生まれという説もある。1922年、スペイン風邪によって彼の家族のほとんどが亡くなってしまった。ジョンソンは多才なミュージシャンで、バイオリン、ギター、他の弦楽器、ピアノを弾くことができた。のちに「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を書いたジェシ・ストーン
Jesse Stone が1925年にジョンソンと契約を交わし、ジョンソンはオーケーレコード Okeh Record
に所属した。3年後、ジョンソンは、ジャズギターの父、エディ・ラング Eddie Lang と組んで "Two-Tone Stomp"
を録音し、これがジョンソンの最初のヒットとなった。
ロバート・ジョンソンも彼のファンだった。1938年、ロバート・ジョンソンは "Malted Milk" でロニーの歌とギターをまねた。また、 "Stop
Breakin' Down" は、ロニーの初期の曲 "No More Troubles Now" に基づいている。
シンシナティのキングレコードがなければジョンソンは早くに引退していたかもしれない。シド・ネイサン Syd Nathan
が1943年に設立したキングレコードは、アパラチアン出身のデルモア・ブラザーズ Delmore Brothers やグランドパ・ジョーンズ Grandpa
Jones
のヒルビリー専門レーベルとして出発した。40年代後期にR&Bがブームになったとき、ネイサンはR&B専門のクイーンレコードという姉妹レーベルを設立したが、すぐに断念して、カントリーとブルーズのミュージシャンをキングレコードに統合し、しばしば同じ曲を両方のジャンルで録音した。ブルーズもヒルビリーも同等の熱情と自信で歌うことができたロニー・ジョンソンはキングレコードにとって完璧なミュージシャンだった。
今は亡きヘンリー・グローバー Henry Glover
は次のように語った。「私が40年代後期に録音監督としてキングレコードに入社したとき、ロニー・ジョンソンはブルーズ歌手兼ギタリストだった。私は何年も前から彼を知っていた。ロニーはテーブルの吟遊詩人だった。彼はテーブルからテーブルへと移動しながら、歌って演奏した。」ナイトクラブでテーブルからテーブルへと歌って歩く親密さは、スタジオでの録音に持ち込まれた。彼は、出しゃばらないコンボをバックに「トゥモロー・ナイト」を録音した。ジョンソンが単純なブルーズを歌うとき、ジョン・ヒューズ
John Hughes のピアノとレイ・クールター Ray Coulter のベースはかろうじて聞こえる程度だ。インク・スポッツ Ink Spots の "If
I Don't Care"
以降のすべてのヒット曲でおなじみのイントロに基づいたギターのイントロに続いて、「トゥモ〜〜〜ロウ・ナイト」と甲高い声で嘆きながら歌う様子はキャロライナの山脈出身のブルーグラス歌手を思わせる。
キングレコードは「トゥモロー・ナイト」がヒットするとは思っていなかった。同じセッションで録音された曲の中では、自作曲の "Happy New Year,
Darling"
が一押しで、休日のチャンスを逃さないために急いで発売しなければならなかった。録音日から大みそかまで3週間しかなかった。その数週間後に「トゥモロー・ナイト」が発売されたとき、ビルボード誌は「ジョンソンの歌は感情豊かだが、演奏は単調だ」と複雑な気持ちだったが、大衆は違った。白人でさえ飛びついたためにポップチャートを上昇したとき、一番驚いたのはロニー・ジョンソンとシド・ネイサンだった。
「トゥモロー・ナイト」のあと、ジョンソンはキングレコードでさらに三曲のR&Bヒットを飛ばした。20年代と30年代初期に録音した古いブルーズに磨きをかけたもので、よりポップで、よりメロディアスで、よりビートに乗って、よりエレクトリックだった。彼は、シド・ネイサンと契約する数ヵ月前にエレキギターに乗り換えていた。しかし、彼のレコードは次第に売れなくなった。"Work
with Me, Annie" のように、より激しいR&Bが出現すると、ロニー・ジョンソンのブルーズは古臭く聞こえるようになった。1953年、"Will
You Remember"
という「トゥモロー・ナイト」のアンサーソングをどうにか録音したとき、誰も反応しなかった。たぶん、メンフィスに住む白人の若者を除いて。
8
Wynonie Harris and His All Stars Good Rockin' Tonight
(1948)
R&Bチャート1位
カテゴリー:R&B、ジャンプ・ブルーズ
作者:ロイ・ブラウン Roy Brown
レーベル:オハイオ州シンシナティのキング
B面:"Good Morning Mr. Blues"
録音日:1947年12月28日、シンシナティ
発売時期:1948年2月
なぜ重要か:「ロッキン rockin'」に関係したレコードの流行のきっかけとなる。
影響を受けたのは:
トミー・ドーシー Tommy Dorsey の "(Ah Yes) There's Good Blues Tonight"
(1946年、ポップチャート23位)とロイ・ブラウンの "Good Rockin' Tonight" のオリジナル(1948年、R&Bチャート13位)
影響を与えたのは:
ワイノニー・ハリス自身の "All She Wants to Do Is Rock" やエタ・ジェームズ Etta James
の "Good Rockin' Daddy" など、「ロッキン」に関係した数々のヒットソング。 興奮させるために「ホイ、ホイ、ホイ Hoy hoy
hoy」という叫び声を使用しているいくつかのレコード。
重要なリメイク:
ワイノニー・ハリスの "Good Mambo Tonight" (1954)
エルビス・プレスリー
(1954年にサンレコードから発売した2番目のシングル)
トレニアーズ The Treniers (1956)
パット・ブーン
(1959、ポップチャート49位)
ジェームズ・ブラウン (1967)
ロバート・プラント&ザ・ハニードリッパーズ "Good Rockin' at
Midnight" (1984)
ラジオ解説者のガブリエル・ヒーター Gabriel Heatter
は、第二次大戦中、ロングアイランドの自宅から、「こんばんわ、アメリカ、今夜は良いニュースがあるよ!Good evening, America, THere's
good news tonight!
」で始まる、吉報を告げる番組を毎晩放送した。国民は、ヨーロッパや南太平洋からの暗いニュースばかりの中で、いくばくかの楽観主義をニュースキャスターたちから得ようとしていた。それは、ウォルター・ウィンチェル
Walter Winchell の「こんにちわ、アメリカ、そして海上のすべての船 Hello, America, and all the ships at
sea」同様、よく知られたあいさつだった。
1946年、黒人トランペッターで歌手のサイ・オリバー Sy Oliver は、白人のトミー・ドーシー楽団とともに録音していた。その年、彼が書いて録音した
"(Ah Yes) There's Good Blues
Tonight" は、ポップス市場でかなり売れた。ヒーターのあいさつにヒントを得て作られたこの曲は、次のように始まる。「聞いてくれよ。今夜は良いニュースがあるんだ。そんなんだ、今夜はすてきなブルーズがあるんだ。今夜はカッコいいブルーズがあるんだ。」この曲のメロディと全体的なメッセージは、翌年にロイ・ブラウンが書くことになる曲と驚くほど似ていた。ラッキー・ミリンダー
Lucky Millinder がデッカレコードでカバーした "There's Good Blues Tonight"
は、ドライブ感を出すために、楽団に絶え間なく手拍子を叩かせているが、以前ミリンダー楽団の歌手だったワイノニー・ハリスも、彼のバージョンで、オールスターズに手拍子を叩かせている。
だが、"There's Good BLues Tonight"
のメロディも借物だった。サイ・オリバーは、トミー・ドーシーと1941年に録音したゴスペル風のヒットソング "Yes Indeed"
を盗用したものだったし、その曲自体、オリバーがどこで見つけたものかわからない。("Yes Indeed" は1958年に零・チャールズが録音。)
ロイ・ブラウンの「グッド・ロッキン・トゥナイト」と比較すると、ワイノニー・ハリスのバージョンには三つの特徴がある。第一に、ワイノニーは、好色で、遊び好きだった。「私が歌っているストレートなブルーズは、男と女、愛と憎しみについての歌だ。」第二に、ワイノニーにはすぐれたバンドがいた。オラン「ホットリップス」ペイジ
Oran "Hot Lips" Page のカッコいいトランペット、ハル・シンガー Hal Singer の猛り狂うテナーサックス、ジョー・ナイト Joe
Knight のうねるピアノ、カール「フラットトップ(角刈り?)」ウィルソン Carl "Flat Top" Wilson
が激しく鳴らすベース、それに絶え間ない手拍子。第三に、ワイノニーは、R&B界で最も有能な独立系レコード会社、キングのために録音した。
キングレコードの所有者シド・ネイサン Syd Nathan
は、シンシナティ市のブルースター街にある大きな倉庫に本部を構え、録音からマーケティングに至るすべてのプロセスをそこで行っていた。アーティスト、彼らの歌、録音スタジオを所有していた。ジャケットから発送用のパッケージに至るまですべてを製造していた。レコードプレス工場も所有し、スクラップのセラックやビニールをリサイクルして新しいレコードを作った。配給会社も持っていた。
ワイノニー・ハリスは、1915年8月24日にネブラスカ州オマハで生まれた。スポットライトを浴びたいという夢を実現するためにクライトン大学を中退し、ナイトクラブで司会やタップダンスをしたが、すぐにブルーズを歌い始めた。バンドリーダーのルーシャス「ラッキー」ミリンダー
Lucius "Lucky" Millinder がデッカから発売したレコードで彼を歌わせ、そのうちの "Who Threw the Whiskey in
the Well?" がヒットしたため、ネイサンは1947年後期にハリスと契約した。
ハリスは、ビッグ・ジョー・ターナー Big Joe Turner
を崇拝しており、自分よりうまい歌手は彼だけだと考えていた。ミリンダー楽団でアルトサックスを演奏していたプレストン・ラブ Preston Love
は、「ワイノニーは、ブルーズが世界で唯一の音楽だと考えていた」と語っている。ビッグ・ジョーは、「ブルーズのボス」として知られていたので、ハリスは良いあだ名はないかと探した。"Mr.
Blues Is Back Is Town" というヒット曲によって彼のあだ名が決まった。
作者のロイ・ブラウンは次のように語る。「私が最初に書いた曲のうちの一つだった。当時は、著作権、レコード、ロイヤルティなんて全然知らなかった。無一文だったので、金を稼ぎたかった。「グッド・ロッキン・トゥナイト」を茶の紙袋の切れ端に書いて、ニューオリンズの
Dew Drop Inn で演奏していたワイノニー・ハリスのところに持って行った。」
ハリスは歌いたくなかった。休憩中に、ハリスのバンドがこの曲をロイと演奏した。メンバーの一人が、別のクラブで演奏しているピアノ奏者セシル・グラント
Cecil Grant のところに持っていったらどうだい、と提案した。
ロイのバージョンでは、「ウェ〜〜〜〜〜ル」とわめいたあと、しばらくして、「今夜すてきなロッキンがあるってニュースを聞いた。俺のカワイ子ちゃんをきつく抱きしめるつもりだ。彼女は俺が強い男だってことを今夜思い知るだろう。今夜すてきなロッキンがあるってニュースを聞いた」と歌う。ハリスは歌詞をそんなに変えなかった。歌が進むにつれ、ハリスは終わり方を忘れてしまったらしい。ロイ・ブラウンが
"Hoy sister, hoy sister, ain't you glad"
と歌っているところを、単に「ホイ、ホイ、ホイ」と何度も叫んでいるだけだ。プロデューサは、演奏者の生の興奮が何よりも重要と考えたか、その日のハリスからはこれ以上のものを引き出せないと考えたらしい。いずれにせよ、ブラウンのオリジナルよりもはるかにハードにロックしていたから。歌詞を間違えたなんてことはどうでもよかった。
"Hoy, hoy, hoy" という叫び声に関して言えば、30年代に黒人のドン・レッドマン Don Redman がつくった "Down, Down,
Down" という曲には "Just send yourself, holler hey! If not, you better say hoy"
という歌詞が含まれていた。1947年初期、「グッド・ロッキン・トゥナイト」の数ヵ月前、スティック・マギー Stick McGhee
が「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」の最初のバージョンで「ホイ」を二度使用していた。しかし、「ホイ、ホイ、ホイ」が束縛されない自由の叫びになるのは、ハリスが荒々しく叫んでからだ。
1948年夏、ロサンジェルスのバンドリーダー、ロイ・ミルトン Roy Milton は「ホイ、ホイ、ホップ」というコーラスが印象的な "Hop, Skip
and Jump" を録音した。リトル・ジョニー・ジョーンズ Little Johnny Jones は、1954年、その曲を "Hoy Hoy"
というタイトルで再録音した。50年代後期には、コリンズ・キッズ Collins Kids
という若いロカビリーデュオが、同曲で小ヒットを飛ばした。スティック・マギーが1949年に大ヒットを飛ばした「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」の二番目のバージョンでは、最初のバージョンの「ホイ」が騒々しい「ホイ、ホイ、ホイ!」になっていた。同時期、テキサスのブルーズマン、ゴリー・カーター
Goree Carter が "Hoy-Hoy"
を録音した。(「ホイ」という言葉は中英語にさかのぼる。注意を向けさせたり、動物を追うときに使われた。最近では、「ヘイ hey」に取って代わられている。)
「グッド・ロッキン・トゥナイト」の人気によって、ハードにロックするレコードだけでなく、ハードにロックすることついてのレコードも次々と生まれた。ワイルド・ビル・ムーア
Wild Bill Moore の "Rock and Roll"、コニー・ジョーダン Connie Jordan の "I'm Gonna
Rock"、ビル・マシューズとバラーディアーズ Bill Mathews and the Balladeers の "Rock and
Roll"、アーリン・ハリス Erline Harris の "Rock and Roll Blues"、そしてワイノニー・ハリス自身の "All She
Wants to Do Is Rock" などが「グッド・ロッキン・トゥナイト」に続いた。リル・サン・ジャクソン Lil Son
Jackson、ジョン・リー・フッカー John Lee Hookerらも "Rock and Roll" というタイトルの曲を作ったが、"and"
が変形していた。究極のタイトルは、サックス奏者ハル・シンガー Hal Singer の "Rock Around the Clock" (1950)
で、これは1953年にソニー・ディー&ザ・ナイツ Sonny Dae and the Knights
の同名曲とは違う曲だった。ビル・ヘイリーがカバーしたのは後者である。
エルビスは、1954年に、サンレコードからの2枚目のシングルとして「グッド・ロッキン・トゥナイト」を発売。彼が基にしているのはワイノニー・ハリスのではなくロイ・ブラウンのバージョンで、かなり現代風に改良している。スイート・ロレイン、スー・シティ・スー、スイート・ジョージア・ブラウン、カルドニアといった黒人向けの古臭い言及は削除され、ワイルド・ビル・ムーアの単純な即興
"We're gonna rock, rock, rock, yerh, rock!" に取って代わられた。(シネシャモ日記2007年11月22日)
9
Wild Bill Moore We're Gonna Rock, We're Gonna Roll
(1948)
9曲目は、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore の「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」
影響を与えたのは:ホンキング・スタイルのテナーサックス奏者全員。特に Frank "Floorshow" Culley, Willis "Gator
Tail" Jackson, Wilbert "Red" Prysock, Cecil "Big Jay" McNeely, Hal Singer。
重要なリメイク:ワイルド・ビル・ムーア自身の "Rock and Roll" (1949)
リズム・アンド・ブルーズの楽器といえば、なんといってもテナーサックス。次いでアルトサックス。このJの形をした金管楽器が発明されたのは1840年で、その6年後にベルギーのアドルフ・サックス
Adolphe Sax
が特許を取得した。表現力が豊か過ぎるし、手なずけるのが難しいので、オーケストラには馴染まなかったが、壮大な音を求めるマーチングバンドには馴染んだ。1898年のスペインとアメリカの戦争が終わったとき、アメリカの軍隊楽団がキューバからニューオリンズの港に帰ってきた。多くの楽団員が楽器を質に入れたので、ミュージシャンは中古楽器を安く手に入れることができた。ニューオリンズのジャズバンドはクレオール人のブラスバンドだったので、地元のミュージシャンはすぐにサックスを好きになった。新時代を画したキング・オリバー
King Oliver とバディ・ボールデン Buddy Bolden
のジャズバンドはサックスが重要な役割を果たしていた。1915年までに米国中の黒人マーチングバンドにとって欠かせないものとなり、6年後には初めてサックスがレコードに録音された。偉大なサックス奏者、コールマン・ホーキンズがマミー・スミスのジャズ・ハウンズ
Mamie Smith's Jazz Hounds の一員としてバリトンサックスを演奏したのだ。
ホンキング(警笛を鳴らすような吹き方?)のサックス奏者は、1930年代半ばにカウント・ベイシー楽団が確立した「テナー合戦 battling
tenors」の伝統から輩出した。カウント・ベイシー楽団のコンサートのハイライトのひとつはレスター・ヤング Lester Young とハーシェル・エバンズ
Herschel Evans
との合戦で、各々が相手よりも荒々しく演奏して、聴衆を狂乱状態にした。カウント・ベイシーの上を行こうとしたライオネル・ハンプトンは、サックス奏者イリノイ・ジャケー
Illinois Jacquet(のちにアーネット・コブ Arnett
Cobb)の金切り音が最高潮に達する間、楽団に聴衆の間を練り歩かせた。合戦形式は40年代後期の西海岸のビバップにまで及び、デクスター・ゴードンはワーデル・グレイ
Wardell Gray と有名なバトルを繰り広げた。
ウィリアム・M・ムーアは1918年6月13日にテキサスで生まれた。テキサスのブルーズマンは、叫ぶようなサックスをユニゾンで吹く伝統があったが、ヒューストンで育ったイリノイ・ジャケーが事実上ホンキングを生み出すと、ドン・ウィルカーソン
Don Wilkerson、ジョー・ヒューストン Joe Houston、デビッド「ファットヘッド」ニューマン David "Fathead"
Newman といったテキサスのサックス奏者が追随した。
ムーアは30年代にミシガンに引っ越したが、40年代のほとんどは西海岸で過ごした。彼が自分名義で最初に録音したのは1945年で、アポロ・レーベル
Apollo Label のためだった。同年、彼は、スリム・ゲイラード Slim Gaillard
のバンドで何曲か演奏し、ヘレン・ヒュームズの「ビー・ババ・リーバ」(この「First
R&R」シリーズの3曲目)で激しいソロを吹いた。1年後、ビル・ムーアのバンド、ラッキーセブンは、ビッグ・ジョー・ターナーの最初のヒット曲 "My
Gal's a Jockey" のバックを務めた。
ムーアに全国的な演奏の機会を与えたレコード会社はニュージャージー州ニューアークのサボイ Savoy だった。サボイはハーマン・ルビンスキー Herman
Lubinsky
というケチくさい実業家が経営しており、ミュージシャンを搾取するので有名だった。ルビンスキーは、設立当初から、サボイをサックス奏者のフォーラムにしていた。チャーリー・パーカーが最初にソロ録音したのはサボイのためだったし、デクスター・ゴードンもそうだった。1947年、サボイは、全国でバンドリーダーをタレントスカウトとして雇い、ミュージシャンに地元で録音させた。ミュージシャンをニューアークに連れてくるより、マスターレコードを輸送したほうが簡単だったからだ。
同年7月、ロサンジェルスのセントラル・アベニューにあるエクルス・ホール Elk's Hall
での伝説的なジャムセッションでビル・ムーアの演奏を録音した。他のミュージシャンは、バップのサックス奏者、ソニー・クリス Sonny
Criss、ワーデル・グレイ、デクスター・ゴードンだった。しかし、ムーアがデトロイトに帰ったため、次の数ヵ月、サボイはムーアのレコードを本気で作らなかった。サボイは、11月20日から12月21日の間に、デトロイトで、チャーリー・パーカーのオールスターズなど、いくつかのバンドを録音した。ビル・ムーアのバンドは二度録音を行った。一度目の録音ではジャズ風の曲を4曲録音した。その中の
"Bubbles" は当時よく売れたが、今聴くと平凡である。このときの録音がリラックスした感じだったのは、フロイド・テイラー Floyd Taylor
のピアノによるところが大きい。
一ヵ月後に二度目の録音を行ったとき、ムーアは、テイラーの代わりに、ブギウギピアニストのTJファウラー T.J. Fowle
を起用していた。ファウラーは、この一年後に "Red Hot Blues" を録音することになる。これは、50年代のロカビリーの名作 "Red Hot"
の原型だった。ファウラーはムーアが求める発火装置だったようだ。このとき録音した「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」は、荒々しく、扇情的で、ムーアは、バリトンサックス奏者ポール・ウィリアムズ
Paul Williams とともに半狂乱で演奏している。
曲はムーアの短いサックス演奏で始まり、続いてファウラーがブギウギピアノを演奏する。ムーアがピアノ奏者に一晩中演奏し続けろと叫ぶと、メンバーたちも加わって、"we
gonna rock, we gonna roll, we gonna rock, we gonna roll!"
と騒々しく合唱する。そして、バンドがバックでスイングする中を、ムーアが大きな音で猛烈なソロを演奏する。
アーノルド・ショウ Arnold Shaw は、影響力の大きい彼の本 "Honkers and Shouters"
の中で、ホンカー(ホンキングのサックス奏者)は白人の音楽形式を破壊することで白人に仕返しする怒れる黒人だと書いている。詩人ルロイ・ジョーンズ Leroi
Jones(現在の名前はアミリ・バラカ Amiri
Baraka)は、ホンカーの目的は楽器の音をできる限り非音楽的で非西欧的にすることであり、スイングとともに黒人のインスト音楽に忍び込んできたソフトさと正統さに対するブルースマンの反抗のようなものだと述べている。
ムーアは1948年にサボイレコードを辞めたが、サボイは録音していた曲を発売し続けた。ムーアはほとんど過去の人になっていた。1949年、ロサンジェルスのモダンレコードのために、「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」を録音し直し、単に「ロック・アンド・ロール
Rock and Roll 」と名付けたが、売れなかった。
テナーサックス奏者ハル・シンガー Hal Singer がマーキュリーレコードのために1950年に録音した "Rock Around the Clock"
は「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」の興味深い真似だった。シンガーも1948年にサボイに所属しており、「コーンブレッド
Cornbread」というインスト曲でかなりのヒットを飛ばしていた。ボーカルのサム・シアード Sam Theard が "Let's rock"
と叫ぶと、バンドが "rock rock rock" と応じ、シンガーが気の抜けたサックスを吹くという程度のものだったが、"One for the money,
two for the show, three to get ready and four to go"
というシアードのシャウトはカール・パーキンズの「ブルー・スエード・シューズ」よりも5年早かった。
ビル・ムーアは新たなヒットを狙い続けた。デトロイトのレコード会社センセーションは、ビル・ムーアが録音した曲に観衆の声をダビングして、ライブ演奏の興奮感を出そうとしたが、にせ物にしか聞こえなかったので、誰も聞こうとしなかった。ムーアは、デトロイトに定住し、他のアーティストのセッションマンを務めた。"Mercy
Mercy Me (The Ecology)"
などの60年代後期のマービン・ゲイの録音に参加した。その後、ロサンジェルスに戻り、1983年8月8日に亡くなるまで、そこで余生を送った。
ボーカルハーモニーグループは、黒人エンターテイナーたちのなかで、早くから白人リスナーのために録音され、最初に大衆的な成功をおさめた。スタンダード・カルテット・オブ・シカゴ
Standard Quartette of Chicago
は、1890年代にコロンビアから一ダースの歌を録音した(それらのシリンダーは残存していない)。バージニア州の ディンウィディ・カラード・カルテット
Dinwiddie Colored Quartet
は1902年にスピリチュアルなどを録音した78回転レコードを数枚発売した。1921年には、サザーン・ネグロ・カルテット Southern Negro
Quartet が "I Like Moonshine"
で「ドゥーバップバップ」というベースボーカルを入れている。これはラグタイムやジャズのバンドのウッドベースやチューパをまねたものだ。
1930年代、黒人ハーモニーグループのいくつかが、ノベルティなポップサウンドを発展させた。小さな楽団をボーカルでまねたミルズブラザーズは、ラジオやレコードのスターとなり、ポール・ホワイトマンやビング・クロスビーといったショービジネス界の大物と共演した。1939年、インクスポッツの
"If I Didn't Care" というセンチメンタルなポップバラードが1位となり、40年代のボーカルグループに道筋を作った。
インクスポッツは、のちにドゥーワップミュージックと呼ばれるものの原型だった。このカルテットの魅力は、テナーのビル・ケニー Bill Kenny
とユーモラスなベースのホッピー・ジョーンズ Hoppy Jones のかけあいだった(ジョーンズは1944年に亡くなり、ディーク・ワトソン Deak
Watson
が引き継いだ)。インクスポッツの音楽は俗世間向けだったが、教会の聖歌隊にかなりを負っていた。ケニーのファルセット・リード、ジョーンズのとりとめのないベース
(rambling base)、それにバックコーラスがコードを進行させたり、リーダーの呼びかけに応えるのは、ゴスペルグループの特徴だった。
アーリントン・カール・「サニー・ティル」・ティルマン Earlington Carl "Sonny Til" Tilghman
とオリオールズの前身はVibra-Naires(バイブラ・ナイアズ?)で、1947年にバルティモアで結成された。メンバーは、サニー・ティルがリード、ジョージ・ネルソン
George Nelson がバリトン、アレクサンダー・シャープ Alexander Sharp が高音テナー、ジョニー・リード Johnny Reed
が(ベースボーカルとダブルベース)、トミー・ゲイザー Tommy Gaither
がギターだった。ギタリストは、各曲のキーを保ち、サウンドを豊かにするので、以前からボーカルグループにとって重要な存在だった。リードが演奏するダブルベースは、心臓の鼓動のようにテンポを保った。リードの存在はキャッツ・アンド・ザ・フィドルが影響していたのだろう。キャッツ・アンド・ザ・フィドルは、フィドルを呼びものにした五人組のハーモニーグループで、このグループの最大のヒットとなった1940年の
"I Miss You So" をオリオールズはカバーしている。
「家にいたら、電話が鳴ったの。友人の義理の兄弟からで、あるボーカルグループのことで頼みがあるって。私は、"Tell Me So"
ってヒット曲を書いていたので、すでにバルティモア周辺では有名だったの。彼らが家庭用レコーダーで録音したデモを電話で聞いたら、すぐに気に入ったので、彼らを連れてくるように言ったの。」
デボラは、断固たる精神力によって地元で地位を固めていた。「私は楽譜が書けないので、自分の曲を歌って、ピアニストに書かせたの。サバナ・チャーチル
Savannah Churchill が好きだったから、ニューヨークのマナー・レコード Manor Records に最初の曲 "Tell Me So"
を持っていったら、買ってくれたわ。でも、マナーレコードは、チャーチルのグループ、フォー・チューンズ Four Tunes
を使わなかったので、バルティモアの有名な黒人シアターのロイヤルに行って、楽屋でダイナ・ワシントンに曲を聴かせたの。それで、彼女がヒットさせたわけ。」
デボラは、最後の部分を修正して、オリオールズにデモを録音するよう依頼した。そして、有名なニューヨークのラジオ番組「アーサー・ゴッドフリーのタレントスカウト
Arthur Godfrey's Talent Scounts」のオーディションを受けさせるために、そのデモを送った。デボラの別の曲 "Barbara Lee"
を歌ったオリオールズは、盲目のピアニスト、ジョージ・シアリング George Shearing
に負けたが、数百人のリスナーが結果に抗議したので、ゴッドフリーは急いでオリオールズを呼び戻した。すぐに、デボラはニューヨークに戻って、デモをジェリー・ブレイン
Jerry Blaine に聴かせた。ジェリーは、新しいレーベル It's A Natural
を立ち上げるためにオリオールズと契約した。オリオールズの最初のレコードは「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」だった。そのときまで、デボラは正式にオリオールズのマネージャーになっていた。
1948年8月21日のキャッシュボックス誌には、このレコードに関して、A面とB面のどちらがいいか戦いが起こると予想しているし、ニューヨークのWHOMラジオ局では、ウィリー・ブライアント Willie Bryant とレイ・キャロル Ray Carroll の人気DJチームが深夜のR&B番組でB面ばかりかけた。「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」は最初の週に3万枚売りあげたらしい。ビルボード誌は、著名な音楽出版者のバディ・モリスが7千ドルで曲を買ったと伝えているが、これはカバーを録音しようとしているミュージシャンが急増したことを示している。デボラ・チェスラーによれば、次の4週間のうちに14ほどのミュージシャンがカバーしたらしい。
アポロシアターの所有者を父に持つジャック・シフマン Jack Schiffman は、「ティルの震えるテナーとグループの溜息と叫びは、街の音であり、ゲッドーでの経験が反映している。」彼は、ティルが媚薬のように女性を魅惑するのに驚嘆した。デボラ・チェスラーも同意する。「女の子たちはステージに突進して、彼らのネクタイを引きちぎった。彼らが大劇場で演奏するときは、ファンがステージに上がらないよう警察がガードした。」デボラは魅力的な白人女性だったので、いくつかの憶測が飛んだ。しかし、彼女は、「彼らとは単にビジネスの関係だった。母は、死ぬまで、いつもツアーに同行した」と言う。
オリオールズの人気が高まり、ナショナルレコードの所有者アル・グリーンは、It's A Natural レーベルがナショナルのレコード販売者や購入者の間で混乱を生じさせていると不満を訴えた。It's A Natural の所有者ブレインは、訴訟を避けるため、彼が所有する別のレーベルで、ゴスペルやイディッシュ語のコメディが専門のジュビリー Jubilee に「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」を移した。ブレインは、その後のオリオールズのレコードをすべてジュビリーから発売した。
1949年にオリオールズは6曲のヒットを飛ばした。その中にはデボラの "Tell Me So" のリメイクも含まれており、これも1位になった。しかし、自動車事故で、ゲイザーがなくなり、他の二人のメンバーも負傷した。彼らは次第にコンサートをやらなくなり、無名の新しいメンバーがコーラスを務めた。グループのボーイ、サニー・ウッズ Sonny Woods は、デトロイトに戻り、オリオールズ風の4人組ロイヤルズを結成し、のちに "Work with Me, Annie" を録音し、一夜にしてサニー・ティルのようなテナーで感傷的に歌う歌手を一掃してしまう。
1952年までにオリオールズはポップスのカバーを歌うようになり、Darrell Glenn の "Crying in the Chapel" というカントリーソングをカバーして大ヒットを飛ばす。彼らの非常に洗練された演奏によってポップチャートで11位まで上昇し、R&Bチャートでは5週1位になった。しかし、これはまぐれあたりだった。というのも、その後オリオールズはたいしたヒットを飛ばさなかったから。
オリオールズは、50年代半ばにビージェイレコード Vee-Jay Records でいくつか良い曲を録音したが、その頃までにオリオールズの実質的なメンバーはティルだけになっており、バックは誰でもよかった。60年代はあまり活動をしなかったが、1978年、ティルは、糖尿病で体調が悪くなっていたにもかかわらず、オリオールズを再編成して、「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」を含む昔の曲を再録音した。ティルはうまく歌ったが、昔の魅力は失われていた。サニー・ティルは、1981年12月9日に心臓発作で亡くなった。
デボラ・チェスラーは、もう1曲ヒットを飛ばした。サニー・ゲイル Sunny Gale の "Teardrops on My Pillow" で、オリオールズも録音した。彼女は、30を超える「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」のカバーによって現在でも印税をもらっている(この本が書かれた当時のこと)。
「最初のロックンロールレコードは何か」の11曲目は、ジョン・リー・フッカー John Lee Hooker の「ブギー・チレン」。
R&Bチャート1位
カテゴリー:ブルーズ
作者:ジョン・リー・フッカー
レーベルと番号:Modern 627、ロサンジェルス
B面:"Sally Mae"
録音日・場所:1948年11月、デトロイト
発売日:1948年11月/12月
なぜ重要か:エレキ化されたデルタブルーズの最初の大ヒット
影響を受けたのは:Blind Blake, "Hastings Street Boogie" (1939)
影響を与えたのは:
Little Junior Parker, "Feelin' Good" (R&Bチャート5位、1953)
Bo
Diddley, "Bo Diddley" (R&Bチャート1位、1955)
John Lee Hooker, "Boom Boom"
(ポップチャート60位、1962)
Canned Heat, "On the Road Again" (ポップチャート16位、1968)
重要なリメイク:
Lightenin' Slim, "Just Made 21" (1956)
John Fred and the
Playboy Band (1965)
当時、5人から7人のメンバーから成るR&Bが流行していたが、ベスマンはフッカー一人だけで録音することにした。「ギターにマイクをとりつけ、トイレの便器の上にスピーカーを置いた。そして、その下にマイクをとりつけて、水に反射する音を拾うようにした。エコー効果が欲しかったんだ。」エンジニアの
Joe Siracuse は、フッカーに足でリズムを刻ませるための厚板を持ち込み、その横にマイクをセットした。
フッカーは、1917年8月22日(1920年という説もある)にミシシッピー州クラークスデール近くの大きな小作人一家に生まれた。13歳からギターを演奏し始め、義父のウィリー・ムーアからギターを学んだ。多くのブルーズマンがムーアの家を訪れた。そのなかにはブラインド・ブレイクもいて、彼の「ヘイスティング・ストリート・ブギ」(30年代後半に録音)は若いフッカーに受け継がれたようだ。というのも、ある意味、この曲は「ブギー・チレン」の青写真だからだ。30年代初期、フッカーはメンフィスでロバート・ブラックホーク
Robert Blackhawk
とともに活動し、いくつかのゴスペルグループのためにギターを弾いた。「メンフィスにはブルーズ歌手が多すぎたから、デトロイトに行った。」
1951年、フッカーの「アイム・イン・ザ・ムード I'm in the
Mood」がヒットし、ポップチャートでも30位まで上昇した。1952年にモダン・レコーズから発売した「ニュー・ブギー・チレン」は、まあまあのヒットにしかならなかったし、ビージェイで1959年にリメイクした
"Boogie Chillun"("Chillen" ではない) もそうだった。3年後、「ブーン・ブーン Boom
Boom」(「ブギー・チレン」の変種)がポップチャートで小ヒットとなった。「マンボ・チルン Mambo Chillun」はヒットしなかった。
1947年初め、MGM映画がサントラアルバム制作のためにMGMレコードを設立した。社長のフランク・ウォーカーはビクターで何年も働いたベテランのカントリーミュージックA&Rマンだった。30年代にスミス一家の曲を録音したのはウォーカーだった。MGMレコードのために彼が最初に契約したミュージシャンの中にはスミスとボブ・ウィルスがいた。スミスもウィルスも当初ヒットを飛ばさなかったが、ウォーカーのカントリー畑への進出は、数週間後に、ほとんど無名だったハンク・ウィリアムズと契約することで報われた。ウィリアムズの最初のレコード、"Move
It on Over" は、カントリーヒットとなり、ポップチャートでも上昇した。
しかし、ハーレム・レコードと、10ドルで購入した「ドリンキン・ワイン」の半分は、プロデューサーのJ・メイヨー・ウィリアムズが所有していた。ウイリアムズは、アイビーリーグの大学で教育を受けた黒人で、彼の高慢な態度はブルーズマンたちの間で不人気たったが、かられに対し多大なる権力を行使していた。ウィリアムズは、個人的にブルーズマンたちと契約を交わし、彼らのマネージャーとなり、さまざまなレコード会社のために曲を録音させ、その権利の一部または全部を所有した。ウィリアムズは、「ドリンキン・ワイン」の共作者としてだけでなく、キャブ・キャロウェイの
"Corrine Corrina" (1932)、ネリー・ラッチャーの1944年のヒット曲 "Fine Brown Frame"、そしてルイ・ジョーダンの
"Mop Mop" と "I Like 'Em Fat Like That" の共作者としてもクレジットされた。
ウィリアムズは、サム・シアードというコメディアンの曲を録音したことがあった。シアードは、自らを "Sam from Down in Bam" とか
"Spo Dee O Dee" と呼ぶことがあった。シアードは、ウィリアムズのもとで、1937年と1940年に "Spo-De-O-Dee"
という曲を録音した。それらは、「ドリンキン・ワイン」とはまったく異なるものだった。シアードは、「スポ・ディー・オー・ディー」を性交の遠回しな言い方として使用し、「アダムがイブとエデンの園で出会ったときにそれは始まった。アダムがイブに「スポ・ディー・オー・ディーをやろうぜ。さあ、楽しもうぜ!」」というよな歌詞だった。しかし、「スポ・ディー・オー・ディ」と繰り返すコーラスの部分はスティック・マギーのと似ていた。かけ合いの声はウィリアムズのものと思われるが、彼の回想によれば、「マザーファッカー」の代わりのノンセンスな4音節の言葉として「スポ・ディー・オー・ディー」が使われた。
再録音は忠実ではなかった。オリジナル版よりすぐれている。よりドライブ感があるし、よりロックして、ロールしている。スティックは少し歌詞を変えた。オリジナルでは、コーラスの部分に来るたびに一度「ホイ」と叫ぶだけだったが、ワイノニー・ハリスが「グッド・ロッキン・トゥナイト」(First
R&R
の8曲目)で「ホイ・ホイ・ホイ」と叫んでR&B用語となったために、スティックは「ホイ・ホイ・ホイ」と叫ぶのが義務だと感じたようだ。オリジナルでは、良いワインをガブ飲みする場所はピーターズバーグだったが、ハーレム盤がすでに人気だったニューオリンズに替えられた。ルイ・ジョーダンが数ヵ月後に
"Saturday Night Fish Fry"(First R&R
の15曲目)を録音したとき、これを手本に、「ニューオリンズで酔っぱらった」と歌っている。
(ジョーダンの「モップ・モップ」のB面は、「モップ・モップ」と同じ日に録音された "You Can't Get That No More"
というポップチャートに入った曲だが、作者はなんと「スポ・ディー・オー・ディー」のサム・シアードだった。)
「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」には、素晴らしい、さりげない歌詞が詰め込まれている。たとえば、「窓をたたきわって、ドアをたたきつぶせ」(この歌詞は、2ヵ月後にジミー・プレストンの「ロック・ザ・ジョイント」に現れる)や、「俺は5セント持ってて、お前は10セント持ってるから、一緒にちょっとワインを飲もうじゃないか」といった歌詞である。マギーは、ニューオリンズのランパート街にある飲み屋
Willie's Den
について言及し、当時のワインの名前を列挙する。「エルダーベリー、ポート・チェリー、ブラックベリー、アベンハム...スニーキー・ピート。」
スティック・マギーは、続けて大ヒットを飛ばそうとして、ルディ・トゥームズの "Drank Up All That Wine"
を発売したが、まったくの無駄だった。マギーは、1951年にアトランティックを離れる前に、パティ・ペイジのインストゥルメンタル・カバー「テネシー・ワルツ・ブルーズ」でヒットを飛ばした。キングで録音した
"Women, Whiskey and Loaded Dice" は、1953年にまあまあのヒットとなった。2年後、彼はどこのレコード会社からも見放され、1961年にエンバー・レコードが録音セッションを一度開くまで、スタジオに戻ることはなかった。その年の8月15日、スティック・マギーは肺ガンで亡くなった。(シネシャモ日記2008年4月)
14
Jimmy Preston and His Prestonians
Rock the Joint
(1949)
プレストニアンズの構成は、二本のサックス、ピアノ、ベース、ドラムで、ジャンプブルーズのスタンダードを演奏していた。彼らは平凡な地方のバンドだった。しかし、ペトリロが禁止令を解き、サックス奏者ポール・ウィリアムズがR&Bナンバー
"The Huckle-Buck" で大ヒットを飛ばすと、プレストニアンズは流行に飛びついて、1949年4月に "Hucklebuck Daddy"
をR&Bチャートに送り込んだ。
その頃、バレンは、ゴッサムのA&Rマンとしてハリー・「ドック」・バグビー Harry "Doc" Bagby
という名前の黒人オルガン奏者兼バンドリーダーを雇っていた。バグビーは、バンドのアシスタント、ウェンデル・「ドン」・キーン Wendell "Don" Keene
とバンドの歌手ハリー・クラフトン Harry Crafton とともに、「ロック・ザ・ジョイント」という歌を書いた。これは
「グッド・ロッキン・トゥナイト」(First R&R
6曲目)の大ヒットにあやかろうと作られた曲だった。歌手兼ピアニストのネルソン・アレクサンダーと彼のトリオが1947年後期に録音した "Rock the
Voot" というあまりロックしていない曲にもよく似ていたし、もちろんワイルド・ビル・ムーアの「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」(First
R&R
9曲目)にも似ていた。バレンは、もっと荒っぽく、ジュークボックス向けに演奏できると考えて、プレストンに「ロック・ザ・ジョイント」を演奏させた。バレンは、この曲のために、テナーサックス奏者ダニー・ターナーをプレストンに貸した。
プレストンと彼のバンドがスタジオで録音した「ロック・ザ・ジョイント」は、騒々しく、手拍子が入り、サックスが金切り声をあげる、エキサイトなナンバーで、彼らの以前の演奏のどれとも似てなかったのみならず、誰の演奏にも似ていなかった。プレストンは、一年前から、ワイノニー・ハリスの大ヒット曲「グッド・ロッキン・トゥナイト」を利用するだけでなく、それを上回ろうと努力していた。サックス主導のシャッフルブギビートに乗せて、バンドは、曲の半分以上を「ウィ・ゴナ・ロック、ロック・ディス・ジョイント、ウィ・ゴナ・ロック、ロック・ディス・ジョイント、ウィ・ゴナ・ロック、ロック・ディス・ジョイント」と歌うと、プレストンが割って入って、"We
gonna drink and rock, both young and old, we're gonna do the jellyroll...We
gonna hucklebuck, we gonna jitterbug, year every gal's gonna cut some rug."
と歌う。曲の中ほどは、ターナーによるヒステリックなサックスソロで、他のバンドメンバーが叫び声や金切り声ではやし立てる。プレストンが "Well the
ceilin' is falling, I'm high as a kite, just keep on drinkin', I'm gonna ball
tonight." と歌うと、ターナーのサックスはキーキー音を発する。最後の歌詞は、2年後のビル・ヘイリーによるリメイクに唯一似ている個所である。"We're
gonna blow down the walls, and tear up the floor, until the law come knockin' at
the door, we gonna rock, rock this joint..."。演奏は、形式と内容が合致している完璧な例となっている。(joint
には「安酒場」という意味があるので、安酒場をゆらして、天井、壁、床が壊れるまで、どんちゃん騒ぎをしようぜ、というような歌詞だと思います。)
1950年、プレストンはゴッサムからダービー・レコーズに移籍し、ルイ・プリマ Louis Prima の "Oh Babe"
のカバーで最後のヒットを飛ばす。"Rock with I Baby" "Roll Roll Roll"。1953年までに、彼は音楽をあきらめ、教会の仕事に就いた。(シネシャモ日記2008年5月)
15
Louis Jordan and His Tympany Five
Saturday Night Fish Fry, Part 1
(1949)
R&Bチャート1位(12週)、ポップチャート21位
カテゴリー:R&B/ジャンプブルーズ
作者:ルイ・ジョーダン、エリス・ウォルシュ Ellis Walsh、アル・カーターズ Al Carters
影響を受けたのは:ファッツ・ウォーラーの "The Joint Is Jumpin'" (1937)、ルイ・ジョーダンの "They Raided
the House" (1945)
影響を与えたのは:チャック・ベリーの "Reelin' and Rockin'"
重要なカバー:Eddie Williams and His Brown Buddies, Pearl Bailey, Jackie "Moms"
Mabley
重要なリメイク:コースターズ (1966)
1944年にルイ・ジョーダンは、 "Ration Blues" と "Is You Is or Is You Ain't (Ma' Baby)"
で計8週間トップに立った。なんと、カントリー・アンド・ウエスタンのチャートで。全米ポップチャートでも各々11位と2位まで上場した。この二曲は、黒人バンドリーダー、ルイ・ジョーダンが40年代にどれほど人気があったかを示している。最もヒットしたのは「サタディ・ナイト・フィッシュ・フライ」で、ニューオリンズでのワイルドで徹夜のハウスパーティを賛美した曲だった。
ルイ・ジョーダンは1908年7月8日にアーカンサス州でパートタイムのバンドリーダーの息子として生まれた。7歳までにクラリネットをおぼえ、高校時代にはアルトサックスをマスターし、これが彼の生涯の楽器となる。最初のレコードは1929年で、ブランズウィック・レーベルのジャングル・バンドとともに録音したものだった。3年後、ルイ・アームストロングのレコードに参加した。しかし、彼がブレークしたのは30年代半ばで、メジャー・レーベルであるデッカに所属していたドラマーのチック・ウェブのバンドの一員としてだった。1938年にウェブが亡くなると、ジョーダンは、9人編成のコンボ、エルクス・ランデブー・バンド
Elks Rendezvous Band を結成し、1957年にリトル・リチャードがヒットさせる "Keep A-Knockin' (But You Can't
Come In)" など数曲をデッカから発売した。
しかし、彼が本調子を出すのは団員を削減して、ティンパニーファイブと名前を変えてからである。このスリムになった新たなコンボは、ホーンが先導するホットなブギとシャッフルのリズムを強調していた。同じく40年代の黒人バンドリーダーであるジャック・マクビーは次のように説明する。「5人か6人のほうがよりうまくスウィングできるし、より多くのことができるし、より多くのアドリブを入れることができる。大きなグループだと、お決まりのアレンジに従わなければならない。大衆は、小バンドによる、よりルーズな演奏を望んでいた。」デッカでの彼の最初のヒット
"Knock Me a Kiss"
が1941年に生まれ、音楽シーンにおける変革の準備が整った。ビッグバンドの時代は終わろうとしており、間もなく戦時の制限によって永遠に葬り去られることになる。戦争が終わってアメリカに帰ってきた兵士たちは、何か新鮮で、きびきびして、興奮するものに飢えていた。彼らを待っていたのは、都会のリズムと田舎のブルーズの混合であるジョーダンの新しいサウンドだった。
当初、ルイ・ジョーダンは珍奇なものとして知られていた。彼は、ピアニスト兼歌手のファッツ・ウォーラーの無礼で馬鹿げたユーモアを共有しており、1943年のウォーラーが突然亡くなると、その分野を独占した。彼のヒット曲の多くがそれを物語っている。"The
Chicks I Pick Are Slender, Tender and Tall" "Somebody Done Changed the Lock on
My Door" "Ain't Nobody Here But Us Chickens?" "What's the Use of Gettin' Sober
(When You Gonna Get Drunk Again?"
などである。しかし、ジョーダンは、伝統的な歌手というよりも話上手で、気兼ねなく黒人生活を披露した。ジャズ批評家のラルフ・グリーソンは「ルイ・ジョーダンは誇りを持って黒人のことを歌った」と述べている。ミルス・ブラザーズやナット・コール・トリオなどの人気黒人歌手たちがなめらかにやさしく歌っていた時代に、ジョーダンの言い回しや視点は完全にニグロだったし、彼は自由にゲットー生活についてコメントした。そのコメントには洞察力やユーモアがあったが、けっして苦味はなく、それによって白人に対する魅力が損なわれることはなかった。
ジョーダンは、ミュージックビデオの先駆的存在である短篇映画(Soundies)を何十本も作ったし、"Meet Miss Bobby Sox" や
"Follow the Boys" などの長篇にも出演した。40年代、彼は20曲ほどをポップチャートに送り込んだ。
「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」は、最初、エディ・ウィリアムズと彼のブラウン・バディーズ Eddie Williams and His Brown
Buddies によって録音された。エリス・「スロー」・ウォルシュ Ellis "Slow" Walsh
が歌手としてフューチャーされていた。ウィリアムズは、ジョニー・ムーアのスリー・ブレイザーズ Johnny Moore's Three Blazers
のベーシストだったが、ブルーズ・ピアニストのフロイド・ディクソン Floyd Dixon とともにグループを結成し、1949年の "Broekn
Hearted"
など2曲のR&Bヒットがあった。ウィリアムズは次のように語っている。「エリス・ウォルシュはバンドのドラマーで、彼ともう一人が「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」を持ってきた。ビートを付けて、私のガレージで録音した。モダーン・レコードのジュールズ・ビハリ
Jules Bihari に聴かせると、彼が発売したいと言うので、スタジオで録音した。しかし、エリスは、ルイ・ジョーダンのエージェント、バール・アダムズ
Berle Adams に聴かせた。彼のが先に発売された。」
実際には、ウィリアムズは、モダン・レコードではなく、黒人所有のスプリームという小さなレコード会社のために録音し、そこからレコードを発売した。ジョーダンのと比べると、ウィリアムズのはプロデューズ不足である。ウォルシュは、歌うより語るほうが多く、バンドはうしろの遠くからシャッフルビートを刻んでいて、全体のサウンドは、ジャック・マクビーの
"Open the Door, Richard"
のように、黒人による寄席芸のような感じだ。躍動的で、よく響くベースがジョーダンのバージョンを支配しているが、控えめなエディ・ウィリアムズは自分のベースを埋没させている。この二つのバージョンは何年も離れているように聞こえる。
ジョーダンは歌を作りかえた。ウィリアムズのは、"And it was rockin' ... and they rocked till the break
of dawn"
という繰り返し部分が番と盤の間にときどき出てくるが、ジョーダンはその部分がリスナーのつかみ所だと考え、2番ごとに繰り返し部分を挿入しただけでなく、その部分を16小節から32小節へと拡大した。その結果、ウォルシュのバージョンから2番省略しているにもかかわらず、ジョーダンのは1分半ほど長く、4分半になっている。
ティンパニー・ファイブは1949年8月9日に2曲録音した。最初は「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」で、78回転盤の片面には収まりきらなかった。二曲目は、これといった特徴のない
"Hungry Man" というミディアムテンポのボビー・トループ Bobby Troupe
の曲で、熱狂的な最初の曲のあとでバンドがリラックスするために演奏したに違いない。この曲はB面として録音されたと思われるが、実際にはAB面とも「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」になった。バンドはただちにコンサートツアーに戻ったが、「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」が大ヒットしたので、翌年の夏まで録音スタジオに戻ることができなかった。
ルイ・ジョーダンにとって、この曲は、4年前に発売した、レント・パーティー (rent party) に関する曲 "They Raided the
House"
の続編のようなものだった(レント・パーティーは、家賃を払えない黒人が開く有料パーティー)。その曲の中で、ジョーダンは、「彼らは家に乗り込んできて、私以外のみんなを鎮圧した。私は隅に座って、できるだけ飲んでいた」と歌った。警官が胡散臭い場所を手入れする歌は、1895年に黒人のベン・ハーニー
Ben Harney が作った "Mr. Johnson Turned Me Loose"
までさかのぼることができるが、たぶんそれ以前にもあったのだろう。ベッシー・スミスは "Gimme a Pigfoot"
というレント・パーティーの曲を歌い、ファッツ・ウォーラーにも "The Joint Is Jumpin'"
という同趣向の曲があったが、このジョーダンの最大ヒットの足元にも及ばなかった。この曲は、ニューオリンズの貧しい黒人たちのパーティーに関する、騒々しく、荒っぽいパロディだ。女性たちが金切声をあげ、跳びはね、叫び、ボトルが飛び交い、魚が臭いを発するほど大揺れのパーティだったので、警官たちが乗り込んできて、「ジャガイモ袋」のようにみんなを護送車にぶち込んだ。これは、黒人に運命づけられている屈辱のようなものだが、ジョーダンはユーモアを保ち続けた。彼はこうした場面を提示するだけで、解説については誰か別の人に任せた。
ギタリスト、ハム・ジャクソン Ham Jackson
によるTボーン・ウォーカー風の一節で終わる「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」の繰り返し部分のつかみは、チャック・ベリーの "Reelin' and
Rockin'" に受け継がれるが、より重要なのは、この歌がベリーの50年代のレコードの多くで示されているユーモラスな観察の青写真となっていることだ。
ロックンロールのビートがジョーダンのシャッフルとブギのリズムに取って代わり、レスター・ヤングやチャーリー・パーカーのようなボップ・ジャズマンやイリノイ・ジャケーやビッグ・ジェイ・マクニーリーのようなホンカーに影響を受けた若いサックス奏者が新たなサウンドを作り出し、ジョーダンの奏法は次世代のティーンエイジャー市場では時代遅れとなる。また、ジョーダンは40代になっており、年頃の娘たちに愛情たっぷりの歌をもっともらしくささやくことができなかった。彼の名誉のために言うが、彼はそんなことを試みたことはなかった。ジョーダンは、いくつかのレコード会社に移籍した。マーキュリーでは、「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」を新録音したが、オリジナルの気骨に欠けていた。彼は、新たな状況に適応できない40年代のR&Bマンであり、"Gal,
You Need a Whippin'" や "Whiskey, Do Your Stuff"
といった曲を機械的に作り続けるだけだった。彼は、にきびだらけの少年たちに迎合していると非難されることはほとんどなかった。また、彼は少年たちにとって黒人すぎた。コースターズやチャック・ベリーはこっけいな苦境を歌ったが、彼らはジョーダンの音楽を受け継いでいるものの、人種的に中立な聴衆に合わせていた。チャーリー・ブラウンやジョニー・B・グッドは白人でありえた。しかし、ルイ・ジョーダンの「カルドニア」や「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」で騒ぎまわる連中が白人に間違われることはない。
16
Professor Longhair
Mardi Gras in New Orleans
(1949)
16曲目は、プロフェッサー・ロングヘア Professor Longhair の「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」。スタータレント Star
Talent というレコード会社から出たプロフェサー・ロングヘアと彼のシャフリング・ハンガリアンズ His Shuffling Hangarians
名義のものと、アトランティックから出たプロフェサー・ロングヘアと彼のニューオリンズボーイズ His New Orleans Boys
名義のものが同じころに発売されているようです。
録音日・場所(その1):1949年10月にニューオリンズのハイハットクラブ Hi-Hat Club で
録音日・場所(その2):1949年11月にニューオリンズのJ&Mスタジオで
発売日(その1):1949年11月/12月
発売日(その2):1950年1月
なぜ重要か:ニューオリンズ固有のリズムを利用したR&Bの先駆的存在
影響を与えたのは:
ヒューイ・スミス Huey Smith。"Rockin' Pnewmonia and the Boogie Woogie
Flu" や "Don't You Just Know It" などのヒット曲を持ち、他のアーティストの曲にピアノで参加(フランキー・フォード Frankie
Ford の "Sea Cruise"、スマイリー・ルイス Smiley Lewis の "I Hear Ya Knockin'"
など)。
ほかに、ドクター・ジョン Dr. John やジェームズ・ブッカー James Booker など、ほとんどすべてのニューオリンズのピアノ奏者。
重要なカバー:Joe Lutcher の "Mardi Gras"(R&Bチャート13位)
重要なリメイク:ファッツ・ドミノ(1953)、プロフェサー・ロングヘア("Go to the Mardi Gras,"
1959)
ラグタイムの時代から、安酒場(バレルハウス)のピアニストはプロフェサーと呼ばれた。バードは、禿げた頭の両側から長い髪をたらしていたので、1946年頃からプロフェサー・ロングヘアと名乗り始めた。彼は、ギターのウォルター・ネルソン、サックスのロバート・パーカー、ドラムのビッグ・スティックとともにフォー・ヘアーズ
Four Hairs を結成した(ロバート・パーカーは、1960年代半ばに "Barefootin'"
でヒットを飛ばす)。1949年後期、フォー・ヘアーズは、テキサス州ダラスでスター・タレント・レーベルのために最初の録音をする。ある日の午後、ニューオリンズのハイハットクラブで録音した四曲のうち、「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」と「シー・エイント・ゴット・ノー・ヘア
She Ain't Got No
Hair」の二曲は、プロフェサー・ロングヘアと彼のシャッフル・ハンガリアンズ名義で、A面としてスター・タレントから発売された。二曲ともヒットしなかった。録音がひどかったこともあるが、会社がすぐに倒産してしまったことが大きかった。それでバードは、この二曲を他のレーベルのために再録音した。「シー・エイント・ゴット・ノー・ヘア」は、「ボールド・ヘッド
Bald Head」と改題され、彼唯一のチャート入りしたヒット曲となった(マーキュリー・レコードから発売され、1950年にR&Bチャート5位)。
数日後、アーティガンはJ&Mスタジオで、「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」を含めて、10曲録音した。バードのバンド以外のミュージシャンが追加され、その中には新しいドラマー、アル・ミラー
Al Miller
もいた。1950年2月、ビルボード誌は「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」に関して次のように書いている。「変な3拍子による素晴らしく元気のよい曲で、デルタ地域で大当たりするはずだし、他の地域でも評判を呼ぶだろう。」当初、このレコードは、プロフェサー・ロングヘアと彼のニューオリンズボーイズという名義で発売されたが、のちの版では、「ロイ「はげ頭」バード
Roy "Baldhead" Byrd」と表記された。
1959年、ロングヘアは、マック・レベナック Mac Rebennack のバンドをバックに、ロン・レーベル Ron label
からこの曲を発売した。"Go to the Mardi Gras"
と改題したが、またもやヒットしなかった。(数年後、レべナックは、ドクター・ジョンとナイト・トリッパー Dr. John and the Night
Tripper という名前で自らのキャリアを確立する。)
歌手ロイ・ブラウン Roy Brown とバンドリーダー、ポール・ゲイトン Paul
Gaytonのおかげで、ニューオリンズはナウい街いう評判が高まり始めていた。ロサンジェルスのインペリアル・レコードの所有者ルー・チャッド Lew
Chuddは、メキシコ音楽のレコード会社というイメージから抜け出すために、新たなR&B分野に最初から加わって有利な立場に立とうとニューオリンズに飛んだ。最初の仕事は、28歳の黒人トランペッター兼バンドリーダーのデイブ・バーソロミューをインペリアルのA&Rマンとして雇うことだった。バーソロミューは、週末にJ&Mレコード店から放送されるドクター・ダティ・オー
Dr. Daddy-Oのラジオ番組で演奏し、J&Mスタジオの専属バンドを率いていた。
五日後、ファッツ・ドミノは、バーソロミューの八人のバンドとともに、コジモ・マタッサのスタジオにやってきた。バンドには、サックスのハーブ・ハーデスティ
Herb Hardestyとアルビン・「レッド」・タイラー Alvin “Red” Tyler、ギターのアーネスト・マクレーンErnest
McLain、ベースのフランク・フィールズFrank Fields、ドラムのアール・パーマー Earl
Parmerがいた。このバンドは、ほとんどメンバーを変えず、このあと15年間、ドミノのバックを務めることになる。最初の曲は「ファット・マン・ブルーズ Fat
Man Blues」で、ドミノがクラブで歌っていた「ジャンカー・ブルーズ」を作り直したものだった。
「ジャンカー・ブルーズ」は、1941年にチャンピオン・ジャック・デュプリーがコロンビア傘下のオーケー(Okeh)レーベルから発売していた。ファッツはデュプリーの歌詞を「いつもラリッているからジャンコと呼ばれている」から「20ポンドあるから太った奴と呼ばれている」に変えた。また、針、マリファナたばこ(reefer)、コカインといった言葉をすべて削除した。(のちにプロフェサー・ロングヘアは「ジャンカー・ブルーズ」のメロディをパクって「ティピティーナTipitina」を作り、ロイド・プライスは「ローディ・ミス・クローディLawdy
Miss Claudy」を作った。)
ドミノの初期のヒーローの一人は、ピアニストでソングライターでひょうきん者のファッツ・ウォーラーだった。彼は1943年に亡くなった。間違いなく、ドミノのユーモアのほとんどはウォーラーから覚えたものだ。その後、エイモス・ミルバーン
Amos Milburn
からも影響を受けた。ミルバーンは、テキサスのブギウギ・ミュージシャンで、1949年から1951年にかけて10数曲のR&Bヒットを飛ばした。しかし、バーソロミューは、ドミノのリラックスしたスタイルを作ったのはチャールズ・ブラウン
Charles Brown
だと主張する。彼は、1946年から1951年にかけてR&Bの世界で最も人気のあるアーティストの一人だった。「ファッツはチャールズ・ブラウンをコピーしたがっていたが、チャールズのような発声法じゃなかったし、洗練されたピアニストでもなかった。ファッツはブギウギしか演奏できなかった。だが、彼は、世界で最も素晴らしいブギウギを演奏した。」
ドミノは、ABCパラマウント・レコードに移籍後の1964年ごろ、ナッシュビルで「ファット・マン」を再録音した。彼の発声法は、オリジナルのように濁っていない。ファッツが「ワー・ワー」と歌う部分はハーモニカに置き換えられ、ダブルベースはエレキベースに変わり、ファッツの代わりに別のピアニストが演奏した(たぶんジェームズ・ブッカー
James Booker)。もちろん、明るくて歯切れのよいステレオ録音だった。荒くて、くすんだオリジナルと比べると、ひどいものだった。
影響を受けたのは:ハンボーン・ウィリー・ニューバーン Hambone Willie Newbern の "Roll and
Tumble"(1927)、ベビーフェイス・ルロイ・トリオ The Baby Face Leroy Trio の "Rollin' and
Tumblin'"(1952)
影響を与えたのは:マディ自身の "Louisiana Blues"(R&Bチャート10位、1950)、サンフォード・クラーク Sanford
Clark の "The
Fool"(ポップチャート7位、1956)、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ジョニー・ウィンター、ZZトップ、ロバート・クレイ、ボブ・ディラン
重要なリメイク:エルモア・ジェームズ Elmore James (1960)、キャンド・ヒート(1967)
ウォーターズは昼間ベニス風ブラインドを売り、夜バンドを率いて演奏活動を行った。チェス兄弟は、最初の録音セッションでウォーターズのバンドのアンサンブルをとらえようとしたが、レナードは結果に不満足だった。デルタのブルーズマンにとって、アンサンブルよりも一人か二人で演奏するほうが楽だった。それに、レナードは、数個の楽器のバランスをうまくとるほどスタジオに慣れていなかった。レナードは、より単純なデルタの音楽を録音するために、ウォーターズのギターとアーネスト・「ビッグ」・クロフォードのダブルベースだけにした。彼の決定はうまくいった。マディの素朴な
"I Can't Be Satisfied" は、ブルーズを南部に置いてきたシカゴの黒人たちに受けた。さらに郷愁を利用して "(I Fee Like)
Going Home" を録音し、R&Bチャートの11位となる最初のヒットを飛ばした。
1948年11月、ウォーターズとベーシストのクロフォードは "Down South Blues"
を録音した。ウォーターズのボトルネック・ギターが覚えやすいリフを繰り返す曲で、"Roll and Tumble"
という古いミシシッピー・ブルーズに基づいている。レナードが発売しないと決めたので、60年代半ばまで日の目を見ることはなかった。
マディは、テネシーのブルーズマン、ハムボーン・ウィリー・ニューバーンが20年前に録音した本家の "Roll and Tumble"
は録音しないことに決めた。たぶん、マディは、この曲を録音するにはバンドが必要だと感じたのだろう。ハードな「ローリング・アンド・タンブリング」スタイルのブルーズは、二つの異なるテンポを同時に演奏する必要があったからだ。1950年初めまでに、マディのマネージャー、モンロー・パシス
Monroe Passis
はパークウェイというレコード会社を設立した。パシスは、マディがレナード・チェスの録音に不満足なことを知って、マディのバンド(マディのボトルネック、リトル・ウォルターのハーモニカ、ルロイ・フォスターのドラムとセカンドギター)をスタジオに呼んだ。マディのチェスレコードとの独占契約の裏をかくために、パシスは、リトル・ウォルターとフォスターだけに歌わせて、ニセの名前でレコードを発売した。1950年2月か3月に1回のセッションで録音した8曲のうちの1曲が「ローリン・アンド・タンブリン」で、ルロイ・フォスターが歌い、あとの二人が絶妙な演奏をしている。しかし、マディは間違いを一つ犯した。シンプルなギターではなく、彼独特のボトルネック奏法を披露したのだ。
影響を受けたのは:
"Mama Don't Allow No Easy Riders Here" by Cow Cow Davenport
(1929)
"Steel Guitar Stomp" by Hank Penny (カントリーチャート4位、1946)
影響を与えたのは:
"The Saints Rock'n Roll" by Bill Haley and His Comets
(1956)
"Jumps, Giggles and Shouts" by Gene Vincent (1956)
重要なカバー:
レッド・フォーリー Red Foley (カントリーチャート1位、ポップチャート14位)
ライオネル・ハンプトン
Lionel Hampton
テックス・ウィリアムズ Tex Williams
エイモス・ミルバーン Amos
Milburn
ピー・ウィー・キング Pee Wee King
レオン・マコーリフ Leon McAuliffe
トミー・ドーシー Tommy
Dorsey
ハードロック・ガンターの「バーミングハム・バウンス」がヒットしなかったのは宗教のせいだ。ガンターは次のように言う。「バマ Bama
レーベルを所有するマニー・ピアソン Manny Pearson
のためにこの曲を録音した。私がよく知られているアラバマ、ジョージア、サウスキャロライナといった南部で演奏し始めて、ヒットしそうな気配だった。デッカレコードのポール・コーエン
Paul Cohen
がマスターを買いたいと申し出た。俺とマニーに5千ドル前金でくれると言った。だが、マニーは教会にかかわっており、印税の一部を教会に献金したかったので、デッカに売ろうとしなかった。ポールから電話がかかってきて、レッド・フォーリーにやらせると言って、流感で寝ていたレッド・フォーリーをたたき起して、「バーミングハム・バウンス」を録音した。彼のレコードは1位になり、俺のレコードを風邪で寝込ませちまった。」
シドニー・ルイ・ガンター・ジュニア Sidney Louie Gunter, Jr.
は1925年2月27日にアラバマ州バーミングハムの郊外で生まれた。少年時代にギターを覚え、バーミングハム付近で生まれたブギウギに夢中になった。ブギウギという言葉を最初に使った1929年の「パイン・トップのブギウギ
Pine Top's Boogie Woogie」のパイン・トップもバーミングハム出身である。黒人トランペッターのアースキン・ホーキンズ Erskine
Hawkins もバーミングハム出身で、彼の「タキシード・ジャンクション Tuxedo
Junction」はガンターの初期のお気に入りレコードの一枚だった。
地元の友人ジョン・ダニエルズは4人組のバンドを持っていて、バマ・レーベルのために録音していた。彼はガンターを経営者のマニー・ピアソンに引き合わせた。「当時、俺は地元で人気だったから、マニーは俺のレコードを出したがっていた。」録音セッションの日程を組んだとき、ガンターは3曲持っていた。「俺が本当に好きだったのは早いテンポの「ロンサム・ブルーズ」だった。残りはスローなカントリー
"There Will Be Tears" と "How Can I Believe You Love Me"
だった。もう一曲必要だったので、リハーサルに行く途中、ヒュール・マーフィーの家で書いた。おれの家から彼の家まで5分ほどだったが、彼の家に到着するまでにほぼ頭の中で完成していた。」
「バーミングハム・バウンス」の主な特徴の一つは、ハードロックが黒人の言葉「ロッキン」を使ったことだ。「アラバマのデキシーの中心には、俺たちが大好きなバーミングハムと呼ばれる場所がある。ドラマーがしっかりしたビートを刻むと、みんな足をロッキンし、シャッフルする」という歌詞で、合間にメンバー各々がソロを演奏する。この歌詞のあとにはドラマーのボブ・サムナー
Bob Sumner が演奏し、あとでフィドラーのビリー・タッカー Billy Tucker やスティールギターのテッド・クラブトゥリー Ted
Crabtree が演奏し、間奏では全員が演奏する。その間、ガンターとジム・オデイ Jim O'Day
がギターとベースでしっかりとブギのリフを演奏し続ける。
デッカ時代、ガンターは、"Boogie Woogie on Saturday Night" などのロカビリーの原型のような曲を録音した。彼とロバータ・リー
Roberta Lee は、ドミノズの "Sixty Minute Man"
さえカバーした。しかし、ガンターは、予備役将校としての任務を遂行するために陸軍に戻ると、彼がレコードで築き上げてきた勢いを失ってしまう。1952年に除隊すると、ウェストバージニア州ウィーリングのラジオ局WWVAの「ウェストバージニア・ジャンボリー」に10年間、断続的に参加した。
ガンターは、一時的にバーミングハムに帰っていたとき、"Gonna Dance All Night"
という曲を録音した。この曲は、もともと、「バーミングハム・バウンス」の続編としてバマ・レーベルから発売したものだった。ガンターは次のように言う。「完全なタイトルは
"We're Gonna Rock and Roll, We're Gonna Dance All Night"
だった。サム・フィリップスがやってきて、俺たちの演奏を聴いた。彼は俺をメンフィスに連れて行って、録音したがっていたが、俺はできないと言った。それで、代わりにバーミングハムで録音し、彼にテープを送った。」R&Bを歌うことのできる、あの捕まえにくい白人(たぶんプレスリーのこと)をまだ探し回っていたフィリップスは、彼が知っている中でガンターが最も有名だったので、喜んで1954年5月に彼のレコードをサンから発売した。しかし、何も起こらなかった。1ヵ月後にプレスリーがサンレコードで最初の録音セッションを行うと、フィリップスはガンターに興味を失った。もっとも、1956年に二枚目の
"Jukebox Help Me Find My Baby" を出したが。
20
Hank Snow and His Rainbow Ranch Boys
I'm Moving On
(1950)
20曲目は、ハンク・スノウと彼のレインボー・ランチ・ボーイズ Hank Snow and His Rainbow Ranch Boys
の「アイム・ムービン・オン」。
カントリーチャート1位(21週)、ポップチャート27位
カテゴリー:ヒルビリー・ブギ
作者:クラレンス・E・スノウ
レーベルと番号:RCA 21-0328 (78回転)、RCA 48-0328 (45回転)
A面:"With This Ring I Thee Wed"
録音日・場所: 1950年3月28日、ナッシュビル
発売日:1950年6月
なぜ重要か:本格的なブギリズムによるトレイン・ソングの最初の大ヒット曲。
影響を受けたのは:
ジミー・ロジャーズ Jimmie Rodgers のトレイン・ソング
ロイ・エイカフ Roy Acuff の
"Wabash Cannon Ball" (1936)
ハンク・ウィリアムズ Hank Williams の "Pan American" (1947)
影響を与えたのは:
エルビス・プレスリーの "MYstery Train" (1955)
ジョニー・バーネットのロックンロールトリオ
Johnny Burnette Rock 'n' Roll Trio の "Train Kept A-Rollin'" (1956)
アーロ・ガスリー
Arlo Guthrie の "The City of New Orleans" (ポップチャート18位、1972)
重要なリメイク:
レイ・チャールズ(ポップチャート40位、1959)
ドン・ギブソン(カントリーチャート14位、1960)
マット・ルーカス
Matt Lucas (ポップチャート56位、1963)
プレスリー(1969)
ジョン・ケイ John
Kay(ポップチャート52位、1972)
エミルー・ハリス(カントリーチャート5位、1983)
現代のアメリカ音楽は列車のリズムとロマンスに基づいている。特にカントリーミュージックがそうで、"Chattanooga Choo Choo," "The
Wabash Cannon Ball," "The Orange Blossom Special," "Pan American"
それに不運なオールド97といった列車が強力な原動力となった。「アイム・ムービン・オン」は、この伝統を大いに利用している。曲が始まると同時にパワー全開で、ギターは車輪のようにカチカチと鳴り、フィドルは煙のようにシュッシュッと音を立て、スティールギターは夜の孤独な汽笛のようにうめく。「あの大きな八輪列車が線路をゆっくり走り、お前が本当に愛していたパパはもう帰ってこない。俺は動き続ける。俺はすぐに旅立つ。お前は俺の小さくて古い空を高く飛びすぎた。だから、俺は動き続ける。」"That
big eight-wheeler rollin' down the track, means your true lovin' datty ain't
comin' back; I'm moving on, I'll soon be gone, your were flyin' too high for my
little ol' sky. so I'm movin' on."
ミシシッピー州生まれのジミー・ロジャーズがカントリー音楽の父であることはほぼ間違いない。1927年から亡くなった1933年5月まで彼がビクターに所属していた間、トレイン・ソング、ブルーズ、ジャズ、カウボーイ・ソングを数多く歌った。晩年の写真では、白いテンガロンハットに毛でおおわれた革ズボン(furry
chaps)をまとった姿でポーズをとっている。このイメージによって、ジーン・オートリーはロジャーズの死の直後に歌手としての人生を歩み始めた。彼の最初のレコード
"Methodist Pie" は非常に綿密にロジャーズを真似ていて、気味が悪いぐらいだ。しかし、ハンク・スノウがより引かれたのは、"Singing
Brakeman" という1929年の短編映画のロジャーズで、鉄道員の帽子とオーバーオール姿で駅に座り、ギターを弾きながら "Waitin' for a
Train"
を歌っている。「私は昔の蒸気機関車が好きで、子供の頃よく追いかけていた」とスノウは言う。(まず第一にビクターがロジャーズと契約する気になったのは、バーノン・ダルハート
Vernon Dalhart が "The Wreck of the Old 97"
というヒルビリー・トレインソングで1927年にミリオンセラーを記録し、これがビクターにとって当時最大のヒットとなったからである。スノウはこの曲を1951年にカバーしている。)(訳注:この曲自体はジミー・ロジャーズとは関係なさそう。すなわち、別の歌手が歌ったトレインソングが大ヒットしたので、ビクターはトレインソングを歌う歌手を求めたということでしょう。)
クラレンス・スノウが最初に有名になったのはハリファックスのラジオのカントリー歌手としてだった。1936年、彼はモントリオールのカナダ・ビクターと契約し、名前をハンク・スノウに変え、ロジャーズの曲
"Yodeling Cowboy" にちなんで "Yodeling Ranger" として売り出した。彼の声が深みを増すと、"Singing Ranger"
に変えた。1944年までに、スノウはもっと大物になることを決心し、アメリカに移った。彼がアメリカで最初に大当たりをとったのは、ウェストバージニア州ウェーリング郊外のラジオ局による「ウェストバージニア・ジャンボリー」で土曜日の夜に歌った時だった。ビクター(ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)と合併してRCAビクターとなっていた)は、カナダ・ビクターのためにスノウが録音していた
"Brand on My Heart" を1948年に発売し、地方でヒットした。
スノウは、テキサス州で、アーネスト・タブ Ernest Tubb
という別のジミー・ロジャーズ信奉者と出会った。彼は、裏で糸を引いて、1950年1月に「グランド・オール・オープリー」にスノウを出演させた。「オープリー」は全米20州で聴くことができたが、スノウは、彼が与えるであろう影響力を推し量ることができなかった。「最初の夜、拍手が非常に少なくて、とても失望した。すぐにナッシュビルをたとうとしたが、妻に説得されて残った。」ナッシュビルはまだ小さな町だったが、「グランド・オール・オープリー」に引き寄せられた音楽出版業者や曲の売込屋であふれ始めていた。ニューヨークの音楽出版社ヒル・アンド・レンジは、戦後のヒルビリーブームに乗ろうと、RCAのカントリー音楽A&Rマンであるスティーブ・ショールズ
Steve Sholes
と取引して、彼が抱えるミュージシャンにヒル・アンド・レンジと契約させた。その結果、ハンク・スノウは、RCAビクターとヒル・アンド・レンジの両方の契約下に入り、彼自身の歌についての契約を結び、ヒル・アンド・レンジお抱えの作曲家の曲しか録音できなくなった
(signing over his own songs and recording only the music of composers in Hill
and Range's stable)。
その一年前、スノウは初めてアメリカで録音セッションを行った。それはシカゴだった。8曲録音したのだが、スティーブ・ショールズはスノウが書いた「アイム・ムービン・オン」を録音させなかった。「その曲には大いに自信があったが、RCAにはきっぱり断られてしまった。1950年にオープリーで歌っていた時、ナッシュビルで最初に録音セッションを行う機会を得たので、ショールズが気に入ろうが気に入るまいが、その曲を録音することを決心した。そのセッションのために選んだ曲は三曲だけだった。」そのうちの一曲、
"I Cried But My Tears Were Too Late"
はスノウが作った曲で、他の二曲はヒル・アンド・レンジが選んだ曲だった。「それで、その夜の最後に「アイム・ムービン・オン」を忍び込ませた。曲を少し変えたので、たぶん彼は気づかなかっただろう。」
密度の高い「アイム・ムービン・オン」を聴くと、四人の男だけで演奏しているなんて想像しがたい。膝にのせるタイプのギブソンの6弦電気スティールギターを演奏するタルボットはフィドルのトミー・バーデンと一つのマイクを共有した。レッド・フォリー
Red Foley
のバンドから来たアーニー・ニュートンは別のマイクでベースを鳴らし、ハンク・スノウは生ギターと歌を三番目のマイクから録音した。ショールズは、音を膨らませるために、不快感を与えるほどのレベルにまでアンプの音量を上げるようタルボットに指示した。録音セッション後、ショールズはタルボットに「今回の録音じゃ、一曲も使える曲はないな
I don't think we've got a single side here we'll be able to use」と打ち明けた。
ヒル・アンド・レンジは "With This Ring I Three Wed"
をA面にプッシュしたが、ディスクジョッキーたちはB面がお気に入りだった。「アイム・ムービン・オン」は21週間もカントリーチャートのトップに君臨し、ハンクの鼻にかかった歌声とバンドの純粋なヒルビリーサウンドにもかかわらず、ポップスファンもレコードを買った。「アイム・ムービン・オン」が大人気だったので、二曲目のトレインソング
"The Golden Rocket" も二週間一位となり、「アイム・ムービン・オン」の完全なリメイクだった三曲目の "Rhumba Boogie"
も八週間トップを続けた。この二曲の違いは、ちょっとしたルンバリズムがブギウギに織り込まれていることだけだった。
「アイム・ムービン・オン」は、朝鮮戦争でのアメリカ軍の非公式な行進曲のようなものになった。この奇妙な戦争の間、buggin' out
(ずらかる)とう軍隊用語が生まれた。アメリカ軍は、山脈を上ったり下りたして、北朝鮮軍を敗走させたが、1950年12月に満州から中国共産党軍が攻めてくると、いそいで撤退した。
ハンク・スノウは大スターとなり、カントリーチャートに85曲送り込んだ。また、多くのロックンローラーに影響を与えた。プレスリーは、「アイム・ムービン・オン」や
"(Now and Then) There's a Fool Such as I"
など、ハンク・スノウの曲を数曲録音した。初期のプレスリーは、スノウのツアーに同行し、「グランド・オール・オープリー」のスノウのショーの中で「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を歌った。1955年後期、エルビスをRCAビクターと契約させるようスティーブ・ショールズに興味を持たせたのはハンク・スノウだったし、プレスリーが録音した曲を管理する独占権を1万5千ドルで音楽出版社ヒル・アンド・レンジに買わせたのもスノウだった。ハンク・スノウのビジネスパートナーであるトム・パーカー大佐は、プレスリーの活動の導き役となる。
重要なカバー:
ルイ・ジョーダン (R&Bチャート4位)
ラッキー・ミリンダー・オーケストラ(とワイノニー・ハリス) Lucky
Millinder's Orchestra (with Wynonie Harris)
レックス・アレン Rex Allen
ジューン・ハットン
June Hutton
ルイス・プリマ Louis Prima
ルース・ブラウンがアップテンポのR&Bを歌えるなんて、本人を含めて、誰も考えたことがなかった。"Teardrops from My Eyes"
は大ヒットとなり、半年もチャートにとどまり、ミス・リズムという異名を持つまでに至った。「バラード・タイプのスタンダードばかり歌っていたから、耳を疑ったわ。それまで私は良いバラードシンガーだと思っていたし、正直なところ、リズムナンバーはお気に入りじゃなかったの。最も私に大ヒットをもたらしそうにない曲だったわ。全力を尽くしてあの曲と戦ったわ。」
ルディ・トゥームズという黒人のソングライターが封筒に入った曲を持ってアトランティック・レコードにやってきて、"Teardrops from My
Eyes"
をさっと取り出すと、アトランティックの共同所有者であるハーブ・エイブラムソンは、すぐにルース・ブラウンに歌わせようと決めた。一見したところ、悲しげなブルーズだった。「雨が降るたびにあなたのことを思う。そんなとき、きまって憂鬱になるの。そして、私の目から涙が雨のように降る。」ルース・ブラウンは、声に少々キーキーした感じがあり、「声にひとしずくの涙を持つ女の子
the Girl with a Tear in Her
Voice」と呼ばれていたので、「ティアドロップ」に関する歌なら、ルース・ブラウンがふさわしいと思ったのだろう。もっとありそうなのは、あきらかに女性シンガーのための歌詞で、1950年当時、アトランティックには女性歌手が二人しかいなかったからだ。もう一人はローリー・テイト
Laurie Tate で、非常に人気のあったサボイ・レコードのリトル・エスターを真似た女の子だった。
ルース・ウェストン Ruth Weston
は1928年1月12日にバージニア州ポーツマスで生まれた。教会の聖歌隊の娘だった。彼女がプロ歌手を始めたのは、トランペッターのジミー・アール・ブラウン
Jimmy Earle Brown
の楽団で、ブラウンはすぐに彼女と結婚した。1948年夏、ルースは、ラッキー・ミリンダー楽団の二番目の歌手となった(アニスティーン・アレン Annisteen
Allen
がメイン歌手だった)。しかし、彼女は歌えないと考えたミリンダーは、数週間後に彼女を解雇した。アトランティック・レコードの副社長アーメット・アーティガンが彼女と契約しようと考えたとき、彼女はワシントンのクラブでソロ歌手として歌っていた。アーティガンはチャーリー・ギレットに対し次のように語っている。「彼女をアポロシアターに出演させ、ニューヨークで録音するつもりだった。だが、ニューヨークに行く途中、ルースと彼女のマネージャー、ブランチ・キャロウェイ(キャブ・キャロウェイの姉)は事故にあい、ルースは9ヵ月入院しなければならなくなった。ほとんど余裕がなかったが、入院費は全額我々が支払った。しかし、私は、彼女がアトランティックと契約したことに非常に感謝していた。」
「リズムアンドブルーズ」という言葉は、ルース・ブラウンの最初のレコード「ソー・ロング」が1949年にヒットしたとき、ビルボードの紙面をにぎわしていた。このレコードの売り上げはリズムアンドブルーズ市場に限定されていたが、この若い才人にはすぐれたものがあるとアトランティックが納得するに十分だった。「ソー・ロング」は、標準的な女性の恋の歌で(もっとも、以前に
Charioteers
という男性ボーカルグループがレコードを出していたが)、ブラウンの明快な発声とざらついた声に完全にあっていた。当初、この曲とB面は、エディ・コンドン Eddie
Condon
によるジャズ風なインスト中心のアルバムにボーカルナンバーとして収録される予定だった。しかし、まだ松葉杖をついていたブラウンの歌唱が非常に力強かったので、そのアルバムに収めずに、彼女名義でシングルとして発売したのだった。その後の数枚のレコードは大してヒットしなかった。
ブラウンとルディ・トゥームズは "Teardrops from My Eyes"
を録音する前の少なくとも一週間はこの曲を練習した。「楽譜が読めなかったから、ルディがメロディを教えてくれた。それをテープに録音して、うちに帰って何度も聴いたの。」録音では、カウント・ベイシー楽団の卒業生で、アトランティックの音楽ディレクター兼サックス奏者のアルバート・「バド」・ジョンソンが率いるバンドがバックを務めた。
「声にひとしずくの涙を持つ女の子」と言われることがブラウンは好きでなかった。「あのちょっとしたキーキー声は偶然なの。スタジオで偶然うわずったのだけど、ハーブ・エイブラムソンは「そのままにしとけ」と言ったの。」それで、"Teardrops
from My Eyes" を宣伝するためのツアーに出たとき、別のあだ名を頂戴する時期に来ていた。「"Teardrops from My Eyes"
がヒット中、フィラデルフィアのアール劇場でフランキー・レインと一緒に仕事をしたの。彼はミスター・リズムとして有名だった。私が舞台から降りようとすると、彼がやってきて、観衆に向かって「このレディはミス・リズムと呼ぶにふさわしいと思う」と言ったの。それ以来、このあだ名が定着したの。」
影響を与えたのは:
"Maybellene" by Chuck Berry(ポップチャート5位、1955)
"Hot Rod
Lincoln" by Charlie Ryan and the Livingston Brothers (1955)
"Race with the
Devil" by Gene Vincent and the Blue Caps (1956)
"Chicken" by the Cheers
(1956)
"Beep Beep" by the Playmates (ポップチャート4位、1958)
"Hot Rod Lincoln" by
Charlie Ryan the Timberline Riders (ポップチャート33位、1960)
"Hot Rod Lincoln" by
Johnny Bond (ポップチャート26位、1960)
"Shut Down" by the Beach Boys
(ポップチャート23位、1963)
のちに作られた自動車レースの歌ほぼすべて
重要なカバー:
Ramblin' Jimmy Dolan (カントリーチャート7位)
Red Foley
(カントリーチャート7位)
Tiny Hill and His Orchestra (ポップチャート29位、カントリーチャート7位)
Arthur
Smith
重要なリメイク:
Charlie Ryan and the Timberine Riders (1964)
ホットロッドの最初のレコードは、Connie Jordan and the Jordanaires の1947年の "Hot Rod Boogie"
らしいが、これはインストナンバーだった。「ホットロッドレース」の起源は、女性を追い回すメキシコ系米国人が女性を口説くためにカリフォルニア南部を行った来たりすることを歌った、よく知られていない歌だという説の方が有力である。「サンペドロからフレスドまで、拒絶する女はいない」というような歌を、当時の映画の中でけっこう純潔な若い女優が非常に無邪気に歌っているらしい(筆者がこれを書いている時点で、映画も曲も女優も特定できなかった)。この曲が「ホットロッドレース」にインスピレーションを与えたにせよ、そうでないにせよ、サンペドロがホットロッド天国の中心地となるきっかけを与えている。
(筆者がこの本を書いた時代にインターネットが発達していなかったのが残念。その純潔な若い女性はディアナ・ダービン(なるほど純潔だ)、映画は「Can't
Help Singing」、曲名は
"Californ-i-ay"。なんと、偶然にも、私はこの映画が入った「ディアナ・ダービン・スイートハート・パック」という6作品入り米盤2枚組DVDを注文して、現在うちに届けられている途中。"Lady
On A Train" というフィルムノワール風コメディが見たかったから購入したのです。YouTube でこの曲が歌われているシーンを見ると、たしかに男性が
"From San Pedro to Fresco, No Maiden There Says No"
と歌っているのだけど、これが直接「ホットロッドレース」に結びつくとは思えない。)
レースが砂漠まで続くと、二台の車は「低く広範囲に疾走する a-flyin' low and a-flyin'
wide!」(「ホットロッドレース」のいくつかのカバーバージョンはかなり歌詞を変えているが、この部分だけは残しているし、ビル・ヘイリーの "Rock the
Joint"(最初のR&R28曲目)でも、ダンスフロアでロッキング・アンド・ローリングするのを表す用語として使われている)。勝負の決着はつかず、突然「バックミラーをのぞくと、何かがやってくるのが見えた。炎だと思った。」エンジンの出力を上げたモデルAフォードに乗ったガキがヒューッと走り抜け、ほこりと排気ガスで彼らを窒息させた。彼らは恥ずかくなった。「あの車が通り過ぎると、私は振り返った。マーキュリーの男は何も言うべきことがなかった。」
曲のなかにタイトルの「ホットロッドレース」という言葉は出てこない。この手落ちも作品の一部となり、ジーン・ビンセントの "Race with the
Devil" (1956) にもボックスポッパーズ Voxpoppers の "The Last Drag" (1958)
も同様にタイトルが歌詞の中に現れない。「ホットロッド」でさえ歌詞に出てこないが、彼のフォードが改造されて「一対のパイプと Columbia butt"
が付いていると述べている。「隠語が理解できないみんなのために言うと、キャブレターが二つとオーバードライブ装置が一つ付いているということだ。」
「ホットロッドレース」を発売したレコード会社には奇妙な歴史がある。ギルトエッジは、1944年に、クリフ・マクドナルドというロサンジェルス住民のガレージで始まった。彼は、レコードプレス機を持っていた。同年、彼は、セシル・グラントという名前の黒人兵士が歌うバラード
"I Wonder"
を録音した。グラントは米軍慰問協会主催のUSOショーで歌っていたので、質の悪いセラックに録音されたレコードはかなり売れた。黒人アーティストが独立系レーベルから出したレコードとして最初の大ヒットとなった。グラントが録音したレコードの直販店として数年間活動したのち、ギルトエッジは、パサディナ郊外でフォースターレコードを経営していたビル・マッコールの手に渡った。マッコールは、自らのレーベルからヒルビリーとブルーズのレコードを出しており、配給網を拡大しようと1950年にギルトエッジを復活させたときも、それを続けた。たとえば、シェブリーのレコードの次にはボブ・ゲディンズ・トリオ
Bob Geddins Trio のブルースレコードを発売した。
自動車のバラッドというのは1950年には珍しくなかった。初期の歌は、賞賛の対象がバギー(一頭立て軽装馬車)("The Surrey with the
Fringe on Top")から馬のない乗り物(自動車のこと)("In My Merry Oldsmobile" "Let's Make Love in My
Rumbleseat")に移行した。1930年代のブルーズマン、ロバート・ジョンソンは、エロチックな自動車のイメージを通して、女性との性的関係を表現した("Terraplane
Blues")。そして、ジミー・リギンズの "Cadillac Boogie" (1947)
のような歌は、ふさわしい車を持つことの優雅さを表現した。しかし、「ホットロッドレース」は、アクセルをぐっと踏み込んだ(put the foot on the
pedal)最初の歌だった。
奇妙なことに、この曲をポップチャートにまで進出させたのは、350ポンドのバンドリーダー、タイニー・ヒルで、"Doodle Doo Doo"
などの感傷的で古臭い曲で知られていた1940年代以降ヒット曲がなかった。彼は、物語の場所をサンペドロからココモ(たぶんインディアナの)に移し、不快感を与えそうな
"twin pipes and a Columbia butt" という表現を "twin pipoes in that blunderbuss"
に変えた。(同様に、ドーランも "that Columbia bus" に変えた。)
大ヒットになるのを阻まれたアーキー・シブリーは、続編 "Arkie Meets the Judge (Hot Rod Race #3)"
を発売した。彼はサンペドロの自宅から連行され、裁判所で、この不法な行為における彼の役割を説明させられる。このレコードは「ホットロッドレース」よりもはるかに売れなかったが、いわゆる「アンサーレコード」が流行するきっかけを作った。カントリーとR&Bの両方の分野で人気となったアンサーレコードは、大衆の想像力をかきたてる生き生きとした人物や出来事についてのヒットに対する返答だった。(最初のR&R37曲目
"Work with Me, Annie" 参照。)
あっという間にカントリーの大スターになったファロン・ヤング Faron Young
は、「ホットロッドレース」とテネシー・アーニー・フォードの1948年の大ヒット "Shot Gun Boogie" を組み合わせて "Hot Rod
Shotgun Boogie" を作り、Tillman Franks and His Rainbow Boys
という名義でレコードを発売した。この短い歌の中で、ヤングは、Hadacolをタンクに注ぎ込むことで車の馬力を上げた。「丘を駆け上がっても、哀れっぽい鼻声さえ出さない。」ヤングは、この二つの曲を利用しただけでなく、当時人気だった
Hadacol
ソングも利用した。ハダコールは人気のあった一般市販薬で、ビタミン不足といった病気に効いた。ダドリー・J・ルブランが発明したこの万能薬の主成分は12パーセントのアルコールだった。ファロン・ヤングは、ビル・ネトルズ
Bill Nettles が1949年にヒットさせたカントリー "Hadacol Boogie" をコピーしたのだが、プロフェサー・ロングヘアの
"Hadacol Bounce" やリトル・ウィリー・リトルフィールドの "Drinkin' Hadacol" なども念頭にあったのかもしれない。
サンペドロは海軍の町なので、歌手のミック・ウッドワード Mick Woodward
は舞台を海に移して、「ホットロッドレース−海軍スタイル」という曲を作った。ミックワードにならって、ボー・トロイと彼のホイールズ Bo Troy and His
Wheels も海を舞台にした "Haulin' Henry" を発売した。
最も永続したアンサーレコードは、チャーリー・ライアンとティンバーライン・ライダーズ Charlie Ryan and the Timberline
Riders の「ホット・ロッド・リンカーン Hot Rod
Lincoln」だった。ライアンによれば、彼とシブリーが同じ地域でツアーを行っていた1950年の同時期に、各々の曲を作ったそうだ。実際にホットロッドのリンカーンを持っていたライアンは、アイダホ州のルイストンでロードレースを始め、丘の頂上まで突っ走る(そこでは、のちにチャック・ベリーがクーペ・デ・ヴィルに乗ったメイベリーンを目撃する)(訳注:ルイストンの丘というのが有名らしい)。ライアンの出発点はシブリーのレコードである。「あの運命の日のホットロッドレースの物語を聞いただろ。フォードとマーキュリーの。これはそのときの内輪話だ。俺はモデルAに乗っていたガキだ。ある夜遅くサンペドロを出発した。月と星が明るく輝き、グレープバイン丘の上はすべてが素晴らしかった。車を次々と追い抜いたが、それらは止まっているように見えた。」ライアンがホードとマーキュリーを道路の外に吹き飛ばした後しばらくして、新しいホットロッドのリンカーンに乗り換えた。道路でキャデラック・セダンに出会い、二台は競争するが、ライアンはエンジン・トラブルを起こし、車を片側に寄せろと警官に命令される。彼のグループ、ティンバーライン・ライダーズは、巧みにギターとフィドルを使って、エンジンのノック音、警笛、フェンダーがガードポストにぶつかる音、警察のサイレンをうまく表現している。
「ホット・ロッド・リンカーン」は1960年まで注目を浴びなかった。その年、ベテランのカントリー・ミージシャンであるジョニー・ボンド Johnny Bond
が、ジーン・オートリーのリパブリック・レーベルのために新たなバージョンを録音した。西海岸のラジオで放送され、カントリーチャートとポップチャートの両方に入った。ギルトエッジの親会社フォー・スター・レコードがライアンと彼のバンドに「ホット・ロッド・リンカーン」を再録音させ、ジョニー・ボンドと競わせた。二つのリンカーンは競い合って、ビルボードのホット100を駆け上がった。東部の州を巡業していたライアンは東海岸で好成績をあげ、西海岸ではボンドが優勢だった。後年、コマンダー・コディ
Commander Cody (ポップチャート9位、1972)やアスリープ・アット・ザ・ホイール Asleep at the Wheel
といったネオロカビリーバンドが、この曲をリバイバルさせた。
ライアンは、リンカーン物語をシリーズ化し続けた。"Side Car Cycle"
は路上のロマンスを詳述している(これもジョニー・ボンドがカバー)。"Hot Rod Hades"、"I Married the Gal in the Side
Car Cycle"、"Hot Rod Guitar" と続き、"Burlington Chase" では列車と競争した。
もちろん1960年代はカーソングの時代だった。"Shut Down"、"409"、"Little GTO"、"Dead Man's Curve"、"The
Little Old Lady from Pasadena"、"Mustang Sally" など。1976年にも、ウィングチックス Wingtips
というグループが "The California Kid" という曲によってサンペドロでレースを始めた。
我々(この本の著者である Jim Dawson と Steve Propes)はシブリーを探しているところである。彼の本名はジョージ・ウィルソン
George Wilson らしい。亡くなったビル・マッコール Bill McCall
からシブリーの曲を購入した音楽出版社は、サンディエゴ近くの住所を知っていたが、その住所にはもういない。
(シネシャモ日記2009年1月)
23
Les Paul and Mary Ford How High the Moon
(1951)
当時の録音技術では、アセテート盤に直接録音しなければならなかったので、エンジニアは操作盤を配線し直すことで二つのレコーダーをつなげなければならなかった。ペイジが最初に録音した盤に合わせて歌うと、第二の機械がそれを第二のディスクに録音した。修正がきかないので、もし一曲を歌う間にミスを犯せば、その盤を捨てなければならなかった。マーキュリーレコードが「コンフェス」を発売したとき、レコードには「パティ・ペイジとパティ・ペイジによる歌」と表示されていた。次のシングル
"With
My Eyes Wide Open, I'm Dreaming"
は四重唱で、レコードには「パティ・ペイジとパティ・ペイジとパティ・ペイジとパティ・ペイジ」と表示されていた。
最初に多重録音したのはペイジではなかった。オペラスターのローレンス・ティベット
Lawrence Tibbett は1931年に "The Cuban Love Song" でテノールとバリトンを歌い、ジャズマンのシドニー・ベチェット
Sidney Bechet は1941年の "The Sheik of Araby" でサックス二本、クラリネット、ピアノ、ベース、ドラムを多重録音した。しかし、パティ・ペイジは、多重録音の魅力を一般大衆に知らしめた最初のミュージシャンだった。すぐに彼女は二人の若い成り上がり者と競争することになる。レス・ポールとメアリー・フォードの多重録音は、さらに進んでいた。
レス・ポールはエジソンとジャンゴ・ラインハルトを足して二で割った存在だった。彼は1915年6月15日にウィスコンシン州ワウケシャで生まれた。本名は
レスター・ウィリアムズ・ポルファス Lester William
Polfus。少年の頃、バンジョー、ハーモニカ、ギターを独学で覚えた。機械いじりも好きだった。9歳のとき、「なぜ列車が通り過ぎると、窓がガタガタいうのか」という単純な質問に答えるための探究を開始した。13歳になるまでに独自のディスク録音機を開発した。ビクトローラのトーンアームとキャデラックのはずみ車を使い、2ヘルツのピッチで窓をガタガタいわす列車と同じ原理を利用した。彼は1929年に地元ラジオ局のヒルビリー・ショーに出演し始めたが、その一つをディスクに録音している。1943年、彼はハリウッドに移った。彼とデッカの契約を手配してくれたのはビング・クロスビーだった。翌年、彼の友人ナット・コールに招かれて、ノーマン・グランツの最初のジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックで演奏した(最初のR&R1曲目
"Blues" 参照)。
パティ・ペイジがB面に収めたピー・ウィー・キング Pee Wee King の「テネシー・ワルツ」で偶然にもヒットを飛ばしたとき、レス・ポールとメアリー・フォードは、そっくりバージョンをカントリー市場で発売し、多重録音の声が似ていたので混乱をもたらした。マーキュリーレコードはキャピトルが土足で踏み込んできたことに不満だったので、レス・ポールとメアリー・フォードが「モッキンバード・ヒル
Mockin' Bird Hill」を出し、ヒットし始めると、パティ・ペイジを急いでスタジオに呼んで同曲を録音させた。この二つのバージョンはポップチャートで競い合った。両方とも3位まで上昇し、100万枚売り上げた。レス・ポールとメアリー・フォードにとっては1951年に発売したミリオンセラーヒット3曲の最初のレコードであり、彼ら最大のヒットで最も影響力が強い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」のお膳立てをした。
「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は1940年にモーガン・ルイスとナンシー・ハミルトンがブロードウェイ劇 "Two for the Show"
のために書いた曲だ。この二人は "I'm Sitting on Top of the World" やレイ・ボルガー Ray Bolger の有名なテーマ曲
"Old Soft Shoe" も書いた。その年、ベニー・グッドマンは、ヘレン・フォレスト Heren Forrest
のボーカルで「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」をポップチャートの6位までヒットさせた。1948年にはスタン・ケントン Stan Kenton
の楽団が20位まで上昇させた。
レス・ポールとメアリー・フォードは1950年までにハリウッドを離れ、ニューヨーク州のジャクソン・ヘイツに居を構えた。新しいテレビ音楽ショー "Les
Paul and Mary Ford at Home"
のスポンサーに近づくためた。レス・ポールは自宅の地下室のスタジオで「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を録音した。レス・ポールはビーバップのファンで、ビーバップがまだ地下で潜行していた時代にこの曲を知った。1940年代初期にビーバップを築いたミュージシャンの一人、トランペット奏者のディジー・ガレスピー
Dizzy Gillespie が、ビーバップ発展のかなり初期にこの曲をビーバップ賛歌に作り変えた。マイルズ・デイビスも録音した。サックス奏者イリノイ・ジャケー
Illinois Jacquet がジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックで演奏したバージョンは、このコンサートをレコードにして発売するようモーゼス・アッシュ
Moses Asch
を説得するのに役立った(最初のR&R1曲目「ブルーズ」参照)。アルトサックス奏者チャーリー・パーカーの最も有名な曲の一つ、「オーニソロジー
Ornithology」も「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」のコード変化に基づいているし、たぶんレス・ポールとメアリー・フォードがキャピトルからレコードを出す直前に、ソネットレーベルのために「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を録音している。
レス・ポールは、多重録音されたギターの音に電子的なエコーをかけたが、これは、のちにロカビリーレコードの特徴となった。メアリーの声も同じように処理した。多重録音にもかかわらず、メアリーのハーモニーは明瞭である。ボーカリストはマイクから2フィート(約60センチ)離れなけばならないというレコード業界の原則をレス・ポールが破ったからだ。彼は、メアリーのすべての息づかいを拾うために彼女をマイクから数インチ離れた所に立たせた(現在これは音楽産業で当たり前のことになっている)。振り返ってみると、本当に「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を特色づけているのは、レス・ポールのギターソロと終結部である。ビル・ヘイリーと彼のコメッツのギタリスト、ダニー・セドロンのほどんどのソロは、これを参照している。"Rock
the Joint"(最初のR&R28曲目)と "Rock Around the
Clock"(39曲目)におけるセドロンの素晴らしい仕事は、ほとんどレス・ポールの模倣である。
このあと数年間、レス・ポールとメアリー・フィッシャーはヒット曲を出し続けたが、1951年に彼らが享受した成功には達しなかった。1953年に "Vaya Con Dios"
が一位になったあと、彼らの人気は落ちて、ロックンロールによって業界から追い出されそうになった。だが、レス・ポールは、ギブソンの「レス・ポール」エレキギターとエイトトラックの録音装置によって名声と富を獲得した。メアリー・フォードはレス・ポールと1963年に離婚し、14年後にガンで亡くなった。
新たな世代のギタリストがレス・ポールを発見し、彼のギブソンギターと録音は確実に永続する。
(シネシャモ日記2009年2月)
24
Jackie Brenston with His Delta Cats Rocket 88
(1951)
24曲目は、ジャッキー・ブレンストンとデルタキャッツ Jackie Brenston with
His Delta Catsの「ロケット88」です。
録音セッションは、ターナーが歌い、ブレンストンがアルトサックスを演奏する二つの曲で始まった。ブレンストンはアルトサックスを置いて、次の二曲を歌った。"Come
Back Where You Belong"
と「ロケット88」である。サム・フィリップスの記憶では、バンドは「ロケット88」のリハーサルを行っていない。「ロケット88」をその日に録音すべきかどうか決めかねていたが、バンドがその曲をふざけながら演奏しているのを聴いた彼は、ちゃんと演奏するよう求めた。これがサム・フィリップスの回想で、アイク・ターナーは大筋で同意している。「この曲は前夜に作り上げた。メンフィスに一晩中いたんだ。その日、その車を見かけたので、「ロケット88」と名付けた。俺たちが道路でトラブったとき、ある男が助けてくれたんだ。その男が乗っていたんだ。」もっとありそうなのは、ブレンストンとバンドがキングズ・オブ・リズムのショーで即興で作り上げ演奏した曲だということだ。当時の録音セッションでは4曲録音するのが普通なので、十分リハーサルを積んで、いつでも演奏できる曲数を持つことなくメンフィスまで長旅をするなんて、ありそうもない。アイク・ターナーによれば、録音セッションが終わると、フィリップスは各々に20ドルくれたそうだ。
アイク・ターナーの憤慨によってブレンストンとの間に亀裂が入り、結局バンドは解散した。「ロケット88」の人気のおかげで、ブレンストンは、フィニアス・ニューボーン・ジュニア
Phineas Newborn, Jr.
という若いメンフィスのピアニストなどをバックに、二年間ツアーを続けることができた。ジェネラル・モーターズは、ブレンストンがただで宣伝してくれたので、新型のオールズ88をプレゼントした。
だが、次のレコード "My Real Gone Rocket"
も、その後のレコードも、まったくヒットしなかった。訴訟に巻き込まれ、ひどい目に会い、アルコールに溺れた。稼いだ金はすぐに使った。「ロケット88」の人気が廃れ、下取りに出して、おんぼろ車とも交換できなくなった頃、ブレンストンは、屈辱的なことに、アイク・ターナーのバンドに参加し、ほんの少しサックスを吹かせてもらうだけだった。ターナーはピアニストからギタリストに転向し、彼のバンドのリードシンガー、アナ・メイ・ブラック
Anna Mae Bullock と結婚し、名前をティナ・ターナーに変えさせた。アイクが最初のヒット曲 "A Fool in Love"
を出した1960年、ブレンストンはアイクのバンドにいた。ついに、アイクは「ロケット88」で受けた仕打ちの仕返しをしたのだ。
"What Was the First Rock 'n' Roll Record?"
という本を訳してきて、誰も私のブログなんて見ないだろうと思って、著作権についてはさほど気にせずにやってきたし、実際、どこからも文句はなかったけど(面白いという意見もあまり聞かない)、やっぱり気になるので、以後は、まとめた形で発表しようかなと思っています。そのまま訳したほうが楽で、まとめるのって、けっこう難しいので、今月一杯にはなんとかということで(なにしろ仕事が忙しい)。以後は、わりと有名な曲ばかりなので、これまでみたいに丁寧にやる必要もないかもしれないし。
題名の意味
「60分の男」という題名は、どこからきているのでしょうか。低音担当のビル・ブラウンによれば、15分のキス、15分のじらし、15分喜ばすこと、15分の
"blowin' my top"
だそうです。最後のは、私の辞書によれば「激怒する」とか「気が狂う」とかいう意味があるけど、流れからすると「いっちゃう」という意味でしょうか。こういうのは、double
entendre という二重の意味を持つ語句なんですが、あまりに使われすぎたために、今では、ズバリそのものを表現しているとしか思えない。
この二重の意味を持つ歌詞を含むブルーズは何十年も前からあって、そういう曲を挙げています。40年代以降では、Julia Lee の "Snatch and
Grab It"、Helen Humes の "Million Dollar Secret"、Billy Mitchell の "The Ice Man"
などがあったが、その前にも "Frankie and Johnny" や Lucille Bogen の "Shave 'em Dry"
という曲があったそうです。しかし、それらは百万枚以上売れなかったし、ポップチャートには入りませんでした。
「シックスティ・ミニット・マン」の主人公はラビン・ダン Lovin' Dan
というのですが、ダンという人物は古くから歌われているそうです。19世紀のミンストレルショーでは Dan Tucker または Jim Dandy
という名前でした(Dandy については1956年にラバーン・ベイカーが歌っているそうだし、1958年には Jesse Belvin という歌手が
"Deacon Dan Tucker" という曲を歌っています)。残存している楽譜によれば、1921年には "The Lady's Man, Dapper
Dan from Dixieland"
という曲がありました。列車のボーイが、女と密会するかなんかの駅を通り過ぎるときに駅の名前を叫ぶとかいう歌で、駅の名前を叫ぶという技巧は、のちにルイ・ジョーダンの
"Salt Pork, West Virgina" やジェームズ・ブラウンの "Night Train" など多くの曲で使用されました。
ブラック・ドミノズというジャズバンドが "Dancin' Dan (Fox Trot)"
という歌を1923年に録音しており、ダンが主人公の歌として最初にレコード化されたものじゃないかと書いています。その7年後、ベッシー・スミスが
"Kitchen Man" という歌でダンのことを歌っており、さらにその翌年には
"Hustin' Dan" という歌も録音しています。1937年にはジョージア・ホワイト
Georgia White が "Dan the Backdoor Man" を歌い、同年、フォー・サザーナーズ
Four Southerners がカバーしています。ソングライターにとって、ダンは便利な男だったようです。というのも、ダンは、handy
man、lover man、back-door man と韻を踏むからです。back-door man というのは、古いブルーズ用語で、夫が玄関から仕事に出かけると、裏口からこっそり忍び込む情夫のことです。しかし、この流れをくむ「シックスティ・ミニット・マン」は、甘いテナーボイスが中心の、耳あたりのよい、プロとして運営されていたボーカルグループであるドミノズにとって例外的なものでした(「プロとして運営されていた」の原文は
professionally-run で、この訳には自信がありません)。
ビリー・ワードとともにドミノズを所有していたローズ・マークスは若い白人女性で、オリオールズ(最初のR&R10曲目 "It's Too Soon
to Know"
参照)のマネージャーで曲を提供していたデボラ・チェスラーを意識していたようです。彼女も野心を持った若い白人女性でした。マークスの提案で、ワードはハーレムで四人のボーカリストを集めたのです。
ドミノズという名前は、1923年に "Dancin' Dan (Fox Trot)"
を録音したブラック・ドミノズから来ているのかもしれませんが、ドゥーワップグループの先駆的存在、インク・スポッツと対比した名前にしたかったのかもしれません。インク・スポッツ(インクのしみ)が白地に黒をイメージするのに対して、ドミノは黒地に白をイメージさせます。
レコード会社との契約
1950年10月、ローズ・マークスは、ドミノズをラジオの新人発掘番組に出演させました。観衆の反応が良かったのに気づいた黒人のアレンジャー兼ギタリストのレネー・ホールは、キングレコードのシド・ネイサンに電話します。当時、キングレコードはけっこうヒットを出していたのですが、ボーカルグループの市場にはあまり踏み込んでいませんでした。土ミニ図に関して、ネイサンはどうすればいいのかわからなかったので、A&Rマンのラルフ・バスに任せます(ラルフ・バスは、すでに、ジャック・マクビーの
"Open the Door, Richard" とT・ボーン・ウォーカーの "Call It Stormy Monday"
という大ヒット曲をプロデュースしていました)。
ドミノズのデビューシングル "Do Something for Me"
は、18歳のクライド・マクファターがリードシンガーを務めるお涙頂戴のバラードで、R&Bチャートを上昇しました。B面の "Chicken Blues"
のほうがロック調で、「シックスティ・ミニット・マン」の準備運動といった感じでした。こっちはビル・ブラウンがリードを務めました。A面はオリオールズのソニー・ティルのバラードを模倣し、B面はレイブンズのジミー・リックスのアップテンポなブルーズを模倣することで、ビリー・ワードは丸損を防いだ(hedging
his bets) というのが、この本("What Was the First Rock 'n' Roll Record?")の著者の意見。
シド・ネイサンは小ずるいビジネスマンで、自らのヒット曲を別のジャンルでもヒットさせようとしました。カントリー・デュオのヨーク・ブラザーズに「シックスティ・ミニット・マン」をカバーさせましたが、ほかの「シックスティ・ミニット・マン」のカバー同様、ヒットしませんでした。なぜなら、オリジナルが強力すぎたし、独特すぎたからです。それで、ネイサンは、アンサーレコードを作ることにしました。新しいグループ、スワローズに
"It Ain't the Meat (It's the Motion)"
を歌わせて、小ヒットとなりました。二年後、ドミノズを脱退したビル・ブラウンがチェッカーズを結成し、同じ主人公の歌 "Don't Stop, Dan"
をキングレコードから発売しました。1960年、ネイサンは、アンタッチャブルズのリメイクにあやかろうと、オリジナルに女声コーラスを加えたバージョンを発売しました。
(シネシャモ日記2009年4月)
26
Johnnie Ray with the Four Lads Cry
(1951)
26曲目は Johnnie Ray with the Four Lads の
"Cry"。いつ頃だったか、NHKでエド・サリバン・ショーのダイジェスト版のような番組を毎週放送していて、その中で、ジョニー・レイがたぶんこの曲を歌っているのを見たことがあります。中性的な白人が感情をあらわに歌う姿に少々気味悪さを感じました。
R&Bチャート1位、ポップチャート1位(11週)
カテゴリー: ポップ・バラード
作者: チャーチル・コールマン Churchill Kohlman
レベールと番号: Okeh 12022、ニューヨーク
片面: "Little White Cloud That Cried" (ポップチャート2位、こっちがA面)
録音日・場所: 1951年10月16日、ニューヨーク
発売日: 1951年11月
なぜ重要か:
50年代最初の10代のアイドル。泣き叫ぶR&Bレコードのさきがけとなった。Orioles の "Crying in the
Chapel"(1953年、R&Bチャート1位)や、クライド・マクファターが泣きながら歌う Dominoes の "The Bells" などが続いた。
影響を受けたのは:(たぶん)
Billy Eckstine "Crying" (1949、R&Bチャート12位)
Lionel
Hampton/Jimmy Scott "Everybody's Somebody's Fool" (1950)
Griffin Brothers
"Weepin' and Cryin'" (1951、R&Bチャート1位)
影響を与えたのは:
Garnet Mimms "Cry Baby" (1963、ポップチャート4位)
Ray Charles "Crying
Time" (1966、ポップチャート6位)
Johnny Cash "Cry! Cry! Cry!"
(1955、C&Wチャート14位)
Roy Orbison "Crying" (1961、ポップチャート2位)など多数
重要なリメイク:
Knightsbridge Strings (1959、ポップチャート53位)
Ray Charles
(1965、ポップチャート58位)
Ronnie Dove (1966、ポップチャート18位)
Lynn Anderson
(1972、C&Wチャート3位)
Crystal Gayle (1986、C&Wチャート1位)
(C&W
はカントリー&ウエスタンのことです。)
ジョニー・レイは1927年1月10日にオレゴン州ダラスに生まれる。少年時代の事故によって聴力が低下し、10代半ばには補聴器が必要となった。音楽に囲まれて育った。家族は、ビリー・ホリディやケイト・スミスからカントリー・ブギ歌手のローズ・マドックス
Rose Maddox
まで何でも聴いていた。特にビリー・ホリディが彼の心をつかんだ。彼は、50年代の基準からすると、恥ずかしがり屋の女々しい大人となった。男女の区別のない性格によって、若い女性たちに慕われたが、悪意あるゴシップに見舞われることも多かった。
現地のディスクジョッキー、ロビン・シーモアがレイの歌に惚れ込み、コロンビアのダニー・ケスラー Danny Kessler
に紹介した。当時、ケスラーはコロンビア傘下のオーケイ Okeh
レーベルを立て直しているところだった。オーケイは20年代から30年代初期にかけてベッシー・スミスなどのブルーズ歌手を数多く送り出したレーベルだった。シーモアから黒人ゴスペルの強烈さで歌う白人青年のことを聞いたケスラーは、レイが歌うのを見て興奮した。オーケイには黒人歌手クロード・トレニア
Claude Trenier などがいたが、ジョニーが初めての白人だった。
ジョニー・レイの最初のレコードは、自分が書いたR&Bの失恋歌 "Whiskey and Gin"
で、デトロイトのユナイテッド・サウンド・システムでモーリス・キングのバンドを伴奏に録音された。この曲が白人によって歌われていると想像した者はいなかっただろう。性別さえもはっきりとわからなかっただろう。この曲はクリーブランドなど北部の都市のいくつかでヒットし、レイがプロモーションのためにクリーブランドの駅に降り立つと、500人ほどの若者が押し寄せた。
コロンビアのトップA&Rマンだったミッチ・ミラーがすぐに飛びついた。後年はロックンロールの敵対者となったミラーだが、少なくとも1951年の基準では進歩派だった。彼は40年代後期にマーキュリー・レコードのために、リズム・アンド・ブルーズ風に感情をこめて歌う最初の白人の一人、フランキー・レイン
Frankie Laine
をプロデュースしていた。彼はジョニー・レイをニューヨークに連れて行き、バックボーカルにフォー・ラッズを付けて、録音させた。フォー・ラッズは一年後に「モッキンバード」でヒットを飛ばすことになる。
ミラーはジョニー・レイをどう録音していいか思いつかなかったので、即興で演奏させた。「クライ」のほかに "Broken Hearted" と "Please
Mr. Sun" を録音した。「時間がまだあったので自分の書いた "Little White Cloud That Cried"
をやることにした」とレイは回想するが、コロンビアの記録によると、「クライ」は "Little White Cloud That Cried"
の翌日にミュージシャンを変えて録音されている。これら4曲すべてがポップチャートの上位に入った。
巧妙にもミラーは、「クライ」で、レイを前面に押し出し、フォー・ラッズは最初の「ウー・アー」と最後で聞こえるのみで、真剣に聴こうとしない限り、彼らの歌声は途中で聴こえない。バンドの演奏は控えめだ。ギターの
Mundell Lowe、ベースの Ed Safranski、柔らかいベルのような音のする鍵盤楽器セレスタの Buddy Weed がバックを務めている。Ed
Shaughnessy がドラムを叩いているらしいが、レコードでは聞こえない。
セレスタによって子守唄のような感じになり、自己憐憫的な歌にピッタリだった。レイは泣き叫ぶ子供のように歌い始める。「もーーーーし君の恋人がさよならの手紙を送ってきたら、泣けばスッキリするよ。もし君の頭痛がながーーーーーく続くようなら、君の憂鬱は曲を聴くたびにひどくなっていくよ」レイのすすり泣きから最大の効果をもたらすために、オーケイは「クライ」と
"Little White Cloud That Cried"
をカップリングして発売した。当初オーケイは後者を押すつもりだったが、ディスクジョッキーたちは「クライ」に飛びついた。レコードは少なくとも200万枚売れ、「クライ」は1952年3月から初夏まで11週間1位に君臨した。その間、"Little
White Cloud That Cried" は2位にまで上昇した。レコードはイギリスでも大ヒットとなった。
「クライ」がチャートインした1951年暮れの二週間前、"Weepin' and Cryin'"
という曲がR&Bチャートに登場した。グリフィン・ブラザーズというグループの曲で、ボーカルの黒人リトル・トミー・ブラウンも泣きながら歌った。ジョニー・レイが起こしたブームに乗っかって、R&Bチャートの1位になったが、あきらかに
"Weepin' and Cryin'"
のほうが録音が早い。レイが「クライ」の前にこの曲を聴いていたていたかどうかわからないが、両者ともリトル・ジミー・スコットを聴いていたことは確かだ。スコットがライオネル・ハンプトンのバンドをバックに歌った
"Everybody's Somebody's Fool"
は1950年のヒット曲で、ヒステリー寸前である。「クライ」のおかげでR&Bシンガーの感情のはけ口が開き、ドミノズのクライド・マクファターやファイブ・ロイヤルズのジョニー・タナーは、かつて教会でゴスペルを歌っていたときのように俗世間での自身を表現することができるようになった。
サン・レコードのサム・フィリップスが「ニグロのように歌う白人青年」を見つけたかったという有名な言葉は、もう一人のジョニー・レイを意味していた。レイの最初のレコードを支持した最初の有名なディスクジョッキー、ビル・ランデル
Bill Randall
は、1954年に北部における最初のエルビス・プレスリーの支持者となった。1956年1月28日、ドーシーブラザースのテレビショーでランデルが初めて国民にプレスリーを紹介したとき、彼はプレスリーをジョニー・レイと比較した。(ちなみに、プレスリーは、RCAと契約する前に、フランキー・レインやジョニーレイというR&B風の歌手を売り出したことのあるミッチ・ミラーと接触していたが、ミラーはプレスリーとの契約を断った。)
プレスリーとの関係で言えば、レイの人気が下降中だった1956年に、彼はサン・レコードから2年前に出た Prisonaires の "Walking in
the Rain" という曲を選んで、ポップチャートの2位にまで上昇させた。プレスリーが「冷たくしないで Don't Be
Cruel」「ハウンドドッグ」「やさしく愛して Love Me Tender」で16週連続で1位に君臨していなければ、1位になっていたはずだ。
影響を与えたのは:
アトランティックのプロデューサー Jerry Leiber と Mike Stoller
が作り上げた独創的な曲、すなわち
The Cheers, "Bazoom (Need Your Loving)"
(ポップチャート15位、1954)
The Charms, "Bazoom (Need Your Loving)"
(R&Bチャート15位、1955)
The Robins, "Ten Days in Jail" (1953)
The Coasters,
"Young Blood" (ポップチャート8位、1957)
The Clovers, "Love Portioin #9" (ポップチャート30位、
1959)
重要なカバー:
Buddy Morrow (ポップチャート30位)
Louis Prima
重要なリメイク:
The Clovers (1959)
Chet Atkins (ポップチャート82位、1960)
Ray
Charles (R&Bチャート1位、ポップチャート8位、1961)
1952年のアトランティックはR&Bレーベルとして最高の人気を誇っているわけではなかった。シカゴのチェス、シンシナティのキング、ロサンゼルスのモダーンとスペシャルティがR&B界を支配していた。1949年のスティック・マギーの
“Drinkin’ Wine Spo-Dee-O-Dee” と1950年のルース・ブラウンの “Teardrops from My Eyes”
でヒットを放ったものの、ジョー・ターナー、レイ・チャールズ、クライド・マクファターとドリフターズによって成功するは、もっとあとである。この頃、定期的にヒットを放っていたのはワシントン市出身の五人組クローバーズだけだった。
クローバーズと会っても、アーティガンが印象づけられることはなかった。「彼らはインク・スポッツが好きだったが、私はまったく好きじゃなかったし、彼らは
Billy Eckstine の “Prisoner of Love” を録音したがっていた。」代わりにアーティガンは自分が書いた “Don’t You
Know I Love You”
を歌わせようと、彼らに歌って聴かせた。すると、メンバーたちは「見ろよ!この白人はブルーズを歌ってるぜ!」と言いながら笑い始めた。彼らのマネージャーが「黙れ!彼は会社の所有者だ!」と怒鳴った。
アトランティックは、クローバーズの歌い方を変えて、彼らが歌う曲を選んだ。ベテランのバンドリーダー兼ピアニストであるジェシ・ストーンが、レコードを録音するためのリハーサルを任された。「録音の1週間か10日前に、彼らのマネージャーの住むバルティモアに出かけていった。彼らに歌わせたかったのは南部のサウンドだったが、彼らは北部の青年たちだったので、ピンとこないようだった。」1951年から1955年までの間、クローバーズはオリジナル曲しか録音しなかった。アーティガンが彼らに聴かせた
“Don’t You Know I Love You” はR&Bチャートで1位となった。続く “Fool, Fool, Fool”
も1位となった。
幸運にも、彼らの最初のセッションにはサックス奏者フランク・フロアショウ・カリー Frank “Floorshow” Culley
のバンドが呼ばれていた。R&Bのボーカルグループはサックスなしのほうがスムーズにいくものだが、その日アトランティックはカリーのバンドを予約していたので、カリーは、演奏しようがしまいが、バンドリーダーとしての賃金を要求した。それで、ジェシ・ストーンは、決まりを破ってカリーを使用し、彼のブルージーで騒々しいサックスがレコードの売上げに貢献することとなった。それ以降、活気あるテナーサックスのソロがクローバーズのサウンドの一部となった。さらに、あらゆるニューヨークのボーカルグループがサックスソロを取り入れたがるようになった。
“5-10-15 Hours” も「ワン・ミント・ジュレップ」もルディ・トゥームズ Rudy Toombs の曲で、ルース・ブラウンの最初の大ヒット
“Teardrops from My Eyes”
も彼の曲だった。「ワン・ミント・ジュレップ」は、彼が書いた一連の酒飲み歌の最初のものである。その後、クローバーズのために “Nip
Sip”、エイモス・ミルバーン Amos Milburn のために “One Scotch, One Bourbon, One
Beer”、ルイ・ジョーダンのために “Fat Back and Corn Likker” を書いた。
しかし、フランク・カリーのバンドにはケンタッキー生まれのハリー・バン・ウォールズ Harry Van Walls
がいた。この33歳のピアニストは、「ワン・ミント・ジュレップ」で、歌詞同様に売上げに貢献したと思われる驚くべきピアノ三連音符を弾いている。ベイリーは、彼が風変わりな人物だったことを述懐する。「バン・ウォールズがやってきたとき、オーバーコートを着て、シャーロック・ホームズの帽子を目のところまで下げてかぶっており、セッション中もずっとその格好だった。」
ウィリアム・ジョン・クリントン・ヘイリー・ジュニアは、1925年7月6日にミシガン州ハイランドパークで生まれ、ペンシルベニア州の郊外にある工業の町チェスター近くにある小さな町ブースウィンで育った。ヘイリーは、内気で、左目が見えなかったので、自意識が強かったが、少年時代、地域のオークション会場でギターを弾きながら歌った。最初にレコーディングしたのは1948年で、Four
Aces of Western Swing
とともにハンク・ウィリアムズの歌をカバーし、「ヨーデルを歌うビル・ヘイリー」として地元で有名になった。1年後、ヘイリーは自分のバンド、サドルメンを結成した。
ビル・ヘイリーは次のように回想する。「WPWAでカントリーのライブ番組をやった。自分の番組の前には「リズム判事の裁判所」という2時間の番組が放送され、ディスクジョッキーはジム・リーブス
Jim Reeves
だった。ジムは白人だったが、人種を問わずなんでもかけた。自分の番組の準備をしている間、よく彼の番組を聴いていたので、かなり影響を受けたと思う。彼はテーマソングとして「ロック・ザ・ジョイント」を使用していたので、自分の番組でも演奏し始めた。演奏するたびに、ものすごい反響があった。それで、歌詞を少し書き直し、レコードを発売したら、大ヒットとなった。」
ヘイリーは、"we're gonna rock, rock this joint"
という繰り返し部分は残したものの、カントリーの聴衆を引きつけるために全体的に歌詞を変えた。一番は、プレストンの最後に少し似ていなくもない。ヘイリーの一番は「郵便箱をこわし、床を引き裂き、窓を割り、ドアを壊そう。俺たちはロックするんだ...」で、プレストンの最後は「壁を倒し、床を引きちぎろう。警察がやってきて、ドアをノックするまで」である。ヘイリーは、残りの部分を自由に歌っている。プレストン同様、さまざまなダンスステップを提案しているが、プレストンがジターバグ、ハックルバック、ジェリーロールについて歌っているのに対して、ヘイリーは白人のカントリーの聴衆に対して叫びながら指示する。「シュガーフット・ラグを踊れ。並んで、低く飛んで、広く飛んで
a-flyin' low and a-flyin'
wide」とか、「古いポール・ジョーンズやバージニア・リールを踊れ。感じるままに足を動かせ」とか。"flyin' low and a-flyin' wide"
は、アーキー・シブリーの「ホット・ロッド・レース」(22曲目参照)に由来する。その曲では、二台の車が砂漠をぶっ飛ばす様子を描写するのに使用されていた。
二枚のレコードは演奏の点でかなり異なる。プレストンは、基本的なリズムセクションと金切り声をたてるテナーサックスだけで、ギターはない。ヘイリーは、3本のギター(自分の生ギター、ダニー・セドロン
Danny Cedron
のエレキ、そしてスティールギター)とホンキートンクピアノはあるが、サックスもドラムもない。ヘイリーの「ロック・ザ・ジョイント」で最も素晴らしい特徴のひとつは、セドロンによるレス・ポール風の鮮やかなソロである。セドロンは、二年後、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」で、そっくりそのままの演奏をする。プレストンのオリジナルでは手拍子によってリズムが強調されていたが、ヘイリーのバージョンでリズムを強調するのはアル・レックス
Al Rex
が打ち鳴らすダブルベースである。「俺の古いベースには響柱がなかったので、音程が出せずに、ガタンゴトンという音しかしなかった。デイブ・ミラーは「俺が聞きたかったのはその音だ!。マイクをベースに付けろ。その音をとらえるんだ」と言った。それが始まりさ。」
サドルマンやコメッツのサウンドは、いわゆるスラップ・ベースに大きく依存する次世代のロカビリーのミュージシャンたちに影響を与えたが、ベースを叩く技法は新しいものではなかった。スラップ・ベース奏法は遅くとも90年前にニューオリンズで始まったと言う専門家もいる。当時、街角で演奏するバンドは、バケツに穴を開け、ほうきの柄を差し込み、一本の弦をピンと張って作るベースが流行していた。バケツを反響させるためには、弦をしっかり叩かなければならなかった。このお手製ベースから四弦のダブルベースに移行すると、一人楽団のような音を出すことができるようになった。初期の代表者は、ニューオリンズのジャズマン、ジョージ・ポップス・フォスター
George "Pops" Foster
だった。1926年に電気マイクが到来する前に使われていたメガホンはダブルベースの低い音を拾うことができなかった。そのため、ライブ演奏でベース奏者が活躍していても、録音となるとチューバ奏者が代役を務めた。しかし、20年代後期までには、技術が改良され、ポール・ワイトマン
Paul Whiteman はベース奏者を前面に押し出すことができたし、数年のうちに、デューク・エリントン楽団のベース奏者ウェルマン・ブランド Wellman
Brand がニューオリンズ風のベースを叩く奏法を有名にした。
影響を与えたのは:
Clyde McPhatter and the Drifters, "Whatcha Gonna Do"
(R&Bチャート2位、1955)
Hand Ballard and the Midnighters, "The Twist"
(R&Bチャート6位、1959;ポップチャート28位、1960)
Little Richard, "True Fine Mama"
(ポップチャート68位、1958)
重要なリメイク:
Titus Turner (1957)
The Bobbettes (ポップチャート66位、1960)
James
Brown (ポップチャート92位、1965)
クライド・マクファターは1932年11月15日にノースカロライナ州ダーラムで生まれた。父はバプティストの宣教師で、教会のオルガン奏者だった。5歳のとき、聖歌隊に入れられ、数年のうちにソロを任されるようになった。3人の兄弟と3人の姉妹も聖歌隊で歌った。このゴスペル一家がニュージャージー州に引っ越すと、10代のクライドは
ハーレムのマウント・レバノン教会を拠点とするマウント・レバノン・シンガーズ Mount Lebanon Singers に加わった。
1950年にドミノズを結成しようとしていたアレンジャーのビリー・ワードは、マクファターがアポロシアターの素人大会で優勝してすぐ、マクファターとマウント・レバノン仲間二人をオーディションした。ドミノズはラジオ番組「アーサー・ゴッドフリーのタレントスカウト
Arthur Godfrey's Talent
Scouts」に出演し、これがフェデラル・レコーズとの契約につながった。フェデラルは、シンシナティの有力なキング・レーベルの子会社だった。「シックスティ・ミニット・マン」は1951年最大のR&Bヒットの一曲となった。このノベルティソングの成功にもかかわらず、ワードは二匹目のドジョウを狙おうとしなかった。彼はグループの中心をマクファターに移行させ、"I
Am with You" "That's What You're Doing to Me" "I'd Be Satisfied"
といった曲を確実にヒットさせた。しかし、この時代の最高の歌手の一人であるマクファターは、さほど名声を得なかった。ビリー・ワードは、自分自身が歌わなかったにもかかわらず(ピアノやオルガンを演奏した)、グループ名をビリー・ワードとドミノズに変えた。マクファターは、一時、クライド・ワードという名前でビリーの弟を演じさせられた。ワードは完全にドミノズを所有していたので、マクファターやグループの名前をいかようにも変えることができたし、すぐにメンバーを解雇することができた。
ドミノズが「ハブ・マーシー・ベイビー」を録音する頃までに、有名な低音のビリー・ブラウンは去っていた(彼は自分のグループ、チェッカーズを結成し、「シックスティ・ミニット・マン」に似た
"Don't Stop, Dan" を録音した)。かわりに、地元で有名なラークスというグループからデビッド・マクニール David McNeil
が加わった。セカンド・テナーのチャールズ・ホワイト Charles White はジェームズ・バン・ローン James Van Loan
に代えられ、ホワイトはクローバーズに加入した。「シックスティ・ミニット・マン」のときのメンバーは、マクファターとウィリアム・J・「ウィリー」・ラモント
William J. "Willie" Lamont だけになった。
1952年初め、ワードはグループをキング・レーベルのコネチカット・スタジオに連れて行き、4曲録音した(4曲録音するのが当時の標準だった)。そのうちの三曲は、ブルーズの
"Deep Sea Blues"、マクニールがリードボーカルで「シックスティ・ミニット・マン」風の "Pedal Pushin'
Papa"、ロサンジェルスの黒人作曲家レオン・ルネ Leon Rene が作り、マクファターが神経を張りつめたテナーの震える歌声を聞かせる "When the
Swallows Come Back to Capistrano"
だった。それまでの1年半にも同様に録音を行っていたが、二番目に録音した曲によって、この日は特別なものとなった。
マクファターのおかげで、「ハブ・マーシー・ベイビー」は黒人の教会から生まれた。題名は容易に「ハブ・マーシー、ジーザス(キリスト様、ご慈悲を)」に変えることができた。魅力的なゴスペルの叫びであり、たぶん過去十年間のボーカルグループの曲で最も電撃的だった。最後は、泣いているマクファターでフェードアウトする。(「ハブ・マーシー・ベイビー」に続編があるとしたら、最も奇妙で胸を打つドミノズの
"The Bells" で泣きながら歌うマクファターを聴けば、想像できるかもしれない)。
アトランティック・レコーズの副社長アーメット・アーティガンは次のように回想する。「ワードはドミノズを軍隊のように指揮した。彼らはいつも身ぎれいにしていた。ワードはとても有能で、会社を経営できるタイプの男だった。」だが、彼のしつけに加えて、報酬の少なさによって、グループ内の士気が問題となった。ドミノズのプロデューサーだったラルフ・バス
Ralph Bass
は次のように言う。「ワードは人使いが荒く、それがマクファターには気に食わなかった。グループは給料制で、メンバーはお金を稼ぐことができなかった。」マクファター自身も次のように回想する。「みんなが俺のレコードを聴いている区域に帰っても、コカコーラさえ買えないことが多かった。」
ワードは1953年半ばにマクファターを解雇する。これは、マクファターが率先して行ったことにちがいない。というのも、自分の代わりとして若いテナー歌手のジャッキー・ウィルソン
Jackie Wilson をワードに紹介しているからだ。マクファターはアトランティックに移籍して、ドリフターズ Driftersを結成する(34曲目
"Money Honey" 参照。まだ訳していませんが)。
ジャッキー・ウィルソンの才能にもかかわらず、ドミノズは以前のようにはいかず、1957年にウィルソンがソロ活動を始めると、ユージン・マムフォードが代わりに加入した。ワードはドミノズをラスベガスに連れていき、賭博師たちのためにヒット曲を歌わせた。1956年12月のサン・スタジオにおける有名なミリオン・ダラー・カルテット・セッションにおいて、プレスリーは、ウィルソンとドミノズが「冷たくしないでDon't
Be Cruel」などの彼のヒット曲を焼き直しているのを見たことがあると語っている。ドミノズは、サン・スタジオで白人の聴衆のために "Behave, Hula
Girl" と "Music, Maestro, Please" を録音した。Jan and Arnie のストリッパーに寄せる歌 "Jennie Lee"
(1958) のカバーは馬鹿げている。60年代半ばまでにドミノズは消滅した。
(シネシャモ日記2010年1月15日)
30
Lloyd Price Lawdy Miss Clawdy
(1952)
R&Bチャート1位(7週)
カテゴリー: R&B
作者: ロイド・プライス
レベールと番号: Specialty 428、ロサンゼルス
B面: "Mailman Blues"
録音日・場所: 1952年3月13日、ニューオリンズ
発売日: 1952年4月半ば
なぜ重要か: ロックンロールに取り入れられた最初のニューオリンズ・ヒット。
影響を受けたのは:
Champion Jack Dupree "Junker Blues" (1941)
Andy Kirk "Hey
Lawdy Mama" (R&Bチャート4位、1943)
影響を与えたのは:
中間韻を踏んだ題名の歌。たとえば、
The Drifters "Money Honey"
(R&Bチャート1位、1953)
Varetta Dillard "Mercy, Mr. Percy"
(R&Bチャート6位、1953)
The Clovers "Lovey Dovey"
(R&Bチャート2位、1954)
Veretta Dillard "Promise, Mr. Thomas" (1955)
Larry
Williams "Dizzie Miss Lizzie" (1958)
Little Richard "Good Golly, Miss Molly"
(ポップチャート10位、1958)
重要なリメイク:
Elvis Presley (アルバム Elvis Presley ポップチャート1位、1956)
Gary
Stites (ポップチャート47位、1960)
The Buckinghams (ポップチャート41位、1967)
Mickey Gilley
(カントリー&ウェスタンチャート3位、1976)
ウエストコーストのブルーズが1950年代初期に枯渇し始めたとき、スペシャルティ・レコーズ社長アート・ループ Art Rupe
は、ロサンジェルスからニューオリンズに飛んで、新たなファッツ・ドミノを探し回った。アート・ループがノース・ランパート街のJ&Mスタジオでオーディションを行うと地元の黒人ディスクジョッキーが告知すると、R&Bのミュージシャンや歌手が列を成したが、ループにとっては、みんな素人すぎたし、とても下手だった。ループは、何の成果も得ることなくロサンジェルスに戻ることになりそうだった。
プライスが放課後に空港で働いていると、彼の兄弟が「ラジオでお前の歌がかかった」と電話してきた。最初はどの曲かわからなかったが、すぐに「ローディ・ミス・クローディ」がラジオから流れるのを自分で聞いた。「自分じゃないみたいだった。自分がどう聞こえるのか知らなかったから。ニューオリンズの有名な黒人クラブ
Dew Drop Inn から電話がかかり、一晩50ドルで歌わないかと誘われた。」空港での週給の2倍だった。
ロイド・プライスは、1935年3月9日にニューオリンズ郊外のケナーで生まれた。少年時代はトランペットとピアノを練習した。高校ではブルーボーイズというバンドを組んで、ジェームズ「オーキドーキ」スミス
James "Okie Dokie" Smith がディスクジョッキーを務める人気のR&Bラジオ番組にレギュラー出演していた。スミスは、新発売のレコードに興奮するたびに「ローディ・ミス・クローディ」というフレーズを使った。当時はディスクジョッキーがCMもしゃべっていたが、CM中もこのフレーズをよく使った。二つのクライアントを詰め込んで、「ローディ・ミス・クローディ、マクスウェル・ハウス・コーヒーを飲んで、マザーズの自家製パイを食べよう」というように宣伝していた。「ローディ
Lawdy」は、間投詞 "Lordy!" の南部なまりで、ロイド・プライスによると、「ローディ・ミス・クローディ」は、女性について語るときに、よく使っていたそうだ。
彼が亡くなった夜、彼の「ジャンバラヤ」は何週間も1位に君臨していたし、新曲も2週間前に出たばかりだった。若くして亡くなったミュージシャンにありがちだが、彼の新曲の題名も予言的なものだった。"I'll
Never Get Out of This World Alive"
(生きてこの世は出られない)。ハンクの曲としては最良の部類に入る曲ではなかったが、カントリーのファンが殺到して、1位に押し上げた。
B面の "Your Cheatin' Heart" (偽りの心)
のほうが今日ではよく知られている。フランキー・レインとジョニ・ジェームズが歌って大ヒットし、スタンダードナンバーになったからだ。MGMは、最後のセッションの残りの曲、"Take
These Chains from My Heart" と "I Could Never Be Ashamed of You"
も発売した。前者はカントリーチャートの1位となり、今日では1963年のレイ・チャールズによるヒットで知られている。
1947年に "Move It on Over"
がヒットしたのち、ハンク・ウィリアムズはカントリー界における最大のスターとなり、ポップス歌手に定期的にカバーされる最初のヒルビリー・ソングライターの一人となった。彼自身ポップスのヒットが2曲ある。20年代にティンパンアレーのソングライターが作った
"Lovesick Blues"
は、ハンクのヨーデルのようなファルセットにもかかわらず、1949年にヒットパレードの24位まで上昇した。彼のレコードはよく売れたものの、1952年の終わりまでにハンクの人生はボロボロになりつつあった。離婚を経験し、酒に溺れ、薬を乱用し、背中の怪我のためにモルヒネに手を出すようになった。酔っ払って出演したり、まったく出演しなかったりで、1952年8月にグランド・オール・オープリーを首になるという最終的な屈辱を味わう。ハンクは、故郷のモンゴメリーに戻って、数週間、母親と過ごした。
MGMは死後15年間ハンクのシングルを発売し続けた。その多くは、ハンクと彼のギターによるデモで、市場で売れるようにオーバーダビングされた。ロックンロール時代に発売された
"Fool About You" には、ロカビリーバンドの演奏がダビングされていた。ハンクがまだ通用すると信じるMGMは、ハンクが作った "My
Bucket's Got a Hole in It"
をティーンアイドルのリッキー・ネルソンがヒットさせたとき、そのカバーとして1958年にハンクのオリジナルを再発売した。
「カウ・ライジャ」の人気によって、Hank Thompson の "Squaws Along the Yukon"、Johnny Preston
の1960年のヒット "Running Bear"、ラリー・バーンの "Please Mr. Custer"
といった多くの陳腐なインディアン・ソングが発売された。
影響を与えたのは:
Rufus Thomas の "Bear Cat" (R&Bチャート3位、サン・レコーズの最初のヒット)やRoy
Brown の "Mr. Houng Dog's in Town"
など数多くのR&Bアンサーソング。最終的に、50年代最大のロックンロール・ヒットとなるエルビス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」をもたらす。
重要なカバー:
Little Esther
Tommy Duncan
Eddie Hazelwood
重要なリメイク:
Freddy Bell and His Bell Boys (1955)
Elvis Presley
(ポップチャート1位、1956)
Homer and Jethro ("Houn' Dawg")
Lalo Guerrero ("Pound
Dog")
「ハウンド・ドッグ」は、1956年に世界的な現象となったエルビス・プレスリーの登場に密接な関係のある曲だ。"Don't Be Cruel"
(冷たくしないで)
との両面ヒットによって、8月から11月にかけてポップチャートの1位を11週間にわたって独占した。「ハウンド・ドッグ」は、初期のエルビスとロックンロールに対するマスメディアの軽蔑的な敵意をもたらした。それには、ちゃんとした理由があった。「ハウンド・ドッグ」は、男性が歌うと、意味を成さないからだ。
ウィリー・メイ・ソーントンは、1926年12月11日、アラバマ州モンゴメリーに生まれた。黒人芸人が出演する劇場 (chitlin circuit)
で歌手、ドラマー、ハーモニカ奏者、コメディアンとして頭角を現し始めた。1951年、彼女は、ヒューストンのギャングの一員ドン・ロビー Don Robey
と契約した。ロビーは、ユダヤ人と黒人のハーフで、ナイトクラブ、出演契約取次店、ピーコック・レコーズ Peacock Records
を所有していた。ボディーガードに囲まれた暴力的な男だったが、ソーントンを尊敬していたので、いつも彼女には良くしていたらしい。
泣かず飛ばずの "All Fed Up" と "Cotton Pickin' Blues"
を発売したあと、ロビーは、ビッグ・ママをロサンジェルスに送って、A&Rマンでバンドリーダーのジョニー・オーティスと一緒に仕事をさせた。オーティスは、リトル・エスターの
"Double Crossin' Blues"
など、一連のR&Bヒットを送り出していた。オーティスは、黒人に見せかけたギリシャ人ドラマーで、黒人女性と結婚し、黒人街に住んでいた。彼は、ロサンジェルスにおいて、勝負師の業界だった音楽業界でも、とりわけ油断ならない人物と見なされていた。彼は、同時にいくつかの独立系レコード会社のために、タレント・スカウト、バンドリーダー、プロモーター、アレンジャーをしていた。ロビーからビッグ・ママの次のレコードをプロデュースしてほしいと頼まれたので、オーティスは自分のバンドを集めた。ギタリストはカール「ピート」ルイス
Carl "Pete" Lewis、ドラマーはリアード「カンザスシティ」ベル Leard "Kansas City"
Bell、ピアニストはデボニア「レディ・ディー」ウィリアムズ Devonia "Lady Dee" Williams
だった。曲のアイディアを探すために、オーティスは、自分たちの曲を録音してほしいと彼にせがんでいた二人の若者を呼んだ。
ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーは、各々バルティモアとニューヨーク出身の東海岸からの移住者で、1950年ごろロサンジェルスで知り合った。ジェリー・リーバーは次のように語る。「私は8小節か12小節のブルーズの歌詞を書いていて、作曲できるパートナーを探していた。誰かがロサンジェルス市立大学の学生だったマイクを紹介してくれた。」二人が最初に売った曲は、"That's
What the Good Book Says" と "Real Ugly Woman"
で、地元でブルーズを発売していたモダン・レコーズが購入して、各々ロビンズとジミー・ウィザースプーンに歌わせた。
「ハウンド・ドッグ」は、8曲録音したセッションの最初の曲だった。オーティスのバンドが全員控えていたが、「ハウンド・ドッグ」は、ルイジアナ出身の奇抜なブルーズマンで、Tボーン・ウォーカー風のギターを弾くピート・ルイスによる電気ギターにほとんどを頼っている。「ハウンド・ドッグ」は、基本的にルイスとソーントンの掛け合いで、オーティスのドラムとプエルトリコ出身のベース奏者マリオ・デルガード
Mario Delgarde がファンキーでジャズ風のリズムを加えている。
ピーコック・レコーズが6ヵ月後にレコードを発売したとき、ドラマーのリアード「カンザスシティ」ベルは参加していなかったのに、レコードには彼の名前がクレジットされた("Kansas
City Bill"
と間違って表記されている)。オーティスは、別のレコード会社との契約上、自分の名前を使用することができなかったし、ベルも正体を知られたくないがために間違った表記にしたのかもしれない。しかし、オーティスは、ソングライターとして、リーバーとストーラーとともに名前を連ねた。このことで訴訟が長引き、多くの対立を生み出した。
1955年初め、フレディー・ベルとベルボーイズ Freddy Bell and the Bell Boys
というシカゴ出身のバンドがティーン・レコーズのために「ハウンド・ドッグ」を録音した。ビル・ヘイリーと彼のコメッツに似せて演奏した。1956年4月、エルビス・プレスリーがラスベガスのホテルの2週間のショーで不成功に終わったとき、彼とバンドは小さなクラブを数回訪れ、ベルボーイズが演奏するのを見た。エルビスは、彼らの演奏する「ハウンド・ドッグ」がお気に入りだったが、彼らがビッグ・ママのブルーズをふざけて演奏していたということは知らなかったようだ。いずれにせよ、2ヵ月後、エルビスはラスベガスからニューヨークの録音スタジオに行き、「ハウンド・ドッグ」を録音した。そのとき、エルビスはバンドのメンバーに「奴らが演奏したようにやろう」と言っている。エルビスの「ハウンド・ドッグ」がヒットすると、マーキュリー・レコーズは急いでフレディ・ベルとベルボーイズと契約を交わし、彼らにとっては二度目の「ハウンド・ドッグ」を録音させたが、まったくヒットしなかった。ピーコック・レコーズが再発したビッグ・ママのオリジナルも同じ運命となった。1956年、あらゆる意味で、「ハウンド・ドッグ」はプレスリーによるものが存在しているだけだった。
ビッグ・ママには他のヒット曲がない。ロサンジェルスに定住し、芸能界から離れていた。1960年代後期、ジャニス・ジョプリンが彼女を再発見した。ビッグ・ママは数枚のアルバムを録音し、「ハウンド・ドッグ」を再録音し、「ボール・アンド・チェイン
Ball and
Chain」という新しい曲を発表した。ジョプリンは、「ボール・アンド・チェイン」をミリオンセラーのアルバムの中でカバーした。ビッグ・ママ・ソーントンが1984年7月25日にガンで亡くなったとき、ロサンジェルス南部の荒れ果てた家に、痩せこけて、疲れきって住んでいた。
影響を受けたのは:Big Joe Turner, "Adam Bit the Apple" (1950)
影響を与えたのは:Big Joe Turner, "Shake, Rattle, and Roll" (ポップチャート22位、1954)
重要なリメイク:
The Johnny Burnette Rock 'n Roll Trio (1956)
Big Joe Turner (ポップチャート53位、1959)
Elvis Costello (1981)
ターナーが最初にレコードを作ったのは1939年で、ピアノ奏者ピート・ジョンソン Pete Johnson に寄せるオードで、"Roll 'Em Pete" という題名だった。1940年代から50年代初期にかけて、大小さまざまなレーベルから、さまざまな名前でレコードを出し、盛衰を繰り返した。「俺にはいろんな呼び名があった。ブルーズ・シャウター、ジャンピン・ジョー、ハウリン・ジョー・ターナー、バーキン・ジョー・ターナーなど。声が大きかったからね。昔はマイクがなかったから、声が強くなきゃいけなかった。TBジョーと呼ばれることもあった。若い頃は小さくて、骨と皮しかなかった。みんな、俺が結核だと思っていた(TBは結核 tuberculosis の略)。そんなことは時とともに吹っ飛んだ。大きくなっていったからね。」
ターナーのブレイクは1951年にやってきた。まだ駆け出しのアトランティックが、ニューヨークのアポロ劇場でカウント・ベイシー楽団に在籍して失敗に終わった40歳のベテラン歌手ターナーと契約することに決めた。アトランティックのアーメット・アーテガンは次のように言う。「ショーのあとでバーに連れて行った。とても落ち込んでいた。「うちに来ればヒット曲を出してあげるよ」と誘った。最初のシングルは、ハリー・バン・ウォールズ Harry Van Walls がピアノ伴奏のバラード "Chains of Love" で、R&Bチャートで大ヒットし、ポップチャートでも30位まで上昇した。
ターナーは、50年代から60年代にかけて、彼のよく知られた歌詞やキャッチフレーズに頼った。「いつもアドリブや違うフレーズを入れていた。街で耳にしたことや、冗談などだ。「黙れ、ベイビー、そのペチャクチャ yakkety yak をやめろ」とか。「ハニー・ハッシュ」もそうだ。この曲にあっているから入れた。レコードにはアドリブがたくさん入っている。頭に何か浮かぶと、入れるんだ。もっと調子が良くなるんだ。」「ハニー・ハッシュ」はアドリブとして歌に入れられただけではない。それ自体が歌となった。アトランティックのためにニューオリンズで行った4回目のセッションでは、女性蔑視の「ハニー・ハッシュ」のほかに好色なブルーズ "Crawdad Hole" も録音した。ターナーは、たいてい全米ツアーに出ていたので、ターナーがアトランティックのために録音した曲の在庫がなくなっていった。アーテガンは、叫べば聞こえるぐらい近くに来たらスタジオに出向けという電報を打った。五月、たまたまターナーがニューオリンズの近くまで来ていたが、コジモ・マタッサのJ&Mスタジオに予約が入っていたので、ラジオ局WSDUのスタジオで録音することにした。幸いなことに、トロンボーン奏者のプルーマ・デイビス Pluma Davis が彼のバンドとともにニューオリンズにいた。彼は、2年前、ターナーがフリーダム・レコーズのためにヒューストンで行った録音に参加したことがあった。
「ジョージア州の綿畑の大きな車のように動かせ」とターナーが叫ぶと、ジェームズ・トリバー James Tolliver のワイルドなブギ・ピアノと、プルーマ・デイビスのバンド、ザ・ロケッツが曲を進行させていく。ターナーが言うことを聞かない女の話を歌い始めると、デイビスは予測のつかないトロンボーンの音で答える。「うちへ来い。おしゃべりをやめろ。うちへ来て夕食を作れ。おしゃべりはするな。ペチャクチャしゃべってばかりいる。ニュースがあるよ、ベイビー。お前はただの野良猫だ。」曲の最後では脅しにかかる。「俺をイライラさせるな。俺は野球のバッドを持っているんだからな。」それから、「ハイヨー、ハイヨー、シルバー」と叫びながらフェードアウトする。この録音セッションは、アトランティックの厳格な基準からすれば、少々ルーズで即興的だが、二曲ともすばらしいグルーブ感があるし、珍しくバリトンサックスがソロをとっている。通常は、テナーサックスがソロをとり、バリトンサックスはホーンセクションの一部でしかない。
ターナーが自分自身のアドリブに基づいて曲を作ったのなら、ブラウンという作者は誰か?それはルー・ウィリー・ブラウン Lou Willie Brown で、当時のターナーの奥さんだった。ルイ・ジョーダン、ボー・ディドリー、ジョニー・オーティス、ジェシ・ベルビン Jesse Belvin らと同じく、ターナーは曲の出版を管理するために権利を妻に譲渡した。ルー・ウィリーは、アトランティックの出版会社プログレッシブ・ミュージックと契約していなかったので、ターナーの寛大でない契約に従う必要がなかった。ただ、離婚後に問題になるのだが。
「ハニー・ハッシュ」は、"Adam Bit the Apple" (アダムがリンゴをかじった)というビッグ・ジョーが1949年にフリーダム・レーベルのために録音した歌を拡大したものだった。基本的に同じメロディとコード進行で、どちらも怒った男の調子だった。最初「ヤケティ・ヤック Yakkety Yak」という題名だったが、なぜだかすぐに「ハニー・ハッシュ」に変えられた(「ヤケティ・ヤック」という題名はコースターズのナンバーワンヒットとして復活する)。1954年、ターナーは「ハニー・ハッシュ」のほとんどを「シェイク・ラトル・アンド・ロール」で再利用した(36曲目)。
影響を与えたのは:
"Work with Me, Annie" by Midnighters (R&Bチャート1位、1954)
"Ooby Dooby" by Roy Orbison (1956)
"Be Bop A Lula" by Gene Vincent (ポップチャート7位、1956)
"Hanky Panky" by Tommy James and the Shondells (ポップチャート1位、1966)
重要なリメイク:
Elvis Presley (アルバム Elvis Presley、ポップチャート1位、1956)
The Coasters (1965)
The Bay City Rollers (ポップチャート9位、1976)
ドリフターズは、8月の録音のために、クライドの姉妹グラディスのアパートで2か月間練習した。アーティガンと彼の新しいパートナー、ジェリー・ウェクスラーは、前回より曲も演奏も素晴らしいだろうと確信していた。曲は、アーティガンとウェクスラーによる "Let the Boogie Woogie Roll" と、25年近くレコード業界にいる黒人ピアノ奏者でプロデューサーのジェシ・ストーン Jesse Stone の曲だった。その曲が "Money Honey" である。このあと、彼はビッグ・ジョー・ターナー Big Joe Turner の "Shake, Rattle, and Roll" を書くことになる(この「最初のロックンロールは何か」の36曲目に出てくるので、乞うご期待)。
「マニー・ハニー」のテーマは、お金に困っている者ならだれでもが興味を持つだろう。クライドは、彼からお金をもらおうとする者たちに囲まれていたが、彼には払うお金がなく、「家主が玄関のベルを鳴らしたが、俺は長い間鳴るままにしておいた」。「俺と仲良くしたいなら、お金がなくちゃね」と歌うと、ここでサム・テイラーが絶妙にテナーサックスを演奏をし、ハリー・バン・ウォールズか作者のジェシ・ストーンが三連音符を二度強打し、ウェクスラーが「バグパイプ・ハーモニー」と呼ぶナンセンスな「あ〜、う〜ん」のリフをグループが歌う。この「あ〜、う〜ん」は一年後にハンク・バラードとミッドナイターズが大ヒット曲 "Work with Me, Annie" で使用する(37曲目に登場するので、乞うご期待)。
ファービーが抜けて、ピンクニーがバスを担当するようになった四人組ドリフターズは、"Such a Night"(プレスリーが1964年にヒットさせた)、"Honey Love"、"Whatcha Gonna Do" (メロディーがハンク・バラードの "The Twist" に使われた)、ソウルフルな「ホワイト・クリスマス」といった彼ら最良の作品を録音し、ヒットさせた。
マクファターは、1954年後期にグループを脱退して、アトランティックでソロになるまで、6枚のシングルに参加した。だが、ソロになる前に徴兵され、1956年に除隊すると、"Seven Days" "Treasure of Love" "A Lover's Question" などのR&Bやポップスを次々とヒットさせた。残念なことに、ドリフターズ脱退後の曲は、間抜けでポップな女性コーラスのために、ほぼ台無しになっている。聴くに値するのは、ドリフターズ時代の古い録音を使用したB面のいくつかである。1959年、マクファターはアトランティックからMGMに移籍し、さらにマーキュリーに移籍し、1962年に "Love Please" という大ヒット曲を飛ばした。マーキュリーでは、「マネー・ハニー」の退屈なバージョンを再録音した。その後は、すっかり下り坂となった。新たなソウルシンガーたちが彼から多くを借用したが、彼自身は過去の人となった。
ルース・ブラウン Ruth Brown は、60年代後期にアポロシアターで行ったコンサートでのクライド・マクファターをおぼえている。「自分と彼とフランキー・ライモンが出るコンサートだったけど、ライモンが薬の飲みすぎで死んでいるのが発見され、劇場に来られなかった。そのニュースが劇場に届くと、クライドは動揺した。クライドはとても深刻に受け止めた。舞台に上がると、ひどく狼狽して、"Treasure of Love" を延々と歌い続けた。バンドが演奏をやめたあとでも。アポロの所有者に頼まれたので、彼を連れ戻そうと舞台に出て行った。彼のそばに立ち、二人で一緒に歌い、一緒に舞台を降りた。とても動揺していたわ。」
影響を受けたのは:
"Gee, Ain't I Good to You" by the Nat Cole Trio (R&Bチャート1位、ポップチャート15位、1944)
"Gee, Baby" by Johnny Otis with Mel Walker (R&Bチャート2位、1951)
影響を与えたのは:
数多くのドゥーワップレコードとR&Bのナンセンスソング、たとえば
"Sh-Boom" by the Chords (ポップチャート5位、1954)
"Oop Shoop" by Shirley Gunter and the Queens (R&Bチャート8位、1954)
"Bim Bam" by the Drifters (R&Bチャート7位、1954)
"ko Ko Mo" by Gene and Eunice (R&Bチャート6位、1955)
"Tweedle Dee" by LaVern Baker (ポップチャート14位、1954)
重要なカバー:Joe Loco and His Mambo Stylings, June Hutton, the Skylarks
重要なリメイク:
Jan and Dean (ポップチャート81位、1960)
The Hollywood Flames (R&Bチャート26位、1961)
Pixies Three (ポップチャート87位、1964)
マンハッタンのベルトーン録音スタジオでの最初のセッションは、ビオラがリードボーカル、クロウズがバッキングボーカルの "No Help Wanted" で始まり、続いてクロウズのバリトン、ビル・デイビスが書いた "I Love You So" というバラード、そして3曲目が「ジー」だった。
デイビスは次のように述懐する。「ジー」は6分か7分で書いた。サニーにリードボーカルを担当させ、残りの者にバッキングボーカルを教えた。」グループがゴールドナーに歌を披露すると、ゴールドナーは「ウー、ウー、ウー、ジー」という、ちょっとした聞かせどころを入れることを提案した。ゴールドナーは、"I Love You So" と「ジー」を最初のシングルとして選んだ。
斧曲の驚きのひとつは、チャーリー・クリスチャン風のギターソロで、スコットランド民謡 "The Campbells Are Coming" を引用している。記録によると、ギター奏者はロイド・「タイニー」・グライムズ Lloyd "Tiny" Grimes で、当時アトランティックとの契約下にあったが、こづかい稼ぎのためにあちこちで演奏していた。グライムズは、自分の即興演奏の中に有名な曲の一節を加えることで有名だった。特にスコットランドのメロディーが好きだった。この二年前、キルトを着た自分のバンド Rockin' Highlanders を率いて "Loch Lomond" を録音した。チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・クリスチャンのレコードに参加したことがあるジャズギタリストであるタイニー・グライムズの存在は、本当に彼だとしても、クロウズのセッションに不釣り合いのように思える。
ゴールドナーは、「ジー」を発売する際、バラードの "I Love You So" をA面にした。曲が全米でゆっくりと上昇し始めたとき、不思議な現象が起こり始めた。卸売業者が「"I Love You So" が売れており、B面の「ジー」に対するリクエストが次第に強まっている」という報告をビルボード誌で9月に掲載した。年末までに「ジー」はデトロイトとロサンジェルスで大ヒットし始めた。12月のビルボード誌には、「最も異常な反応のひとつがクロウズと「ジー」に起こり始めている」と書いてある。
「ジー」がヒットし始めたとき、ギャンブル中毒のゴールドナーは金に困っており、曲の出版権をメリディアン・ミュージック Meridian Music に売却した。メリディアンの所有者はモリス・レビーで、彼は地元ギャングの一員で、ナイトクラブのオーナーで、出演契約、出版、マネージメント、録音など、R&Bのあらゆる面にかかわっていた。レビーは、1954年にアラン・フリードをニューヨークに連れてきた最大の責任者であり、二人で「ロックンロール」というフレーズを商標化しようとたくらんだ。のちに、ジョージ・ゴールドナーは、いくつかのレコード会社を設立し、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズやシャンテルズといったタレントを育てることになるが、再びギャンブルの借金を払うために、すべてレビーに売却する。レビーが「ジー」を所有した結果のひとつは、曲からビオラ・ワトキンズという名前が消え、モリス・レビーの名前にとって代わられたことである。
あきらかに市場は変化しており、大会社がこの流れを止めることはできなかった。だが、この流行もクロウズ自体には助けにならなかった。「ジー」がヒットする前、ゴールドナーは彼らの次のレコード
"Call the Doctor" を発売したが、まったく売れなかった。「ジー」がヒットし始めると、ゴールドナーは3枚目
"Baby" を急いで発売するが、これもさっぱりだった。最後のあがきで、ゴールドナーは全米のディスクジョッキーを訪問して、「ジー」のA面
"I Love You So" をヒットさせようとしたが、無駄に終わった。1954年夏までにクロウズは忘れ去られ、側面に「クロウズ」と書かれた彼らの1955年型クライスラーは回収された。しかし、彼らの当初の成功は、瓶から魔法使いの召使を出したも同然で、インディーズのレコード会社や配給業者は、自分たちがヒットレコードをもたらす力を持っていることを知ってしまった。
影響を与えたのは:
Big Joe Turner "Flip, Flop, and Fly" (R&Bチャート2位、1955)
Gene Vincent "Jumps, Giggles, and Shouts" (1956)
The Collins Kids "Hop, Skip and Jump" (1957)
重要なカバー: Bill Haley and His Comets (ポップチャート7位)
重要なリメイク:
Elvis Presley (アルバム Elvis Presley、ポップチャート1位、1956)
Authur Conley (ポップチャート31位、1967)
ジェシ・ストーンの特徴的なピアノの三連音符、三人による力強いホーン・セクション、オフビートのドラム、絶え間ない手拍子、ヘイウッド・ヘンリーによる間奏のバリトンサックスに駆り立てられて、「シェイク・ラトル・アンド・ロール」は1954年5月にR&Bチャート入りし、3週間トップに君臨し、1955年初めまでチャートから落ちなかった。ポップチャートでも22位まで上昇し、主流におけるジョー・ターナーの最高位となった。白人がカバーするのはいつもどおりで、デッカのビル・ヘイリーのカバーがポップチャートで7位まで上昇した。どちらも100万枚以上を売り上げ、「シャイク・ラトル・アンド・ロール」は最初のロックンロールの大ヒットとなった。同じセッションでのストーンの曲 "Well All Right" も1954年末にR&Bチャートでヒットした。
エルビス・プレスリーは1956年にRCAから発売したデビューアルバムで歌っている。ビル・ヘイリーはジョー・ターナーのオリジナルよりも歌詞を上品に作り変えているが、プレスリーは両方を混ぜている。デッカとRCAの重役たちは、「俺は海産物店をのぞいてる片目の猫みたいだ」という歌詞に隠れている好色な意味に気づかなかったようで、ビル・ヘイリーとプレスリーのバージョンでは削除されていない。しかも、1956年1月28日にドーシー兄弟の「ステージ・ショー」でプレスリーが初めて全米のテレビ出演をしたときの「シェイク・ラトル・アンド・ロール」でも、そのまま歌っている。同番組でプレスリーはジョー・ターナーに敬意を表して、ターナーの次のレコード "Flip, Flop, and Fly" を続けて歌っている。
影響を受けたのは: Roy Brown の一連の「Fanny」ソング、クライド・マクファターとドリフターズの「マニー・ハニー」(R&Bチャート1位、1953)
影響を与えたのは: 同グループの "Annie Had a Baby" (ポップチャート23位、1954)という続編や Etta
James の "The Wallflower"(R&Bチャート1位、1955)や Georgia Gibbs の
"Dance with Me, Henry" (ポップチャート1位、1955) といったアンサーソングなど10数曲nd His
Comets (ポップチャート7位)
重要なリメイク:
Elvis Presley (アルバム Elvis Presley、ポップチャート1位、1956)
Authur Conley (ポップチャート31位、1967)
創造力があふれ始めたバラードは、"Sock It to Me, Mary" という曲も作った。ツアーからシンシナティに帰るやいなや、バラード、ヘンリー・ブース、チャールズ・サットン、そしてベース歌手のサニー・ウッドは、有名なバンドリーダーのサニー・トンプソンとともにその曲を録音した。フェデラル・レコーズのプロデューサー、ラルフ・バスによると(彼は "Sixty Minute Man" のプロデューサー)、彼はバラードに曲の調子を少し下げるよう頼んだ。録音セッション中、エンジニアの妻アニー・スミスがコントロール室が入ってきたので、バスとバラードは題名を "Work with Me, Annie" に変えることにした。
バラードは次のように言う。「デトロイトでは、「今夜一緒に仕事ができないか」って女の子にたずねるんだ。すると、「昨日ちょっと仕事をしたからダメよ」というように返事される。「仕事」が何を意味するかわかるだろ?」ミュージシャン仲間では別の意味を持ち、ソロを演奏する者に対して "Work with it!" と叫ぶが、歌詞の文脈から「仕事」が何を意味するか間違う者はいない。
曲が驚くほど流行したので、ウエストコーストのDJの何気ない冗談から続編への期待が高まりました。当時のビルボード誌の記事によると、そのDJが曲をかけたあと、「君がこれを素晴らしいと思うなら、同じグループの"Annie Had a Baby" も聞くべきだ」と冗談を言ったのだ。もちろん、そんなレコードはないが、多くのリスナーは本気にした。ウエストコーストのレコード店は "Annie Had a Baby" を注文するためにフェデラル・レコーズや親会社のキングに電話をかけた。キングのトップA&Rマンで黒人のソングライター、ヘンリー・グローバーは、題名に似合う曲をでっちあげ、ワシントンに飛び、ハワード・シアターに出演中のミッドナイターズをつかまえ、地元のスタジオで録音した。グローバーはマスターテープを持ってオハイオに急いで戻り、注文をさばけるだけの枚数のレコードをプレスすることができた。
こうした狂乱的な録音活動によって別の黒人ミュージシャンたちもアンサーソングを出した。Hazel McCollum and El Dorados は "Annie's Answer" を発売した。北カリフォルニアのミッドナイツというグループは "Annie Pulled a Hum-Bug" を、Lena Gordon and Sax Kari は "Mama Took the Baby" を、Danny Taylor は "I'm the Father of Annie's Baby" を発売した。フェデラル・レコーズも Linda Hayes に "My Name Ain't Annie" を歌わせた。バックは Platters で、リードシンガーの Tony Williams は彼女の兄弟だった。Nu-Tones の "Annie Kicked the Bucket" で終わりを告げたかと思いきや、2年後の1956年には、バディ・ホリーというハンク・バラードのファンが "(Annie's Been A-Workin' on) The Midnight Shift" を録音した。
「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」同様、「ロール・ウィズ・ミー、ヘンリー」は多くのラジオ局から拒否され、レコードを回収されそうになったが、モダン・レコーズの社長、ジュールズ・ビハリは、レコードのインパクトを和らげることにし、タイトルを "The Wallflower" に変えた。ピーチズは後方に押しやられ、エタの名前がレコードに掲載された。リチャード・ベリーの名前はどこにもなかった。
1955年正月に発売された「ウォールフラワー」は、1年前の「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」のように、R&Bチャートを勢いよく上昇し、トップの座を邪魔したのはペンギンズの「アース・エンジェル」のみだった。「ウォールフラワー」は四か月ヒットを続けたので、モダン・レコーズはエタ・ジェームズとリチャード・ベリーをスタジオに呼び戻し、"Hey, Henry!" を発売した。ハンク・バラードとミッドナイターズは、「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」のヒットが収まったので、"Annie Had a Baby" の曲に合わせて "Henry's Got Flat Feet (Can't Dance No More)" を録音し、R&Bチャート14位というそこそこのヒットとなった。これで輪が閉じるように思えた。ハンクは、自分のオリジナルに対するアンサーソングに答えたからだ。だが、待て!
これらの曲がヒットしたにもかかわらず、これはほんの一部にすぎなかった。エタ・ジェームズがヘンリーとセックスのかわりにダンスをしているのだとほのめかすことによって、アニーのみだらな物語歌をおとなしくしたからには、シカゴのマーキュリー・レコーズは "Dance with Me, Henry (Wallflower)" という題名のレコードを出すことで、あいまいさを完全に除去するしかなかった。「カバーレコード工場」と呼ばれたマーキュリーは、ジョージア・ギブズ Georgia Gibbs というソフィー・タッカーみたいな女性歌手をスタジオに呼んだ。彼女によるラバーン・ベイカーの「トウィードル・ディー」の活気のないカバーは、当時大ヒットしており、別の黒人女性を黙らせるには完ぺきな選択だった。盗作が問題にならなかった時代に、この手直し版はポップチャートを急上昇し、4週間1位を保ち、1955年最大のヒット曲のひとつとなった。アボットとコステロ主演で同じ題名の映画が作られ、映画の中でジョージア・ギブズが曲を歌った(訳注:未確認)。
最終的に、エタ・ジェームズとリチャード・ベリーが1956年にニューオリンズに出向いて、テンポを早くしたロックンロール版 "Dance with Me, Henry" を作った。だが、そのときまでに誰もアニーやヘンリーのことなんて気にしなくなっていた。というのも、みんなの話題はエルビスのことばかりだったからだ。
影響を受けたのは:
"Gently Down the Stream" (traditional)
The Four Knights "Oh Baby Mine (I Get So Lonely)" (ポップチャート2位、1954)
The Five Crowns "You Could Be My Love" (1953)
影響を与えたのは:
10何曲かのナンセンスなドゥーワップソング、The Harptones の "Life Is But a Dream" (1956)
重要なカバー:
The Crew-Cuts (ポップチャート1位)
Stan Freberg (ポップチャート14位)
The Billy Williams Quartet (ポップチャート21位)
Leon McAuliffe
「シュブーン」は二つの影響を受けている。この年の初め、フォーナイツ Four Knights というキャピタル・レコーズの黒人ポップグループが「Oh Baby Mine (I Get So Lonely)」というノベルティソングをヒットさせた。Pat Ballard というカントリー歌手が書いたこの曲はとても変なレコードだった。フォーナイツは白人のようなサウンドで、この曲のスタイルはバーバーショップ・カルテット・ミュージックにとても似ていた(19世紀の「Gently Down the Stream」に基づいていた)。「Oh baby mine」と歌うバスのオスカー・ブロードウェーを除いては。フォーナイツはドゥーワップの歴史に名を刻んでいないが、ブロードウェーが歌うフレーズは街角の若い黒人グループに印象づけたし、今でも、40年代風に録音された耳ざわりな50年代の音に聞こえる。チューントッパーズの「シュブーン」は、「Oh Baby Mine」のコード進行といくつかのメロディに基づいている。くりかえし部分の最後の行「Life could be a dream, sweetheart」も、「Life could be so fair」のいただきである。また、ファイブ・クラウンズ Five Crowns (のちに、1959年の「There Goes My Baby」で有名なドリフターズとなる)による「You Could Be My Love」からも影響を受けている。
ウェクスらーによると、「シュブーン」を録音したのは、コーズの最初の録音セッションで4曲必要だったというだけの理由だった。「「Three Little Fishes」と同じようなナンセンスな歌で、重要なレコードになるとは夢にも思わなかった。「Cross Over the Bridge」のほうが面白いと思っていた。」
「Cross Over the Bridge」はパティ・ペイジのヒット曲のカバーだった。当時、おこぼれにあずかるためにポップスのヒット曲をカバーするのはR&Bのレーベルにとって当たり前のことだった。それで、キャット・レーベルは、「Cross Over the Bridge」をA面にし、「シュブーン」をB面にした。だが、コーズのレコードを聞いたDJたちはB面こそがかける価値のある曲だと考えた。5月末までに「シュブーン」はニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、クリーブランドといった大都市でヒットし始めた。
故アーノルド・ショウ Arnold Shaw は、著書 The Rockin' 50 の中で、1954年晩春におけるカバーレコードや著作権について洞察をしている。当時のショウは、Hill and Range Songs という大手音楽出版社で曲を売り込む仕事をしていた。彼は、西海岸の情報源から、「シュブーン」がロサンジェルスのR&Bチャートで1位になったことを知った。大ヒットを予感したショウは、6千ドルの前払金で「シュブーン」の著作権の半分を買い取る交渉をアトランティックと行った。アトランティックは、6千ドルもらえるうえに、大手音楽出版社が宣伝してくれれば、残り半分の著作権で大もうけできるので、乗り気だった。しかし、音楽出版社の社長ジーン・アバーバックはショウの説得に応じなかった。知られていない黒人の歌に対して額が大きすぎたのだ。
「シュブーン」の精神はハープトーンズ Harptones の1955年のヒット曲「Life Is But a Dream」に受け継がれ、1957年にはウィロウズ
Willows の「Church Bells May Ring」のくりかえし部分に受け継がれた。ドゥーワップのブームが1961年に再び訪れたとき、アトコはコーズの「シュブーン」を再発した。もちろん、「シュブーン」は、その後のアトランティックのアンソロジーに必ず入っている。
(2013年2月28日)
39
Bill Haley and His Commets
Rock Around the Clock
(1954)
作者: ジミー・デナイト Jimmy DeKnight、マックス・フリードマン Max Freedman
レベールと番号: デッカ29124、ニューヨーク
B面: "Thirteen Women" (A面)
録音日・場所: 1954年4月12日、ニューヨーク
発売日: 1954年5月、1955年5月
なぜ重要か: ロックンロールと呼ぶことのできる最初のポップチャート1位の曲
影響を受けたのは:
"Victory Walk" by Charlie Barnet (1942)
"Around the Clock" by Wynonie Harris (1945)
"Move It on Over" by Hank Williams (カントリーチャート4位、1947)
"Cornbread" by Hal Singer (R&Bチャート1位、1948)
"How High the Moon" by Les Paul and Mary Ford (ポップチャート1位、1951)
"Rock the Joint" by Jimmy Preston (R&Bチャート6位、1949), Bill Haley and the Saddlemen (1952)
だが、ヘイリーのレコード会社の社長デイブ・ミラーとジミー・マイヤーズが不仲だったために、ヘイリーは「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を録音することができなかった。仕事ではジミー・デナイトという名前を使うジミー・マイヤーズは次のように語る。「マックス・フリードマンと一緒に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を作ったとき、ビル・ヘイリーが念頭にあった。それで、彼にこの曲を提供したとき、彼はとても喜んだ。彼はすぐに自分のための曲だとわかったんだ。」デイブ・ミラーが録音してくれないので、マイヤーズは別のレコード会社をあたった。マイヤーズは次のように語る。「Sonny
Dae and His Knights が最初に録音したんだ。地元でけっこうヒットしたが、そのレコード会社には全国への配給網がなかった。」マイヤーズは自分でも録音した。「ビッグバンドだった。Jimmy
DeKnight and His Knights of Rhythm というグループ名だった。」ビル・ヘイリーは1953年末にエセックス・レーベルとの契約が切れるのを待たなければならなかった。
(ちなみに、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」という題名の最初の曲は、1950年にサックス奏者ハル・シンガー Hal Singer が作って、録音した。ラッキー・ミリンダー Lucky Millinder の1942年の "Let It Roll" の雑な類似曲だが、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore の1948年の "We're Gonna Rock, We're Gonna Roll" に影響を受けており、ビル・ヘイリーのと全然違う。題名は歌詞に出てこない。歌っているのは、オリジナルの "Spo Dee O Dee" を歌ったサム・サード Sam Theard。)
ビル・ヘイリーと彼のコメッツの最初の録音セッションはニューヨークのピシアン・テンプルで行われた。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」と「サーティーン・ウイミン」の二曲しか録音されなかった。録音スタジオのピシアン・テンプルは以前ダンスクラブだったので、ステージがまだ残っており、まるでコンサートを行っているかのような雰囲気を出すことができた。当時のメンバーは、ギターのダニー・セドロン Danny Cedrone、スティールギターのビリー・ウィリアムソン Billy Williamson、ピアノとアコーディオンのジョニー・グランデ Johnny Grande、ベースのマーシャル・ライトル Marshall Lytle、サックスのジョーイ・ダンブロージオ Joey D'Ambrosio だった。ギャブラーは、ピシアン・テンプルの音響から大きなビートサウンドを強調したかったので、彼のセッションドラマー、ビリー・ゲサック Billy Guesak を連れてきた。最初の三つの音から始まって、ゲサックはエコーのかかったスネアドラムを曲の間じゅう鳴り響かせ、以前のヘイリーのレコードにはなかったダイナミックさを「ロック・アラウンド・ザ・クロック」にもたらした。
曲は単純そのものだった。ヘイリーと彼女は一晩中踊ろうとしていた。「晴れ着を着て、一緒に行こうよ。時計が一つ鳴ったら楽しもうよ。時計が2つ、3つ、4つと鳴って、バンドが疲れ始めたら、「もっとやれ!」って叫んでやろうぜ。夜が完全に明けるまで、踊って、踊って、踊りまくろうぜ。」時計が真夜中を告げると、三台のギター、ライトルのベース、ドラム、ダンブロージオのテナーサックスによるバンドがブギのビートを刻み始め、最終章へと突入する。最後は即興演奏を終わらせる「カントリー・ターン country turn」と呼ばれる技法が使われている。レス・ポールの「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」の最後と非常に似ている。
メロディはハンク・ウィリアムズの最初のヒットである "Move It on Over" (1947) に似ている。これは、ビル・ヘイリーがハンク・ウィリアムズのファンだったことから考えると、ヘイリーが作曲か編曲に関ったことを示唆している。「ロック・ザ・ジョイント」のB面はヘイリーガ書いた "Icy Heart" で、あきらかにウィリアムズの "Cold Cold Heart" の盗用である。1957年に、ヘイリーと彼のコメッツは "Move It on Over" をロック風にカバーしている。一日中ロックするというアイディアでさえ目新しいものではなかった。1945年にワイノニー・ハリス Wynonie Harris とジミー・ラッシング Jimmy Rushing が "Around the Clock" という曲を録音している。
信じられないことに、A面は「サーティーン・ウイミン」という奇妙なミッドテンポの曲だった。原子力による惨事のあとに13名の女性とともに生き残った男を歌っている。これはカバーで、オリジナルは、ディッキー・トンプソン Dickie Thompson がヘラルド・レコーズから同じ年の初めに発売したR&Bナンバー "Thirteen Women and One Man" である。この曲はニューヨークのラジオ局WHOMが3月に放送禁止にした。というのも、女性たち各々が男の日常生活で果たす役割について歌詞に疑問があったからだ。この変な曲が「ロック・アラウンド・ザ・クロック」よりも優先された事情を理解するには、そもそもなぜデッカがビル・ヘイリーと契約したかを知らなければならない。
ミルト・ギャブラーはルイ・ジョーダンがデッカから発売したR&Bヒットを長年プロデュースしていた。その中には "Saturday Night Fish Fry" や "Caldonia" が含まれている。1940年代、ジョーダンは、そぎ落としたR&Bバンドを率いて、多くのヒットレコードを出した。さらに、映画への出演によって、ジョーダンは40年代のトップ黒人スターとなった。だが、1953年までに、彼のスウィングを基本としたジャンプ・ブルーズは流行遅れとなり、売り上げがかなり落ち込み、契約更新時に彼との契約を打ち切った。
デッカは「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を再発し、まるで新しいレコードでもあるかのように販売業者やDJたちに配給した。1955年7月9日に1位となり、9月まで君臨した。イギリスでも1位になった。この曲が蹴落としたのは非常に古臭い "Cherry Pink and Apple Blossoms White" だった。「ロック・アランド・ザ・クロック」は別の安っぽい映画をもたらした。ビル・ヘイリーと彼のコメッツが主演する同名の映画である。
ディック・リチャーズ Rick Richards はヘイリーのバンドの正式のドラマーだが、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の録音では別のドラマーと入れ替えられた。彼もヘイリーがすぐにメンバーを入れ替えるのを証言している。「1955年9月、俺たちはヘイリーに昇給を頼んだんだ。彼は拒絶したよ。その週、彼はキャデラックの新車を買ったのに。」すぐに、ディック・リチャーズ、マーシャル・ライトル、ジョーイ・ダンブロージオはコメットをやめて、自分たちのグループ、ジョディマーズを結成した(Jodimars は彼らの名前 Joey, Dick, Marshall をつなげたもの)。
1970年代初期、MCAはデッカの商品カタログを引き継ぎ、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を再発した。ちょうど、リチャード・ネイダー Richard Nader がマジソン・スクエア・ガーデンで開いたオールディーズ・ショーでビル・ヘイリーが見事にカムバックしたころだった。テレビの懐古的なドラマシリーズ "Happy Days" の最初のシーズンでテーマ曲として使用されると、1974年に3度目のチャートインを果たし、39位まで上昇した。ヘイリーは新たな人生を送ることになったが、アルコール中毒によって彼の人生は下り坂にあった。妄想にとらわれ、理由もなく激怒した。1981年2月9日、テキサス州ハーリンガーで、落ちぶれた孤独な死を迎えた。
(2013年3月17日)
40
The Robins
Riot in Cell Block #9
(1954)
チャート入りせず
カテゴリー: R&Bノベルティ
作者: ジェリー・リーバー、マイク・ストーラー
レベールと番号: Spark 103、ロサンジェルス
B面: "Wrap It Up"
録音日・場所: 1954年4月と5月、ロサンジェルス
発売日: 1954年5月後期
なぜ重要か: リーバーとストーラーがコースターズのヒットパターンを確立した。
影響を受けたのは:
題名は1954年の映画「Riot in Cell Block #11」に由来する(ドン・シーゲル監督の「第11号監房の暴動」)。曲自体はロビンズの以前のレコード "Ten Days in Jail" に基づく。
影響を与えたのは:
"The Big Break" by Richard Berry (1954)
"Jailhouse Rock" by Elvis Presley (ポップチャート1位、1957)
"Trouble" by Elvis Presley (1957)
重要なカバー: Vicki Young with Big Dave
重要なリメイク: Wanda Jackson (1961), Commander Cody (1974)
ロックンロールの世界で最も成功した曲作りコンビ、ジェリー・リーバー Jerry Leiber とマイク・ストーラー Mike Stoller が監獄に魅了されていたのなぜか。法律と衝突する汚れた環境に黒人の聴衆が容易に同一化できると彼らは信じていたのだろうか。二人がロビンズに提供した最新の曲は "Ten Days in Jail" (監獄での10日間)で、クローバーズの "One Mint Julep" に基づいた感じの曲だったし、その前にもリンダ・ホプキンズ Linda Hopkins のために "Three Time Loser" を書いている。その後も、しばらく、この傾向を続けている。
ロビンズ/コースターズの起源は少々複雑である。ロビンズは、ロサンジェルスの初期のR&Bボーカルグループだった。双子のビリーとロイのリチャード兄弟は両方ともバリトンで、テノールのテレル・レナードとともにエーシャープトリオ A-Sharp Trio を組んだ。一年後、三人は、ジョニー・オーティスのバレルハウス・クラブで木曜の夜行われていたアマチュアコンテストに出た。オーティスは彼らをクラブのバンドとして雇ったが、クラブのまわりをうろついていた低い声のボビー・ナンを加えることを勧めた。しばらくの間、オーティスは、彼らをフォー・ブルーバーズ Four Bluebirds と呼んだが、四人は古臭いと思って、ロビンズに変えた。
1950年、彼らは、ジョニー・オーティスのもとで、センセーショナルな13歳のリトル・エスターのレコード "Double Crossin' Blues" のバックボーカルを務めた。これは同年最大のR&Bヒットのひとつとなった。ロビンズは "If It's So, Baby" を発売し、R&Bチャートの10位内に入った。だが、オーティスとの問題によって、彼らはツアーをすることも、成功を利用することもできなかった。メンバーのレナードは次のように回想する。「自分たちのレコードがヒットしていたことさえ知らなかった。ジョニーがツアーに出かけても、自分たちを置き去りにし、バンドのメンバーが自分たちの代わりを務めた。」
1951年、ロビンズは、ロサンゼルスのモダン・レコーズと短期間契約し、"That's What the Good Book Says" という曲を録音した。リーバーとストーラーという二人の白人のティーンエイジャーが書いた曲だった。リーバーは次のように言う。「ブルーズとゴスペルを混ぜこぜにしたような曲で、とてもひどい曲だったが、とにかく自分たちにとって最初のレコードになった。」
2年たたないうちに、モダン・レコーズの社長ジュールズ・ビハリは、ロビンズのメンバーたちがスタジオを自由に出入りできるようにし、制作助手を務めさせたり、西海岸で最高のA&Rマンの一人であるサックス奏者兼バンドリーダーのマックスウェル・デイビス Maxwell Davis からビジネスを教えてもらう機会を与えた。マックスウェル・デイビスは、初期の何十曲ものロックンロールヒットを影で支えた男だ。リーバーとストーラーが監修した初期の録音セッションの一つは、フレアーズ Flairs というジェファーソン高校のボーカル5人組のためのもので、フレアーズには、バリトンの Obidiah Jessie、テノールのコーネリアス・ガンター Cornelius Gunter、ベースのリチャード・ベリー Richard Berry がいた。このセッションは二つの理由で重要である。リーバーとストーラーにとって、フレアーズの "She Wants to Rock" は、磁気テープという新しいメディアを実験するチャンスだった。フレアーズにとって、"She Wants to Rock" は最初のレコードであり、かろうじてヒットと呼べる唯一の曲だった。長い目で見てより重要なのは、この曲がフレアーズをリーバーとストーラーに紹介したことだった。
"She Wants to Rock" の終わり、リチャード・ベリーが「誰か助けてくれ、彼女がドアを突き抜けるほど俺を揺らすんだ」と叫ぶ。その部分で、リーバーとストーラーは、音響効果のような特別なものが必要だと考えた。二人は、1951年に録音されたローカルR&Bヒット "Goodbye Baby" をおぼえていた。この曲の中で、歌手リトル・シーザーは彼女を射殺し、曲の終りで自殺する。それで二人は、二本の木をたたいて、銃撃のような音を出し、ベリーがドアを突き抜けるほど揺さぶられる音を表現した。それは小さな出発だったが、リーバーとストーラーは自らの道を歩み始めた。
数か月後、二人はRCAから電話をもらった。ロビンズはRCAと契約したばかりで、ロビンズのマネージャーからの二人に曲を書いてもらえないかという依頼だった。二人は喜んで承諾した。そのうちの一曲は "Ten Days in Jail" で、ロビンズの新しいテノールのリードボーカル、グラディ・チャップマン Grady Chapman が歌った。チャップマンの個人的な体験が歌詞に盛り込まれているそうである。「俺は破産して、貧しかったから、メアリー・リーを信用するしかなかった。彼女にはめられたんだ。」そこへ大きなボスのボビー・ナンが背後から忍び寄り、「看守!」と叫ぶ。ロビンズがRCAで出したほかのレコード同様、この曲は売れなかったが、これが始まりだった。
双子のリチャード兄弟とレナードはまだバックアップ・ボーカル担当で、ボビー・ナンはベースを担当していたので、出たり入ったりしていた一連のテノール歌手にリードボーカルを頼らざるをえなかった。"Ten Days in Jail" でリードを担当したチャップマンが去ったので、リーバーとストーラーはソロで歌っていたテキサス出身の歌手カール・ガードナー Carl Gardner を雇い、これでグループは固まった。
翌年、1954年には3度のセッションで12曲録音した。テナーサックスのギル・バーナル Gil Bernal、ギターのチャック・ノリス Chuck Norris (バーニー・ケッセル Barney Kessell も1度セッションに参加)、ベースのラルフ・ハミルトン Ralph Hamilton、ドラムのジェシ・セイルズ Jesse Sailes がバックを務めた。リーバーとストーラーは小さなスタジオ、マスター・レコーダーズを使用した。フェアファクス・アベニューにあるスタジオで、エイブ・ロビン Abe "Bunny" Robyn が経営していた。彼は、録音の可能性をいろいろ追求するが好きなエンジニアで、変な場所にマイクを置いたり、テープを継ぎはぎして奇妙な音を作ったりしていた。二人の若者、創造的なエンジニア、一流のミュージシャン、そしてボーカルグループというユニットができあがった。
彼らの最初の曲が「第9監房の反乱」で、 "Ten Days in Jail" を発展させたものだった。だが重要な違いがいくつかある。"Ten Days in Jail" のグラディ・チャップマンは、おかしくて自己憐憫の曲調に似合う甲高いテノールだったが、「第9監房の反乱」はコメディというよりドラマだ。リードシンガーは、「1953年7月2日、俺は武装強盗のために服役していた。その日の朝4時、俺は独房で寝ていたが、笛が鳴って、誰かが叫んでいるのが聞こえた」という歌詞を無表情に歌うとき、粗野じゃなきゃいけない。グループが「暴動が起こっている!」と叫ぶと、バーナルのサックスが甲高い音を出す。リーバーは回想する。「ボビー・ナンで試したが、彼ではうまくいかなかった。」それで、威嚇するような低いダミ声のフレアーズのリチャード・ベリーを起用することにした。ベリーはモダン・レコーズと契約していたが、そんなことはどうでもよかった。文句を言ってきたら、あれはボビー・ナンの声だと言えばいいのだから。
リーバーとストーラーは何か間違ったことをやっていると考え、方向転換し、コール・ポーターのスタンダード「I Love Paris」をR&B風に作り直したものを録音した。レコードが発売されると、コール・ポーターの曲の権利を持っている音楽出版社 Chappell Music は、曲を馬鹿にしており、著作権に損害を与えているとして、レコードを回収させた。
10月、アトランティック・レコーズは、"Smokey Joe's Cafe" のマスターテープを借りて、新たに設立された参加のレーベル、アトコ Atco から発売した。R&Bチャートの10位まで上昇し、Hit Parade's Top 100 にも食い込むほどのポップス・ヒットにもなった。アトランティックは、リーバーとストーラーと前代未聞の契約を結んだ。二人が設立したスパーク・レーベルのマスターテープを全部買い上げ、音楽出版業に二人を参加させ、二人の好きなようにレコードを制作させた。
11月、ビルボード誌には、「ロビンズは解散した。アトコはロビンズのリード・シンガーとベース・シンガーを含む新たなユニットを作る計画である」という記事が掲載された。ロビンズのマネージャー、ジーン・ノーマンは、自分のレーベルのために自らロビンズのレコードを作る決心をした。当初のエーシャープ・トリオ、すなわち双子のリチャード兄弟とテレル・レナードはノーマンのもとにとどまり、リード・シンガーのグラディ・チャップマンを呼びもどした。一方、カール・ガードナーとボビー・ナンは、ビリー・ガイとレオン・ヒューズとともに、リーバーとストーラー、エイブ・ロビン、サックス奏者ギル・バーナルを含む同じミュージシャンと行動をともにした。最初に録音したのは、"Smokey Joe's Cafe" の延長線上にある "Down in Mexico" だった。彼らは自分たちをロビンズと呼ぶことができないので、当時「コースト」と呼ばれている地域に住んでいたことから、コースターズと名乗った。
リーバーとストーラーは、リチャード・ベリーがいたフレアーズの "She Wants to Rock" をおぼえていたので、レオン・ヒューズを解雇して、フレアーズのメンバーだったヤング・ジェシーとコーネル・ガンターを雇った。その間、リチャード・ベリーは「ルイ・ルイ」を書くが、それはまた別の話。
リーバーとストーラーはプレスリーの映画のために曲を書き始めた。これまでのいきさつから、彼らが「監獄ロック Jailhouse Rock」という題名を思いつくのに苦労はなかった。プレスリーの次の映画「闇に響く声 King Creole」では、「第9監房の反乱」の独特なブルーズのリフを「トラブル」に使用した。
エルビス・プレスリーは、1953年秋に、メンフィスのサム・フィリップスのスタジオでティン・パン・アレーの二曲 "My Happiness" と "That's When Your Heartaches Begin" の個人的なデモを78回転で録音したが、翌年夏までフィリップスから呼び出しがなかった。エルビスはオーディションにかけつけたが、フィリップスから「もっと努力が必要だ」と言われた。
その前の4年間、サム・フィリップスは、BBキング、ハウリン・ウルフ、ロスコー・ゴードンらのブルーズ・ミュージシャンと主に仕事をしたが、いくつかビルビリー・バンドも録音した。フィリップスは、サン・レコーズを始める前に、ロサンジェルスのレコード会社にカントリー音楽を貸し出していたし、自分のレコード会社を持ってからも、Ripley Cotton Choppers, Howard Seratt, Earl Peterson, Hardrock Gunter, Harmonica Frank といった白人ミュージシャンのシングルを発売していた。
ヒュームズ・ハイスクールの同級生ジョージ・クレインは、お涙ちょうだいのレッド・フォーリー Red Foley のバラード "Ol' Shep" をプレスリーが歌ったのをおぼえている。ミセス・マーマン先生はエルビスのギター演奏をほめたが、「歌うのが速すぎて、歌詞が理解できないわ」と加えた。少年はすでに自分の道を進みつつあったのだ。
サム・フィリップスは直感的にエルビスの才能を見抜いたが、この若者にはステージの経験が必要だった。フィリップスは、メンフィス周辺でポインデクスターのバンドとともにエルビスを出演させた。その後、エルビス、スコッティ・ムーア、ビリー・ブラックの三人だけを引き抜いて、録音に備えた。ブラックは、プレスリーに将来性がないと思って、最初は乗り気でなかった。三人は一週間ほど練習したが、録音までどれくらいかかったか誰もおぼえていない。最初の録音は1954年の6月終わりか7月初めに行われた。最初の曲は "Without You" で、5月にプリゾネアーズ Prisonaires の録音を行ったテネシー州立刑務所でフィリップスが知ったのかもしれない(サン・レコーズから発売されたプリゾネアーズの "Walking in the Rain" は1952年のヒットとなった)。この曲はエルビスにはむずかしすぎたので、7年前にアーネスト・タブ Ernest Tubb によって有名になったカントリー・バラードの "I Love You Because" に変更した。フィリップスは、自分のテープレコーダーに2テイク録音したあと、三人を休憩させた。
フィリップスとエルビスは、すでに、"Rock Me Mama" や "That's All Right" などのアーサー・「ビッグボーイ」・クルーダップの曲を録音できるかどうか議論していた。エルビスは、クルーダップの曲を少なくとも数曲歌うことができた。スコッティ・ムーアの回想によると、休憩中、エルビスは「ザッツ・オール・ライト」をふざけて歌い始めた。ギターのムーアは、キーが何かわかると、エルビスに加わった。フィリップスがコントロールルームから出てきて、驚いて、「録音しようじゃないか」と言った。ビル・ブラックがベースでリズムを刻み、エルビスが生ギターでリズムを補足した。フィリップスは、「スラップバック」エコーを加えて、全体のサウンドを豊かにした。
影響を受けたのは:
"Dream Girl" by Jesse and Marvin (R&Bチャート2位、1953)
"I Know" by the Hollywood Flames
"I Went to Your Wedding" (written by Jesse Mae Robinson, 1953)
"Blue Moon" (written by Richard Rodgers and Lorenz Hart, 1934)
影響を与えたのは:
"Daddy's Home" Shep and the Limelights (ポップチャート2位、1961)などの何十ものドゥーワップ・レコード
重要なカバー:
The Crew-Cuts (ポップチャート3位)
Gloria Mann (ポップチャート18位)
重要なリメイク:
Johnny Tillotson (ポップチャート57位、1960)
The Cleftones (1962)
The Vogues (ポップチャート42位、1969)
New Edition (ポップチャート21位、1986)
ドゥートーン・レコーズ Dootone Records の社長ドゥーツィ・ウィリアムズ Dootsie Williams は次のように言う。「ヒットレコードには二種類ある。もっとも普通なのは宣伝されたヒットであり、宣伝されなければ、ヒットもしない曲だ。もうひとつは自然なヒット曲だ。一年に一曲あるかないかだ。必要なのは、ラジオで何度かかかることである。一生に一度あるかないかだ。私には一曲しかない。「アース・エンジェル」だ。」
ゲイネル・ホッジは次のように語る。「カーティスと俺は1951年にハイスクールの合唱団で出会った。俺は14歳で、カーティスは16歳ぐらいだった。ジェシが「アース・エンジェル」を書き始めると、カーティスが興味を持って、一緒に書き始めた。ジェシが兵役に就き、俺とカーティスがハリウッド・フレイムズに参加したあと、そこで1年ぐらい歌った。そのグループにいたとき、ジェシー・メイ・ロビンソン Jessie Mae Robinson という黒人女性が俺たちを雇って、彼女の曲 "I Went to Your Wedding" のデモを作らせた。俺たちは一節を借りて、「アース・エンジェル」に組み入れた。
ロビンソン夫人は、1940年代から、ダイナ・ワシントン、Tボーン・ウォーカー、ルイ・ジョーダン、チャールズ・ブラウンなど多くのミュージシャンにブルーズのヒット曲を書いてきた。のちには、プレスリーのために "Party" を書いたが、その曲をロカビリーとしてヒットさせたのはワンダ・ジャクソンだった。1953年のロビンソン夫人のビッグヒットは "I Went to Your Wedding" で、ダミタ・ジョー Damita Joe がスティーブ・ギブソンのレッド・キャップス Steve Gibson's Red Caps とともに録音した。当時話題を呼んでいたマーキュリー・レコーズのパティ・ペイジがポップスの大ヒットにした。だが、それよりも前に、ホッジとウィリアムズはメロディと歌詞の一部を「アース・エンジェル」に盗用していた。
初期の「アース・エンジェル」がどんな曲だったか知りたければ、1953年のハリウッド・フレイムズの "I Know" を聞けばいい。クリーミーな声のゲイネル・ホッジがリードで、カーティス・ウィリアムズはバリトンを歌っている。「アース・エンジェル」を特徴づけているカーティスのピアノで始まるのは同じだ。コード進行もほとんど同じで、ブリッジまでくると、ホッジがリードをセカンドテナーに引き継ぐのも同じである。1年後の「アース・エンジェル」では、同じようにクリーブ・ダンカンがデクスター・ティスビーに引き継ぐ。
ペンギンズが最初にブリンソンのスタジオで行ったのは、ウィリー・ヒーデン Willie Headen というブルーズ歌手のバックボーカルだった。ドゥーツィは、録音の途中で、彼らに "No There Ain't No News Today" を録音させた。だが、彼の興味を引いたのは、「ヘイ、セニョリータ Hey, Senorita」というカーティス・ウィリアムズが作った曲だった。ドゥーツィは数年間、音楽出版にたずさわっていたので、自分たちで曲を作るグループを所有することは、彼の資本家としての本能をくすぐった。
録音には演奏楽器が少なかったし、未完成で、手作り感があったが、ドゥーツィ・ウィリアムズは彼のドゥーツィ・レーベルから1954年10月に、そのまま、レコードを発売した。最初は「ヘイ・セニョリータ」のほうがよく放送されたが、そのうちB面の「アース・エンジェル」へのリクエストが増えた。12月、この単純で洗練されていないラブバラードはビルボードのR&Bチャートに入った。1955年1月19日、R&Bチャートで1位となり、3週間君臨したのち、ジョニー・エイスが亡くなったあとで発売された "Pledging My Love" にトップの座を奪われた。
その当時の自然な成り行きとして、大会社は白人歌手に曲をカバーさせ、オリジナルがポップチャートに入り込む前に葬り去るはずだった。実際、マーキュリー・レコーズは、クルーカッツ The Crew-Cuts にカバーさせ、当然のごとく3位まで上昇した。だが、ペンギンズの「アース・エンジェル」は、消え去るかわりに、クルーカッツのレコードと競い合い、ポップチャートの8位まで上昇した。
クリーブ・ダンカンによると、ラムは、ペンギンズという名称の支配権を得ることができなかったので、グループに対する興味を失った。「ラムは、プラターズを使った "Rock All Night" という映画で、俺たちにも歌わせるから、かわりに名前をゆずってくれないかと言ってきた。俺は断った。」ラムがプラターズにご執心だったのは、プラターズには響き渡るテナーのリードボーカル(トニー・ウィリアムズ)がいたし、サウンドが洗練されていたからだ。ラムは、1940年代初期にインク・スポッツのために曲を書いた。インク・スポッツのハーモニーはスムースでポップだった。事実上、プラターズは50年代のインク・スポッツになった。だが、プラターズもバック・ラムの創造物でしかなかった。彼らの人気が最高潮に達したときでさえ、5人のメンバーはとても低い月給しかもらっていなかったが、ラムは百万長者になった。
マーキュリーでは、いくつかいい曲を録音したものの、ペンギンズのヒット曲は生まれなかった。彼らは、「アース・エンジェル」の最初のレコーディングに対する権利も失った。ドゥーツィ・ウィリアムズは次のように言う。「彼らがマーキュリーに移籍するとき、契約書の条項によって印税がもらえなくなると彼らに告げた。彼らは「ビッグになるんだから、印税なんてどうでもいい」と言った。」カーティス・ウィリアムズは、「アース・エンジェル」を大手音楽出版社ピア・インターナショナル Peer International に転売した。ドゥーツィは75万ドルを求めて訴訟を起こした。ジェシ・ベルビンとゲイネル・ホッジが曲のほとんどを書いたとロサンゼルス最高裁判所が判断したので、ドゥーツィは「アース・エンジェル」に対するすべての権利を取り戻した。
1956年、ペンギンズはマーキュリーからニューヨークのアトランティック・レコーズに移籍したが、一時的だった。彼らがカリフォルニアに戻ったとき、意気消沈していたし、借金を抱えていた。ブルース・テイトはもうグループにいなかった。彼は、1955年の感謝祭前夜、女性をひき逃げし、殺人罪で逮捕された。ランディ・ジョーンズ Randy Jones がかわりに入ってきた。ほかの三人はすべてにウンザリしていた。ドゥーツィは次のように回想する。「デクスター・ティスビーのクレジットカードは1500ドルの借りこしだったし、スタンダード・オイルは彼の車を差し押さえた。クリーブ・ダンカンには借金があったし、のどを手術しなければならなかった。カーティス・ウィリアムズは、扶養義務の不履行で妻から訴えられていて、刑務所に入れられそうだった。彼らは俺に借金をきれいにしてくれないかと頼んできた。彼らに稼がせてもらったので、借金を十分返せるぐらいのおカネをやった。そのかわり、昔ドゥートーンで録音した曲による将来の印税に対する権利を放棄する契約を交わした。」
クリーブ・ダンカンはペンギンズにとどまった。1963年、新たなボーカリストを加えて、グループを立て直し、"Momories of El Monte" をチャート入りさせた。フランク・ザッパが曲を作り、プロデュースし、「アース・エンジェル」などの50年代中期のドゥーワップ数曲に対して敬意を払った。現在のペンギンズの歌唱は陳腐で、あまり要求しないオールディーズ・ファン向けだが、クリーブが「アース・エンジェル」を歌うと、まだ1954年当時のようなサウンドなので、一気に当時に戻ってしまう。
(2013年4月24日)
43
LaVern Baker and the Gliders
Tweedle Dee
(1954)
ドロレス・ウィリアムズ Delores Williams は、1929年11月11日にシカゴで生まれた。彼女の叔母はメンフィス・ミニー Memphis Minnie で、1920年代と30年代に活躍した有名なブルーズ歌手だった。ドロレスは、バプテスト教会の聖歌隊のソロ歌手となったが、第二次大戦後は地元のクラブで世俗的な音楽を歌い始めた。
一年後、ドロレスは、デトロイトで最高の黒人クラブ、ショウ・フレイム・バー Show Flame Bar で歌い始め、多くの注目を集め、何人かのA&Rマンから誘いがあった。オーケー Okeh とナショナルは各々ビー・バーカー Bea Barker とリトル・ミス・シェアクロッパー Little Miss Sharecropper として彼女の歌を録音した。そのときまでに、彼女は、ピアニスト、トッド・ローズ Todd Rhodes のバンドに参加していた。1952年、ローズはドロレスをキング・レコーズに連れて行った。そのときに彼女は名前をラバーン・ベイカーに変えたが、誰もスペルを正確につづることができなかった。彼女がキングから発売した初期のレコード "Pig Latin Blues" には Lavern Baker と書かれていた。一年後、アトランティックが彼女と契約し、"Soul on Fire" という彼女が作った曲をレコード化したとき、LaVerne Baker となっていた(彼女の最大のヒット "Jim Dandy" のラベルも同じだった)。のちのアルバムのジャケットには La Vern となっているが、これはダンサー兼歌手のジョセフィン・ベイカーにあやかろうとしたのかもしれない。ジョセフィンは、フランスでは La Baker として知られており、ときどきラバーンは彼女と親戚だと主張した。しかし、ほとんどのレコードでは LaVern であり、ベイカー嬢自身が好んだつづりと思われる。
1954年10月に彼女がアトランティックのスタジオに入ったとき、「トウィードリー・ディー」が彼女のキャリアを前進させるような曲だとは彼女自身もアトランティックの社長アーメット・アーティガンも思っていなかった。その日の目玉は、1948年のロニー・ジョンソン Lonnie Johnson のヒット「トゥモロウ・ナイト」であり、そっちがA面、「トウィードリー・ディー」はB面となった。
当日の録音セッションで4番目に録音された「トウィードリー・ディー」は、ほとんど偶然にベイカーが歌うことになった。この日のセッションのために、アトランティックは、アトランティックお抱えのボーカルグループ、キューズ Cues を彼女のバックに使うことを決めていた。聞かせどころで彼女と一緒に歌わせるためだ(純粋なR&Bにとどまるつもりなら必要ないが、ポップス市場で売ろうとするのであれば、バックで一緒に歌わせることは必至だった)。キューズは、異なる名前を使って、アトランティックのソロ歌手のバックで歌っていた。たとえば、ルース・ブラウン Ruth Brown のレコードならリズメイカーズ Rhythmakers で、アイボリー・ジョー・ハンター Ivory Joe Hunter のレコードならアイボリートーンズ Ivorytones、ビッグ・ジョー・ターナー Big Joe Turner のレコードならブルー・キングス Blue Kings といった具合だった。ラバーン・ベイカーのときは、グライダーズ Gliders と名乗った。彼らはラバーンのサウンドに欠かせないものとなり、彼女のその後のアトランティックによる録音セッションには全部参加した。キューズのメンバーは、テナーのオリー・ジョーンズ Ollie Jones、ファースト・テナーのエイベル・デコスタ Abel DeCosta、セカンド・テナーのジミー・ブリードラブ Jimmy Breedlove、バリトンのロビー・カークランド Robey Kirkland、ベースのエディ・バーンズ Eddie Barnes だった。
ロビー・カークランドは、メンバーのだれよりも、自分のことをプロのジョーマンだと思っていたはずだ。彼はロビー・カーク Robie Kirk という名前でソロとして歌っていたし、曲を書くときには、南北戦争の有名な将軍から借りた名前、ウィンフィールド・スコット Winfield Scott を使用していた。ラバーン・ベイカーのバックアップ・シンガーの一人として彼女に「ウィンフィールド・スコット」と彼のR&B子守唄「トウィードリー・ディー」を紹介したのはカークランドだった。(カークランドは、彼女の次のR&Bヒット "Bop-Ting-a-Ling" も書いたし、のちにはオーティス・ブラックウェル Otis Blackwell と組んで、"Return to Sender" など二曲をプレスリーのために書いた。)
もちろん、"Tweedle Dee" ("tweed-lee dee" と発音する)は、"Tweedle Dum and Tweedle Dee" という言い回しに由来しており、これは「互いにとても似ている二人」とか「別れがたい二人」を意味する。ルイス・キャロルは、「鏡の国のアリス Through the Looking Glass」の中でトウィードルダムとトウィードルディーという双子の兄弟を有名にしたが、この登場人物はすでに民話の中に存在していた。トウィードル・ダムとトウィードル・ディーというライバル同士のフィドラーで、一人は高い音を弾き、もう一人は低い音を弾いて、互いに対照をなしたり、結合したりする。
録音セッションには、ニューヨークで最も多産なR&Bサックス奏者、サム・テイラーも参加した。彼が吹き鳴らすサックスの興奮によって、「トウィードリー・ディー」は単なるノベルティ以上のものになっている(ちょうど、サム・テイラーが7か月前に参加した「シュブーン Sh-Boom」がそうだったように)。ドラマーのコニー・ケイ Connie Kay は、カウベルで安定したマンボリズムを刻むことによって、ダンス市場で流行することを確実にしていた。今日ではほとんど忘れ去られているが、1954年と55年にアメリカ中を席巻したマンボ・ブームは、R&Bブームと競い合っており、多くの者は、アングロ=ブラジリアンのマンボミュージックが優勢になるだろうと感じていた(そして、そう願っていた)。
今や、必要とされているのは、ナンセンスな歌詞の曲だった。1954年、特にポップチャートでは、R&B風のナンセンスソングが売れていた。クロウズの「ジー」、コーズとクルーカッツの「シュブーン」、ジーン&ユーニス Gene and Eunice、クルーカッツ、ペリー・コモの「ココモ」などである。
マーキュリーのパティ・ぺイジがベイカーと同じアトランティックのルース・ブラウンにとってかなわない相手になったのと同様("Oh, What a Dream" と "Mambo Baby" がペイジによってカバーされた)、ジョージア・ギブズはベイカーが望まない生き霊となる。ジョージア・ギブズは1920年にフレッダ・ギブズとしてマサチューセッツに生まれ、フレディー・ギブソンとして30年代後半にエディ・デ・ランジ Eddie de Lange のオーケストラに参加し、Lucky Strike Hit Parade で全国放送のラジオに進出した。1942年にジョージア・ギブズに名前を変え、1944年に最初のヒットを放った。アンドリューズ・シスターズの "Shoo-Shoo-Baby" のカバーだった。だが、R&Bがポップチャートに進出しようとするまでは、さほど売れなかった。「トウィードル・ディー」は彼女の最初の大ヒットだった。彼女の唯一のナンバーワンヒットは1955年の "Dance with Me, Henry" で、エッタ・ジェームズ Etta James の "Roll with Me, Henry" を小ざっぱりさせ、超やぼったくしたものだった。
ビルボード誌によると、1955年2月、ラバーン・ベイカーが「現代の著作権侵害者から歌手を守るために1909年著作権法を改正する可能性を研究すべき」と国会議員のチャールズ・ディグス・ジュニア Charles Diggs, Jr. に訴えた。ベイカーの嘆願書には次のように書かれていた。「ジョージア・ギブズとキャピトル・レコーズのカバー歌手ビッキー・ヤング Vicki Young は自分のアレンジを一音たがわずレコードに複製した。レコード購入者が他のバージョンを買ったために、自分は1万5千ドルの印税を損失した。私が書いた曲や、私のために書かれた曲を他人が歌うのはかまわないが、一音たがわず自分の音楽を盗む傲慢さには、とても憤慨する。」
カバーの慣習は30年代後半にさかのぼる。当時、さまざまなアーティストが、似たアレンジで同じ曲を録音した。当時、アーティストではなく曲が大切で、音楽出版社は、曲を宣伝する演奏者を雇い、できるだけ多くのプロデューサーやアーティストに演奏・録音させようとした。音楽出版社は、ヒット曲がラジオでかかったり、レコードで売れたり、ジュークボックスでかかったり、楽譜として売れたりすることで印税をかせいだ。自分の曲を書いたり、どの曲を歌うか決めることができる歌手はほとんどいなかったので、彼らが最も願っていたのは、自分自身の曲を作ることだった。"The Night We Called It a Day" のフランク・シナトラや、"Little White Lies" のディック・ハイムズ Dick Haymes のように。だが、通常、有望な曲があると、各レコード会社は自社のアーティストに録音させることを望んだ。そのため、たとえば "Open the Door, Richard" には多くの異なるバージョンがある。
1950年の重要な訴訟事件で、デッカはロサンジェルスの小さな独立レーベルから40万ドルを守った。2年前、ポーラ・ワトソン Paula Watson という黒人ピアニストが "A Little Bird Told Me" というポップス風のノベルティソングを録音した。黒人の作曲家ハービー・O・ブルックス Harvey O. Brooks がスープリーム・レコーズ(黒人の歯科医アル・パトリックが所有)のために書いた曲だった。ワトソンのレコードが幅広くヒットし、ポップチャートに入り込んだとき、デッカが曲をカバーした。カナダ人のナイトクラブ芸人イブリン・ナイト Evelyn Knight によるものだった。ワトソンのレコードはポップスのヒットとなったが、ナイトのカバーは100万枚売れた。アル・パトリックは、デッカがアレンジを盗んだとして、訴訟を起こした。だが、ロサンジェルスの連邦判事は、アレンジはオリジナルと十分に異なるし、著作権者は曲を所有するがアレンジは所有しないというデッカの主張を支持した。判事は、両方のレコードを聞いたあと、二つのアレンジはあきらかに異なるのみならず、デッカのレコードのほうが素晴らしいと述べた。最終的に、デッカの法的論争はパトリックの蓄えを消耗させ、判決が下されるまでに、スープリーム・レコーズは倒産した。この訴訟は、「トウィードリー・ディー」に関するアトランティックによる同様の訴訟が敗訴となる可能性を非常に高くする判例となった。
重要なリメイク:
Jesse Belvin (1958)
Roy Hamilton (ポップチャート45位、1958)
Johnny Tillotson (ポップチャート63位、1960)
Aretha Franklin (1969)
Kitty Wells (カントリーチャート49位、1971)
Oscar Weathers (R&Bチャート31位、1972)
Elvis Presley (1977)
Emmylou Harris (カントリーチャート9位、1984)
1955年初期、"Pledging My Love" というブルーズっぽいバラードが2か月半R&Bチャートのトップに君臨し、ポップチャートでも17位まで上昇した。歌っているのは25歳のジョニー・エイスで、物悲しげに、話すような声で歌い、とても印象的だった。"Pledging My Love" の成功を見届けるまでエイスが生きなかったことで、よけい彼の歌唱が心を締めつける。彼は、前年のクリスマスイブにピストル自殺したのだ。
ジョニー・エイスの死は、何年かのちまで世界中に知れ渡ることはなかったが、アメリカの黒人にはショックだった。1952年に彼の最初のレコードがR&Bチャートで1位になってから、黒人が出演する劇場ではスーパースターだった。彼のレコードはすべてハーレム・ヒットパレードのトップ近くまで上昇した。"My Song" "Cross My Heart" "The Clock" "Saving My Love for You" "Please Forgive Me" "Never Let Me Go" がそうである。彼の直接的で悲しげな歌唱は男も女もひきつけた。
ジョン・M・アレクサンダー・ジュニア John M. Alexander, Jr. は1929年6月9日にメンフィスで生まれた。父親は聖職者で、彼を含む10人の兄弟は厳格な家庭に育ち、ジョニーは内向的な大人になった。説教師の家庭で育ったほとんどの者がそうであったように、彼はピアノ演奏とスピリチュアルを歌うことを習った。だが、若いころ、ナッシュビル生まれの歌手兼ピアニストのルロイ・カー Leroy Carr に衝撃を受けた。たぶんルロイ・カーは最初に人気が出た都会のブルーズマンで、"In the Evening (When the Sun Goes Down)" で知られる。1935年に急性アルコール中毒で29歳で亡くなる前に、彼は、チャールズ・ブラウン、レイ・チャールズ、ジェシ・ベルビンなどの40年代、50年代に低い声でやさしく歌うブルーズ流行歌手のお手本を作っていた。だが、カーの最も悲劇的な信奉者はジョン・アレクサンダーだろう。ほとんど忠実にカーの足跡をたどった。
メンフィスで最高のR&Bラジオ局WDIAの白人幹部デビッド・マティス David Mattis は、自分のレーベル、デューク・レコーズ Duke Records を立ち上げ、ロスコー・ゴードン Roscoe Gordon の曲を録音した。ロスコー・ゴードンは、地元のピアニストで、50年代を通じて数多くのエキサイティングなレコードを送り出すことになる。当時、ゴードンのようなR&Bの有名人は、使い走りの歌手やミュージシャンを連れて旅することが多かった。ゴードンの使い走りは、ボビー・ブランドという名前の若い歌手だった。マティスはブランドの録音セッションを用意し、ブランドに歌詞を渡し、ビール・ストリーターズ Beale Streeters という名前の数名のミュージシャンを呼んだ。そのピアニストがジョン・アレクサンダーだった。
しかし、WDIAスタジオで録音する日、ブランドが字を読めないことがわかった。だから、マティスが渡した歌詞をおぼえていなかった。マティスは何か録音したくてしょうがなかった。「俺は、ジョニーがルース・ブラウンの "So Long" を歌うのを聞いて、とても良いと思った。著作権を侵害しない程度まで "So Long" のメロディーを変えて "My Song" を作った。」その日のうちに彼らはその曲を録音した。
くすんだ録音にもかかわらず、マティスはアレクサンダーの催眠的な歌い方に印象づけられた。アレクサンダーは、ソニー・ティル Sonny Til などのボーカルグループのバラード歌手に似ていたが、バックにいたのはソフトなボーカルグループではなく、洗練されていないメンフィスのブルーズマンだった。
アレクサンダーは、父親を困惑させたくなかったので、本名を使いたいくなかった。その結果、ジョニー・エイスが生まれた。黒人の文化では、「エイス」は頼れる奴や守ってくれる奴のことを言うが、マティスは別の理由でジョニー・エイスという名前をつけた。「当時の大スターをくっつけたんだ。ジョニー・レイ Johnnie Ray とフォー・エイセス Four Aces だ。」
"My Song" は、マティスがレコードをかけることができる場所でなら、どこでもリスナーに印象づけた。しかし、彼には資金がなかった。彼は配給網を確立しているパートナーを探した。彼が見つけたのはドン・ロビー Don Robey という49歳のヒューストンの企業家だった。
1953年夏、ロビーはジョニー・エイスをロサンジェルスに出向かせて、ピーコック・レコーズのビッグ・ママ・ソーントンと組ませた。彼女は「ハウンド・ドッグ」で大ヒットを飛ばしていた。エイスとソーントンは、8か月間、ツアーをして、デュエットも録音した。1954年1月、エイスとソーントンはロサンジェルスに戻った。ロサンジェルスでは、ジョニー・オーティスが、6名のアーティストとともにマラソン・セッションを録音していた。エイスはオーティスと4曲録音した。その中にはエイスが亡くなったあとでヒットした "Pledging My Love " と "Anymore" が含まれていた。
"Pledging My Love" はジョニー・オーティスのバイブとエイスがポロンと弾くピアノで始まる。メロディーは "Down in the Valley" という民謡にとても似ている。"Down in the Valley" は1944年にアンドリューズ・シスターズ Andrews Sisters が、1951年にウィーバーズ Weavers がヒットさせた。歌詞は、若者が女性の耳元でささやくような感じだ。「永遠に、ダーリン、僕の愛は真実だ。いつも、永遠に、君だけのことを愛している。お返しに約束してくれ。君の愛が僕の魂の火をつけて、永遠に燃やしてくれることを。」「永遠」という言葉はマントラのように曲の間じゅう繰り返され、若い愛の完璧な心情になっている。エイスの "Pledging My Love" の興味深い謎は、最後の節でマスターテープに何が起こったかだ。「残りの生涯、僕は君を永遠に愛し続けるよ。けっして僕は君と君の優しい愛し方から離れないよ。」あきらかに、何かがカットされ、つなぎあわされており、耳はそれを無視しようと努力する。
この曲を作った二人のうちの一人はロビー自身だが、彼は残忍な悪漢で、作曲家ではない。もう一人は、ルイジアナ州出身の若い黒人DJ、フェルディナンド・ファッツ・ワシントン Ferdinand "Fats" Washington で、車椅子生活を送っていた。同じセッションで録音した "Still Love you So" と "Anymore" も彼が曲を書いた。フェルディナンドの未亡人ベティ・ワシントンは次のように言う。「彼は "Pledging My Love" を詩として書いた。ロビーのスタジオ・アレンジャー、ジョー・スコット Joe Scott がそれに曲をつけた。彼はファッツが書いた歌詞すべてに曲を書いた。ドン・ロビーはまったく曲を書いていない。」にもかかわらず、ロビーは曲を完全に自分の所有物にした。ベティは続ける。「ファッツは著作権について何も知らなかった。契約のせいで彼はすべての権利を失った。私たちが得たのはBMIが支払ったお金だけだった(ラジオで曲がかかるとBMIはソングライターに代金を支払っていた)。のちにファッツ・ワシントンは幸運を得る。彼が書いた "I'll Be Home" は1955年にフラミンゴスによってR&Bヒットとなり(5位まで上昇)、パット・ブーンによってポップヒットとなった(4位まで上昇)。1960年代には、彼が書いた多くの曲をBBキングが歌った。
"Pledge My Love" の力にもかかわらず、ロビーは、ほぼ一年間、発売しなかった。理由はわからない。エイスは、最新ヒット "Never Let Me Go" をひっさげてツアーをしていた。クリスマスイブの日、エイスは、ヒューストン・シビック・オーディトリアムの楽屋にビッグ・ママ・ソーントンらといた。その一週間ほど前、彼は22口径のピストルを買っていた。バンド仲間たちは、彼がピストルをまわりの人たちに向けたりして、ふざけていたので、文句を言った。その日の夕方、かわい子ちゃんをヒザに乗せていたエイスは、女の子を楽しませようと、ピストルを自分の頭にあてて、引き金をひいた。弾が彼の頭をぶち抜いた。
"Pledging My Love" は、1954年12月始めに発売されてから勢いがなかったが、エイスの死が引き起こしたセンセーションと一般人の悲しみによって、ただちに恩恵を受けた。マスコミはエイスの死をロシアン・ルーレットのせいにしていた。
78回転盤よりも45回転盤の売上げがまさったことは重要だ。R&B市場で新しい流行が始まったことを知らせているからだ。小さな45回転盤は、まず白人の若い購入者を引きつけ、次に黒人のディーンエイジャーを引きつけた。大人は、自分たちが一緒に育った10インチの78回転盤にまだ愛着があった。あきらかに、45回転盤の "Pledging My Love" は、新たな広範囲の聴衆を見つけた。
次の数週間、哀れを誘うジョニー・エイスのトリビュート・ソングが市場に押し寄せた。20年前に歌手兼ピアニストのルロイ・カー Leroy Carr が亡くなったあとのようだった。ジョニー・ムーアのスリー・ブレイザーズ Johnny Moore's Three Blazers が "Johnny's Last Letter" を出してR&Bチャートの15位まで上昇した。エイスの初期のヒット "Please Forgive Me" のメロディーに、理解を乞う自殺メモの歌詞をくっつけたものだった。妊娠していたバレッタ・ディラード Varetta Dillard は、"Johnny Has Gone" と嘆く歌で6位まで上昇した。彼女のレコード会社サボイは、彼女のおなかの子の父親はジョニー・エイスだというデマを流した。リンダ・ヘイズ Linda Hayes は "Why, Johnny, Why?" と訴えた。ジョニー・エイス自身の "Anymore" も、何か月もチャートインした。これもフェルディナンド・ワシントンが作った曲で、"Pledging My Love" と同じときに録音した曲だった。ドン・ロビーは、録音していたエイスの曲がなくなると、新人歌手バディ・エイス Buddy Ace を売り出そうとしたが、この若者はジョニー・エイスの物悲しげな魅力に欠けていた。
1958年、ロックンロール市場が衰えると、ロビーは "Pledging My Love" のオリジナルテープにストリングスとジョーダネアーズ Jordanaires のバックコーラスを加えたが、ありがたいことに、さほど聞いた人はいなかった。1983年、ポール・サイモンが "The Late, Great Johnny Ace" を作り、アルバム Hearts and Bones に収録した。
"Pledging My Love" は何十人もの歌手に歌われたが、たぶん最も皮肉なバージョンは、もう一人の甘やかされて、まわりから孤立して育ったシャイなメンフィスの青年によるものだった。エルビス・プレスリーは、グレイスランドのジャングル・ルームにおける最後のセッションで
"Pledging My Love" を録音した。"Way Down" のB面として発売され、1977年8月に彼がなくなると、チャートを上昇した。
影響を受けたのは: "My Jesus Is All the World to Me" by Professor Alex Bradford (1954)
影響を与えたのは: オーティス・レディング、ジェームズ・ブラウン、ウィルソン・ピケット
重要なリメイク:
Elvis Presley (Elvis Presley, アルバムポップチャート1位、1956)
Sammy Davis, Jr. (1960)
Jimmy McGriff (ポップチャート20位、1962)
Rick Nelson (ポップチャート49位、1963)
Freddie Scott (ポップチャート48位、1963)
Ray Charles (ポップチャート79位、1965)
初期の偉大なR&Bソングのほとんどは、ゴスペルにインスパイアされているか、直接利用していると言われている。"I've Got a Woman" の場合は、レイ・チャールズとレナルド・リチャードが曲を作ったとクレジットされているものの、疑いもなくメロディーはスピリチュアルを俗っぽく作り直したものである。
レイ・チャールズのバンドでトランペットを吹いていたレナルド・リチャードは、インディアナ州サウス・ベンドからナッシュビルへツアーのために移動している途中で、レイ・チャールズとともに "I've Got a Woman" を思いついたと語っている。「いつものようにラジオでゴスペルを聞いていたんだ。とてもグルーブのよいスピリチュアルがかかったので、俺たちは曲に合わせて "I Got a Woman" と歌い始めた。レイが「これで何かできないかな」と言った。翌朝までに、彼は、別の曲のために書いた歌詞をラジオで聞いたメロディに組み合わせた。ラジオで聞いた曲は、プロフェッサー・アレックス・ブラッドフォード Professor Alex Bradford の "Jesus Is All the World to Me" で、スペシャルティ・レコーズから発売されたものだった。(のちに、レイ・チャールズは、ほかのスピリチュアルをヒット曲に書き直している。Dorothy Love Coates の "Hallelujah! I Love Him So" は "Hallelujah I Love Her So" になり、"You Better Leave That Liar Alone" は "Leave My Woman Alone" になった。)
間もなく、レイ・チャールズはアトランティックのアーメット・アーティガンとジェリー・ウェクスラーと連絡をとった。ウェクスラーは最初に "I've Got a Woman" を聞いたときのことを次のように説明している。「1954年11月、チャールズは、新しいバンドを聞いてもらうために我々をアトランタに呼んだ。ピーコック・ナイトクラブで午後に彼と会った。彼は我々のためにバンドを待機させていた。我々が場内に入るやいなや、チャールズはカウントをとって、"I've Got a Woman" を演奏し始めた。」
ドラマーのグレン・ブルックス Glenn Brooks が標準的なニューオリンズのシャッフルビートを刻むと、ドン・ウィルカーソン Don Wilkerson とデビッド・「ファットヘッド」・チャールズ David "Fathead" Charles のテナーサックスとバリトンサックスが鋭い打楽器のようなリフを鳴らす。レイ・チャールズが歌い始める。レイ・チャールズは "I got a woman" と歌っており、"I've got a woman" とは歌っていないが、曲名は文法に従った。
あの素晴らしい「ウェール」という歌いだしは、ビッグ・ジョー・ターナー、ロイ・ブラウン、ワイノニー・ハリスといったブルーズのシャウターの定番となった。曲の始まりを告げ、リスナーの注意をひく工夫となった。2年後、バディ・ホリーは "Rave On" や "Early in the Morning" で、この工夫を新たな高みへと持ち上げた。
アトランタで最高のR&Bディスクジョッキー、ゼナス・シアーズ Zenas Sears は、ラジオ局WGSTでレイ・チャールズと彼のバンドを録音した。レイ・チャールズらは、"Blackjack" "I've Got a Woman" "Greenbacks" "Cme Back Baby" を録音した。
"Come Back Baby" はローウェル・ファルソンの同名曲に基づく、教会で歌われるような曲で、1955年1月半ばにチャートインしたが、DJたちはB面を好み、翌週から "I've Got a Woman" が1位に向けて上昇し始め、R&Bチャートに20週とどまった。"Come Back Baby" は4位が最高だった。同じセッションで録音されたほかの2曲も、1955年にR&Bチャートのトップテンに入った。
南部の多くの黒人少年のように、彼は教会で育ったので、ゴスペルが骨の髄までしみている。ジュークボックスでは、ジミー・ランスフォード Jimmie Lunceford やラッキー・ミリンダー Lucky Millinder らのスウィングバンドの音楽を聞いた。彼が最初におぼえたのはリル・グリーン Lil Green の1940年のブルーズヒット "Romance in the Dark" だった。ナッシュビルのラジオショー「グランド・オール・オープリー Grand Ole Opry」にも強く影響を受けた。グランド・オール・オープリーは白人のカントリー音楽の厳格な催しだったが、多くの黒人に人気があった。
両親が亡くなったあと、セント・オーガスティンの州立盲人学校を退学して、さまざまなフロリダのバンドと演奏を始めた。その中には、白人だけのカントリーバンド、フロリダ・プレイボーイズ Florida Playboys も含まれていた。レイ・チャールズは15歳だった。彼は盲目の黒人エンターテイナーの流れをくんでいた。ブルーズマンのブラインド・ブレイク Blind Brake、ブラインド・ボーイ・フラー Blind Boy Fuller、ブラインド・レモン・ジェファーソン Blind Lemon Jefferson、ゴスペルグループのファイブ・ブラインド・ボーズ・オブ・アラバマ Five Blind Boys of Alabama、バラード歌手のアル・ヒブラー Al Hibbler の伝統を受け継いでいた。当時、彼に深く影響を与えていたのはナット・キング・コール Nat King Cole とピアニスト兼バラード歌手のチャールズ・ブラウン Charles Brown だった。ナット・コール・トリオのようなバンドを結成し、チャールズ・ブラウンの歌とピアノのスタイルをまねた。レイ・チャールズ・ロビンソンは、ボクサーのシュガー・レイ・ロビンソンと混同されないように、ロビンソンを除外した。ワシントン州のシアトルに引っ越したあと、1949年にダウンビートと契約した。彼が最初に契約したそのレコード会社は、黒人が所有するロサンジェルスのインディーズレーベルだった。すぐに会社は名称をスウィングタイム Swingtime に変えた。会社の同僚にはローウェル・フルソン Lowell Fulson がいて、当時、オリジナルの "Come Back Baby" を録音した。
レイ・チャールズは、最初のレコーディングで、彼はチャールズ・ブラウンのささやくような、洗練された声で歌った。最初のヒット曲は1951年の "Baby Let Me Hold Your Hand" で、あらゆる点から、チャールズ・ブラウン風だった。翌年、アトランティックが2500ドルで彼と契約をするまで、自分らしい声を発見しようとしなかった。彼が作る曲は、まだチャールズ・ブラウン風だったが、外部のブルーズ素材では、ゴスペルを自分の演奏に取り入れ始めた。トーキング・ブルーズの "It Should Have Been Me" は彼の最初の大ヒットとなった。だが、1954年にアトランタのラジオ局で録音するまでは何も起きなかった。天才が出現した!
"I've Got a Woman" を発売してから1年以上たったとき、エルビス・プレスリーがナッシュビルのRCAスタジオに入って、RCAのための最初の録音を行った。最初にテープに録音したのは "I've Got a Woman" で、次の「ハートブレイク・ホテル」のためのウォームアップだった。アトランティックがレイ・チャールズの曲の題名を "I've" にしたように、RCAは10代のリスナー向けに "I Got a Sweetie" に題名を変えた(文法は間違っているが)。プレスリーの荒々しく、エコーのきいたバージョンは1956年のアルバム「Elvis Presley」に収録された。アルバムは10週間一位に君臨し、数百万枚を売り上げ、初めて白人の大衆にR&Bを紹介した。
10年以上たち、別の二人の歌手がポップチャートに "I've Got a Woman" をポップチャートに送り込んだのち、レイ・チャールズは新しいバージョンをABCパラマウントのために録音した。ポップスのアレンジがされており、小ヒットとなった。
影響を受けたのは: "Hambone" by Red Saunders' Orchestra, with Dolores
Hawkins and the Hambone Kids (1952)
影響を与えたのは:
Baddy Holly "Not Fade Away" (1957)
Johnny Otis "Willie and the Hand Jive" (ポップチャート9位、1959)
Dee Clark "Hey Little Girl" (ポップチャート20位、1959)
Strangeloves "I Want Candy" (ポップチャート11位、1965) など何百ものレコード。
1952年2月にオーケー・レーベル Okeh Label から発売された「ハンボーン」は、ドラマーのレッド・サンダーズと彼のオーケストラ Red Saunders and His Orchestra とクレジットされており、ドロレス・ホーキンズ Dolores Hawkins とハンボーン・キッズが、ハンボーンとして知られる西アフリカのリズムに合わせて、体を叩きながら歌っている。より正確にいえば、それは「パッテド・ジューバ patted juba」リズムであり、当初、黒人の靴磨き少年たちが流行させたときは、"shave and a haircut, two bits" リズムと呼ばれていた。子供たちは、脚、おなか、胸をドラムとして使用して、リズムを叩いた。豚のもも肉の骨(ハンボーン)は、貧しい南部の家庭が青野菜の煮込みを味つけするのに一般的な食材で、シカゴ南部の学校まで届くまでにジューバ・リズムにこの名前がつけられた。
レッド・サンダーズが「ハンボーン」を録音しようと決めたとき、三人の少年をハンボーン・キッズとして使用して、遊び場風の原型をとどめることにした(三人の少年のうち、Delecta Clark は、のちに人気歌手 Dee Clark となり、彼の最大のヒット "Hey Little Girl [In the High School Sweater]" はハンボーン・ビートを使用することになる)。オーケストラと名づけられているにもかかわらず、サンダーズのバンドのベースとドラム、ドロレス・ホーキンズのうなり声が少々、単純な歌、手の打ちならし、すぼめた唇から出すポンという音しかなかった。「ハンボーン」はR&Bのノベルティ・ソングだった。
ディドリーと彼のバンドは、何軒かの安酒場で演奏したのち、708クラブで定期的に演奏し始めた。当時のメンバーは、彼のほかに、ハーモニカのビッグ・ボーイ・アーノルド Big Boy Arnold、ドラムのクリフトン・ジェームズ Clifton James、洗濯だらいベースのルーズベルト・ジャクソン Roosevelt Jackson だった。「小さなレコーダーでデモテープを作った。最初はビージェイ・レコーズ Vee-Jay Records に持って行ったが、追い出された。それで、通りの向かいにあったチェス・レコーズに行ったんだ。」
すぐに、ファンや批評家たちが歌詞の意味を解明し始めた。「俺の可愛い子が、自分は殺されたと言った my pretty baby said she was murdered」といった歌詞はほとんど意味をなさない。バディ・ホリーは、1956年に「ボー・ディドリー」をデモとして録音したが、「俺の可愛い子は、自分は鳥だと言った my pretty baby said she was a bird」と解釈している。ホリーが1959年に亡くなったあとダビングされたバージョンは1964年にイギリスのチャートに入った。ディドリー自身は次のように言っている。「みんな理解していない。歌詞を台なしにしている。そんなんじゃないんだ。「俺の可愛い子は、困ったことになったと言った my pretty baby said she was for it」が本当だ。
1955年11月20日、DJのトミー・「ドクター・ジャイブ」・スモール Tommy "Dr. Jive" Small のR&Bコンサートの一環としてラバーン・ベイカーやファイブ・キーズとともにニューヨークに出演した際、CBSテレビの土曜夜の「エド・サリバン・ショー」のプロデューサーたちが15分間のコーナーで彼らを紹介することに決めた。このとき初めて純粋なリズム・アンド・ブルーズが全米のテレビで披露された。「俺は「ボー・ディドリー」と「アイム・ア・マン」を歌うことになっていた。テネシー・アーニー・フォードが「16トン Sixteen Tons」でヒットを飛ばしていて、楽屋で俺が歌うのを聞いた奴らが、それも歌わないかと持ちかけてきたので、「かまわない」と言った。そのとき、俺は追加で歌うと思っていたんだ。それは誤解だった。奴らは「ボー・ディドリー」のかわりに「16トン」を歌ってもらいたかったんだ。もし俺がそれをやっていたら、今の俺はいないだろう。チェス・レコーズが俺をクビにしただろうから。」
影響を受けたのは:
Bob Wills and the Texas Playboys の "Ida Red" (1938) "Ida
Red Likes the Boogie" (カントリーチャート10位、1950)
Arkie Shibley "Hot Rod Race" (カントリーチャート5位、1950)
影響を与えたのは:
Eddie Cochran "Twenty Flight Rock" (1957)
Elvis Presley "Jailhouse Rock" (ポップチャート1位、1957)
チャック・ベリー自身 "Nadine" (R&Bチャート23位、1964)
Big John Greer, Mercy Dee "Come Back, Maybellene" (1955)
ロックンロールの歴史家のなかには、1955年のカリプソ・レコード "Oh Maria" というジョー・アレクサンダーとキューバンズ Joe Alexander and the Cubans をチャック・ベリーの最初の録音としている(ベリーがギターを弾いている)。メンフィスのデューク・レコーズ Duke Records のデビッド・マティス David Mattis は、1952年に彼とデモを録音していると主張している。だが、どちらの話もベリー自身が否定している。彼は公式な見解を支持している。「メイベリン」が最初のレコーディングであると。
1926年10月18日に生まれたチャールズ・エドワード・アンダーソン・ベリー Charles Edward Anderson Berry はでティーンのアイドルになりそうには見えなかったが、ニューヨークのDJアラン・フリードの助力によって1955年夏に「メイベリン」を発売した(フリードは作者のクレジットに加えてもらうことを条件にレコードを宣伝した)。チャックは30歳近かったし、美容師の免許を持った既婚者で、子供が二人いた。だが、彼の心は若かった。彼は19歳の若者よりもうまく思春期の歌を書くことができた。メイベリンのキャデラック・クーペ・デ・ビルに対抗して走るチャックのV-8フォード。エンジンは狂ったように動き、激しく打ちつける雨のなかで湯気を立てる。
チャック・ベリーは10代半ばでギターを弾き始めたが、最初はブルーズだった。高校で初めて演奏したとき、ウォルター・ブラウン Walter Brown の1941年のヒット曲 "Confessin' the Blues" を歌った。だが、白人のクラブでもうかる仕事をしたかったので、スタンダードやカントリーの曲を演奏するようになった。彼に強く影響を与えたのは、ジャズ・ギタリストのチャーリー・クリスチャン、カール・ホーガンとハム・ジャクソン(ルイ・ジョーダンのバンドのギタリストたち。ジャクソンをフィーチャーしているルイ・ジョーダンの "Saturday Night Fish Fry" はチャック・ベリーの "Reelin' and Rockin'" の原型である)、ジャンゴ・ラインハルト、マディ・ウォーターズ、Tボーン・ウォーカーだった。Tボーン・ウォーカーの特徴的なブルーズのリック(よく使われる短いフレーズ)は、ベリーのいくつかの曲に登場し、のちに「チャック・ベリーのリック」と呼ばれるようになる。もう一人の師匠はフロイド・マーフィで、彼のギターはジュニア・パーカーのブルー・フレイムズがサン・レコーズで録音した曲ではっきり聞こえる。「メイベリン」におけるベリーの演奏は、パーカーの1953年の "Mystery Train" におけるマーフィのソロを引用している。実際、「メイベリン」のリズムは、自動車よりも列車のリズムを思わせる。
ベリーは、その後、ロックの基盤だと今日考えられている音楽を録音し、"Rock Rock Rock" や "Go, Johnny, Go" など何本かの映画にも出演した。後者の映画では、演奏のみならず、セリフもしゃべった。50年代のロックンローラーとしては珍しい。のちに、たびたび法に触れたことで彼のキャリアは脱線してしまった。60年代にときおりヒット曲を出し、1972年に「マイ・ディンガリング My Ding-A-Ling」がポップチャートで1位になったものの、これらの曲は初期作品の活気や革新に欠けていた。ベリー自身がひからびただけでなく、ジョニー・ジョンソンのブルーズバンドによるしっかりしたバック演奏もなくなった。振り返ると、ジョンソンのリズミカルなピアノは、ベリーのギターぐらい重要だった。キース・リチャーズは、「メイベリン」などの初期のベリーのヒット曲はギターよりもピアノにマッチしたキーで演奏されていることに気づくことで、チャック・ベリーの名曲に対するジョンソンの貢献を強調した。
今日のチャック・ベリーは、1987年の映画 "Hail! Hail! Rock n Roll" で主題として扱われたあと、アメリカで偶像視されている。彼のコンサートは、リハーサルなしで、気が抜けており、調子が狂ったものだ。音楽に関心のある者なら、聴くのが苦痛だ。だが、慣習はそんなの気にしない。「メイベリン」のようなオールディーズの間じゅう気取って歩く限り、まるでロックンロールの創造を再び目撃しているかのように感じるからだ。
(2013年6月14日)
48
Little Richard
Tutti Frutti
(1955)
R&Bチャート2位 (6週)、ポップチャート17位
カテゴリー: R&B
作者: Dorothy LaBostrie, Richard Penniman, Lubin
レベールと番号: Specialty 561、ロサンジェルス
B面: "I'm Just a Lonely Guy (All Alone)"
録音日・場所: 1955年9月14日、ニューオリンズ
発売日: 1955年10月
なぜ重要か: リトル・リチャードがロックンロール最初のワイルド男として確立した。
影響を受けたのは:
Slim and Slam "Tutti Frutti" (ポップチャート3位、1938)
Slim Gaillard "Tutti Frutti" (1945)
影響を与えたのは:
Otis Redding "Shout Bamalam"(彼の最初のレコード)
重要なカバー: Pat Boone (ポップチャート12位)、 Art Mooney
重要なリメイク: Elvis Presley (アルバム Elvis Presley、ポップチャート1位、1956)、Little Richard
リトル・リチャードは曲の由来をはっきり知らないが、彼の初期の師匠である故R&Bシンガーのビリー・ライト Billy Wright との付き合いのなかで取りあげた可能性がある。リトル・リチャードに派手で陽気なライフスタイルを紹介したのはビリー・ライトだった。「衣装も髪型もメーキャップも彼を真似たんだ。メーキャップをした男なんて見たことがなかったから。」リチャードは、ボーカルのイントネーションもライトから借用した。それは、彼の最初のレコーディングで披露している。1951年、ライトは、リチャードがRCAビクターと契約するのを手助けした。
リチャードは、サウス・キャロライナの歌手兼ピアニスト、エスキュー・リーダー Eskew Reeder (芸名エスケリータ (Esquerita) から、この曲の初期のバージョンを取りあげた可能性もある。リチャードは次のように言う。「ジョージア州メイコンのグレイハウンド・バスのターミナルでこの陽気な奴と出会った。俺がエスケリータを家に連れてくると、彼はピアノで "One Mint Julep" を演奏し始め、甲高い音を出した。「どうすれば、そんな音が出せるんだい」と俺が聞くと、「教えてやるよ」と彼が答えた。俺が本当に演奏し始めたのはそのときだ。フレージングに関しては多くを彼から習った。彼は本当にたくさん教えてくれたんだ。」(のちにエスケリータはキャピトル・レコーズと契約し、「新しいリトル・リチャード」として売り出されたが、彼の声はハスキーすぎたし、彼のレコードは雑然としていた。)
1986年に亡くなる前、エスケリータは、「俺がリチャードと会ったとき、彼はまだオブリガートの「フゥー!」という声を使っていなかった。まともな歌い方だった。」「オブリガートの叫び声」は、オペラを勉強していた姉妹たちから何年も前にいただいたものだった。だが、リトル・リチャード自身は、「クララ・ワード・シンガーズ Clara Ward Singers にマリオン・ウィリアムズ Marion Williams という女性がいて、彼女が「神を愛している、フゥー!」と歌っていて、そこからもらった」と言っている。
リチャード・ウェイン・ペニマン Richard Wayne Penniman は1932年12月5日にメイコンで生まれた。彼の家族は敬虔な安息日再臨派(セブンスデー・アドベンチスト)で、祖父と二人の叔父が牧師だった。リチャード自身も聖歌隊で育ち、教会のピアノを弾いた。しかし、父親が彼の女性的な言動をバカにしたこともあって、16歳になるまでに家族から離れた。彼は地元の安酒場で演奏した。ラジオ局のタレント・コンテストで優勝した。その賞品はRCAとの契約だった。
リトル・リチャードがRCAに在籍した期間は短かったし、ヒューストンのピーコック・レコーズのために二度ほど録音セッションを行ったが、何も起きなかった。だが、彼はしつこかった。ロイド・プライス Lloyd Price のアドバイスで、リチャードはロサンジェルスのスペシャルティ・レコーズのアート・ループ Art Rupe にデモテープを送った。スペシャルティは3年前にロイド・プライスの「ローディ・ミス・クローディ」をヒットさせていた。ループは最初リチャードから感銘を受けなかった。ビリー・ライトらに似すぎていたからだ。だが、スペシャルティの37歳の新人A&Rマンでバンドリーダーのロバート・ブラックウェルがリチャードには何かあると感じた。ブラックウェルには新人を発掘する才能があった。過去に、レイ・チャールズとクインシー・ジョーンズを彼のバンドに参加させたことがあった。
ブラックウェルの提案で、彼とループは、スペシャルティが多くのミュージシャンを録音したニューオリンズに出向いた。彼らはリトル・リチャードと契約を結び、丸二日間レコーディングをすることにした。ループは、リチャードの才能やブラックウェルの制作能力をよく知らなかったので、たくさんの音源が欲しかったのだ。リチャードはリハーサルを積んだバンドを持っていたが、コジモ・マタッサのJ&Mスタジオミュージシャンを使うことにした。彼らは、ファッツ・ドミノがインペリアル・レコーズから出したヒット曲だけでなく、スペシャルティの多くのレコードでも演奏していた。ブラックウェルは、ヒューイ・スミス Huey Smith もピアニストとしてや知った。のちに、スミスは、"Rockin' Pneumonia and Boogie Woogie Flu" と "Sea Cruise" というヒット曲を飛ばした。テナーサックスのリー・アレンとレッド・タイラー、ギタリストのフランク・フィールズ、ドラマーのアール・パーマーらは、もはや「ファッツ・ドミノのバンド」とは呼ばれなくなることに気づいた。その年の終わりまでに、レコード会社がニューオリンズに押し寄せてきて、J&Mスタジオで彼らと録音することになるだろう。なにしろ、彼らは「リトル・リチャードのバンド」なんだから。
最初の日、9月13日、リトル・リチャードとバンドは、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが書いたリトル・ウィリー・リトルフィールド Little Willie Littlefield の "K.C. Lovin'" を含む4曲を録音した。スペシャルティは、のちにこの曲を「カンザス・シティ」として発売する。しかし、概して、その日のリトル・リチャードの選曲は平凡で、ブラックウェルはガッカリしてスタジオを離れた。
翌日も4曲録音することになっていた。ドロシー・ラボストリー Dorothy LaBostrie という地元の少女が書いた "I'm Just a Lonely Guy" という曲が含まれていた。ブラックウェルは次のように述べる。「自分の曲を録音してくれとしつこくせがまれた。どの曲も同じだったが、この曲は歌詞が良かったので、録音することにした。ループがレコードにできる良い曲を二曲ロサンジェルスに持って帰らなければならなくて、そのうちの一曲はドロシーの曲だと思った。だが、リチャードが用意した曲はヒットしそうになかったので、不安になった。録音が張り詰めたムードになったので、リラックスするために休憩をとった。その間、リチャードが「トゥッティ・フルッティ」を軽く歌っているのを聴いたんだ。それはナイトクラブの歌だった。だが、きわどい歌詞だったので、使い物にならなかった。」
テネシー州ナッシュビルのラジオ局WLACの番組 "Randy's Record Mart" のDJジーン・ノーブルズが「トゥッティ・フルッティ」をかけているのをリトル・リチャードが聴いたのはメイコンの自宅でだった。「曲が流れたので、「母さん、俺だよ!」と叫んだ。」有名な通販レコード店の所有者ランディ・ウッドは「トゥッティ・フルッティ」を大変気に入って、自分のレーベル、ドット・レコーズでカバーすることにした。歌ったのはテネシー州出身のハンサムな歌手、パット・ブーンだった。リトル・リチャードのオリジナルは、インディーレーベルの黒人レコードとしてはポップチャートで善戦したが、ブーンのバカバカしく礼儀正しいカバーのほうがはるかに売れた。
たぶん、「トゥッティ・フルッティ」の最も奇妙なカバーは、アート・ムーニーのバンドによるものだった。オシー・スミス Ocie Smith というバンドの若い歌手は、のちにO.C. Smith という名前で二曲ほどヒットを飛ばす黒人だが、コピーしたのはリトル・リチャードのではなく、パット・ブーンのバージョンだった。
リトル・リチャードは「トゥッティ・フルッティ」のいくつかのバージョンを出しているが、どれもオリジナルには及ばない。1964年、ヴィージェイ・レコーズ Vee-Jay Records はスペシャルティ時代のヒット曲数曲を再録音させたが、それらはひどい!だが、それらはアルバムに収録されて、オリジナルでもあるかのように販売されている。常にスペシャルティの商標を探すこと。
影響を受けたのは:
ハンク・ウィリアムズ、ギタリストの "Butterball" Page と Arthur Smith, ブルーズマンの John
Westbrook
影響を与えたのは:
若者の派手な服装をたたえた何十ものロカビリーレコード。たとえば Gene Vincent の "Red Bluejeans and
a Ponytail" (1956)、パーキンズ自身の "Pink Pedal-Pushers" (1958)、Dodie
Stevens の "Pink Shoe Laces" (ポップチャート3位、1959)
パーキンズのレコードはリッキー・ネルソンやジョージ・ハリソンにも影響を与えた。
重要なカバー: Elvis Presley (ポップチャート20位)、Boyd Bennett (ポップチャート63位)、Pee Wee King、
Lawrence Welk
重要なリメイク: Johnny Rivers (ポップチャート38位、1973), John Lennon (1975), the Toy Dolls
(1983), Con Hunley (カントリーチャート49位、1986)
17世紀のフランスでは、なめしていないキッド革でできたスウェーデン製の手袋が大流行した。フランス人はそれを grants de suede(スウェーデン製の手袋)と呼び、柔らかい毛の表面をスウェードと呼ぶようになった。1950年代初期までに、スウェード革やスウェードの布(スウェードのように見える織物)で作られた靴がオシャレなアメリカの黒人の間で流行した。1951年、アルトサックスのチャーリー・パーカーがマーキュリー・レコーズで "My Little Suede Shoes" を録音した。2年もしないうちに、メンフィスあたりの若い白人の男たちがビール・ストリートの黒人の衣料店にやってきて、ひもや伊達男が好んだピンクや黒の服で着飾った。おしゃれでクルーな男の必需品となったのは、スウェードの靴で、さまざまな色に染められていた。
カール・パーキンズは、テネシー州ジャクソンでホンキートンクを演奏していたとき、相手の女性よりも靴がする減らないことに気を使っていたダンサーを観察した。彼は、サン・レコーズの同僚ジョニー・キャッシュが最近彼に語ったことを思い出させた。キャッシュは、空軍で知った黒人について笑いながら語った。彼は、ピカピカに磨いた政府支給の靴を踏むなよと冗談交じりに警告していた。彼は、その靴をブルー・スウェード・シューズと呼んだ。何日かたった夜、パーキンズの頭に二つの出来事がうづまいて、起き上った。「スウェードはあのあたりで流行し始めていた。朝の3時ごろだった。俺は横になって、若者のことや、彼がどれだけ自分の靴を愛しているか考えた。だが、どうやって曲を始めていいのかわからなかった。そのとき古い子守唄が思い浮かんだ。"One for the money, two for the show, three to get ready and four to go"。彼は一階に降りて、ギターをつかみ、ジャガイモの袋にペンで曲を書きはじめた。15分もしないうちに、彼は「ブルー・スウェード・シューズ」を書きあげた。
それからの何年間は、ジョン・レノンからイギリスのパンクグループ、トイ・ドールズまで、みんながカバーした。ジョニー・リバーズは1973年にトップ40以内にランクインさせ、コン・ハンリー Con Hunley によって1986年にちょっとしたカントリーヒットとなった。だが、カール・パーキンズのオリジナルがスタンダードであり続け、多くの批評家は1950年代の代表的なレコードの一枚だとしている。これ以上にアメリカの新たに公民権を与えられた労働者階級の戦後の楽天的な雰囲気をとらえたレコードはない。身なりがちゃんとしていない彼らは、数千もの風変わりな流行や崇拝物を生みだした。青く染められたスウェードでできた靴のように。
彼は、10代のアイドル二人に対して大きな影響を与えたことで満足すべきかもしれない。リッキー・ネルソンは彼の曲を二曲ファーストアルバムで歌った。ネルソンは、ロックンローラーになろうとしたのはパーキンズのおかげだと言ったことがある。そして、ジョージ・ハリソンは、カール・パーキンズのレコードを聴いて、ギターをおぼえた。1964年にパーキンズがイギリスをツアーしていたとき、ビートルズが彼を録音セッションに招待した。ビートルズは、カールの曲を三曲録音した。「ハニー・ドント」と、 "Everybody's Trying to Be My Baby" と、ブライド・レモン・ジェファーソンの「マッチボックス」をパーキンズがアレンジしたものだった。
同様に、1万5千ドルでプレスリーの取引に参加したニューヨークの大手音楽出版社ヒル・アンド・レインジ・ミュージック Hill and Range Music もプレスリーをどう扱っていいのかわからなかった。
その間、フロリダ州のゲインズビルでは、トミー・ダーデン Tommy Durden という地元ミュージシャンがマイアミ・ヘラルド紙の1面を眺めて、死体の写真に目をとめた。見出しは「この男を知っているか」だった。記事によると、この自殺した男の身元がわからないらしい。この男のポケットには「俺は寂しい通りを歩く」というメモしか入っていなかった。
RCAのためのプレスリーの最初の録音セッションは、ナッシュビルの古い教会を改造したスタジオで行われた。プレスリーの誕生日から1週間もたっていない1956年1月10日と11日に行われた。エルヴィスをRCAと契約させた責任者でプロデューサーのスティーヴ・ショールズ Steve Sholes は、サン・レコーズのサウンドを引き継ぐことにし、公会堂で演奏しているような深いエコーを強調した。サン・レコーズのプロデューサー、サム・フィリップスも、プレスリーの小さなバンドの音をふくらませるためにエコーを使っていた。ウィンフィールド・スコット・ムーアがギター、ビル・ブラックがベース、そして、あとから、ドラマーのジミー・ロットとジョニー・バーネロ。"The Louisiana Hayride" からはD.J.フォンタナにドラマーが交代した。ショールズは、プレスリーのサウンドをふくらませるために、リズムギター(チェット・アトキンズ)とピアノ(フロイド・クレイマー)を加えた。さらに、ジョーダネアーズのゴードン・ストーカーとスピア・ファミリーのベンとブロックによるゴスペル・トリオも加えた。
ショールズの回想によると、プレスリーはウォームアップのために、ピアノに座り、バックグラウンド・ボーカリストたちと何曲か讃美歌を歌った。録音を開始する時間になると、プレスリーはレイ・チャールズの"I've Got a Woman" を歌いたいと言った。(結局、プレスリーのファンの気分を害させないために、"I've Got a Sweetie" に題名が変わった。)
ヒル・アンド・レインジ・ミュージックがパーカー大佐とRCAに投資した1万5千ドルの取引にしたがって、「ハートブレイク・ホテル」は、この音楽出版社のものとなり、プレスリーの名前は3番目にクレジットされた。RCAは、ヒル・アンド・レインジのカントリー "I Was the One" をB面に入れ、その月の終わりに発売したが、ほとんど何も起こらなかった。
RCAが「ハートブレイク・ホテル」を発売した翌日の1月28日、ドーシー兄弟のCBS番組「ステージ・ショー」にプレスリーは出演した。彼は、「ハートブレイク・ホテル」ではなく、ビッグ・ジョー・ターナーの「シェイク・ラトル・アンド・ロール」と「アイブ・ゴット・ア・ウーマン」を歌った(この2曲はプレスリーのデビューアルバムに収録されることになる)。1週間後、ふたたび同じ番組に出演し、"Baby, Let's Play House" と「ブルー・スウェード・シューズ」を歌った。奇妙なことに、ヒル・アンド・レインジはどちらの曲も出版権を持っていなかった。パーカー大佐が音楽出版社と駆け引きをしていたからか、プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」を歌う気にならなかったからか。
Data provided by Sheena & The Rokkets and Speedstar Records.
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