What Was the First Rock 'n' Roll Record?

Jim Dawson and Steve Propes の "What Was the First Rock 'n' Roll Record?"
  1. Jazz at the Philharmonic Blues, Part 2 (1944)
  2. Joe Liggins and His Honeydrippers The Honeydripper (1945)
  3. Helen Humes with the Bill Doggett Octet Be-Baba-Leba (1945)
  4. Ella Mae Morse House of Blue Lights (1946)
  5. Big Boy Crudup That's All Right (1946)
  6. Jack McVea and His All Stars Open the Door, Richard (1946)
  7. Lonnie Johnson Tomorrow Night (1948)
  8. Wynonie Harris and His All Stars Good Rockin' Tonight (1948)
  9. Wild Bill Moore We're Gonna Rock, We're Gonna Roll (1948)
  10. The Orioles It's Too Soon to Know (1948)
  11. John Lee Hooker Boogie Chillen (1948)
  12. Arthur Smith and the Crackerjacks Guitar Boogie (1948)
  13. Stick McGhee and His Buddies Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee (1949)
  14. Jimmy Preston and His Prestonians Rock the Joint (1949)
  15. Louis Jordan Saturday Night Fish Fry, Part 1 (1949)
  16. Professor Longhair Mardi Gras in New Orleans (1949)
  17. Fats Domino The Fat Man (1950)
  18. Muddy Waters Rollin' and Tumblin' (1950)
  19. Hardrock Gunter and the Pebbles Birmingham Bounce (1950)
  20. Hank Snow I'm Movin' On (1950)
  21. Ruth Brown Teardrops From My Eyes (1950)
  22. Arkie Shibley and His Mountain Dew Boys Hot Rod Race (1950)
  23. Les Paul and Mary Ford How High the Moon (1951)
  24. Jackie Brenston with His Delta Cats Rocket 88 (1951)
  25. The Dominoes Sixty Minute Man (1951)
  26. Johnnie Ray with the Four Lads Cry (1951)
  27. The Clovers One Mint Julep (1952)
  28. Bill Haley and the Saddlemen Rock the Joint (1952)
  29. The Dominoes Have Mercy Baby (1952)
  30. Lloyd Price Lawdy Miss Clawdy (1952)
  31. Hank Williams and the Drifting Cowboys Kaw-Liga (1953)
  32. Willie Mae "Big Mama" Thornton Hound Dog (1953)
  33. Big Joe Turner Honey Hush (1953)
  34. Clyde McPhatter and the Drifters Money Honey (1953)
  35. The Crows Gee (1953)
  36. Big Joe Turner Shake, Rattle, and Roll (1954)
  37. The Royals / The Midnighters Work With Me, Annie (1954)
  38. The Chords Sh-Boom (1954)
  39. Bill Haley and His Comets Rock Around the Clock (1954)
  40. The Robins Riot in Cell Block #9 (1954)
  41. Elvis Presley, Sooty and Bill That's All Right (1954)
  42. The Penguins Earth Angel (Will You Be Mine) (1954)
  43. LaVern Baker and the Gliders Tweedle Dee (1954)
  44. Johnny Ace with the Johnny Otis Orchestra Pledging My Love (1954)
  45. Ray Charles I've Got a Woman (1954)
  46. Bo Diddley Bo Diddley (1955)
  47. Chuck Berry Maybellene (1955)
  48. Little Richard Tutti Frutti (1955)
  49. Carl Perkins Blue Suede Shoes (1956)
  50. Elvis Presley Heartbreak Hotel (1956)
1
Jazz at the Philharmonic
Blues, Part 2
(1944)

第一弾は、Jazz at the Philharmonic の "Blues, Part 2" (1944) です。なぜパート2かというと、当時はレコードの収録時間が短かったので、全部で10分以上あるこのライブ演奏はAB面に分けなけらばならなかったのです。で、なぜパート1ではなくパート2かというと、パート2でのイリノイ・ジャケーのサックス演奏にロックンロールが感じられるからでしょう。

メンバーは次のとおり

  • イリノイ・ジャケー Illinois Jacquet:サックス
  • ジャック・マクヴィー Jack McVea:サックス
  • JJジョンソン J.J. Johnson:トロンボーン
  • ナット・キング・コール Nat King Cole:ピアノ
  • レス・ポール Les Paul:ギター
  • ジョニー・ミラー Johnny Miller:ベース
  • リー・ヤング Lee Young:ドラム

ナット・キング・コールとレス・ポールは各々 Slim Nadine と Paul Leslie という変名になっています。この事情が本文に書いてあったと思うので、近いうちに紹介します。

この本は50曲各々を説明する本文の前に「チャートで何位まで上がったか」とか作者とかレコード番号とか10項目ほどをまとめています。このレコードはチャートには登場しませんでした。

「なぜ重要か」という項目では次の理由を挙げています。

  • 最初に商業的に発売されたライブ録音のうちの一枚
  • ミュージシャンたちが来るべき音楽革命に影響を与えた。
  • テナーサックス奏者イリノイ・ジャケーのソロ演奏が、非常にエモーショナルな "honking 'n' squealing" サキソフォン一派を生み出すきっかけとなった。

「このレコードに影響を与えた」のは、サキソフォン奏者レスター・ヤング Lester Young とハーシェル・エヴァンズ Herschel Evans。そして、イリノイ・ジャケー自身の1942年の "Flying Home" でのソロ演奏。"Flying Home" はライオネル・ハンプトン楽団によるもので、1943年にポップチャートの23位まで上昇。

「このレコードが影響を与えた」のは、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore、ビッグ・ジェイ・マクニーリー Big Jay McNeely からキング・カーティス King Curtis に至るまであらゆるサキソフォン奏者。

「重要なリメイク」は、チャック・ベリー Chuck Berry の "Rockin' at the Philharmonic" (1958)
(シネシャモ日記2007年4月21日)

1944年、MGMで映画の編集をしていた26歳のノーマン・グランツ Norman Granz は、ロサンジェルスの331クラブで毎週ジャムセッションを開いていた。セッションが人気を呼んだので、通常はクラシックを演奏していたフィルハーモニック・オーディトリアムで日曜の午後にコンサートを開くこととなった。7月2日に行われた最初のコンサートは満員だった。

グランツは録音を考えていなかったが、米軍ラジオ放送部(Armed Forces Radio Service)で働いていたジミー・ライオンズ Jimmy Lyons が16インチのディスクに録音させてくれとグランツに頼んだ。米軍ラジオ放送部は、黒人兵士向けの番組のために、ロサンジェルスでジャズやスウィングを録音していた。録音されたコンサートは、12インチ(30センチ)または16インチ(40センチ)で78回転のレコードに編集され、世界中の短波放送局に送られた。Jazz at the Philharmonic (JATP) はうってつけのコンサートだった。

グランツは、ドラマーにリー・ヤングを雇った。27歳のリー・ヤングは、ニューオリンズ生まれで、サックス奏者レスター・ヤングの弟だった。ナット・コール・トリオも雇った。コールがピアノ、オスカー・ムーアがギター、ジョニー・ミラーがベースだ。過去にR&Bチャート1位になった曲を2曲持ち、このとき "Straighten Up and Fly Right" が1位に君臨していたコールのトリオが出演したことは、グランツに対して地元ジャズメンが持っていた敬意の表れである。このときキャピトルレコードに所属していたコールは、商業的価値の高いものとしてベルベットボイスを前年に確立しており、スリム・ネイディーンという別名で参加し、ピアノに専念した。ちなみに、ネイディーンというのは彼の妻の名前だ。

ギタリストのオスカー・ムーアは女と酒のためにコンサートに現れらなかったので、コールは友人のレス・ポールに頼んだ。レス・ポールは当時入隊しており、民間のミュージシャンとして録音に参加できなかったので、彼もポール・レズリーという変名を使った。

コンサートはレスター・ヤングの "Lester Leaps In" で始まった。二曲目はヘッド・アレンジメント(譜面を使わない、口頭の打ち合わせだけによる演奏)の曲で、マクヴィーによれば、「ほんの伝統的なブルーズだよ。みんなが演奏できる普通のコード進行なんだ。」

コールのピアノで始まり、続いてマクヴィーのテナーサックスがメロディを確立する。JJジョンソンのトロンボーンが盛り上げると、イリノイ・ジャケーが前面に出てきて、2分半の扇動的なソロを演奏する。ジャケーは、しわがれたうめき声のような音や甲高い音を出して、聴衆を熱狂させる。彼のサックスは明らかに何か新しいもので、ステージ上のおふざけと音楽の華々しさが入り混じったものだった。彼の演奏はジャズとR&Bの垣根を吹き飛ばした。

ジャケーは1922年10月31日にルイジアナ州で生まれ、テキサス州ヒューストンで育った。1941年に西海岸に移り、ライオネル・ハンプトンの楽団に加わり、翌年、"Flying Home" で印象的なソロを演奏した。このフィルハーモニックのコンサート当時はキャブ・キャロウェイの楽団で演奏していた。

このコンサートが大成功だったので、翌月もフィルハーモニック・オーディトリアムでコンサートを開き、同じミュージシャンを呼んだ。ジャケーは "How High the Moon" の演奏で聴衆をノックアウトし、JATPの運命を変えた。聴衆は荒れ狂い、座席をはぎ取ったので、フィルハーモニックの経営陣に嫌われ、次回からはシュライン・オーディトリアムで開催された。フィルハーモニック・オーディトリアムには二度と戻ってこなかったが、"Jazz at the Philharmonic" という名称は残り、15年後に海外で行ったときでさえその名称が使われた。

このコンサートを米軍ラジオ放送部が全世界で放送したのち、グランツはJATPの商業的魅力について再考した。ジミー・ライオンズからマスター盤が戻ってくると、ニューヨークに乗り込んだ。コロンビアレコードからはきっぱりと断られた。グランツはモーゼス・アッシュ Moses Asch と接触した。ポーランド移民であるアッシュは、30年代後期から、レッドベリーやウディ・ガスリーなど、ブルーズ、ゴスペル、フォークを録音していた。ジャケーが演奏する "How High the Moon" に針を落とした途端、アッシュは夢中になり、JATPの最初の二つのコンサートを一組のアルバムとして発売することに同意した。

40年代半ばのアルバムは本当にアルバムだった。本の中に紙ジャケット入りのレコードが数枚収められていた。通常、10インチ(25センチ)の78回転レコードだった。10インチの片面には3分半しか収録できないので、12インチ(30センチ)のレコードを使用した。

"How High the Moon" とともに伝統的なブルーズが収められた。単に「ブルーズ」と名づけられた。10分半あったので、両面に分割された。「パート1」はジャック・マクヴィーとJJジョンソンのソロで、「パート2」はジャケーのソロとナット・コールとレス・ポールのかけ合いである(私が持っている Jasmine Records というイギリスの会社から発売されている "Jazz at the Philharmonic" は、7分の「パート1」がジャケーのソロまで含まれており、3分半の「パート2」はナット・コールとレス・ポールのかけ合いだけです。2001年7月にウィークエンドサンシャインでかかったときも7分ぐらいのところでくっつけたものでした。ジャケーのソロは3分半ぐらいから6分ぐらいまで続き、誰だってジャケーの前で中断するよりジャケーの後で中断するだろうから、この本の説明は間違いだと思います)。

ライブ音源を発売するというのは危険だった。それまでライブ音源はラジオでのみ使用されていた。技術がまだ発達していなかったので、コントロール可能なスタジオ以外で録音した音楽を発売しようなんて誰も考えなかった。JATPコンサートのレコードは最初の「ライブ」アルバムとなった。

JATPコンサートは成功し続けたが、その後アッシュはグランツが録音にお金をかけすぎると感じたので提携を解消した。グランツはJATPの音源をマーキュリーなどの他のレーベルに貸し出したが、結局自らのレコード会社クレフ(Clef)、ヴァーヴ(Verve)、パブロ(Pablo)を設立した。JATPコンサートは "Mordido" というヒット曲を生んだ。1949年にジャケーが演奏したものだ。海外でもコンサートを開催し、ヨーロッパや日本で1980年代まで続いた。最初のコンサート全体を収録したアルバムは1976年にヴァーヴから発売され、現在でも入手可能だ。

ジャケーは、最初のコンサートのすぐあとでカウント・ベイシー楽団に加入し、次第に華々しさが消えて、まともなジャズミュージシャンになった。ナット・コールは、最初の黒人ポップスターとなり、数多くのバラード歌手に影響を与え、1965年に肺がんで亡くなった。レス・ポールは、メアリー・フォード Mary Ford とチームを組んで成功し、多重録音技術の開拓に貢献し、ロックンロールのギターソロを明示した。JJジョンソンは国際的に有名なトロンボーン奏者となった。リー・ヤングはハリウッドの権力構造に立ち向かい、映画撮影所、ラジオ、テレビのオーケストラに加入した最初の黒人ミュージシャンの一人となった。ジャック・マクヴィーは1947年の最大のヒット曲 "Open the Door, Richard" を共同で作り、自ら演奏した。
(シネシャモ日記2007年4月28日)

2
Joe Liggins and His Honeydrippers
The Honeydripper
(1945)

カテゴリーはブギウギで、作者はジョー・リギンズ。録音は1945年4月20日で、発売は4月21日(本当?)。R&Bチャートで1位を18週続け、ポップチャートでは13位まで上昇しました。

なぜ重要か: R&Bバンド編成による一番最初の大ヒット曲。

影響を受けたのは: 目立つベースラインは民謡 "Shortnin' Bread" から取り入れたもの。題名は、1930年代後期にハニードリッパーというニックネームが付けられたブルーズピアニスト兼歌手のルーズベルト・サイクス Roosevelt Sykes に由来するものかもしれない。

影響を与えたのは: 戦後の小さな独立系R&Bレコード会社全体。

重要なカバー:
Jimmie Lunceford with the Delta Rhythm Boys (ポップチャート10位)
Cab Calloway (R&Bチャート3位)
Roosevelt Sykes (R&Bチャート3位)
Bullmoose Jackson
Sammy Franklin

重要なリメイク:
Jo Liggins and His Honeydrippers (1950年)
Louis Jordan (1954年。"The Dripper" という題名で)
Rusty Bryant (1955年)
King Curtis (1959年)

(シネシャモ日記2007年5月4日)

ブギウギ・ピアニストのジョー・リギンズが「ハニードリッパー」を1945年に録音したとき、この曲は彼がサンディエゴやロサンジェルスのナイトクラブで演奏していた数多くの自作曲のひとつでしかなかったが、黒人音楽の出版者でソングライターのレオン・ルネ Leon Rene にとって自分のレーベル、エクスクルーシヴ・レコード Exclusive Records(ロサンジェルスの最も初期の黒人所有レコード会社のひとつ)を一儲けさせたし、鉄道のボーイにとって路線の駅で販売することで小遣いを稼ぐことができたし、東海岸のギャングにとって海賊盤という比較的新しい悪事に手を染めるきっかけとなった。音楽ファンにとっては、ジャズを基本にした偉大なR&Bダンスナンバーでしかなかった。

1942年にテキサス・ホップというダンスが広まり、リギンズはテキサス・ホップに合う曲を作った。幕間にピアノでこの曲を演奏すると、観客たちは喜んでテキサス・ホップを踊った。女の子たちがピアノのところに集まってきた。ドラマーが「女の子たちはみんなお前を囲む。お前はたくさんの蜜をたらしているんだ。お前は蜜たらし野郎だ!」と言うので、リギンズは歌詞を考えた。

リギンズは自分のバンドを作った。リトル・ウィリー・ジャクソン Little Willie Jackson がアルトサックスで、ほかにテナーサックスとベースがいた。レオン・ルネは自分のレーベルを設立したばかりで、自作曲を演奏してくれるバンドを探していた。ある日、ルネは、ジョー・リギンズの覚えやすい新曲が街の話題になっているという話を耳にした。

ルネがナイトクラブに聴きに行くと、リギンズは「11時45分にならないと演奏しない」と言った。当時は戦争中だったので、消灯令によって12時には街中の明かりが消された。ルネは、最後に15分の曲が演奏されるまで待った。

ルネは、片面3分しか録音できない10インチ盤にどうやって15分の曲を収めるか考えた。ルネはリギンズに短縮するよう頼んだが、リギンズは両面に録音することを提案した。片面は歌が中心で、もう一方は演奏が中心だ。リギンズは、もっとエキサイティングなレコードにするために、ドラマーを加え、それまでのベーシストをジョージ・「レッド」・カレンダー George “Red” Callender と交代させた。カレンダーは若いジャズベーシストで、のちに、チャーリー・パーカーや、リッチー・ヴァレンス、エディ・コクランなどのロックンローラーたちと演奏することになる。

この小さな集団は、多くの音とリズムをレコードに詰め込んだ。リギンズの単純でストレートなボーカルと執拗なピアノ・リフに導かれた「ハニードリッパー」は、古い民謡 “Shortnin’ Bread” のベースラインに乗っかって、一定のペースで進んでいく。演奏中心のB面では、クラリネットのウィリー・ジャクソンが “Shortnin’ Bread” のメロディを挿入してしまう。この民謡をアレンジした曲が1938年に著作権を取得し、アンドリューズ・シスターズによってヒットしていたが、幸いなことに、ロイヤルティを求めて弁護士が押しかけてくることはなかった。

初期の「ハニードリッパー」のレコードは針を離すための溝が内側になかったのでジュークボックスでかけることができなかったが、それが改善されると、カフェやバーのリスナーは硬貨をつぎ込んだ。「ハニードリッパー」はR&Bチャートのトップに17週間君臨し、ポップチャートでも上昇した。

エクスクルーシヴ・レコードは地方の販売網しかもっていなかったので、鉄道のボーイたちはロサンジェルスにやってくると1.05ドルでレコードを購入し、帰りの途中、シカゴなどの駅で並んでいる人々に5ドルで売った。

リギンズの演奏する「ハニードリッパー」が3週間でポップチャートから落ちると、ベテランの黒人バンドリーダー、ジミー・ランスフォード Jimmie Lunceford によるデッカのカバーが取って代わった。長年「ハニードリッパー」と呼ばれていたブルーズマン、ルーズベルト・サイクス Roosevelt Sykes もカバーを録音した。

レオン・ルネは、エクスクルーシヴ・レコードの「ハニードリッパー」が、販売網のないニューヨークで販売されているのを発見した。不思議に思ったルネがニューヨークに乗り込むと、マシンガンを抱えた連中が待ち構えていた。怒ったルネは、10万ドルをつぎ込んでニューヨークに販売網を開いたが、海賊盤を製造販売する連中が強すぎて、失敗に終わった。3年後、エクスクルーシヴ・レコードは倒産した。

1949年にエクスクルーシヴが倒産すると、リギンズはスペシャルティ・レコードSpecialty Records に移籍した。スペシャルティのオーナーは、ルネの債権者に、エクスクルーシヴのマスター盤を売ってくれるよう頼んだが、断られた。それで、リギンズの二つの大ヒット曲「ハニードリッパー」と “I’ve Got a Right to Cry” を一枚のレコードの両面に収めて発売した。凝縮したアレンジだったので、より引き締まって無駄のないものとなった。スペシャルティはこの1950年の「ハニードリッパー」を常にカタログに入れ続けたので、現在ではオリジナルよりも知られるようになっている。

ジョー・リギンズは、オクラホマ州の小さな町の出身者としてはよくやったと自分を評する幸せな男として人生を送った。レッド・ツェッペリンのロバート・プラントが1983年にハニードリッパーズという名前のバンドを作ったときも、彼は困惑しなかったようだ。リギンズは、1987年に72歳で亡くなるまで自分のバンド、ハニードリッパーズで演奏し続けた。

(シネシャモ日記2007年5月24日)



3
Helen Humes
with the Bill Doggett Octet
Be-Baba-Leba
(1945)

カテゴリーはR&Bで、R&Bチャートの3位まで上昇。作者はヘレン・ヒュームズ自身。録音は1945年8月にロサンジェルスで行い、発売は9月。レコード会社は Philo。

なぜ重要か: 主にビッグバンド・スウィングとブルーズから発展したR&Bが最初にビバップの影響を受けた例だから。

影響を受けたのは: Count Basie, "Boogie Woogie" (1937) bebop scat lyrics

影響を与えたのは:
Gene Vincent, "Be-Bop-A-Lula"(1956、ポップチャート7位)
Little Richard, "Tutti Frutti" (1956、ポップチャート17位)("a wop boppa loo bop alop bam boom!" という叫び声)
Chubby Checker, "Hey Bobba Needle"(1964、ポップチャート23位)

重要なカバー:
The Glenn Miller Orchestra, "Hey! Ba-Ba-Re-Bop"(ポップチャート4位)
Lionel Hampton, "Hey! Ba-Ba-Re-Bop"(R&Bチャート1位16週、ポップチャート9位)
Big Jim Wynn, "Ee-Bobaliba"
Dizzy Gillespie, "Bob A Lee Ba"
Tina Dixon, "E-Bop-O-Lee-Bop"
Wynonie Harris, "Hey-Ba-Ra-Re-Bop"

重要なリメイク:
Helen Humes, "E-Baba-Le-Ba" (1950, Discovery Records)
Thurston Harris (1958)

(シネシャモ日記2007年5月26日)

テキサス生まれのビッグ・ジム・ウィン Big Jim Wynn は自分のバンドを持つサックス奏者で、ロサンジェルスで活躍していた。戦時中、彼のバンド The Bobalibans は "Ee-Bobaliba" というバカバカしい歌詞の曲を演奏していたが、1942年から44年にかけてジュークボックス印税をめぐりミュージシャンがストライキを行ったことと、レコードの原料であるシェラックが不足していたために、その曲をレコード化することができなかった。

ウィンの曲にはどれくらいのオリジナリティがあったのだろう。ジェリー・ロール・モートン Jerry Roll Morton は、「ビー・ババ・リーバ Be-Baba-Leba」のブギ・ラインを「かなり古くからあるリフ」だと述べている。昔からのエイトビートのリフをより現代的にした曲は、1937年にカウント・ベイシーがデッカで録音した「ブギウギ Boogie Woogie」で、ボーカル・リフレインはジミー・ラシング Jimmy Rushing だった。ただ、ラシングは「ウー・ババ・リーバ ooh baba leba」 とは歌っていない。

1944年、メズナー兄弟 Ed and Leo Mesnerが Philo Records をロサンジェルスに設立した。レコード産業はまだストライキや戦争から復興しておらず、ほとんどのミュージシャンは自由契約だったので、ミュージシャンを獲得するのは容易だった。Philo Records は、イリノイ・ジャケー Illinois Jacquet、ワイノニー・ハリス Wynonie Harris、ジェイ・マクシャン Jay McShann、そしてカウント・ベイシー楽団のヘレン・ヒュームズ Helen Humes を獲得した。

ヒュームズは、1913年6月23日、ケンタッキー州ルイスビルの中流の上の黒人家庭に生まれた。「ルイスビルにはリンカーンという名前の劇場があって、そこで小さい頃マ・レイニー Ma Rainey、ベッシー・スミス Bessie Smith、ジョセフィン・ベイカー Josephine Baker、エセル・ウォーターズEthel Watersを見たけど、歌手になりたいなんて思ったことなかったわ」と1970年代のインタビューで彼女は述べている。

1927年、彼女が13歳の時、Okeh Records のためにエセル・ウォーターズ風のブルーズを何曲が録音した。伴奏はロニー・ジョンソン Lonnie Johnsonだった。1930年代中期には、白人トランペッター、ハリー・ジェームズ Harry James とともにレコードを録音した。1937年、カウント・ベイシー楽団の専属歌手としてビリー・ホリデイ Billie Holiday のあとを継ぎ、3年以上在籍し、1938年12月には、さまざまな黒人音楽が初めて白人に紹介された伝説的なカーネギーホールでの "Spirituals to Swing" コンサートに立つという栄誉にあずかった。ただ、彼女が在籍中、カウント・ベイシー楽団はヒット曲に恵まれなかった。1941年、ベイシーは、ヒュームズと関係を持っていたことを妻に知られ、妻にせがまれてヒュームズを解雇する。

ヒュームズは、カウント・ベイシー楽団で仕事をしている間、男性専属歌手のジミー・ラシングが「ブギウギ」を歌うのを何度も聞いた。これはパイン・トップ・スミスPine Top Smith の1929年のヒット曲 "Pine Top's Boogie Woogie" に基づいていたが、歌詞は全然違っていた。

ヒュームズがどうやって歌詞を考え出したのか誰もはっきりとは知らない。ジム・ウィンは、「ビー・ババ・リーバ」というリフレインは彼から盗んだものだと主張するが、裁判沙汰にすることはなかった。誰が最初に考え出したにせよ、スペルや発音がさまざまな be-baba-leba がビーバップ bebop を語源とするのはほぼ間違いない。

ビーバップ(またはリーバップ)は、1940年から41年ごろに現れたジャズの一形態で、トランペッターのディジー・ガレスピー Dizzy Gillespie とエレキギタリストのチャーリー・クリスチャン Charlie Christian が作り出したと一般に言われている。何でも盗んでいく白人ミュージシャンをまごつかせるために、仲間内の暗号言葉のようなものとして調子はずれの音程を使ったのだ。ジャズライターでミュージシャンのバリー・ウラノフ Barry Ulanov の推測によれば、チャーリー・クリスチャンが「ビーバップ」という言葉を生み出した。というのも、クリスチャンが演奏中にハミングする音に似ているからだ。「ビーバップ」は、ラテンバンドが気合を入れるときのかけ声、「アリバ arriba」や「リバ riba」の変形だという者もいる。いずれにせよ、「ビーバップ」という言葉は1942年までに "go, man, go" という意味で広く使われるようになっていた(「もっとやれ!」という意味?)。しかし、当時、録音が禁止されていたため、ビーパップの初期の発展はレコードに記録されていない。

ピアニストでアレンジャーのウィリアム・バラード・ドゲット William Ballard Doggett は、ヘレン・ヒュームズから一緒にセッションをしてほしいと頼まれた。ドゲットは、自分の小さな楽団を連れていった。リハサールなしにただ現場に行っただけだ。ヒュームズは各々の曲のキーとテンポを告げるのみで、素早く練習し、そして録音した。

ドゲットのバンドのテナーサックス奏者はその日開いていなかったので、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore を使った。

少なくとも5曲録音した。3曲は、ヒュームズがカウント・ベイシー楽団で歌っていたようなバラードで、4番目は "He May Be Your Man" というジャンプブルーズで、最後が「ビー・ババ・リーバ」だった。彼女の高い声にマッチした曲で、次の10年間、R&B界での彼女の地位を築いた。

ドゲットの活発なピアノのイントロは、カウント・ベイシーの「ブギウギ」をまねているが、テンポが速い。ヒュームズは、最初は標準的なブルーズの歌詞を歌うが、最初の感想のあとで、ワイルド・ビル・ムーアによる50年代R&Bの定番となる派手なサックスソロに合わせて、きわどい歌詞を歌い始める。「私が好きな男は向こう見ずなの。彼は、恋人が欲しがるものを何でも持ってるわ。ウー、ウー、ウー、ババ・リーバ...。」

またムーアの派手なソロが入ったあとで、ヒュームズは続ける。「彼は朝も夜も私をゾクゾクさせるの。彼の愛し方ったら、歓喜で悲鳴を上げさせるほどなの。ウー、ウー、ウー、ババ・ルーバ…。」クライマックスはこんな具合だ。「入ってくるときは虎みたいで、出て行くときは子羊みたいなの。彼が愛し始めると、私は叫ぶの。ウー、ウー、ウー、ババ・リーバ!」歌の中でヒュームズは「ビー・ババ・リーバ」というタイトルを完全に発音することはない。

1945年9月に発売された「ビー・ババ・リーバ」が12月にチャートインするやいなや、デッカレコードは、ライオネル・ハンプトンに "Hey! Ba-Ba-Re-Bop" を録音させた。ハンプトンのバージョンのスィング感はビッグ・ジム・ウィンのバージョンに近かったが、ハンプトンのは、彼とバンドメンバーたちとのかけ合いの面白さがあった。より大きな市場を求めて、わいせつな歌詞がキャブ・キャロウェイのようなナンセンスなものに替えられた。デッカはレコードプレス工場を持っており、たくさんの枚数を市場に送り出すことができたので、バカ売れした。ハンプトンのはヒュームズのジャンプ感がなかったが、ヒュームズをチャートから蹴落とし、3ヵ月間トップの座に君臨し、ポップチャートでもトップテンヒットとなった。Tex Beneke やグレン・ミラーのバージョンに追い越されなければ、もっと上位になっていただろう。

ヘレン・ヒュームズにとって「ビー・ババ・リーバ」は最大のヒットとなったが、彼女がより知られているのは、1950年のライブ録音の「ミリオン・ダラー・シークレット Million Dollar Secret」によってだろう。彼女が「ビー・ババ・リーバ」に我慢できるとしたら、それはB面の "Every Now and Then" のおかげで、この曲は彼女がカウント・ベイシー楽団に入る前から好きだった曲だ。

「ビー・ババ・リーバ」は、ヒュームズをR&Bファンに知らしめただけではなく、32歳のベテランシンガーを未成年の少女だと錯覚させた。彼女の甲高い声は、1927年に初レコーディングしたときのように若々しかった。彼女がきわどい歌詞を少女のような声で歌ったことで、思春期や思春期前の女性歌手が次々と輩出することとなった。たとえば、8歳の Toni Harper("Candy Store Blues")や13歳の Little Esther Phillips である。彼女の "The Deacon Moves In" は、R&B界で最も恥知らずな小児性愛への賛歌の一つだ。

1947年、ヒュームズは、ディジー・ガレスピーと彼のビーバップ・オーケストラとともに、"Ee-Baba-Leba" という10分の映画に参加した。同時に、ガレスピーは、"Jivin' in Be-Bop" というミュージカル映画で "Bob A Lee Ba" を演奏した。ヒュームズは、1950年に Discovery Records のために、この曲をライブ録音した。タイトルは "E-Baba-Leba" だった。察するに、もともとこの曲のタイトルは "E-Baba-Leba" だったと思われる。

ヘレン・ヒュームズは、1950年代半ばにR&B歌手というレッテルをはずし、ジャズ界に復帰した。1981年9月13日に亡くなるまで、世界中を回り、フェスティバルで歌い、レコードを録音し、レコーディングのキャリアが70年に及ぶ数少ないアーティストの一人となった。

ビル・ドゲットは、1949年にルイ・ジョーダンのバンドに加わり、"Saturday Night Fish Fry" など、いくつかのヒット曲を演奏した。彼自身のコンボが1956年に録音した "Honky Tonk" は、50年代のロック時代で最も有名なインスト曲の一つとなった。

メズナー兄弟は、「ビー・ババ・リーバ」で儲けたお金でアラジンレコード Alladin Records を設立し、サーストン・ハリス Thurston Harris の "Little Bitty Pretty One" でヒットを飛ばした。しかし、ハリスは第二のヒット曲をあみだすことができなかったので、メズナー兄弟は自社カタログから「ビー・ババ・リーバ」を引っぱり出してきた。ハリスの歌は元気がよかったが、1958年に発売されるまでにハリスは落ち目になっていた。

ヒュームズは1973年にフランスで「ビー・ババ・リーバ」を再録している。そのときのタイトルは「ウー・ババ・リーバ Ooh Baba-Leba」だった。声が少しハスキーになっているものの、60歳の女性シンガーの歌は、まだ少女が歌っているように聞こえた。

(シネシャモ日記2007年6月23日)



4
Freddie Slack and His Orchestra

With Ella Mae Morse
House of Blue Lights

(1946)

4曲目は、女性シンガー、エラ・メイ・モース Ella Mae Morse をフィーチャーしたフレディ・スラック Freddie Slack 楽団の「ハウス・オブ・ブルー・ライツ House of Blue Lights」。

ポップチャートの8位まで上昇したブギウギナンバー。作者はドン・レイ Don Raye とフレディ・スラック。レコード会社はロサンジェルスのキャピトル。録音日は1946年2月12日で、発売日は2ヵ月後の4月1日。

なぜ重要か:
モースとスラックは最初の白人R&Bスターで、二人のレコードは、キャピトルが西海岸で最初のメジャーなレコード会社となるのに貢献した。

影響を受けたのは:
パイン・トップ・スミス Pine Top Smith の「パイン・トップのブギウギ Pine Top's Boogie Woogie"(1929、ポップチャート20位)

影響を与えたのは:
ルイ・ジョーダン Louis Jordan の「ブルーライトブギ Blue Light Boogie」

重要なカバー:
アンドリューズ・シスターズ Andrews Sisters(ポップチャート15位)
エイモス・ミルバーン Amos Milburn

重要なリメイク:
メリル・E・ムーア Merrill E. Moore (1952)
チャック・ミラー Chuck Miller (1955、ポップチャート9位)
アール・リチャーズ Earl Richards (1969、カントリー&ウエスタンチャート39位)
アスリープ・アット・ザ・ウィール Asleep at the Wheel (1987、カントリー&ウエスタンチャート17位)

1940年代初期に白人によるちゃんとしたR&Bが存在していたなんて信じられない諸君は、1942年と1946年にエラ・メイ・モースとフレディ・スラックが作ったブギウギレコードを聴いて見給え。

エラ・メイ・モースは、1924年9月12日にテキサス州ダラスに近い小さな町で生まれた。彼女の父親はジャズバンドのドラマーで、12歳からプロ歌手として父親のバンドで歌い、地方のラジオ番組に出演した。1939年、彼女が14歳の時、ジミー・ドーシー Jimmy Dorsey が彼のバンドに彼女を雇い入れたが、たった2ヵ月ツアーに参加しただけだった。しかし、ここで当時29歳だったピアニスト兼アレンジャーのフレディ・スラックと出会った。

スラックは、1935年ごろ、ベン・ポラック Ben Pollack のバンドで演奏していたが、そのときパイン・トップ・スミスのブギウギレコードを初めて耳にした。その一年後、ジミー・ドーシー楽団に参加して、ビッグバンドのためにブギウギナンバーをアレンジすることを思いついたが、国民がブギウギに熱狂する1939年まで、その考えは実現しなかった。

ブルーズと血縁関係にあるブギウギは、1900年代初期に南部の安酒場や売春宿で発達した。旅回りのピアノ奏者は、安酒場や売春宿で、ぼろぼろで音程がおかしくなったアップライトピアノを弾いて、みんなを楽しませた。左手でベースのリフを弾き、右手で即興のメロディを弾く。初期のピアノ奏者は、走る列車のカタコトいう音を左手でまねた。実際、最初のブギウギレコードは、ミード・ラックス・ルイス Meade Lux Lewis の1927年の「ホンキー・トンク・トレイン・ブルーズ Honky Tonk Train Blues」だった。ブギウギという名称は1920年代にシカゴで付けられたと言われている。

最初にブギウギを印象づけたレコードは、1929年のパイン・トップ・スミスの「パイン・トップのブギウギ」だった。このダンスレコードがポップマーケットでよく売れていたとき、スミスはナイトクラブで誤って射殺された。

9年後、ついにブギウギが流行し始めた。ピアニストのミード・ラックス・ルイス、ピート・ジョンソン Pete Johnson、アルバート・アモンズ Albert Ammons によるブギウギトリオがカーネギーホールの「スピリチュアルからスウィングへ」コンサートでブギウギを紹介し、その後全国ツアーで大人気を博したからだ。同年、トミー・ドーシー Tommy Dorsey が「パイン・トップのブギウギ」を「ブギウギ」に作り替え、大ヒットとなった(カウント・ベイシーの1937年の「ブギウギ」とは違う)。

スラックが小編成バンドを結成した時、ボーカルにエラ・メイ・モースを迎えることを考えた。彼女は17歳になっていた。スラックはハリウッドに乗り込み、1942年に設立されたばかりだったレコード会社キャピトルに参加した。スラックがエラ・メイ・モースと録音した「カウ・カウ・ブギ Cow Cow Boogie」はヒットした。その原曲であるラグタイムピアニストのチャールズ「カウカウ」ダペンポート Charles "Cow Cow" Davenport の「カウ・カウ・ブルーズ」は、映画 "Ride 'Em Cowboy" のために書かれ、エラ・フィッツジェラルドが歌ったが、誰も強く売り込まなかった。モースとスラックは、この曲を取り上げ、活気のある曲に仕上げ、映画からレコードへというプロセスを逆にした。キャピトルが二人の「カウ・カウ・ブギ」で稼いでいる間に、二人はコロンビア社の新作映画 "Reveille with Beverly" (1943) でこの曲を演奏したのだ。

次の二人の曲 "Mr. Five By Five" も10位まで上昇したヒットとなり、アンドリューズ・シスターズのカバーを少し上回った。この曲はR&Bチャートでも1位となった。

その後すぐにエラ・メイとスラックは別れたが、エラ・メイはブルーズのスタイルで歌い続けた。多くの黒人リスナーたちは彼女を黒人だと考えていたかもしれない。というのも、彼女の "Shoo Shoo Baby" (1943) と "Buzz Me" (1946)は黒人チャートで1位と2位になったからだ。しかし、白人も彼女のレコードを買った。"Shoo Shoo Baby" はポップチャートでトップテンヒットとなり、デッカレコードがアンドリューズ・シスターズの俗受けするカバーを出さなければ、もっと上昇しただろう。そのカバーは1位に9週間君臨した。エラ・メイの "Buzz Me" もヒットした。この間、彼女は映画に出演し続けた。

1946年、エラ・メイ・モースとフレディ・スラックは再び一緒にレコードを作ることにした。スラックは、ソングライターのダン・レイ Don Raye を連れてきた。彼は、"Down the Road Apiece"、"Beat Me Daddy, Eight to the Bar"、"Boogie Woogie Bugle Boy" (あとの二曲hアンドリューズ・シスターズの大ヒット曲)の歌詞を書いて名声を築いていた。レイが何曲か持ってきた中で、エラ・メイとスラックは "Hey Mr. Postman" と「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」を選んだ。(ここで、冒頭の二人のセリフについて説明しているけど、残念ながら、割愛させてください。本当は重要なんですけど)

「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」という場所はホットだったに違いない。リトル・リチャードは、「グッド・ゴリー・ミス・モリー Good Golly, Miss Molly」の中でハウス・オブ・ブルー・ライツを訪れているし("From the early early morning to the early early night, when it comes Molly's rockin' at the house of blue lights")、チャック・ベリーも1958年に訪ねているが、チェスレコードは1974年まで発売しなかった。

「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」が全米でヒットし始めた時、例によってアンドリューズ・シスターズがカバーしたが、エラ・メイとスラックのほうがよく売れた。

1952年、エラ・メイはネルソン・リドルのオーケストラとともに "Blacksmith Blues" を録音し、100万枚のヒットを飛ばし、彼女の一番のヒット曲となった。彼女はR&Bを歌い続けたが、1950年代半ばにR&Bが白人の間で流行し始め、退屈な白人カバー歌手が数多く出てくるにつれ、彼女の歌手生活に陰りが見え始めた。彼女の晩年のシングルの一つは、ケイ・スターの「ロックンロール・ワルツ」と同系列の「ロックンロール・ウェディング」だった。B面は、コースターズの最初のレコード「ダウン・イン・メキシコ」のカバーで、彼女には似つかわしくなかった。

その頃までにキャピトルは、水で薄めたようなビッグバンドのポップス御用達となっており、ロックンロールの夜明けとはまったく関係ないように思えたが、A&Rプロデューサーのケン・ネルソンは、モースとスラックの成功によって、メリル・E・ムーア、ジーン・ヴィンセント、エスケリータ Esquerita、ファイヴ・キイズなどの新しいロッカーたちの発掘を任されていた。その後、キャピトルは、ビーチボーイズとビートルズを専属アーティストのリストに載せることになる。

エラ・メイ・モースは、海軍の軍医と結婚し、子供たちを育て、徐々にジョービジネス界から消え去り、たまにナイトクラブでジャズっぽいポップスを歌うだけになった。

フレディ・スラックは1965年8月10日に死去。(International Movie Database によれば、エラ・メイ・モースは1999年に75歳で死去。この本 "What Was the First Rock 'n' Roll Record?" が発行されたのは1992年だから、まだ健在だったようです。)

二人が作ったレコードは、まだ最先端に聞こえる。「カウ・カウ・ブギ」は少し前にデルタ航空がテレビコマーシャルで使用し、The Judds がカバーした。「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」はR&Bチャートには登場したことがないが、カントリーソングとして数回リメイクされた。

(シネシャモ日記2007年7月18日と19日)



5
Big Boy Crudup
That's All Right

(1946)

  • チャートインせず。
  • カテゴリー:ブルーズ
  • 作者:アーサー・クルーダップ
  • レーベル:RCAビクター、ニューヨーク
  • B面:"Crudup's After Hours"
  • 録音日:1946年9月6日、シカゴ
  • 発売時期:1946年後期、1949年3月
  • なぜ重要か:45回転で最初に発売されたブルーズ/R&Bレコード。初期ロカビリーの原型。
  • 影響を受けたのは:
    "My Black Mama" by Son House (1930)
    "Keep on Trying" by Tampa Kid (1936)
    "If I Get Lucky" by Big Boy Crudup (1941)
    "Keep Your Arms Around Me" by Big Boy Crudup (1944)
  • 影響を与えたのは:
    エルヴィス・プレスリー、JBルノア J.B. Lenoir
  • 重要なリメーク:
    プレスリーの1954年の最初のレコード
    マーティ・ロビンズ Marty Robbins (1955、カントリーチャート7位)

アーサー「ビッグボーイ」クルーダップが、ベーシストのランサム・ノーリング Ransom Knowling とドラマーのローレンス「ジャッジ」ライリー Lawrence "Judge" Riley と一緒に、シカゴの質屋の上で、粗雑で単純なブルーズを録音した時、この曲がどんな運命をたどるか誰も知る由もなかった。レコードの売れ行きはまあまあだった。だが、6週間のプロモーションと販売の後に忘れ去られてしまう何百枚のブルーズレコードの一枚でしかなかった。

しかし、この1946年、なにか違うことが起こりつつあった。コロンビアレコードのエンジニアたちは秘かにマイクログルーブという新たなレコードフォーマットを開発中だった。それは33 1/3回転のLPレコードで、1948年6月21日に公開されることになる(それまでは78回転のSPレコード)。これは、さらに別の形のレコードフォーマットを作り出すことになり(45回転のシングルレコードのこと)、ビッグボーイ・クルーダップを音楽史の一部に加えることになる。

クルーダップ("crew-dup" と発音する)は1905年8月24日にミシシッピ州に生まれる。32歳までギターを習ったことがなかったし、初レコーディングまでさらに4年間かかった。1941年、彼はゴスペルグループとともにツアーをしていたが、シカゴで文無しになって立ち往生していた。クルーダップは、駅で寝泊まりしながら、ミシシッピに帰る列車代を稼ぐために通りで歌っていた。すぐに、ブルーバードレコードの楽譜出版者でA&Rマンのレスター・メルローズ Lester Melrose の目にとまり、レコード契約を交わした。

メロルーズは、J・メイヨ・ウィリアムズ J. Mayo Williams (13曲目の "Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee" に登場するようです)とともに、不況時代の初期からコロンビアとビクターという大会社のためにシカゴの黒人音楽制作を独占していた。メルローズは、ブルーズミュージシャンと直接契約し、レコード会社に貸し出していた。彼が規則を作り、価格を設定していたので、ミュージシャンたちはいやもおうもなかった。クルーダップは、後年、この契約を後悔することになる。

クルーダップは最初のセッションで稼いだお金でミシシッピに帰り、畑を耕し、そのかたわら密造酒を作った。年に一度か二度シカゴに出向き、サウス・ステート・ストリートの「イーライの質屋」の上にある仮のスタジオでメルローズお抱えのミュージシャンとともにレコーディング・セッションを行った。クルーダップのレコードはよく売れるので、ビクターは40枚以上発売したが、メルローズは1曲につき75ドルから200ドルしかクルーダップに払わなかった。契約上、クルーダップは自分の曲に対する著作権を持つことができなかったし、印税を受け取ることができなかった。

1940年代の半ばに RCA(Radio Corporation of America) がビクターレコードと合併し、クルーダップは子会社のブルーバードから新たなRCAビクターに移籍した。クルーダップは1945年から46年に2曲のヒットを飛ばし、そのうちの "So Glad You're Mine" はR&Bチャートで3位まで上昇したが、「ザッツ・オール・ライト」はヒットしなかったし、彼の代表的なレコーディングでさえなかった。1944年の "Keep Your Arms Around Me" など、それ以前の曲を数曲つなぎあわせた程度のものだった。220ポンド(100キロ)という体格は「ビッグボーイ」というあだ名にふさわしかったが、甲高い声は体格にそぐわなかった。彼の演奏でもっとも特徴的なのは彼の声で、力強いフィールド・ハラー(field holler。働きながら上げる叫び声)とゴスペルのシャウティングを混合させたものだった。一方、ギターの腕前は初歩的なものにとどまった。通常Eのキーでしか演奏しなかったし、主にシンコペーションのためにギターを使用し、スタッカートで弦を打ち鳴らし、絶えず拍子を飛ばした(曲のリズムや小節構造を変えた)。

「ザッツ・オール・ライト」で伴奏しているベースのランサム・ノーリングとドラムのローレンス・ライリーは、メルローズのセッションミュージシャンで、クルーダップのブルーバード盤でもよくバックを務めていた。メルローズが特に頼りにしていたのはノーリングで、クルーダップのような田舎のブルーズマンがよく見舞われるホームシックにかかることのないベテランのニューオリンズ出身ベーシストだった。ノーリングはメルローズの右腕的な役割も務めており、クルーダップが駅からスタジオに来る途中で酒場に寄らないように見張っていた。

「ザッツ・オール・ライト」は、自分を苦しめている女性を我慢するかどうか決めかねている男の歌だ。「今はそれでいいのだ、ママ、あんたにとってそれでいいのだ、今はそれでいいのだ、ママ、あんたがどう振舞おうがそれでいいのだ、それでいいのだ、今はそれでいいのだ、ママ、あんたがどう振舞おうが。そんなふうに生きてちゃ女がお前の命取りになるよ、とママもパパも言う。でも、それでいいのだ。ベイビー、俺がいらないんなら、なぜそう言ってくれない。お前の家のまわりをうろつく俺に悩まされずに済むんだぜ。でも、それでいいのだ!」ママという言葉はあいまいで、クルーダップは、母親と、彼を苦しめる女性の両方に意味で使っているように思える。

「ザッツ・オール・ライト」は、1946年にはそこそこ売れただけだったが、その3年後、RCAビクターはこの曲をレコーディングの歴史の一部にしようと決心した。話は1900年ごろにさかのぼる。フィラデルフィアの Improved Gram-O-Phone Record Company は、1分間78回転で演奏される、セラックを原料とする10インチのレコードを開発した。それまでは72回転から85回転の間で回っていたものだから、結果はたいてい笑えるものだった。1948年までは、1930年代半ばにビクターが33 1/3回転のレコードを導入しようとして破産しかかったことを除いて、録音技術にたいした変化はなかった。

そして、すべてが変わった。コロンビアは、12インチの微細溝の長時間演奏(long-play, LP)レコードを導入し、録音業界を支配しそうな勢いだった。他の会社は、コロンビアのプレス工場でアルバムをプレスするか、売れたLP1枚ごとに料金を支払わなければならなかった。RCAビクターの技術者たちは昼夜を問わず熱に浮かされたように「マダムX」プロジェクトに従事し、「マダムX」は1949年初めにお披露目された。

「マダムX」は、控えめな7インチの45回転シングルで、中央に大きな穴が開いていたから、すぐに「ドーナッツ盤」と呼ばれるようになった。業界のほとんどの者は45回転盤をあざ笑った。片面4分ぐらいしか録音できなかったからだ。RCAビクターは45回転盤の耐久性と軽さを強調したが、この小さなプラスチック製の実験盤がコロンビアの大きなLP盤とどのように競い合うのか確信がなかった。ドーナッツ盤が失敗に終わらないように、RCAビクターはマーケティングの天才たちを雇い、一般大衆に売り込もうとした。

誰かがジャンルごとにビニール盤を色分けしたらどうかと提案した。1949年3月の初めにRCAビクターが新商品を発売したとき、カントリーは緑、クラシックは赤、ポップスは青、子供用は黄に色分けされた。リズム・アンド・ブルーズ(R&B)は明るいオレンジだった。

その日発売された最初のオレンジ盤は、ビッグボーイ・クルーダップの「ザッツ・オール・ライト」だった。彼は、初めて45回転盤を出した黒人アーティストとなったのだ。「ザッツ・オール・ライト」は南部のラジオ局で何度か放送され、何枚か売れ、再び、さほど騒がれもせずに消えていった。

45回転盤はすぐに流行した。もしポップミュージックが戦後アメリカの使い捨て文化の一部だとしたら、この安くて小さな盤は完璧な使い捨て商品だった。他のレコード会社は、RCAビクターと契約して、自社専属アーティストの曲を45回転盤で発売した。そして、10代の若者は、45回転盤をR&Bやのちのロックンロールの成長と重ね合わせたので、45回転盤を自分たちのものと呼ぶようになった。1958年までに、大きなレコード会社は、78回転盤の製造を中止した。

1954年、RCAビクターは、アーサー・クルーダップとの契約を失効させた。彼のレコードは売れていなかった。皮肉なことに、同じころ、メンフィスのサンレコードが、クルーダップの名前を歴史書にとどめることになるセッションの録音を行っていた。1954年夏、プレスリーは、ギタリストのスコッティ・ムーアとベーシストのビリー・ブラックとともに最初のセッションで「ザッツ・オール・ライト」を録音した。1946年のクルーダップのアレンジとほとんど同じで、ドラムがないことと最後の2番を省略していることが主な違いだった。のちにプレスリーはクルーダップの "My Baby Left Me" をサンレコードのために録音し、クルーダップのいたRCAビクターに移籍してからは "So Glad You're Mine" を録音した。これら三曲によって、この古いブルーズマンが若いプレスリーに大いに影響を与えたのは明らかだ。

しかし、クルーダップは、1940年代にレスター・メルローズと交わした契約によって、プレスリーの録音からは、まったくと言っていいほど恩恵を受けなかった。「俺はみんなを金持ちにしたが、俺は貧しい」と彼は不平を言う。彼は、亡くなるまで、メルローズから曲を受け継いだ楽譜出版社と争ったが、出版社の弁護士たちは彼を寄せつけなかった。

ニューヨーク市ハーレムのファイアレコードがのちに発売するクルーダップの1959年のナッシュビル録音にプレスリーがお金を支払ったという噂もある。しかしファイアレコードの所有者ボビー・ロビンソンは、1962年にバージニア州でクルーダップを見つけて、ニューヨークで録音したけど、プレスリーからの援助はなかったと言う。いずれにせよ、このセッションからは、オリジナルによく似たパワフルな「ザッツ・オール・ライト」が生まれ、60年代初期のアルバム "Mean Ol' Frisco" に収録された。

晩年、アーサー「ビッグボーイ」クルーダップは、フェスティバルで演奏し、アメリカとヨーロッパで数枚のアルバムを録音した。ブッダレコードは、1973年のニューポート・ブルーズ・フェスティバルでライブ録音された「ザッツ・オール・ライト」を "The Blues - A Real Summit Meeting" というアルバムに収録した。ボニー・レイットと巡業公演したのち、1974年3月28日にバージニア州フランクタウンの自宅で脳卒中によって亡くなる。

(シネシャモ日記2007年8月13日から15日)



6
Jack McVea and His All Stars
Open the Door, Richard

(1946)

  • R&Bチャート2位、ポップチャート3位
  • カテゴリー:ノベルティR&B(「ノベルティ」は冗談ソング)
  • 作者:当初はジャック・マクヴィー Jack McVea とクラーク Clarke、のちにダスティ・フレッチャー Dusty Fletcher、ジョン・メイソン John Mason、マクヴィー、ドン・ハウエル Don Howell
  • レーベル:ロサンジェルスのブラック&ホワイト
  • B面:"Lonesome Blues"
  • 録音日:1946年9月、ハリウッド
  • 発売時期:1946年12月
  • なぜ重要か:初期のノベルティR&B。ノベルティR&Bは50年代のロックンロールの定番となるジャンル。フェードアウトを利用した最初の商業レコード。大ヒットカバーやアンサーソングを大量に生み出した最初のポピュラーレコード。
  • 影響を受けたのは:
    ダスティ・フレッチャーの寄席コント。
  • 影響を与えたのは:
    キャデラックス、コースターズなどによる数多くのノベルティレコード
  • 重要なカバー:
    カウント・ベイシー(R&Bチャート2位、ポップチャート1位)
    スリー・フレームス the Three Flames(R&B3位、ポップ1位)
    ダスティ・フレッチャー(R&B2位、ポップ3位)
    ルイ・ジョーダン Louis Jordan(R&B2位、ポップ6位)
    チャリオティアーズ the Charioteers(ポップ6位)
    パイド・パイパーズ the Pied Pipers(ポップ8位)
  • 重要なリメーク:
    ピッグミート・マーカム Pigmeat Markham (1964)
    ビル・ドゲット Bill Doggett (1965)

黒人によるドタバタの冗談ソング「オープン・ザ・ドア・リチャード」は1947年にアメリカとヨーロッパの一部を席捲したが、大衆は、いったん飽きてしまうと、「あれは一体何の騒ぎだったんだろう」と忘れ去ってしまった。

この曲が全米で大騒ぎとなったとき、ジャック・マクヴィーはすでにロサンジェルスのジャズ界とR&B界では著名な人物だった。1914年生まれのマクヴィーは、バンドリーダーの息子で、高校でサキソフォンを習い、卒業と同時にクラブのバンドで演奏するようになった。ライオネル・ハンプトン楽団に3年間在籍し、1942年のヒット曲「フライング・ホーム」ではテナーサックスのイリノイ・ジャケーのバックでバリトンサックスを吹いた。2年後、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックのコンサートに参加し、「ブルーズ」ではイリノイ・ジャケーの前にソロを演奏した(1曲目「ブルーズ」参照)。

マクヴィーは、ハンプトン楽団と一緒にツアーをしている間、黒人コメディアンのダスティ・フレッチャーとよく仕事をした。マクヴィーは次のように回想する。「彼は酔っぱらいを演じ、家に帰ってドアをノックし、「リチャード、ドアを開けろ」と怒鳴る。何の反応もないので、梯子を持ち出して、「リチャード、ドアを開けろ」と怒鳴りながら、登る。しかし、何の反応もない。あきらめて梯子を降りようとすると、よろめいて落ちてしまう。」

1946年、小さなバンドのリーダーになっていたマクヴィーは、フレッチャーのコントを歌に作り変えた。「単純なメロディーはすぐに浮かんだ。通りの向こうの窓から女性がこっちを見ているというような歌詞を加えた。」

9月終り、マクヴィーは、ハリウッドの独立系レコード会社ブラック&ホワイトのために「オープン・ザ・ドア・リチャード」を録音した。プロデューサーのラルフ・バス Ralph Bass は次のように回想する、「マクヴィーに何曲かブルーズを演奏させたが、どれも似たり寄ったりで、死ぬほど退屈だった。それで、彼のライブで聴いたことがある「オープン・ザ・ドア・リチャード」を提案したんだ。」

曲の中で、マクヴィー、ドラマーのレイボン・タラント Rabon Tarrant、トランペッターのジョン「レッド」ケリー John "Red" Kelly は、リチャードが一つしかない家の鍵を持って早く家に帰ったあと、夜遅く家に帰る。バンドメンバーがノックや呼び声を繰り返しても、リチャードは出てこない。そしてコーラス部分になり、メンバーがユニゾンで「ドアを開けろ、リチャード。ドアを開けて入れてくれ。ドアを開けろ、リチャード。リチャード、なんでドアを開けてくれないんだ!」と歌う。隣人たちが騒ぎ始める。通りの向かいの女性がカーテン越しに様子をうかがっている。マクヴィーは再びノックする。彼はリチャードが中にいるのを知っている。というのも、「彼の息づかいが聞こえる」からだ。しかし、曲がフェードアウトしているときも、酔っぱらったおしゃべり連中がドアをガンガンたたく音はやまない。

ラルフ・バスは、曲がレコードには長すぎたことを憶えている。「メンバーたちはさらに5分ほど演奏を続けた。が、この頃の10インチレコードには収まらないので、フェードアウトさせた。初期のフェードアウトするレコードのひとつだったなんて当時は知らなかった。」

実際にはフェードアウトする最初のレコードではなかった。クラシック音楽やノベルティソングは78回転レコードの片面には収まりきらずに両面に入れる場合があった。ジョー・リギンズの「ハニードリッパー」のように。しかし、それらは、盤をひっくり返すとフェードインして(A面の最後と少しオーバーラップする)、あたかも中断がなかったかのように再開する。

しかし、「オープン・ザ・ドア・リチャード」の場合、リチャードの不運な仲間たちが叫んだりノックしたりする様子を眺めるのにうんざりした我々が、その場を離れて、角を曲がって、やがて彼らの声が聞こえなくなるという効果を生んでいる。

レコードは翌年早々にヒットした。RCAビクターは急いでカウント・ベイシー楽団にもっとおとなしいバージョンを録音させた。そのレコードはポップチャートで1位になった。スリー・フレイムズというニューヨークの黒人ボーカルグループもコロンビアレコードのために録音し、これもポップチャートで1位になった。引退して安宿に寝泊りしていたダスティ・フレッチャーは、独立系のナショナル・レコードに探し出されて、彼の古い寸劇を録音することとなった。このレコードもポップチャート3位まで上昇した。ルイ・ジョーダンもデッカのために録音して、たぶん最もおかしくてエネルギッシュな「オープン・ザ・ドア・リチャード」ができあがった。これはポップチャートの6位まで上昇した。

ルイ・ジョーダンは、録音する前からこのコントを知っていたはずだ。というのも、1944年3月に "How High Am I" を録音したときに、「ヘイ!リチャード。降りてきて、このドアを開けろ!」と言っているからだ。実際、マクヴィーはずっとお決まりの出しものにしていたようで、1945年12月にスリム・ゲイラードがチャーリー・パーカーとともに録音した "Slim's Jam" の中で、スタジオのドアを叩いて、「ドアを開けろ、リチャード!」と叫んでいる。

いったい、リチャードはなんで出てこないんだろう?リチャードは中で何をしているのだろう?この性的なほのめかしによって、曲の人気は高まっていった。白人優越主義も一役買った。ミンストレル・ショー(黒人に扮した白人の歌や踊り)や焼きコルク(白人が黒人に扮するときに塗る)の伝統に目を開かせた。

ミンストレル・ショーは19世紀前半に誕生した。初期のミンストレル・ショーは顔を黒く塗った白人が演じていたが、南北戦争後は、黒人の芸人が、黒人のまねをする白人をまねた。黒人自身が顔を黒く塗ることもあった。1900年までにミンストレルショーは時代遅れとなり、ボードビル劇場とラグタイム音楽に取って代わられた。しかし、20世紀に入っても、黒顔の白人によるレコードがミリオンセラーとなることがあった。Arthur Collins の "The Preacher and the Bear" (1905) や Moran and Mack の "Two Black Cow" (1926) などである。

全国有色人種地位向上協会は、黒人の酔っ払いを軽々しく扱っているとして、この曲を公に非難した。特に、ダスティ・フレッチャーが二面にわたって演じている、酔っ払ってゆっくり話す、やる気のない無知な黒人男性に不快感を示した。

便乗商品として、リチャードのピン、リチャードのブレスレット、リチャードのジーパンとシャツが発売された。リチャードという名の者はみんなからかわれた。

マクヴィーのレコードは100万枚以上売れているはずなのに、マクヴィーの手元にはほとんど金が入ってこなかった。作者の印税に関して、ダスティ・フレッチャーのコントは自分のコントがもとであると主張するジョン「スパイダー・ブルース」メイソン John "Spider Bruce" Mason というコメディアンが出てきた。訴訟が決着するまで2年かかり、結局4人の名義となった。マクヴィー、フレッチャー、メイソン、そしてドン・ハウエルである(最後のはフレッチャーのレコードを録音したナショナルレコードの架空名義)。

夏真っ盛りになる前にリチャードブームは終わりを告げた。マクヴィーの "The Key's in the Mailbox" など1ダースのアンサーソングはヒットしなかったし、マクヴィーのレコードを発売したブラック&ホワイト・レコードは倒産した。マクヴィーは1962年までサックスを演奏し続け、T・ボーン・ウォーカー、ビッグ・ジョー・ターナー、ワイノニー・ハリスなどのバックを務めた。サックスをやめたあとは、ディズニーランドを歩きながら演奏するデキシーランド・トリオでクラリネットを演奏した。(80年代半ばに引退、2000年死去)(シネシャモ日記2007年9月29日)



7
Lonnie Johnson

Tomorrow Night
(1948)

  • R&Bチャート7週1位、ポップチャート19位
  • カテゴリー:R&B、ブルーズ
  • 作者:サム・コスロー Sam Coslow、ウィル・グロス Will Grosz
  • レーベル:オハイオ州シンシナティのキング King
  • B面:"What a Woman"
  • 録音日:1947年12月10日、シンシナティ
  • 発売時期:1948年1月か2月
  • なぜ重要か:初めてポップチャートでヒットしたカントリーブルーズ
  • 影響を受けたのは:
    ホレス・ハイト楽団 Horace Heidt and His Orchestra の「トゥモロー・ナイト」(1939年にポップチャート16位)
  • 影響を与えたのは:
    エルビス・プレスリー、BBキング、バディ・ホリー
  • 重要なリメイク:
    エルビス・プレスリー(1954)
    ラバーン・ベイカー LaVern Baker(1954)
    カール・スミス Carl Smith (1959、カントリーチャート2位)
    ビッグ・ジョー・ターナー(1959)
    BBキング(1962)
    ダミタ・ジョー Damita Jo (1965)
    チャーリー・リッチ Charlie Rich(1973、カントリーチャート29位)

ブルーズ歌手兼ギタリストのロニー・ジョンソンは、最初のヒット曲「トゥモロー・ナイト」を録音したとき60近かった。彼は1925年から録音していた。ブラインド・レモン・ジェファーソン Blind Lemon Jefferson とともに、20年代後期に最も人気のあったブルーズマンだった。1930年までにかれは100枚を優に超えるレコードを作っていた。ギター奏者として彼はブルーズもジャズも弾くことができたので、素朴なブルーズ歌手テキサス・アレクサンダー Texas Alexanderやブルーズの歌姫ビクトリア・スパイビー Victoria Spiveyからデューク・エリントンやルイ・アームストロングの洗練されたバンドまで、誰とでも共演できた。1929年、彼は、ベッシー・スミスのミッドナイト・ステッパーズ Bessie Smith's Midnight Steppers とともに演奏旅行をした。彼は、ジャンゴ・ラインハルト、チャーリー・クリスチャン、ロバート・ジョンソン、エルビス・プレスリーに深い影響を与えた。

かすかに聞こえるピアノとベースをバックに、年とったブルーズマンが高音で物悲しく歌う。なよなよしたセンチメンタルな歌詞で、まるでシレルズの1961年のヒット曲「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥナイト」の下書きのようだ。しかし、ジョンソンの物悲しい声とリラックスしたスタイルは、どの曲も誠実で真情あふれたものにする。このレコードは、1948年に最も売れた黒人レコードの一つとなった。

ロニー・ジョンソンはニューオリンズ出身で、たぶん1889年生まれだが、1894年生まれや1900年生まれという説もある。1922年、スペイン風邪によって彼の家族のほとんどが亡くなってしまった。ジョンソンは多才なミュージシャンで、バイオリン、ギター、他の弦楽器、ピアノを弾くことができた。のちに「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を書いたジェシ・ストーン Jesse Stone が1925年にジョンソンと契約を交わし、ジョンソンはオーケーレコード Okeh Record に所属した。3年後、ジョンソンは、ジャズギターの父、エディ・ラング Eddie Lang と組んで "Two-Tone Stomp" を録音し、これがジョンソンの最初のヒットとなった。

ジョンソンは、歌うような単音のギターによるカウンターメロディをジャズに持ち込んだ。バイオリンの練習によって得たものを12弦ギターに移し替えたジョンソンの単音によるビブラート奏法は、音楽の歴史を変えた二人のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトとチャーリー・クリスチャンに愛された。

ロバート・ジョンソンも彼のファンだった。1938年、ロバート・ジョンソンは "Malted Milk" でロニーの歌とギターをまねた。また、 "Stop Breakin' Down" は、ロニーの初期の曲 "No More Troubles Now" に基づいている。

シンシナティのキングレコードがなければジョンソンは早くに引退していたかもしれない。シド・ネイサン Syd Nathan が1943年に設立したキングレコードは、アパラチアン出身のデルモア・ブラザーズ Delmore Brothers やグランドパ・ジョーンズ Grandpa Jones のヒルビリー専門レーベルとして出発した。40年代後期にR&Bがブームになったとき、ネイサンはR&B専門のクイーンレコードという姉妹レーベルを設立したが、すぐに断念して、カントリーとブルーズのミュージシャンをキングレコードに統合し、しばしば同じ曲を両方のジャンルで録音した。ブルーズもヒルビリーも同等の熱情と自信で歌うことができたロニー・ジョンソンはキングレコードにとって完璧なミュージシャンだった。

今は亡きヘンリー・グローバー Henry Glover は次のように語った。「私が40年代後期に録音監督としてキングレコードに入社したとき、ロニー・ジョンソンはブルーズ歌手兼ギタリストだった。私は何年も前から彼を知っていた。ロニーはテーブルの吟遊詩人だった。彼はテーブルからテーブルへと移動しながら、歌って演奏した。」ナイトクラブでテーブルからテーブルへと歌って歩く親密さは、スタジオでの録音に持ち込まれた。彼は、出しゃばらないコンボをバックに「トゥモロー・ナイト」を録音した。ジョンソンが単純なブルーズを歌うとき、ジョン・ヒューズ John Hughes のピアノとレイ・クールター Ray Coulter のベースはかろうじて聞こえる程度だ。インク・スポッツ Ink Spots の "If I Don't Care" 以降のすべてのヒット曲でおなじみのイントロに基づいたギターのイントロに続いて、「トゥモ〜〜〜ロウ・ナイト」と甲高い声で嘆きながら歌う様子はキャロライナの山脈出身のブルーグラス歌手を思わせる。

キングレコードは「トゥモロー・ナイト」がヒットするとは思っていなかった。同じセッションで録音された曲の中では、自作曲の "Happy New Year, Darling" が一押しで、休日のチャンスを逃さないために急いで発売しなければならなかった。録音日から大みそかまで3週間しかなかった。その数週間後に「トゥモロー・ナイト」が発売されたとき、ビルボード誌は「ジョンソンの歌は感情豊かだが、演奏は単調だ」と複雑な気持ちだったが、大衆は違った。白人でさえ飛びついたためにポップチャートを上昇したとき、一番驚いたのはロニー・ジョンソンとシド・ネイサンだった。

「トゥモロー・ナイト」のあと、ジョンソンはキングレコードでさらに三曲のR&Bヒットを飛ばした。20年代と30年代初期に録音した古いブルーズに磨きをかけたもので、よりポップで、よりメロディアスで、よりビートに乗って、よりエレクトリックだった。彼は、シド・ネイサンと契約する数ヵ月前にエレキギターに乗り換えていた。しかし、彼のレコードは次第に売れなくなった。"Work with Me, Annie" のように、より激しいR&Bが出現すると、ロニー・ジョンソンのブルーズは古臭く聞こえるようになった。1953年、"Will You Remember" という「トゥモロー・ナイト」のアンサーソングをどうにか録音したとき、誰も反応しなかった。たぶん、メンフィスに住む白人の若者を除いて。

エルビス・プレスリーがサンレコードで「トゥモロー・ナイト」を録音しようとしていたとき、自分なりの解釈を加えるのをやめて、ジョンソンを真似して、寂しげな高い声で歌った。しかし、ジョンソンの音域が苦手らしく、気が抜けたように聞こえる。RCAビクターはテープを倉庫にしまい、プレスリーの死後まで発売しなかった。「トゥモロー・ナイト」や「ブルー・ムーン」などのサンレコードでの録音を聞くと、ブレスリーのバラードの歌い方にロニー・ジョンソンが影響を与えていることはあきらかだ。

1954年にラバーン・ベイカー LaVern Baker がリメイクした「トゥモロー・ナイト」がヒットしそうだったので(実際にヒットしたのは、B面の "Tweedle Dee" だった)、それにあやかろうとキングレコードは1947年に録音したジョンソンのレコードを再発した。1960年に再再発したとき、キングレコードは、ジョンソンの野暮ったいブルーズを現代風にするために、女声コーラスを加えた。残念ながら、ほとんど売れなかったし、現在見つけるのが難しい。

50年代後期から60年代初期にかけてイギリスで人気のあったロニー・ドネガンは、もともとトニーという名前だったが、ロニー・ジョンソンに敬意を表して、トニーからロニーに名前を変えたのだ。

ロニー・ジョンソンは、60年代のブルーズ・リバイバルの蚊帳の外だった。ロニーは、ポップスのスタンダードを歌うのが好きだった。「私が歌うのは都会のブルーズだ。私の歌い方は自分の故郷とはまったく関係ない。それは内面の魂から来る。私が人生で経験した苦悩などからだ。」ブルーズの復興主義者たちは原始的で田舎くさいのを好んだので、彼が多才だったことが災いした。ジョンソンは、洗練されすぎていたし、都会的すぎた。彼は、ナインス・コードなどジャズの要素を取り入れ、モダンさにおいて時代を先行していた。その後、アルバート・キング、フレディ・キング、BBキングなど、ほとんどのブルーズマンがジョンソンのあとを追って、デルタ・カントリー・ブルーズにジャズの要素を加え、はるかに成功した。

ロニー・ジョンソンは、賞賛されるには年を取りすぎていた。1970年6月16日にトロントで、交通事故から回復している最中に脳卒中のため死去。(シネシャモ日記2007年10月29日)



8
Wynonie Harris and His All Stars

Good Rockin' Tonight
(1948)

  • R&Bチャート1位
  • カテゴリー:R&B、ジャンプ・ブルーズ
  • 作者:ロイ・ブラウン Roy Brown
  • レーベル:オハイオ州シンシナティのキング
  • B面:"Good Morning Mr. Blues"
  • 録音日:1947年12月28日、シンシナティ
  • 発売時期:1948年2月
  • なぜ重要か:「ロッキン rockin'」に関係したレコードの流行のきっかけとなる。
  • 影響を受けたのは:
    トミー・ドーシー Tommy Dorsey の "(Ah Yes) There's Good Blues Tonight" (1946年、ポップチャート23位)とロイ・ブラウンの "Good Rockin' Tonight" のオリジナル(1948年、R&Bチャート13位)
  • 影響を与えたのは:
    ワイノニー・ハリス自身の "All She Wants to Do Is Rock" やエタ・ジェームズ Etta James の "Good Rockin' Daddy" など、「ロッキン」に関係した数々のヒットソング。 興奮させるために「ホイ、ホイ、ホイ Hoy hoy hoy」という叫び声を使用しているいくつかのレコード。
  • 重要なリメイク:
    ワイノニー・ハリスの "Good Mambo Tonight" (1954)
    エルビス・プレスリー (1954年にサンレコードから発売した2番目のシングル)
    トレニアーズ The Treniers (1956)
    パット・ブーン (1959、ポップチャート49位)
    ジェームズ・ブラウン (1967)
    ロバート・プラント&ザ・ハニードリッパーズ "Good Rockin' at Midnight" (1984)

夜の娯楽を賛美したこの曲を書いたのはロイ・ブラウンだ。「ニュースを聞いたよ。今夜、素敵なロッキンがあるってさ!」。戦争が終わり、戦後の繁栄が始まったんだ。だから俺はロッキンして、楽しい時を過ごしているんだ。ポピュラーソングのご婦人たち、スイート・ロレイン Sweet Lorraine、スー・シティ・スー Sioux City Sue、スイート・ジョージア・ブラウン Sweet Georgia Brown、カルドニア Caldonia ら、みんな集まってるよ。(これらは歌手ではなく、曲のタイトルに出てくる女性名のようです。)

ラジオ解説者のガブリエル・ヒーター Gabriel Heatter は、第二次大戦中、ロングアイランドの自宅から、「こんばんわ、アメリカ、今夜は良いニュースがあるよ!Good evening, America, THere's good news tonight! 」で始まる、吉報を告げる番組を毎晩放送した。国民は、ヨーロッパや南太平洋からの暗いニュースばかりの中で、いくばくかの楽観主義をニュースキャスターたちから得ようとしていた。それは、ウォルター・ウィンチェル Walter Winchell の「こんにちわ、アメリカ、そして海上のすべての船 Hello, America, and all the ships at sea」同様、よく知られたあいさつだった。

1946年、黒人トランペッターで歌手のサイ・オリバー Sy Oliver は、白人のトミー・ドーシー楽団とともに録音していた。その年、彼が書いて録音した "(Ah Yes) There's Good Blues Tonight" は、ポップス市場でかなり売れた。ヒーターのあいさつにヒントを得て作られたこの曲は、次のように始まる。「聞いてくれよ。今夜は良いニュースがあるんだ。そんなんだ、今夜はすてきなブルーズがあるんだ。今夜はカッコいいブルーズがあるんだ。」この曲のメロディと全体的なメッセージは、翌年にロイ・ブラウンが書くことになる曲と驚くほど似ていた。ラッキー・ミリンダー Lucky Millinder がデッカレコードでカバーした "There's Good Blues Tonight" は、ドライブ感を出すために、楽団に絶え間なく手拍子を叩かせているが、以前ミリンダー楽団の歌手だったワイノニー・ハリスも、彼のバージョンで、オールスターズに手拍子を叩かせている。

だが、"There's Good BLues Tonight" のメロディも借物だった。サイ・オリバーは、トミー・ドーシーと1941年に録音したゴスペル風のヒットソング "Yes Indeed" を盗用したものだったし、その曲自体、オリバーがどこで見つけたものかわからない。("Yes Indeed" は1958年に零・チャールズが録音。)

ロイ・ブラウンの「グッド・ロッキン・トゥナイト」と比較すると、ワイノニー・ハリスのバージョンには三つの特徴がある。第一に、ワイノニーは、好色で、遊び好きだった。「私が歌っているストレートなブルーズは、男と女、愛と憎しみについての歌だ。」第二に、ワイノニーにはすぐれたバンドがいた。オラン「ホットリップス」ペイジ Oran "Hot Lips" Page のカッコいいトランペット、ハル・シンガー Hal Singer の猛り狂うテナーサックス、ジョー・ナイト Joe Knight のうねるピアノ、カール「フラットトップ(角刈り?)」ウィルソン Carl "Flat Top" Wilson が激しく鳴らすベース、それに絶え間ない手拍子。第三に、ワイノニーは、R&B界で最も有能な独立系レコード会社、キングのために録音した。

キングレコードの所有者シド・ネイサン Syd Nathan は、シンシナティ市のブルースター街にある大きな倉庫に本部を構え、録音からマーケティングに至るすべてのプロセスをそこで行っていた。アーティスト、彼らの歌、録音スタジオを所有していた。ジャケットから発送用のパッケージに至るまですべてを製造していた。レコードプレス工場も所有し、スクラップのセラックやビニールをリサイクルして新しいレコードを作った。配給会社も持っていた。

ワイノニー・ハリスは、1915年8月24日にネブラスカ州オマハで生まれた。スポットライトを浴びたいという夢を実現するためにクライトン大学を中退し、ナイトクラブで司会やタップダンスをしたが、すぐにブルーズを歌い始めた。バンドリーダーのルーシャス「ラッキー」ミリンダー Lucius "Lucky" Millinder がデッカから発売したレコードで彼を歌わせ、そのうちの "Who Threw the Whiskey in the Well?" がヒットしたため、ネイサンは1947年後期にハリスと契約した。

ハリスは、ビッグ・ジョー・ターナー Big Joe Turner を崇拝しており、自分よりうまい歌手は彼だけだと考えていた。ミリンダー楽団でアルトサックスを演奏していたプレストン・ラブ Preston Love は、「ワイノニーは、ブルーズが世界で唯一の音楽だと考えていた」と語っている。ビッグ・ジョーは、「ブルーズのボス」として知られていたので、ハリスは良いあだ名はないかと探した。"Mr. Blues Is Back Is Town" というヒット曲によって彼のあだ名が決まった。

ミスター・ブルーズは、1947年12月に、ツアーの合間を縫って、20曲近くを録音した。1948年元旦から始まるミュージシャンのストライキに備えてだった。そのうちの一曲が「グッド・ロッキン・トゥナイト」だったが、ハリスはまったくこの曲に魅力を感じず、音楽の歴史を変えるなんて考える由もなかった。

作者のロイ・ブラウンは次のように語る。「私が最初に書いた曲のうちの一つだった。当時は、著作権、レコード、ロイヤルティなんて全然知らなかった。無一文だったので、金を稼ぎたかった。「グッド・ロッキン・トゥナイト」を茶の紙袋の切れ端に書いて、ニューオリンズの Dew Drop Inn で演奏していたワイノニー・ハリスのところに持って行った。」

ハリスは歌いたくなかった。休憩中に、ハリスのバンドがこの曲をロイと演奏した。メンバーの一人が、別のクラブで演奏しているピアノ奏者セシル・グラント Cecil Grant のところに持っていったらどうだい、と提案した。

グラントは、自分で演奏する代わりに、ニュージャージー州のデラックスレコードの所有者ジュールズ・ブラウン Jules Braun を紹介した。グラントがブラウンに電話をかけて、ロイが電話で曲を歌うと、ブラウンが飛行機でニューオリンズに飛んできて、急いで地元のスタジオで録音させた。デラックスレコードが「グッド・ロッキン・トゥナイト」を発売し、ニューオリンズのディスクジョッキー、ポッパー・ストッパー Poppa Stoppa が地元でヒットさせて、やっとワイノニー・ハリスはこの曲を録音する気になった。

ロイのバージョンでは、「ウェ〜〜〜〜〜ル」とわめいたあと、しばらくして、「今夜すてきなロッキンがあるってニュースを聞いた。俺のカワイ子ちゃんをきつく抱きしめるつもりだ。彼女は俺が強い男だってことを今夜思い知るだろう。今夜すてきなロッキンがあるってニュースを聞いた」と歌う。ハリスは歌詞をそんなに変えなかった。歌が進むにつれ、ハリスは終わり方を忘れてしまったらしい。ロイ・ブラウンが "Hoy sister, hoy sister, ain't you glad" と歌っているところを、単に「ホイ、ホイ、ホイ」と何度も叫んでいるだけだ。プロデューサは、演奏者の生の興奮が何よりも重要と考えたか、その日のハリスからはこれ以上のものを引き出せないと考えたらしい。いずれにせよ、ブラウンのオリジナルよりもはるかにハードにロックしていたから。歌詞を間違えたなんてことはどうでもよかった。

"Hoy, hoy, hoy" という叫び声に関して言えば、30年代に黒人のドン・レッドマン Don Redman がつくった "Down, Down, Down" という曲には "Just send yourself, holler hey! If not, you better say hoy" という歌詞が含まれていた。1947年初期、「グッド・ロッキン・トゥナイト」の数ヵ月前、スティック・マギー Stick McGhee が「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」の最初のバージョンで「ホイ」を二度使用していた。しかし、「ホイ、ホイ、ホイ」が束縛されない自由の叫びになるのは、ハリスが荒々しく叫んでからだ。

1948年夏、ロサンジェルスのバンドリーダー、ロイ・ミルトン Roy Milton は「ホイ、ホイ、ホップ」というコーラスが印象的な "Hop, Skip and Jump" を録音した。リトル・ジョニー・ジョーンズ Little Johnny Jones は、1954年、その曲を "Hoy Hoy" というタイトルで再録音した。50年代後期には、コリンズ・キッズ Collins Kids という若いロカビリーデュオが、同曲で小ヒットを飛ばした。スティック・マギーが1949年に大ヒットを飛ばした「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」の二番目のバージョンでは、最初のバージョンの「ホイ」が騒々しい「ホイ、ホイ、ホイ!」になっていた。同時期、テキサスのブルーズマン、ゴリー・カーター Goree Carter が "Hoy-Hoy" を録音した。(「ホイ」という言葉は中英語にさかのぼる。注意を向けさせたり、動物を追うときに使われた。最近では、「ヘイ hey」に取って代わられている。)

「グッド・ロッキン・トゥナイト」の人気によって、ハードにロックするレコードだけでなく、ハードにロックすることついてのレコードも次々と生まれた。ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore の "Rock and Roll"、コニー・ジョーダン Connie Jordan の "I'm Gonna Rock"、ビル・マシューズとバラーディアーズ Bill Mathews and the Balladeers の "Rock and Roll"、アーリン・ハリス Erline Harris の "Rock and Roll Blues"、そしてワイノニー・ハリス自身の "All She Wants to Do Is Rock" などが「グッド・ロッキン・トゥナイト」に続いた。リル・サン・ジャクソン Lil Son Jackson、ジョン・リー・フッカー John Lee Hookerらも "Rock and Roll" というタイトルの曲を作ったが、"and" が変形していた。究極のタイトルは、サックス奏者ハル・シンガー Hal Singer の "Rock Around the Clock" (1950) で、これは1953年にソニー・ディー&ザ・ナイツ Sonny Dae and the Knights の同名曲とは違う曲だった。ビル・ヘイリーがカバーしたのは後者である。

ワイノニー・ハリスは、マンボ・ブームに便乗して、歌詞を少し変えただけの「グッド・マンボ・トゥナイト」を1954年に録音したりしたが、50年代後期に引退して、ブルックリンでカフェを開いた。1969年6月14日、ガンのためロサンジェルスで死去。ロイ・ブラウンは、1981年5月、管バックの最中に心臓発作で死去。

エルビスは、1954年に、サンレコードからの2枚目のシングルとして「グッド・ロッキン・トゥナイト」を発売。彼が基にしているのはワイノニー・ハリスのではなくロイ・ブラウンのバージョンで、かなり現代風に改良している。スイート・ロレイン、スー・シティ・スー、スイート・ジョージア・ブラウン、カルドニアといった黒人向けの古臭い言及は削除され、ワイルド・ビル・ムーアの単純な即興 "We're gonna rock, rock, rock, yerh, rock!" に取って代わられた。(シネシャモ日記2007年11月22日)



9
Wild Bill Moore

We're Gonna Rock, We're Gonna Roll
(1948)

9曲目は、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore の「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」
  • R&Bチャート14位
  • カテゴリー:R&B
  • 作者:Teddy Reig, William Moore
  • レーベル:ニュージャージー州ニューアーク
  • B面:"Harlem on Parade"
  • 録音日・場所:1947年12月18日、デトロイト
  • 発売時期:1948年6月
  • なぜ重要か:「ホンキング honking」サックスによる最初のヒット曲。
  • 影響を受けたのは:"Blues" by Illinois Jacquet/JATP (1944) (この「First R&R」シリーズの1曲目
  • 影響を与えたのは:ホンキング・スタイルのテナーサックス奏者全員。特に Frank "Floorshow" Culley, Willis "Gator Tail" Jackson, Wilbert "Red" Prysock, Cecil "Big Jay" McNeely, Hal Singer。
  • 重要なリメイク:ワイルド・ビル・ムーア自身の "Rock and Roll" (1949)

リズム・アンド・ブルーズの楽器といえば、なんといってもテナーサックス。次いでアルトサックス。このJの形をした金管楽器が発明されたのは1840年で、その6年後にベルギーのアドルフ・サックス Adolphe Sax が特許を取得した。表現力が豊か過ぎるし、手なずけるのが難しいので、オーケストラには馴染まなかったが、壮大な音を求めるマーチングバンドには馴染んだ。1898年のスペインとアメリカの戦争が終わったとき、アメリカの軍隊楽団がキューバからニューオリンズの港に帰ってきた。多くの楽団員が楽器を質に入れたので、ミュージシャンは中古楽器を安く手に入れることができた。ニューオリンズのジャズバンドはクレオール人のブラスバンドだったので、地元のミュージシャンはすぐにサックスを好きになった。新時代を画したキング・オリバー King Oliver とバディ・ボールデン Buddy Bolden のジャズバンドはサックスが重要な役割を果たしていた。1915年までに米国中の黒人マーチングバンドにとって欠かせないものとなり、6年後には初めてサックスがレコードに録音された。偉大なサックス奏者、コールマン・ホーキンズがマミー・スミスのジャズ・ハウンズ Mamie Smith's Jazz Hounds の一員としてバリトンサックスを演奏したのだ。

ホンキング(警笛を鳴らすような吹き方?)のサックス奏者は、1930年代半ばにカウント・ベイシー楽団が確立した「テナー合戦 battling tenors」の伝統から輩出した。カウント・ベイシー楽団のコンサートのハイライトのひとつはレスター・ヤング Lester Young とハーシェル・エバンズ Herschel Evans との合戦で、各々が相手よりも荒々しく演奏して、聴衆を狂乱状態にした。カウント・ベイシーの上を行こうとしたライオネル・ハンプトンは、サックス奏者イリノイ・ジャケー Illinois Jacquet(のちにアーネット・コブ Arnett Cobb)の金切り音が最高潮に達する間、楽団に聴衆の間を練り歩かせた。合戦形式は40年代後期の西海岸のビバップにまで及び、デクスター・ゴードンはワーデル・グレイ Wardell Gray と有名なバトルを繰り広げた。

だが、R&Bのホンキング・サックス奏者たちはもっと自己顕示欲が強かった。音楽の技術よりも仕掛けが大事だった。聴衆を楽しませる演技者だった。やがて、主要な黒人バンドには必ずホンキングのサックス奏者が所属するようになった。

一段と強力になった「ホンキング・アンド・スクイーリング honking 'n' squealing(警笛音と金切り音?)」現象がいつどこで始まったか特定するとしたら、1944年7月のジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックの第一回コンサートでのイリノイ・ジャケーによる華々しい演奏だろう((この「First R&R」シリーズの1曲目 参照)。その次に素晴らしい演奏をしたのがワイルド・ビル・ムーアだった。

ウィリアム・M・ムーアは1918年6月13日にテキサスで生まれた。テキサスのブルーズマンは、叫ぶようなサックスをユニゾンで吹く伝統があったが、ヒューストンで育ったイリノイ・ジャケーが事実上ホンキングを生み出すと、ドン・ウィルカーソン Don Wilkerson、ジョー・ヒューストン Joe Houston、デビッド「ファットヘッド」ニューマン David "Fathead" Newman といったテキサスのサックス奏者が追随した。

ムーアは30年代にミシガンに引っ越したが、40年代のほとんどは西海岸で過ごした。彼が自分名義で最初に録音したのは1945年で、アポロ・レーベル Apollo Label のためだった。同年、彼は、スリム・ゲイラード Slim Gaillard のバンドで何曲か演奏し、ヘレン・ヒュームズの「ビー・ババ・リーバ」(この「First R&R」シリーズの3曲目)で激しいソロを吹いた。1年後、ビル・ムーアのバンド、ラッキーセブンは、ビッグ・ジョー・ターナーの最初のヒット曲 "My Gal's a Jockey" のバックを務めた。

ムーアに全国的な演奏の機会を与えたレコード会社はニュージャージー州ニューアークのサボイ Savoy だった。サボイはハーマン・ルビンスキー Herman Lubinsky というケチくさい実業家が経営しており、ミュージシャンを搾取するので有名だった。ルビンスキーは、設立当初から、サボイをサックス奏者のフォーラムにしていた。チャーリー・パーカーが最初にソロ録音したのはサボイのためだったし、デクスター・ゴードンもそうだった。1947年、サボイは、全国でバンドリーダーをタレントスカウトとして雇い、ミュージシャンに地元で録音させた。ミュージシャンをニューアークに連れてくるより、マスターレコードを輸送したほうが簡単だったからだ。

同年7月、ロサンジェルスのセントラル・アベニューにあるエクルス・ホール Elk's Hall での伝説的なジャムセッションでビル・ムーアの演奏を録音した。他のミュージシャンは、バップのサックス奏者、ソニー・クリス Sonny Criss、ワーデル・グレイ、デクスター・ゴードンだった。しかし、ムーアがデトロイトに帰ったため、次の数ヵ月、サボイはムーアのレコードを本気で作らなかった。サボイは、11月20日から12月21日の間に、デトロイトで、チャーリー・パーカーのオールスターズなど、いくつかのバンドを録音した。ビル・ムーアのバンドは二度録音を行った。一度目の録音ではジャズ風の曲を4曲録音した。その中の "Bubbles" は当時よく売れたが、今聴くと平凡である。このときの録音がリラックスした感じだったのは、フロイド・テイラー Floyd Taylor のピアノによるところが大きい。

一ヵ月後に二度目の録音を行ったとき、ムーアは、テイラーの代わりに、ブギウギピアニストのTJファウラー T.J. Fowle を起用していた。ファウラーは、この一年後に "Red Hot Blues" を録音することになる。これは、50年代のロカビリーの名作 "Red Hot" の原型だった。ファウラーはムーアが求める発火装置だったようだ。このとき録音した「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」は、荒々しく、扇情的で、ムーアは、バリトンサックス奏者ポール・ウィリアムズ Paul Williams とともに半狂乱で演奏している。

曲はムーアの短いサックス演奏で始まり、続いてファウラーがブギウギピアノを演奏する。ムーアがピアノ奏者に一晩中演奏し続けろと叫ぶと、メンバーたちも加わって、"we gonna rock, we gonna roll, we gonna rock, we gonna roll!" と騒々しく合唱する。そして、バンドがバックでスイングする中を、ムーアが大きな音で猛烈なソロを演奏する。

アーノルド・ショウ Arnold Shaw は、影響力の大きい彼の本 "Honkers and Shouters" の中で、ホンカー(ホンキングのサックス奏者)は白人の音楽形式を破壊することで白人に仕返しする怒れる黒人だと書いている。詩人ルロイ・ジョーンズ Leroi Jones(現在の名前はアミリ・バラカ Amiri Baraka)は、ホンカーの目的は楽器の音をできる限り非音楽的で非西欧的にすることであり、スイングとともに黒人のインスト音楽に忍び込んできたソフトさと正統さに対するブルースマンの反抗のようなものだと述べている。

サボイはこの曲をR&Bチャートに押し込めるだけのコネを持っていたが、多くの黒人のヒット曲のように、一週間しかヒットは続かなかった。ディスクジョッキーたちは当初この曲に飛びついたが、リスナーから反応がなかったり、サボイが翌週にワイロを支払わなかったりしたため、かけなくなったらしい。たぶん、この曲が市場を沸かすことができなかったのは、録音が原始的だったことと、古いバレルハウスの音によく似ていたからだろう(「バレルハウス barrelhouse」というのは安酒場のことで、安酒場を起源とする自由で力強い初期のジャズもバレルハウスと呼ばれていたらしい)。

ムーアは1948年にサボイレコードを辞めたが、サボイは録音していた曲を発売し続けた。ムーアはほとんど過去の人になっていた。1949年、ロサンジェルスのモダンレコードのために、「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」を録音し直し、単に「ロック・アンド・ロール Rock and Roll 」と名付けたが、売れなかった。

テナーサックス奏者ハル・シンガー Hal Singer がマーキュリーレコードのために1950年に録音した "Rock Around the Clock" は「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」の興味深い真似だった。シンガーも1948年にサボイに所属しており、「コーンブレッド Cornbread」というインスト曲でかなりのヒットを飛ばしていた。ボーカルのサム・シアード Sam Theard が "Let's rock" と叫ぶと、バンドが "rock rock rock" と応じ、シンガーが気の抜けたサックスを吹くという程度のものだったが、"One for the money, two for the show, three to get ready and four to go" というシアードのシャウトはカール・パーキンズの「ブルー・スエード・シューズ」よりも5年早かった。

ビル・ムーアは新たなヒットを狙い続けた。デトロイトのレコード会社センセーションは、ビル・ムーアが録音した曲に観衆の声をダビングして、ライブ演奏の興奮感を出そうとしたが、にせ物にしか聞こえなかったので、誰も聞こうとしなかった。ムーアは、デトロイトに定住し、他のアーティストのセッションマンを務めた。"Mercy Mercy Me (The Ecology)" などの60年代後期のマービン・ゲイの録音に参加した。その後、ロサンジェルスに戻り、1983年8月8日に亡くなるまで、そこで余生を送った。


「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」によって、サックスのレコードが次々と登場した。ほとんどはサボイレコードから発売された。ムーアのバンドのバリトンサックス奏者ポール・ウィリアムズは自分のバンドを結成して、"The Huckle-Buck" で1949年最大の黒人ヒットを飛ばした。1949年の初めには、サボイの若手ビッグ・ジェイ・マクニーリー Cecil "Big Jay" Mcneely が "The Deacon's Hop" で1位となった。これは、1940年のカウント・ベイシーのヒット曲 "Broadway" に基づいていた。そこでサックスを吹いていたのは、マクニーリーがあこがれていたレスター・ヤングだった。

マクニーリーは、ホンカーの王様という称号を得た。50年代初期、彼は光のショーを考案し、ストロボを使って、古い映画の効果をステージで作り出した。さらに蛍光ランプを使って、暗闇でもサックスとスーツが光るようにした。彼は、客席を通り抜け、外へ出て行った。仰向けに横たわって、赤ちゃんのような金切り音を出した。騒ぎを起こして、コンサートの途中で逮捕された。マクニーリーは最初の真のロックンローラーだと言う評論家もいる。

それでも、こうした大騒ぎを引き起こしたホンキングのレコードは、ワイルド・ビル・ムーアの「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」なのである。

あとがき

あるR&Bコレクターが、クリスチャンの妻に、「初期のロックンロールレコードなんだぜ」と言いながら、番号がサボイ666の初版78回転レコードを見せるという間違いを犯した。妻は、壁に投げて割りたいという衝動を抑えながら、次のように言った。「やっぱりそうだったんだわ。ロックンロールは悪魔の音楽よ。666ってあるじゃない。悪魔の印よ。(シネシャモ日記2007年12月)

10
The Orioles

It's Too Soon to Know
(1948)

10曲目は、オリオールズ the Orioles の「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」。

  • R&Bチャート1位、ポップチャート14位
  • カテゴリー:ボーカルハーモニー、R&B
  • 作者:デボラ・チェスラー Deborah Chessler
  • レーベルと番号:It's A Natural 5000 / Jubilee 5000、ニューヨーク
  • B面:"Barbara Lee" (本当はこちらがA面)
  • 録音日・場所:1948年初夏、ニューヨーク
  • 発売時期:1948年8月21日
  • なぜ重要か:R&Bボーカルグループによる最初のヒット曲の一つ。鳥の名前が付いた無数のドゥーワップグループのさきがけ。
  • 影響を受けたのは:インクスポッツ Ink Spots、ミルズブラザーズ Mills Brothers、キャッツ・アンド・ザ・フィドル Cats and the Fiddle
  • 影響を与えたのは:クローバーズ Clovers、ドミノズ Dominoes、ロイヤルズ(ミッドナイターズ) Royals (Midnighters)、クロウズ Crows などのボーカルグループ
  • 重要なカバー:ダイナ・ワシントン(R&Bチャート2位)、エラ・フィッツジェラルド(R&Bチャート6位)、レイブンズ Ravens(R&Bチャート11位)、チャリオティアーズ Charioteers、ディープ・リバー・ボーイズ Deep River Boys
  • 重要なリメイク:ジョニー・オーティス(1957)、パット・ブーン(1958、ポップチャート4位)、エタ・ジェームズ(1961、ポップチャート54位)、アーマ・トーマス(1961)、リトル・エスター・フィリップス(1965)、ロイ・オービソン(1966、ポップチャート68位)

ボーカルハーモニーグループは、黒人エンターテイナーたちのなかで、早くから白人リスナーのために録音され、最初に大衆的な成功をおさめた。スタンダード・カルテット・オブ・シカゴ Standard Quartette of Chicago は、1890年代にコロンビアから一ダースの歌を録音した(それらのシリンダーは残存していない)。バージニア州の ディンウィディ・カラード・カルテット Dinwiddie Colored Quartet は1902年にスピリチュアルなどを録音した78回転レコードを数枚発売した。1921年には、サザーン・ネグロ・カルテット Southern Negro Quartet が "I Like Moonshine" で「ドゥーバップバップ」というベースボーカルを入れている。これはラグタイムやジャズのバンドのウッドベースやチューパをまねたものだ。

1930年代、黒人ハーモニーグループのいくつかが、ノベルティなポップサウンドを発展させた。小さな楽団をボーカルでまねたミルズブラザーズは、ラジオやレコードのスターとなり、ポール・ホワイトマンやビング・クロスビーといったショービジネス界の大物と共演した。1939年、インクスポッツの "If I Didn't Care" というセンチメンタルなポップバラードが1位となり、40年代のボーカルグループに道筋を作った。

インクスポッツは、のちにドゥーワップミュージックと呼ばれるものの原型だった。このカルテットの魅力は、テナーのビル・ケニー Bill Kenny とユーモラスなベースのホッピー・ジョーンズ Hoppy Jones のかけあいだった(ジョーンズは1944年に亡くなり、ディーク・ワトソン Deak Watson が引き継いだ)。インクスポッツの音楽は俗世間向けだったが、教会の聖歌隊にかなりを負っていた。ケニーのファルセット・リード、ジョーンズのとりとめのないベース (rambling base)、それにバックコーラスがコードを進行させたり、リーダーの呼びかけに応えるのは、ゴスペルグループの特徴だった。

アーリントン・カール・「サニー・ティル」・ティルマン Earlington Carl "Sonny Til" Tilghman とオリオールズの前身はVibra-Naires(バイブラ・ナイアズ?)で、1947年にバルティモアで結成された。メンバーは、サニー・ティルがリード、ジョージ・ネルソン George Nelson がバリトン、アレクサンダー・シャープ Alexander Sharp が高音テナー、ジョニー・リード Johnny Reed が(ベースボーカルとダブルベース)、トミー・ゲイザー Tommy Gaither がギターだった。ギタリストは、各曲のキーを保ち、サウンドを豊かにするので、以前からボーカルグループにとって重要な存在だった。リードが演奏するダブルベースは、心臓の鼓動のようにテンポを保った。リードの存在はキャッツ・アンド・ザ・フィドルが影響していたのだろう。キャッツ・アンド・ザ・フィドルは、フィドルを呼びものにした五人組のハーモニーグループで、このグループの最大のヒットとなった1940年の "I Miss You So" をオリオールズはカバーしている。

たぶんレイブンズに影響を受けて、Vibra-Naires は、メリーランド州の州鳥であるオリオール(ムクドリモドキ)という名前に変えた。この変更は重要で、すぐに、ほとんどの黒人ボーカルグループが鳥の名前に変えた。クロウズ、ペンギンズ、スワローズ、カーディナルズ、レンズ、ロビンズ、ホークス、ジェイホークス、ペリカンズなどである。

伝説によれば、白人の若いデパート店員デボラ・チェスラーがバーで彼らが歌っているのを見て、マネージャーとなって、アポロシアターのタレントショーに出演させた。青のブレザー、白いズボン、輝くコンク(conk, 縮れ毛を伸ばしてウェーブをかけた髪型)がカッコよい彼らは、すぐに観衆のお気に入りとなった。しかし、デボラによれば、これは事実ではない。

「家にいたら、電話が鳴ったの。友人の義理の兄弟からで、あるボーカルグループのことで頼みがあるって。私は、"Tell Me So" ってヒット曲を書いていたので、すでにバルティモア周辺では有名だったの。彼らが家庭用レコーダーで録音したデモを電話で聞いたら、すぐに気に入ったので、彼らを連れてくるように言ったの。」

デボラは、断固たる精神力によって地元で地位を固めていた。「私は楽譜が書けないので、自分の曲を歌って、ピアニストに書かせたの。サバナ・チャーチル Savannah Churchill が好きだったから、ニューヨークのマナー・レコード Manor Records に最初の曲 "Tell Me So" を持っていったら、買ってくれたわ。でも、マナーレコードは、チャーチルのグループ、フォー・チューンズ Four Tunes を使わなかったので、バルティモアの有名な黒人シアターのロイヤルに行って、楽屋でダイナ・ワシントンに曲を聴かせたの。それで、彼女がヒットさせたわけ。」

しばらくして、デボラは「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」を書いたが、まだ最後の部分が完成していなかった。ダイナ・ワシントンに聴かせたら、すぐに気に入ってくれた。だが、楽譜がなかったために、すぐに録音することができなかった。

デボラは、最後の部分を修正して、オリオールズにデモを録音するよう依頼した。そして、有名なニューヨークのラジオ番組「アーサー・ゴッドフリーのタレントスカウト Arthur Godfrey's Talent Scounts」のオーディションを受けさせるために、そのデモを送った。デボラの別の曲 "Barbara Lee" を歌ったオリオールズは、盲目のピアニスト、ジョージ・シアリング George Shearing に負けたが、数百人のリスナーが結果に抗議したので、ゴッドフリーは急いでオリオールズを呼び戻した。すぐに、デボラはニューヨークに戻って、デモをジェリー・ブレイン Jerry Blaine に聴かせた。ジェリーは、新しいレーベル It's A Natural を立ち上げるためにオリオールズと契約した。オリオールズの最初のレコードは「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」だった。そのときまで、デボラは正式にオリオールズのマネージャーになっていた。

この曲を書いたとき、デボラは女性ボーカルを想定していたのかもしれない。歌詞が消極的で、非常に内気だからだ。「彼女は僕を愛しているのだろうか。早すぎて、まだわからない。彼女は僕を愛していると言うけど、彼女を信じていいのだろうか。僕をバカにしているんじゃないのか。ほんの遊びじゃないのか。遊び相手の一人でしかないんじゃないのか。片思いだと心が痛む。彼女は単に遊んでいるだけかもしれない。僕を愛していないなら、彼女にそう言ってもらおう...彼女が行ってしまったら僕は泣くだろうが、死にたくはないし、生き続けるつもりだ...」この単純なバラードは、ある程度、思春期の遠慮とプラトニックなあこがれを表現した50年代の数多くのラブソングの方向を決定づけた。カバーバージョンの半分以上がエタ・ジェームズやアーマ・トーマスといった女性シンガーによって歌われていることは意味深だ。

ほとんどのポップソングには繰り返し句が挿入されるが、この歌は一つの連から次の連へと移行するだけである。あたかも歌唱に変化をつけるように、ティルがしゃがれ声のバリトン、ジョージ・ネルソンにリードを任せるが、最後はティルが柔らかいテナーで飾る。この五人組の歌唱は、個々が自分のメロディを歌う、のちのドゥワップスタイルからはほど遠い。むしろ、インクスポッツ風に、リードをとるティルのバックで他のメンバーがハーモニーをつけるだけである。しかし、どこか異様で性的なところがある。ティルは、他人の言葉を適度に伝えるだけでなく、歌詞の背後にある情熱的なあこがれを表現する。グループ全体のサウンドにとってより重要なのは、アレキサンダー・シャープのほとんどファルセットボイスと言っていいテナーだろう。のちにティルが語ったところでは、他のメンバーと合わせるためにシャープの音程を下げようとしたが、異常な耳のシャープは音程を調節することができなかった。それで、雰囲気に任せて歌わせることにした。

1948年8月21日のキャッシュボックス誌には、このレコードに関して、A面とB面のどちらがいいか戦いが起こると予想しているし、ニューヨークのWHOMラジオ局では、ウィリー・ブライアント Willie Bryant とレイ・キャロル Ray Carroll の人気DJチームが深夜のR&B番組でB面ばかりかけた。「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」は最初の週に3万枚売りあげたらしい。ビルボード誌は、著名な音楽出版者のバディ・モリスが7千ドルで曲を買ったと伝えているが、これはカバーを録音しようとしているミュージシャンが急増したことを示している。デボラ・チェスラーによれば、次の4週間のうちに14ほどのミュージシャンがカバーしたらしい。

アポロシアターの所有者を父に持つジャック・シフマン Jack Schiffman は、「ティルの震えるテナーとグループの溜息と叫びは、街の音であり、ゲッドーでの経験が反映している。」彼は、ティルが媚薬のように女性を魅惑するのに驚嘆した。デボラ・チェスラーも同意する。「女の子たちはステージに突進して、彼らのネクタイを引きちぎった。彼らが大劇場で演奏するときは、ファンがステージに上がらないよう警察がガードした。」デボラは魅力的な白人女性だったので、いくつかの憶測が飛んだ。しかし、彼女は、「彼らとは単にビジネスの関係だった。母は、死ぬまで、いつもツアーに同行した」と言う。

オリオールズのライバル、レイブンズも「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」をカバーしたが、彼らのアレンジは純粋に40年代のポップスで、彼らがいかに時代遅れかを際立たせた。鳥のつつき順位は逆転した。

オリオールズの人気が高まり、ナショナルレコードの所有者アル・グリーンは、It's A Natural レーベルがナショナルのレコード販売者や購入者の間で混乱を生じさせていると不満を訴えた。It's A Natural の所有者ブレインは、訴訟を避けるため、彼が所有する別のレーベルで、ゴスペルやイディッシュ語のコメディが専門のジュビリー Jubilee に「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」を移した。ブレインは、その後のオリオールズのレコードをすべてジュビリーから発売した。

1949年にオリオールズは6曲のヒットを飛ばした。その中にはデボラの "Tell Me So" のリメイクも含まれており、これも1位になった。しかし、自動車事故で、ゲイザーがなくなり、他の二人のメンバーも負傷した。彼らは次第にコンサートをやらなくなり、無名の新しいメンバーがコーラスを務めた。グループのボーイ、サニー・ウッズ Sonny Woods は、デトロイトに戻り、オリオールズ風の4人組ロイヤルズを結成し、のちに "Work with Me, Annie" を録音し、一夜にしてサニー・ティルのようなテナーで感傷的に歌う歌手を一掃してしまう。

1952年までにオリオールズはポップスのカバーを歌うようになり、Darrell Glenn の "Crying in the Chapel" というカントリーソングをカバーして大ヒットを飛ばす。彼らの非常に洗練された演奏によってポップチャートで11位まで上昇し、R&Bチャートでは5週1位になった。しかし、これはまぐれあたりだった。というのも、その後オリオールズはたいしたヒットを飛ばさなかったから。

デボラ・チェスラーは1954年に彼らと別れた。「彼らは良い連中だったし、乱暴でもなく、扱いにくくもなかった。ただ、私が疲れただけ。」

オリオールズは、50年代半ばにビージェイレコード Vee-Jay Records でいくつか良い曲を録音したが、その頃までにオリオールズの実質的なメンバーはティルだけになっており、バックは誰でもよかった。60年代はあまり活動をしなかったが、1978年、ティルは、糖尿病で体調が悪くなっていたにもかかわらず、オリオールズを再編成して、「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」を含む昔の曲を再録音した。ティルはうまく歌ったが、昔の魅力は失われていた。サニー・ティルは、1981年12月9日に心臓発作で亡くなった。

デボラ・チェスラーは、もう1曲ヒットを飛ばした。サニー・ゲイル Sunny Gale の "Teardrops on My Pillow" で、オリオールズも録音した。彼女は、30を超える「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」のカバーによって現在でも印税をもらっている(この本が書かれた当時のこと)。

1960年代、ジュビリーレコードは、10代の白人向けに、昔録音したR&Bに音を加えて再発売した。オリオールズのほとんどの曲には女声コーラスが加えられたが、「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」は昔の録音のままだった。レコード会社は、最初のが申し分ないことをわかっていたようだ。(シネシャモ日記2008年1月)



11
John Lee Hooker

Boogie Chillen
(1948)

「最初のロックンロールレコードは何か」の11曲目は、ジョン・リー・フッカー John Lee Hooker の「ブギー・チレン」。

  • R&Bチャート1位
  • カテゴリー:ブルーズ
  • 作者:ジョン・リー・フッカー
  • レーベルと番号:Modern 627、ロサンジェルス
  • B面:"Sally Mae"
  • 録音日・場所:1948年11月、デトロイト
  • 発売日:1948年11月/12月
  • なぜ重要か:エレキ化されたデルタブルーズの最初の大ヒット
  • 影響を受けたのは:Blind Blake, "Hastings Street Boogie" (1939)
  • 影響を与えたのは:
    Little Junior Parker, "Feelin' Good" (R&Bチャート5位、1953)
    Bo Diddley, "Bo Diddley" (R&Bチャート1位、1955)
    John Lee Hooker, "Boom Boom" (ポップチャート60位、1962)
    Canned Heat, "On the Road Again" (ポップチャート16位、1968)
  • 重要なリメイク:
    Lightenin' Slim, "Just Made 21" (1956)
    John Fred and the Playboy Band (1965)

このR&B史上画期的なナンバーワンヒットは、電気で増幅させたアコースティックギターを弾き、足でリズムを刻みながら、深く重い声で歌う一人の男によって録音された。

歌手でギタリストのジョン・リー・フッカーは、小編成のバンドとともに、デトロイトのクラブでアップテンポのR&Bを演奏していた。地元のレコード店の経営者エルマー・バービー Elmer Barbee は、「サリー・メイ Sally Mae」という曲がお気に入りだった。彼はレコード店の裏に作ったレコーディングスタジオにフッカーたちを呼んだ。

バービーは、ダンスランドという名前の小さなインディーレーベルが、結局、フッカーをフィーチャーしたバンドのレコードを二曲発売しただけに終わった。しかし、このときはフッカーが自費で録音を行ったらしい。というのも、フッカーは、「サリー・メイ」のデモ録音を持ち帰ったからだ。バービーは、しろうとピアニストでレコード流通業者のバーニー・ベスマン Bernie Besman を紹介した。ベスマンはバンドにもデモにも興味を示さなかったが、フッカーの声を気に入った。ベスマンは、本物のスタジオ、サンセット通りのユナイテッド・サウンドで「サリー・メイ」を再録音させた。

当時、5人から7人のメンバーから成るR&Bが流行していたが、ベスマンはフッカー一人だけで録音することにした。「ギターにマイクをとりつけ、トイレの便器の上にスピーカーを置いた。そして、その下にマイクをとりつけて、水に反射する音を拾うようにした。エコー効果が欲しかったんだ。」エンジニアの Joe Siracuse は、フッカーに足でリズムを刻ませるための厚板を持ち込み、その横にマイクをセットした。

その日、フッカーは三曲録音した。もちろん、そのうちの一曲は「サリー・メイ」だ。ベスマンの回想によれば、彼らは「サリー・メイ」に3時間費やしたが、満足なテイクがとれなかった。気分を変えるために、ベスマンは、ブギウギを演奏するよう提案した。ベスマンは、地元のトッド・ローズ Todd Rhodes というピアニストによるブギ演奏でヒットを飛ばしたことがあったので、柳の下のドジョウをねらおうとしたのかもしれない。ブギが演奏できないことをフッカーが告白したので、ベスマンがピアノで演奏してみせると、フッカーはなんとかブギのようなものを演奏できるようになった。

フッカーが歌いながら即興で歌詞を作っていることは、今日でも驚くべきことだ。他の曲の断片に、自らの直接体験に基づく歌詞をつなぎ合わせたものだ。彼は一つのコードで演奏する。「俺はEかAだけで演奏する。「ブギー・チレン」はAだった。」「ブギー・チレン」は成人しようとしている若者の話だ。「ママは、一晩中外出することを許してくれなかった。最初に町に行ったとき、ヘイスティングス通りを歩いていると、みんなヘンリーズ・スイング・クラブのことを話していた。今晩そこに寄ってみなきゃいかんなと俺は言った。」彼は、クラブに入ると、すごく楽しかったので、「ブギー、チレン!」と叫んだ。

「ヘイスティングは当時デトロイトの本通りで、ヘンリーズは一流のクラブだった。通りもクラブも有名だった。俺が何について歌っているか誰でもわかる曲を作ろうと思ったんだ。」

最も有名な一節で、他の曲で何度も繰り返されてきたのは、「ある夜、俺が横になっていると、ママとパパが話すのが聞こえてきた。パパがママに言った。せがれにブギウギをやらせておけ。奴の中にあるブギウギを外に出さなきゃいかんからな!」もし「ブギー・チレン」が自伝的に聞こえるとしたら、それはこの一節があるからだ。

「ブギー・チレン」で、フッカーは、ブギと南部のブルーズを結びつけている。他のギタリストがピアノのスタイルでブギウギを演奏するのに対し、フッカーは、ブンブンうなる催眠的な強打 (droning, hypnotic drive)によって未開地のストンプ(backwoods stomp。「ストンプ」は足を踏みならすダンス)のような効果を加えている。1991年にフッカーはこう言った。「ブギウギと呼ぶ者もいるが、俺はブギウギを最新のものにしたんだ。「ブギー・チレン」は、いわばロック・スタイルで演奏しているからね。」

ベスマンは時々地元でセンセーション・レーベルからレコードを発売していたが、いつもは、よその大きなレーベルに録音した曲を賃貸ししていた。当時彼はロサンジェルスのモダン・レコーズのレコードをデトロイトで卸売りしていたので、「ブギー・チレン」をモダン・レコーズに送った。「ブギー・チレン」によるベスマンの成功は、少なくとも一人の田舎レコードプロデューサーを刺激した。一年後、メンフィスのサム・フィリップスは自分のスタジオを設立し、モダン・レコーズのためにブルーズマンのレコードを録音し始める。

15の州とカナダやグリーンランドにまで電波が届くナッシュビルのラジオ局WLACの有力なR&Bディージェイ、ジーン・ノーブルズ Gene Nobles は、「ブギー・チレン」に飛びついた。ノーブルズが一晩で10回「ブルー・チレン」をかけたことが爆発的ヒットのきっかけとなった。

「ブギー・チレン」がヒットすると、ベスマンは、別テイクをセンセーション・レーベルから発売した。「ブギー・チレン・ナンバー2 Boogie Chillen #2」というタイトルだった。

フッカーは、1917年8月22日(1920年という説もある)にミシシッピー州クラークスデール近くの大きな小作人一家に生まれた。13歳からギターを演奏し始め、義父のウィリー・ムーアからギターを学んだ。多くのブルーズマンがムーアの家を訪れた。そのなかにはブラインド・ブレイクもいて、彼の「ヘイスティング・ストリート・ブギ」(30年代後半に録音)は若いフッカーに受け継がれたようだ。というのも、ある意味、この曲は「ブギー・チレン」の青写真だからだ。30年代初期、フッカーはメンフィスでロバート・ブラックホーク Robert Blackhawk とともに活動し、いくつかのゴスペルグループのためにギターを弾いた。「メンフィスにはブルーズ歌手が多すぎたから、デトロイトに行った。」

1951年、フッカーの「アイム・イン・ザ・ムード I'm in the Mood」がヒットし、ポップチャートでも30位まで上昇した。1952年にモダン・レコーズから発売した「ニュー・ブギー・チレン」は、まあまあのヒットにしかならなかったし、ビージェイで1959年にリメイクした "Boogie Chillun"("Chillen" ではない) もそうだった。3年後、「ブーン・ブーン Boom Boom」(「ブギー・チレン」の変種)がポップチャートで小ヒットとなった。「マンボ・チルン Mambo Chillun」はヒットしなかった。

50年代後半はさっぱりだったが、60年代に「フォーク歌手」となり、70年代までにはサンフランシスコで安楽に暮らせるほどのお金を稼いだ。たぶん彼は歴史上もっとも多くの曲を録音したブルーズマンで、1,000曲以上も録音している。彼の曲のタイトルの多くには「ブギー」という言葉が入っている。彼が何度「ブギー・チレン」を再録音したか誰にもわからない(多くは、"chillun" とつづられている)。しかし、最初の録音が彼の一番のお気に入りだ。(シネシャモ日記2008年2月)



12
Arthur Smith and the Crackerjacks

Guitar Boogie
(1948)

  • カントリーチャート8位、ポップチャート25位
  • カテゴリー:ヒルビリー・ブギ
  • 作者:アーサー・スミス
  • レーベルと番号:MGM 10293、ニューヨーク
  • B面:"Boomerang" (カントリーチャート8位)
  • 録音日・場所:1945年、ワシントンDC
  • 発売日:1945年、1948年11月
  • なぜ重要か:ギターによるブギウギを広めた。
  • 影響を受けたのは:Tommy Dorsey "Boogie Woogie"(ポップチャート3位、1938)、ジャンゴ・ラインハルト
  • 影響を与えたのは:カール・パーキンズ、スコッティ・ムーア、ジェームズ・バートン、グレン・キャンベルといったギタリスト
  • 重要なカバー:レス・ポール
  • 重要なリメイク:
    The Virtues "Guitar Boogie Shuffle"(ポップチャート5位、1959)
    The Rock-A-Teens "Woo-Hoo"(ポップチャート16位、1959)
    The Jet Tones "Jet Tone Boogie"(1959)

1948年にミュージシャンたちがストをしている間、レコード会社は、レコードとして発売できる新たな素材をかき集めていた。MGMレコードの社長は、倒産したレコード会社と契約を交わし、2年前にアーサー・スミスが録音した音源を買い取った。それらをMGMがレコードとして発売すると、「ギターブギ」というタイトルの単純な即興演奏が、すぐにカントリーチャートとポップチャートの両方で評判を呼んだ。

アーサー・スミスは1921年4月1日にサウスカロライナで生まれ、音楽一家の中で育った。彼は兄弟とカントリーのトリオを結成し、30年代半ばにRCAからレコードを出した。アーサーはまだ中学生だった。彼は、ギターのほかに、フィドル、マンドリン、バンジョーを演奏し、特にフィドルの演奏は彼のギター奏法に引き継がれている。また、ジャンゴ・ラインハルトの影響を受けた。

第二次大戦中は海軍に入隊し、メリーランド州ベインブリッジの基地からワシントンDCにかよって、アーウィン・フェルドのスーパーディスク・レーベル所属のセッションギタリストとして、シスター・ロゼッタ・サープ、マリー・ナイト、エロール・ガーナー、スラム・スチュワートらのバックを務めた。白人のカントリーミュージシャンだったにもかかわらず、1940年代半ば、エボニー・マガジンの「ギタリスト・オブ・ザ・イヤー」に二度選出された。

スミスは、ワシントンのKストリートにあるNBCラジオ局で録音したことを次のように回想する。「私はテネシーランブラーズと録音していた。セッションが終わると、アーウィンが「まだ5分残っているが、誰かなんかないかな?」と言うので、兵舎で弾いたとき仲間が気に入ってくれたブギを提案した。テネシーランブラーズには5人いたが、全員は必要なかったので、リズムギターとベースギターだけを参加させて、「3つのコードだけだ」と言って、コードを教えた。」

「曲を演奏するのに没頭していたので、まわりのことがわからなかった。当時レコードには最大3分20秒しか録音できなくて、終りが近づくと、コントロールブースの連中が腕を大きく振って、私の注意をひこうと必死だった。幸いなことに、3分18秒で終わらせることができた。もう3秒長ければ、そのテイクを使うことができなかっただろう。」

50年近くたって「ギターブギ」を聞くと、とても現代的に聞こえる。リズムギターが単純なコードをかき鳴らす間(ベースはほとんど聞こえない)、スミスは、アンプなしのマーティンD27をフィンガーピッキング奏法で起用に演奏する。標準的なブギウギのリフから始まり、2番、3番と進むにつれ、異なる演奏を繰り広げる。「トミー・ドーシーの「ブギウギ」が元ネタだと思う。当時、カントリーもブルーズも聴かず、ビッグバンドを聴いていたから」とスミスは言う。ドーシーの「ブギウギ」は、ブルーズマンのクラレンス「パイン・トップ」スミスの非常に影響力が強い「パイン・トップのブギウギ」(ポップチャート20位、1929)に由来する。

スーパーディスクレーベルのアーウィン・フェルドは、1945年後期に、アーサー・スミスをフィーチャーしたランブラー・トリオという名前で「ギターブギ」のレコードを数千枚プレスする。B面はテネシー・ランブラーズの "Beaty Steel Blues" だった。スーパーディスクは配給網が貧弱だったので(主にスーパーディスクドラッグストアで販売された)、レコードの売上げは局地的なものでしかなかった。

1947年初め、MGM映画がサントラアルバム制作のためにMGMレコードを設立した。社長のフランク・ウォーカーはビクターで何年も働いたベテランのカントリーミュージックA&Rマンだった。30年代にスミス一家の曲を録音したのはウォーカーだった。MGMレコードのために彼が最初に契約したミュージシャンの中にはスミスとボブ・ウィルスがいた。スミスもウィルスも当初ヒットを飛ばさなかったが、ウォーカーのカントリー畑への進出は、数週間後に、ほとんど無名だったハンク・ウィリアムズと契約することで報われた。ウィリアムズの最初のレコード、"Move It on Over" は、カントリーヒットとなり、ポップチャートでも上昇した。

1948年1月1日、アメリカ音楽家連盟の22万5千人の会員が、ジュークボックスやラジオがミュージシャンに取って代わるごとに連盟にお金を支払うべきだと主張して、メジャーのレコード会社をボイコットした。新たな録音ができなくなったので、ウォーカーは、スミスがスーパーディスクのために2年前に録音した曲を買い取った。MGMは、アーサー・スミスとクラッカージャックスという名義でレコードを発売した。この中から最初にヒットしたのは「バンジョーブギ」だったが、これはウォーミングアップでしかなかった。1948年の最後の週に「ギターブギ」がヒットし始め、カントリーチャートとポップチャートの両方で大ヒットとなった。

海兵隊時代の仲間の一人にフランク・バーチュオーソというギタリストがいて、バーチュオーソ・トリオを結成した。1959年、彼はスミスの曲を「ギターブギシャッフル」というタイトルに変えて、ポップヒットを放った。

スミスの最後のヒットは1963年の "Tie My Hunting Dog Down, Jed" で、これはロルフ・ハリスの "Tie Me Kangaroo Down, Sport"(悲しきカンガルー) をまねたものだった。しかし、その後、彼の初期の曲の一つが最大のヒットとなった。1955年にMGMで録音した "Feuding Banjos" という曲である。10年以上たって、エリック・ワイズバーグとスティーブ・マンデルが "Dueling Banjos" というタイトルで録音した。しばらくは何も起きなかったが、1973年に映画「脱出」で彼らの演奏が使われた。突然アーサー・スミスの古いバンジョー曲がいたる所で演奏され、ワイズバーグとマンデルのレコードが1位になるのをはばんだのはロバータ・フラックの「やさしく歌って」だけだった。彼らはこの曲が作者不詳の民謡だと思っていた。スミスは訴訟を起こし、勝訴したために、印税を得ることができた。

"Dueling Banjos" の大ヒットにもかかわらず、アーサー・スミスは、「ギターブギ」によって最も知られている。

追記:ロックンロールが一儲けできるものになったとき、スーパーディスクの所有者アーウィン・フェルドは、全米を回る一夜興行ツアーに熱心だった。バディ・ホリー、ビッグ・ボッパー、リッチー・バレンスが1959年に飛行機事故で亡くなったのは、アーウィン・フェルドのウィンター・ダンス・パーティ・ツアーの最中だった。(シネシャモ日記2008年3月)



13
Stick McGhee and his Buddies

Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee
(1949)

さてさて、「最初のロックンロール・レコードは何か」の13曲目はスティック・マギー Stick McGhee and His Buddies の「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」です。

  • R&Bチャート2位、ポップチャート26位
  • カテゴリー:ブルーズ
  • 作者:スティック・マギー、J・メイヨー・ウィリアムズ
  • レーベルと番号:Atlantic 873、ニューヨーク
  • B面:"Blues Mixture (I'd Rather Drink Muddy Water)"
  • 録音日・場所:1949年2月14日、ニューヨーク
  • 発売日:1949年3月
  • なぜ重要か:パーティでの飲酒の歌として最初にヒットした曲の一つ。
  • 影響を受けたのは:サム・シアード Sam Theard の "Spo-De-O-Dee" (1937)
  • 影響を与えたのは:
    Big Jay McNeely with Jesse Belvin "All That Wine Is Gone" (1951)
    Willis Jackson "Wine-O-Wine" (1951)
    The Nightcaps "Wine Wine Wine" (1960)
  • 重要なカバー:
    Wynonie Harris (R&Bチャート4位)
    Lionel Hampton (R&Bチャート13位)
    Big John Greer
  • 重要なリメイク:
    The Johnny Burnette Rock 'n Roll Trio (1956)
    Jerry Lee Lewis (ポップチャート41位、1973年)

アトランティック・レコードは、50年代と60年代のリズム・アンド・ブルーズと同義語であり、レイ・チャールズ、クローバーズ、クライド・マクファター、ドリフターズ、ルス・ブラウン、ビッグ・ジョー・ターナー、チャック・ウィリス、ラバーン・ベイカー、アレサ・フランクリン、コースターズ、オーティス・レディングらを輩出した。アトランティックがなければ、50年代初期に黒人音楽は人気が出なかっただろうし、したがってロックンロール革命も起きなかっただろう。しかし、設立当初、アトランティックにはヒット曲がなかった。破産寸前のアトランティックを救ったのは、スティック・マギーという風変わりな名前の男による馬鹿げたブルーズの小品だった。

アトランティックは、駐米トルコ大使の息子アーメット・アーティガンと歯科医ハーブ・アブラムソンによって1947年10月にニューヨークで設立された。アーティガンは、10代の頃、兄のネスヒとともにジャズのレコードを収集し、世界でも有数のコレクターだった。兄弟は、ワシントンのトルコ大使館でジャムセッションをひんぱんに主宰し、プロモーターとして活動していたアブラムソンを仲間に加えて、自分たちの活動をコンサートホールにまで拡大しようとした。彼らは、ニューヨーク以外での最初のジャズコンサートのいくつかを開催した。

アブラムソンは、すでにいくつかのR&Bレーベルのために働いていた。戦後、ナショナル・レコードのためにA&Rマンとして働き、ビリー・エクスタインやレイブンズらと仕事をした。ダスティ・フレチャーを見つけて、「オープン・ザ・ドア・リチャード」(「最初のロックンロールレコードは何か」の6曲目)の黒人ボードビル版を録音したのは彼のアイディアだった。フレッチャーのレコードがヒットしているとき、アーメット・アーティガンは、新レーベルの設立をアブラムソンに持ちかけた。その結果がアトランティックだった。

二人は、1947年11月と12月に、大量にジャズを録音した。というのも、ジュークボックスやラジオによって補償もなく職を奪われることに抗議するミュージシャンのストライキが1948年1月1日から始まるからだ。1948年、アトランティックは、エディ・コンドン、エロール・ガーナー、アーネット・コッブ、ジョー・モリス(ライオネル・ハンプトン楽団のトランペッター)のレコードを発売するが、どれもまったく売れなかった。

1949年になる頃には、アトランティックは息たえだえだった。たまたま、アーメット・アーティガンがニューオリンズの販売業者としゃべっていると、ハーレム・レコードという無名のレコード会社を探してくれないかと頼まれた。その販売業者は「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」というレコードを入手したかったのだ。というのも、地元で人気のDJ、ポッパ・ストッパによってニューオリンズでヒットしていたからだ。販売業者は、もしアーティガンがハーレム・レコードから5千枚入手できれば、次のアトランティックのシングルを強く売り込むと約束した。ハーレム・レコードは2年前にシカゴに移転していたので、アーティガンはレコード会社を探し出すことができなかったが、どうにか78回転のレコードを探し出すことができた。荒いが、器用な演奏で、「奴らはみんな上等なワインを飲んでいる」というようなフランス人が赤面しそうな歌詞だった。アーティガンは、再録音することに決めた。

アーティガンは、盲目のハーモニカ奏者ソニー・テリーと活動していたブルーズギタリスト兼歌手のブラウニー・マギーに、スティック・マギーという男を知っているかと尋ねた。「もちろんだ。俺の弟のグランビルだ。」

グランビル・ヘンリー・マギーは、1917年か18年の3月23日にテネシー州で生まれた。小児マヒで体が不自由だったブラウニーは、少年時代、弟グランビルに四輪車で運んでもらっていた。グランビルはいつも棒切れで四輪車を押していたので、みんな彼のことを「スティック」と呼ぶようになった。

スティックによれば、第二次大戦中、バージニア州ピーターズバーグの新兵訓練所で、安ワインをガブ飲みしているときに曲を思いついた。そのとき、「スポ・ディー・オー・ディー」という歌詞は使っていなくて、「ドリンキン・ワイン、マザーファッカー、ドリンキン・ワイン」と歌っていた。しかし、40年代には、「ベッド」という言葉さえレコードで使うことができなかったので、「マザーファッカー」はなおさらだった。ハーレム・レコードのために録音するまでに、スティックは一般消費向けの歌詞に直していた。

しかし、ハーレム・レコードと、10ドルで購入した「ドリンキン・ワイン」の半分は、プロデューサーのJ・メイヨー・ウィリアムズが所有していた。ウイリアムズは、アイビーリーグの大学で教育を受けた黒人で、彼の高慢な態度はブルーズマンたちの間で不人気たったが、かられに対し多大なる権力を行使していた。ウィリアムズは、個人的にブルーズマンたちと契約を交わし、彼らのマネージャーとなり、さまざまなレコード会社のために曲を録音させ、その権利の一部または全部を所有した。ウィリアムズは、「ドリンキン・ワイン」の共作者としてだけでなく、キャブ・キャロウェイの "Corrine Corrina" (1932)、ネリー・ラッチャーの1944年のヒット曲 "Fine Brown Frame"、そしてルイ・ジョーダンの "Mop Mop" と "I Like 'Em Fat Like That" の共作者としてもクレジットされた。

ウィリアムズは、サム・シアードというコメディアンの曲を録音したことがあった。シアードは、自らを "Sam from Down in Bam" とか "Spo Dee O Dee" と呼ぶことがあった。シアードは、ウィリアムズのもとで、1937年と1940年に "Spo-De-O-Dee" という曲を録音した。それらは、「ドリンキン・ワイン」とはまったく異なるものだった。シアードは、「スポ・ディー・オー・ディー」を性交の遠回しな言い方として使用し、「アダムがイブとエデンの園で出会ったときにそれは始まった。アダムがイブに「スポ・ディー・オー・ディーをやろうぜ。さあ、楽しもうぜ!」」というよな歌詞だった。しかし、「スポ・ディー・オー・ディ」と繰り返すコーラスの部分はスティック・マギーのと似ていた。かけ合いの声はウィリアムズのものと思われるが、彼の回想によれば、「マザーファッカー」の代わりのノンセンスな4音節の言葉として「スポ・ディー・オー・ディー」が使われた。

アトランティクは、スティック・マギーと契約を交わし、700ドルを前払いした。1949年初期に、アトランティックのスタジオで「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」など数曲が再録音された。ブラウニー・マギーが一緒だった。ハーレム・レコードのオリジナル版ではスティックがギターを弾いていたが、戦時中に左手がダメになったので、ブラウニーがメインのギターを弾いた。ピアニスト Wilbert "Big Chief" Ellis、ベーシスト Gene Ramey がセッションに参加した。ドラマーは誰かわからない。この五人が、1947年の荒っぽいハーレム版(伴奏者は、たらいベースのボブ・ハリスだけだった)を忠実に再現するのに、一日以上かかった。

再録音は忠実ではなかった。オリジナル版よりすぐれている。よりドライブ感があるし、よりロックして、ロールしている。スティックは少し歌詞を変えた。オリジナルでは、コーラスの部分に来るたびに一度「ホイ」と叫ぶだけだったが、ワイノニー・ハリスが「グッド・ロッキン・トゥナイト」(First R&R の8曲目)で「ホイ・ホイ・ホイ」と叫んでR&B用語となったために、スティックは「ホイ・ホイ・ホイ」と叫ぶのが義務だと感じたようだ。オリジナルでは、良いワインをガブ飲みする場所はピーターズバーグだったが、ハーレム盤がすでに人気だったニューオリンズに替えられた。ルイ・ジョーダンが数ヵ月後に "Saturday Night Fish Fry"(First R&R の15曲目)を録音したとき、これを手本に、「ニューオリンズで酔っぱらった」と歌っている。

素早くキャッチーなギターのイントロに続いて、スティックは次のように歌う。「ニューオリンズではすべてが素晴らしい。奴らはあのワインを飲んでいて、本当に楽しくって、酔っぱらうと、一晩中歌い始める。ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー... そのボトルを俺に渡してくれ。」(ブラウニーが「モップ・モップ」と、あいの手を入れる。)

ブラウニー・マギーの「モップ・モップ」というあいの手は、1947年に録音されたオリジナルから引き継がれたもので、二つの拍子を埋め合わせるためのものだった。オリジナルを注意深く聴くと、「モップ・モップ」はマイクから離れたところから歌われているので、J・メイヨー・ウィリアムズ自身によるものだと思われる。ウィリアムズが作り、1945年にルイ・ジョーダンがヒットさせ、R&Bチャート1位になった曲「モップ・モップ」から借りてきたのだろう。以前から、ウィリアムズはミュージシャンの録音に自分自身を割り込ませてきた。たとえば、1929年に「パイン・トップ」スミスの二つの曲では、しゃべり口調のセカンド・ボイスで参加している。

(ジョーダンの「モップ・モップ」のB面は、「モップ・モップ」と同じ日に録音された "You Can't Get That No More" というポップチャートに入った曲だが、作者はなんと「スポ・ディー・オー・ディー」のサム・シアードだった。)

「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」には、素晴らしい、さりげない歌詞が詰め込まれている。たとえば、「窓をたたきわって、ドアをたたきつぶせ」(この歌詞は、2ヵ月後にジミー・プレストンの「ロック・ザ・ジョイント」に現れる)や、「俺は5セント持ってて、お前は10セント持ってるから、一緒にちょっとワインを飲もうじゃないか」といった歌詞である。マギーは、ニューオリンズのランパート街にある飲み屋 Willie's Den について言及し、当時のワインの名前を列挙する。「エルダーベリー、ポート・チェリー、ブラックベリー、アベンハム...スニーキー・ピート。」

「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」は、ヒットしなかった22枚のレコードに次ぐ、アトランティクの23枚目のレコードだった。R&Bチャートではトップ近くまで上昇し、白人の好きなノベルティ・ソングとしてポップチャートにも入った。年末までに20万枚を売り上げたので、アトランティックは一息つくことができた。アーメット・アーティガンは次のように言う。「大ヒットに慣れていないから、何の準備もしていなかった。それで、大量のブートレッグが現れたが、幸いなことに、業界に残ってやっていけるだけの十分なお金を手にした。」

メイヨー・ウィリアムズは、1947年のハーレム版のマスターをデッカに売却した。デッカは1949年5月に48000R&Bシリーズの一枚として発売したが、そのときまでにアトランティック版が大ヒットしていた。デッカは、ライオネル・ハンプトンにカバーを録音させて、より高級な23000シリーズの一枚として発売した。RCAは、新たなR&B45回転シリーズの一枚として、ビッグ・ジョン・グリアによる荒っぽいバージョンを発売した。キングは、ワイノニー・ハリスが取り乱したようにロックするカバーを発売し、これによって「ホイ・ホイ・ホイ」の輪がつながる。1930年代の遺物、アンティ・カークと彼のクラウズ・オブ・ジョイもボカリオン・レコードからカバーレコードを発売し、アトランティックでさえ、ロイ・ゴードンと彼のプレザント・バレー・ボーイズによるカントリー版を発売した。

カバー騒ぎが2年で収まったが、50年代にロカビリーソングとしてよみがえった。1954年にサン・レコードがマルコム・イェルビントンによるカバーを発売すると、ジョニー・バーネットのロックンロールトリオ、シド・キングとファイブ・ストリングス、ジェリー・リー・ルイスが続いた(ジェリー・リー・ルイスは、彼が最初に人前で歌ったのは「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」だと主張して、3回レコードを発売し、1973年にやっとヒットさせた)。アトランティックも1961年にラリー・デイルによるロカビリー版を発売した。

スティック・マギーは、続けて大ヒットを飛ばそうとして、ルディ・トゥームズの "Drank Up All That Wine" を発売したが、まったくの無駄だった。マギーは、1951年にアトランティックを離れる前に、パティ・ペイジのインストゥルメンタル・カバー「テネシー・ワルツ・ブルーズ」でヒットを飛ばした。キングで録音した "Women, Whiskey and Loaded Dice" は、1953年にまあまあのヒットとなった。2年後、彼はどこのレコード会社からも見放され、1961年にエンバー・レコードが録音セッションを一度開くまで、スタジオに戻ることはなかった。その年の8月15日、スティック・マギーは肺ガンで亡くなった。(シネシャモ日記2008年4月)



14
Jimmy Preston and His Prestonians

Rock the Joint

(1949)

  • R&Bチャート6位
  • カテゴリー:ブギウギ/R&B
  • 作者:クラフトン、キーン、バグビー
  • レーベルと番号:Gotham 188、ニューヨーク
  • B面:"Drinkin' Woman"
  • 録音日・場所:1949年5月、フィラデルフィア
  • 発売日:1949年6月
  • なぜ重要か:初期の完全なR&Bロックナンバーであり、ビル・ヘイリーがカントリーから初期のロカビリーに転換するきっかけとなる。
  • 影響を受けたのは:ネルソン・アレクサンダー・トリオの "Rock the Voot"(1948)、ワイノニー・ハリスの "Good Rockin' Tonight"(1948、R&Bチャート1位)
  • 影響を与えたのは:ビル・ヘイリーと彼のコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(1955、ポップチャート1位)
  • 重要なリメイク:ビル・ヘイリーとサドルメン(1952)、ローラ・アメチ Lola Ameche (1952)

ジェームズ・プレストンは、1913年8月13日にペンシルベニア州チェスターで生まれ、フィラデルフィアのそばで育った。1948年に彼がプレストニアンズと一緒に録音し始めたとき、彼はすでに30代だった。当時、全米音楽家連盟の会長ジェームズ・ペトリロがストのために1年間録音を禁じる命令を出していたのだが、プレストンはその命令に違反して録音した。アイビン・バレン Ivin Ballen が所有するフィラデルフィアの音楽企業連合はニューヨークに本拠地を置くゴッサム(Gotham)レーベルを支配しており、プレストニアンズを人里離れたスタジオにこっそり連れ込んだ。もし誰かに尋ねられたら、1947年に録音したと主張するつもりだった。しかし、その時録音した曲は、あまりに原始的だったので、誰からも尋ねられることはなかった。

プレストニアンズの構成は、二本のサックス、ピアノ、ベース、ドラムで、ジャンプブルーズのスタンダードを演奏していた。彼らは平凡な地方のバンドだった。しかし、ペトリロが禁止令を解き、サックス奏者ポール・ウィリアムズがR&Bナンバー "The Huckle-Buck" で大ヒットを飛ばすと、プレストニアンズは流行に飛びついて、1949年4月に "Hucklebuck Daddy" をR&Bチャートに送り込んだ。

その頃、バレンは、ゴッサムのA&Rマンとしてハリー・「ドック」・バグビー Harry "Doc" Bagby という名前の黒人オルガン奏者兼バンドリーダーを雇っていた。バグビーは、バンドのアシスタント、ウェンデル・「ドン」・キーン Wendell "Don" Keene とバンドの歌手ハリー・クラフトン Harry Crafton とともに、「ロック・ザ・ジョイント」という歌を書いた。これは 「グッド・ロッキン・トゥナイト」(First R&R 6曲目)の大ヒットにあやかろうと作られた曲だった。歌手兼ピアニストのネルソン・アレクサンダーと彼のトリオが1947年後期に録音した "Rock the Voot" というあまりロックしていない曲にもよく似ていたし、もちろんワイルド・ビル・ムーアの「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」(First R&R 9曲目)にも似ていた。バレンは、もっと荒っぽく、ジュークボックス向けに演奏できると考えて、プレストンに「ロック・ザ・ジョイント」を演奏させた。バレンは、この曲のために、テナーサックス奏者ダニー・ターナーをプレストンに貸した。


プレストンと彼のバンドがスタジオで録音した「ロック・ザ・ジョイント」は、騒々しく、手拍子が入り、サックスが金切り声をあげる、エキサイトなナンバーで、彼らの以前の演奏のどれとも似てなかったのみならず、誰の演奏にも似ていなかった。プレストンは、一年前から、ワイノニー・ハリスの大ヒット曲「グッド・ロッキン・トゥナイト」を利用するだけでなく、それを上回ろうと努力していた。サックス主導のシャッフルブギビートに乗せて、バンドは、曲の半分以上を「ウィ・ゴナ・ロック、ロック・ディス・ジョイント、ウィ・ゴナ・ロック、ロック・ディス・ジョイント、ウィ・ゴナ・ロック、ロック・ディス・ジョイント」と歌うと、プレストンが割って入って、"We gonna drink and rock, both young and old, we're gonna do the jellyroll...We gonna hucklebuck, we gonna jitterbug, year every gal's gonna cut some rug." と歌う。曲の中ほどは、ターナーによるヒステリックなサックスソロで、他のバンドメンバーが叫び声や金切り声ではやし立てる。プレストンが "Well the ceilin' is falling, I'm high as a kite, just keep on drinkin', I'm gonna ball tonight." と歌うと、ターナーのサックスはキーキー音を発する。最後の歌詞は、2年後のビル・ヘイリーによるリメイクに唯一似ている個所である。"We're gonna blow down the walls, and tear up the floor, until the law come knockin' at the door, we gonna rock, rock this joint..."。演奏は、形式と内容が合致している完璧な例となっている。(joint には「安酒場」という意味があるので、安酒場をゆらして、天井、壁、床が壊れるまで、どんちゃん騒ぎをしようぜ、というような歌詞だと思います。)

1950年、プレストンはゴッサムからダービー・レコーズに移籍し、ルイ・プリマ Louis Prima の "Oh Babe" のカバーで最後のヒットを飛ばす。"Rock with I Baby" "Roll Roll Roll"。1953年までに、彼は音楽をあきらめ、教会の仕事に就いた。(シネシャモ日記2008年5月)



15
Louis Jordan and His Tympany Five

Saturday Night Fish Fry, Part 1

(1949)

  • R&Bチャート1位(12週)、ポップチャート21位
  • カテゴリー:R&B/ジャンプブルーズ
  • 作者:ルイ・ジョーダン、エリス・ウォルシュ Ellis Walsh、アル・カーターズ Al Carters
  • レーベルと番号:Decca 24725、ニューヨーク
  • B面:"Saturday Night Fish Fry, Part 2"
  • 録音日・場所:1949年8月9日、ニューヨーク
  • 発売日:1949年9月
  • なぜ重要か:黒人のゴキゲンな暮らし(highlife)に関する、あからさまで自由な初期のポップヒット
  • 影響を受けたのは:ファッツ・ウォーラーの "The Joint Is Jumpin'" (1937)、ルイ・ジョーダンの "They Raided the House" (1945)
  • 影響を与えたのは:チャック・ベリーの "Reelin' and Rockin'"
  • 重要なカバー:Eddie Williams and His Brown Buddies, Pearl Bailey, Jackie "Moms" Mabley
  • 重要なリメイク:コースターズ (1966)

1944年にルイ・ジョーダンは、 "Ration Blues" と "Is You Is or Is You Ain't (Ma' Baby)" で計8週間トップに立った。なんと、カントリー・アンド・ウエスタンのチャートで。全米ポップチャートでも各々11位と2位まで上場した。この二曲は、黒人バンドリーダー、ルイ・ジョーダンが40年代にどれほど人気があったかを示している。最もヒットしたのは「サタディ・ナイト・フィッシュ・フライ」で、ニューオリンズでのワイルドで徹夜のハウスパーティを賛美した曲だった。

ルイ・ジョーダンは40年代初期にリズム・アンド・ブルーズを作り出した最大の功労者だった。彼は、大所帯のビックバンドを6人編成のコンボに縮小した。また、彼はビル・ヘイリーと彼のコメッツのモデルであり、リトル・リチャードやチャック・ベリーの音楽と精神にインスピレーションを与えた。

ルイ・ジョーダンは1908年7月8日にアーカンサス州でパートタイムのバンドリーダーの息子として生まれた。7歳までにクラリネットをおぼえ、高校時代にはアルトサックスをマスターし、これが彼の生涯の楽器となる。最初のレコードは1929年で、ブランズウィック・レーベルのジャングル・バンドとともに録音したものだった。3年後、ルイ・アームストロングのレコードに参加した。しかし、彼がブレークしたのは30年代半ばで、メジャー・レーベルであるデッカに所属していたドラマーのチック・ウェブのバンドの一員としてだった。1938年にウェブが亡くなると、ジョーダンは、9人編成のコンボ、エルクス・ランデブー・バンド Elks Rendezvous Band を結成し、1957年にリトル・リチャードがヒットさせる "Keep A-Knockin' (But You Can't Come In)" など数曲をデッカから発売した。

しかし、彼が本調子を出すのは団員を削減して、ティンパニーファイブと名前を変えてからである。このスリムになった新たなコンボは、ホーンが先導するホットなブギとシャッフルのリズムを強調していた。同じく40年代の黒人バンドリーダーであるジャック・マクビーは次のように説明する。「5人か6人のほうがよりうまくスウィングできるし、より多くのことができるし、より多くのアドリブを入れることができる。大きなグループだと、お決まりのアレンジに従わなければならない。大衆は、小バンドによる、よりルーズな演奏を望んでいた。」デッカでの彼の最初のヒット "Knock Me a Kiss" が1941年に生まれ、音楽シーンにおける変革の準備が整った。ビッグバンドの時代は終わろうとしており、間もなく戦時の制限によって永遠に葬り去られることになる。戦争が終わってアメリカに帰ってきた兵士たちは、何か新鮮で、きびきびして、興奮するものに飢えていた。彼らを待っていたのは、都会のリズムと田舎のブルーズの混合であるジョーダンの新しいサウンドだった。

当初、ルイ・ジョーダンは珍奇なものとして知られていた。彼は、ピアニスト兼歌手のファッツ・ウォーラーの無礼で馬鹿げたユーモアを共有しており、1943年のウォーラーが突然亡くなると、その分野を独占した。彼のヒット曲の多くがそれを物語っている。"The Chicks I Pick Are Slender, Tender and Tall" "Somebody Done Changed the Lock on My Door" "Ain't Nobody Here But Us Chickens?" "What's the Use of Gettin' Sober (When You Gonna Get Drunk Again?" などである。しかし、ジョーダンは、伝統的な歌手というよりも話上手で、気兼ねなく黒人生活を披露した。ジャズ批評家のラルフ・グリーソンは「ルイ・ジョーダンは誇りを持って黒人のことを歌った」と述べている。ミルス・ブラザーズやナット・コール・トリオなどの人気黒人歌手たちがなめらかにやさしく歌っていた時代に、ジョーダンの言い回しや視点は完全にニグロだったし、彼は自由にゲットー生活についてコメントした。そのコメントには洞察力やユーモアがあったが、けっして苦味はなく、それによって白人に対する魅力が損なわれることはなかった。

ジョーダンは、ミュージックビデオの先駆的存在である短篇映画(Soundies)を何十本も作ったし、"Meet Miss Bobby Sox" や "Follow the Boys" などの長篇にも出演した。40年代、彼は20曲ほどをポップチャートに送り込んだ。

「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」は、最初、エディ・ウィリアムズと彼のブラウン・バディーズ Eddie Williams and His Brown Buddies によって録音された。エリス・「スロー」・ウォルシュ Ellis "Slow" Walsh が歌手としてフューチャーされていた。ウィリアムズは、ジョニー・ムーアのスリー・ブレイザーズ Johnny Moore's Three Blazers のベーシストだったが、ブルーズ・ピアニストのフロイド・ディクソン Floyd Dixon とともにグループを結成し、1949年の "Broekn Hearted" など2曲のR&Bヒットがあった。ウィリアムズは次のように語っている。「エリス・ウォルシュはバンドのドラマーで、彼ともう一人が「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」を持ってきた。ビートを付けて、私のガレージで録音した。モダーン・レコードのジュールズ・ビハリ Jules Bihari に聴かせると、彼が発売したいと言うので、スタジオで録音した。しかし、エリスは、ルイ・ジョーダンのエージェント、バール・アダムズ Berle Adams に聴かせた。彼のが先に発売された。」

実際には、ウィリアムズは、モダン・レコードではなく、黒人所有のスプリームという小さなレコード会社のために録音し、そこからレコードを発売した。ジョーダンのと比べると、ウィリアムズのはプロデューズ不足である。ウォルシュは、歌うより語るほうが多く、バンドはうしろの遠くからシャッフルビートを刻んでいて、全体のサウンドは、ジャック・マクビーの "Open the Door, Richard" のように、黒人による寄席芸のような感じだ。躍動的で、よく響くベースがジョーダンのバージョンを支配しているが、控えめなエディ・ウィリアムズは自分のベースを埋没させている。この二つのバージョンは何年も離れているように聞こえる。

ジョーダンは歌を作りかえた。ウィリアムズのは、"And it was rockin' ... and they rocked till the break of dawn" という繰り返し部分が番と盤の間にときどき出てくるが、ジョーダンはその部分がリスナーのつかみ所だと考え、2番ごとに繰り返し部分を挿入しただけでなく、その部分を16小節から32小節へと拡大した。その結果、ウォルシュのバージョンから2番省略しているにもかかわらず、ジョーダンのは1分半ほど長く、4分半になっている。

ティンパニー・ファイブは、この曲を録音せずにロサンゼルスを離れ、一夜限りのコンサートを各地で行いながら東に向かった。このコンサートツアーは大忙しで、ニューヨークで録音する時間をかろうじて工面できるほどだった。デッカのような大会社は人気のあるアーティストのレコードを6週間ごとに発売していたので、録音しなければならない時期になっていた。

ティンパニー・ファイブは1949年8月9日に2曲録音した。最初は「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」で、78回転盤の片面には収まりきらなかった。二曲目は、これといった特徴のない "Hungry Man" というミディアムテンポのボビー・トループ Bobby Troupe の曲で、熱狂的な最初の曲のあとでバンドがリラックスするために演奏したに違いない。この曲はB面として録音されたと思われるが、実際にはAB面とも「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」になった。バンドはただちにコンサートツアーに戻ったが、「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」が大ヒットしたので、翌年の夏まで録音スタジオに戻ることができなかった。

ルイ・ジョーダンにとって、この曲は、4年前に発売した、レント・パーティー (rent party) に関する曲 "They Raided the House" の続編のようなものだった(レント・パーティーは、家賃を払えない黒人が開く有料パーティー)。その曲の中で、ジョーダンは、「彼らは家に乗り込んできて、私以外のみんなを鎮圧した。私は隅に座って、できるだけ飲んでいた」と歌った。警官が胡散臭い場所を手入れする歌は、1895年に黒人のベン・ハーニー Ben Harney が作った "Mr. Johnson Turned Me Loose" までさかのぼることができるが、たぶんそれ以前にもあったのだろう。ベッシー・スミスは "Gimme a Pigfoot" というレント・パーティーの曲を歌い、ファッツ・ウォーラーにも "The Joint Is Jumpin'" という同趣向の曲があったが、このジョーダンの最大ヒットの足元にも及ばなかった。この曲は、ニューオリンズの貧しい黒人たちのパーティーに関する、騒々しく、荒っぽいパロディだ。女性たちが金切声をあげ、跳びはね、叫び、ボトルが飛び交い、魚が臭いを発するほど大揺れのパーティだったので、警官たちが乗り込んできて、「ジャガイモ袋」のようにみんなを護送車にぶち込んだ。これは、黒人に運命づけられている屈辱のようなものだが、ジョーダンはユーモアを保ち続けた。彼はこうした場面を提示するだけで、解説については誰か別の人に任せた。

ギタリスト、ハム・ジャクソン Ham Jackson によるTボーン・ウォーカー風の一節で終わる「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」の繰り返し部分のつかみは、チャック・ベリーの "Reelin' and Rockin'" に受け継がれるが、より重要なのは、この歌がベリーの50年代のレコードの多くで示されているユーモラスな観察の青写真となっていることだ。

次世代の音楽に多大な影響を与えているにもかかわらず、ルイ・ジョーダンは50年代にさほど名誉もお金も得ていない。「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」は、素朴なブルーズボイスのアルトサックス奏者にとって有終の美のようなものになってしまった。まず、1953年にデッカで、ティンパニー・ファイブのヒルビリー版であるビル・ヘイリーと彼のコメッツに取って代わられた。プロデューサーのミルト・ギャブラー Milt Gabler は、ジョーダンがデッカを離れてすぐにコメッツの録音セッションを行った。コメットはジョーダンの "Choo Choo Ch'Boogie" と "Caldonia" を録音した。

ロックンロールのビートがジョーダンのシャッフルとブギのリズムに取って代わり、レスター・ヤングやチャーリー・パーカーのようなボップ・ジャズマンやイリノイ・ジャケーやビッグ・ジェイ・マクニーリーのようなホンカーに影響を受けた若いサックス奏者が新たなサウンドを作り出し、ジョーダンの奏法は次世代のティーンエイジャー市場では時代遅れとなる。また、ジョーダンは40代になっており、年頃の娘たちに愛情たっぷりの歌をもっともらしくささやくことができなかった。彼の名誉のために言うが、彼はそんなことを試みたことはなかった。ジョーダンは、いくつかのレコード会社に移籍した。マーキュリーでは、「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」を新録音したが、オリジナルの気骨に欠けていた。彼は、新たな状況に適応できない40年代のR&Bマンであり、"Gal, You Need a Whippin'" や "Whiskey, Do Your Stuff" といった曲を機械的に作り続けるだけだった。彼は、にきびだらけの少年たちに迎合していると非難されることはほとんどなかった。また、彼は少年たちにとって黒人すぎた。コースターズやチャック・ベリーはこっけいな苦境を歌ったが、彼らはジョーダンの音楽を受け継いでいるものの、人種的に中立な聴衆に合わせていた。チャーリー・ブラウンやジョニー・B・グッドは白人でありえた。しかし、ルイ・ジョーダンの「カルドニア」や「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」で騒ぎまわる連中が白人に間違われることはない。

ルイ・ジョーダンは、関節炎によって次第に体が衰えてくると、音楽をあきらめ、フェニックスの退屈な郊外に引っ越した。1975年2月4日、ロサンジェルスで心臓発作によって死去。

チャック・ベリー:「私は、自分を誰よりもルイ・ジョーダンと同一視している。ジョーダンよりもはるか昔から音楽はあったが、私が最初にロックンロールを演奏しているのを聞いたのはルイ・ジョーダンだった。」

BBキング:「初期作品の多くはジョーダンに影響を受けている。今でもそうだ。」

レイ・チャールズ:「彼は偉大なショーマンだ。ユーモアのセンスがあるし、皮肉っぽい調子は忘れがたい。一度彼の音楽を聴くと、忘れることができない。」

ヒューイ・「ピアノ」・スミス:「ルイ・ジョーダンのレコードをすべて聴こうとした。私の考えでは、ロックンロールが本当にスタートしたのは彼からだ。」

ファッツ・ドミノ:「特に私はルイ・ジョーダンを聴いた。」

(シネシャモ日記2008年6月)



16
Professor Longhair

Mardi Gras in New Orleans

(1949)

16曲目は、プロフェッサー・ロングヘア Professor Longhair の「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」。スタータレント Star Talent というレコード会社から出たプロフェサー・ロングヘアと彼のシャフリング・ハンガリアンズ His Shuffling Hangarians 名義のものと、アトランティックから出たプロフェサー・ロングヘアと彼のニューオリンズボーイズ His New Orleans Boys 名義のものが同じころに発売されているようです。

  • チャートインせず
  • カテゴリー:R&B
  • 作者:ロイ・バード Roy Byrd
  • レーベルと番号(その1):Star Talent 808、テキサス州ダラス
  • レーベルと番号(その2):Atlantic 897、ニューヨーク
  • B面(その1):"Professor Longhair's Boogie" (Star Talent)
  • B面(その2):"She Walks Right In" (Atlantic)
  • 録音日・場所(その1):1949年10月にニューオリンズのハイハットクラブ Hi-Hat Club で
  • 録音日・場所(その2):1949年11月にニューオリンズのJ&Mスタジオで
  • 発売日(その1):1949年11月/12月
  • 発売日(その2):1950年1月
  • なぜ重要か:ニューオリンズ固有のリズムを利用したR&Bの先駆的存在
  • 影響を与えたのは:
    ヒューイ・スミス Huey Smith。"Rockin' Pnewmonia and the Boogie Woogie Flu" や "Don't You Just Know It" などのヒット曲を持ち、他のアーティストの曲にピアノで参加(フランキー・フォード Frankie Ford の "Sea Cruise"、スマイリー・ルイス Smiley Lewis の "I Hear Ya Knockin'" など)。
    ほかに、ドクター・ジョン Dr. John やジェームズ・ブッカー James Booker など、ほとんどすべてのニューオリンズのピアノ奏者。
  • 重要なカバー:Joe Lutcher の "Mardi Gras"(R&Bチャート13位)
  • 重要なリメイク:ファッツ・ドミノ(1953)、プロフェサー・ロングヘア("Go to the Mardi Gras," 1959)

「みんながマルディグラの歌を望んでいたから、作ったんだ」とプロフェサー・ロングヘアは言った。マルディグラの季節にニューオリンズに行くと、30分ごとにラジオからこの曲が流れる。この曲は、今日では世界的に有名なフェスティバルの宣伝に聞こえるが、もともと、1950年代にニューオリンズが音楽的に評価される道筋を作った男によって作られて演奏された原始的なロックンロールだった。

ニューオリンズでは、プロフェッサー・ロングヘアは、「フェス Fess」の愛称で人々の記憶に残っており、ロックンロールのバッハで、ニューオリンズが生んだもっとも独創的なキーボード奏者とみなされている。チャンピオン・ジャック・デュプリー Champion Jack Dupree、スタック・オー・リー Stack-O-Lee、アーチボールド Archibald、ファッツ・ドミノ Fats Domino、ヒューイ・スミス Huey Smith、アラン・トゥーサン Allen Toussaint を輩出した街なのだから、これは大したことだ。

ヘンリー・ローランド・バード Henry Roeland Byrd は、1918年12月19日にルイジアナ州ボガルーサに生まれ、ニューオリンズの下的で育った。伝説によれば、街角に捨ててあった壊れかけのアップライトピアノで独学したということだが、実際には母親から音楽を学んだ。正式な音楽教育を受けていなかったが、耳が良かったので、キッド・ストーミー・ウェザー Kid Stormy Weather やサリバン・ロック Sullivan Rock など、地元の売春宿のピアニストのスタイルを身につけ、それらを混合して、ブギウギ、ジャンプブルーズ、カリプソ、サンバ、ルンバなどが混在する独特のものができあがった。

マルディグラ、別名ファット・チューズデイ(太った火曜日)は、四旬節が始まる「灰の水曜日」の前日であり、ニューオリンズの音楽にとって常に重要である。ニューオリンズのマルディグラは、クリスマス直後から始まる、舞踏会やパレード満載の季節の最終日である。18世紀初期にフランス人がアメリカに持ち込んだものだ。下層市民たちは、地元の気どった上流階級を真似したり、からかったりしながら、通りでお祭り騒ぎをするための言い訳に、マルディグラを利用し始めた。1838年までに、地元の実業家たちは、騒ぎが手に負えなくなるのを恐れて、最初のマルディグラ・パレードを開催した。クレオールのブラスバンドやインディアンのように着飾った黒人たちが参加した。年がたつにつれ、黒人たちが、キリスト教の祝日をよそおって、古来のアフロ・ブラジリアンの慣習を人前で披露する儀式が増えた(ニューオリンズの多くの奴隷たちはブラジルから来ているので、ニューオリンズのマルディグラは直接ブラジルのカーニバルによって味つけされていたかもしれない)。アフリカの儀式の多くは音楽に基づいている。特に、呼びかけと応答(コール・アンド・レスポンス)による歌い方と、パレードのミュージシャンたちに伴奏をつける人々による「セカンドライン」と呼ばれるシンコペーションが特徴である。ラテンアメリカやカリブ海の音楽もマルディグラに取り込まれ、最終的にニューオリンズのリズム・アンド・ブルーズに味づけすることとなる。ニューオリンズのR&Bはすぐわかる。

ロイ・バードは、カルドニア・インというクラブでデイブ・バーソロミューのバンドに参加し、バンドの休憩時間に演奏したときに、地元で名声を得たと主張している。バンドのドラマー、アール・パーマーは、「最良の場所というわけではなかったが、プロフェサーは長時間そこで過ごし、楽しみだけのためにピアノを演奏していた。」彼のローリングする型破りなピアノに観衆が熱狂するので、クラブの所有者はバーソロミューのバンドをクビにして、安いギャラで済むバードを雇った。

ラグタイムの時代から、安酒場(バレルハウス)のピアニストはプロフェサーと呼ばれた。バードは、禿げた頭の両側から長い髪をたらしていたので、1946年頃からプロフェサー・ロングヘアと名乗り始めた。彼は、ギターのウォルター・ネルソン、サックスのロバート・パーカー、ドラムのビッグ・スティックとともにフォー・ヘアーズ Four Hairs を結成した(ロバート・パーカーは、1960年代半ばに "Barefootin'" でヒットを飛ばす)。1949年後期、フォー・ヘアーズは、テキサス州ダラスでスター・タレント・レーベルのために最初の録音をする。ある日の午後、ニューオリンズのハイハットクラブで録音した四曲のうち、「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」と「シー・エイント・ゴット・ノー・ヘア She Ain't Got No Hair」の二曲は、プロフェサー・ロングヘアと彼のシャッフル・ハンガリアンズ名義で、A面としてスター・タレントから発売された。二曲ともヒットしなかった。録音がひどかったこともあるが、会社がすぐに倒産してしまったことが大きかった。それでバードは、この二曲を他のレーベルのために再録音した。「シー・エイント・ゴット・ノー・ヘア」は、「ボールド・ヘッド Bald Head」と改題され、彼唯一のチャート入りしたヒット曲となった(マーキュリー・レコードから発売され、1950年にR&Bチャート5位)。

バードはアトランティック・レコードに入った。アトランティック・レコードは、他のレーベルの曲を再録音して最初のヒットを飛ばすという前歴があった(最初のR&R13曲目「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」)。アトランティックのアーメット・アーティガンによれば、彼が最初にロングヘアについて聞いたのは、1949年後期にニューオリンズを訪れたときだった。「彼は町のクラブで演奏していて、そこには白人がいなかった。タクシー運転手は半マイルも手前で我々を降ろしたので、クラブまで野原を歩かなければならなかった。我々がクラブに入ると、20名ほどの客が窓から飛び出した。我々を警官だと思ったのだ。」

数日後、アーティガンはJ&Mスタジオで、「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」を含めて、10曲録音した。バードのバンド以外のミュージシャンが追加され、その中には新しいドラマー、アル・ミラー Al Miller もいた。1950年2月、ビルボード誌は「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」に関して次のように書いている。「変な3拍子による素晴らしく元気のよい曲で、デルタ地域で大当たりするはずだし、他の地域でも評判を呼ぶだろう。」当初、このレコードは、プロフェサー・ロングヘアと彼のニューオリンズボーイズという名義で発売されたが、のちの版では、「ロイ「はげ頭」バード Roy "Baldhead" Byrd」と表記された。

続いてアトランティックは "Tipitina" というシングルを発売したが、ニューオリンズ付近で話題を呼んだ以外は、さっぱりだったので、アトランティックは彼を解雇した。一般の聴衆が彼の演奏スタイルに多少慣れてきたし、彼のバリトンボイスは、独特だったが、特に人を引きつけるものではなかった。その上、アトランティックの興味は、レイ・チャールズなどのニューオリンズを拠点とした他のアーティストに移っていた。

1959年、ロングヘアは、マック・レベナック Mac Rebennack のバンドをバックに、ロン・レーベル Ron label からこの曲を発売した。"Go to the Mardi Gras" と改題したが、またもやヒットしなかった。(数年後、レべナックは、ドクター・ジョンとナイト・トリッパー Dr. John and the Night Tripper という名前で自らのキャリアを確立する。)

では、なんでプロフェサー・ロングヘアと彼の奇妙でルンバっぽいピアノ演奏がそんなに特別なんだろう?ニューオリンズのサックス奏者アルビン「レッド」タイラー Alvin "Red" Tyler は次のように言う。「訓練されたミュージシャンにとっては、彼の演奏が型破りで、何か違ったもののように聞こえる。訓練されたミュージシャンと演奏する場合、通常、標準的なコード進行やリズムで演奏を行う。彼は、そうしたことをすべて窓から放り出して、まったく異なる演奏をするので、自分たちのコンサートがある間は、彼の演奏を聴かなかった。」レベネックによれば、ロングヘアが変な演奏をするのは、彼の指の一本が大きくて、関節が三角形だったからだ。

レッド・タイラーが信じるところでは、地元のほかのピアノ奏者は、ロングヘアのコピーを試みることで、自分のスタイルを発展させた。「ヒューイ・スミスは、ロングヘアを聴いて好きになったので、コピーしようとしたが、とても型破りなので、コピーできなかった。それで、自分のスタイルを思いついた。アラン・トゥーサンはヒューイ・スミスに影響を受けた。こういうふうに流れができていった。」

ロングヘアの人柄は、音楽同様、変化に富んでいた。アール・パーマーは笑いながら次のように言う。「クラブのオーナーたちは、彼がピアノをけって穴をあけると不満を述べたものだ。彼は、演奏するとき、ものすごくピアノをける。」

ロングヘアは、晩年、カナダやヨーロッパのフェスティバルで若い世代のファンを喜ばせたが、一度として大金を稼いだことはなく、古い家から引っ越すことができなかった。彼は、「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」の著作権を持っていなかったので、ソングライターとしてもアーティストとしても印税をもらっていない。(彼が告白するところでは、彼の本業はギャンブルだった。)彼は、貧しいまま、1980年1月30日に亡くなった。一日中続いた彼の葬式は、ニューオリンズで最大級だった。ニューオリンズ市長は、1980年のマルディグラを彼に捧げた。

近年、プロフェサー・ロングヘアの伝説はニューオリンズで大評判だし、彼の「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」(現在は「ゴー・トゥ・ザ・マルディグラ」という題名のほうがよく知られてる)は、ニューオリンズの国歌的存在になっており、フェスティバル期間中は絶えずラジオから流れてくるし、毎年レコードが再プレスされる。ロン・レーベルのシングルは、毎年1万5千枚売れる。

「ニューオリンズに行くなら、マルディグラを見なきゃ。」(シネシャモ日記2008年7月)



17
Fats Domino

The Fat Man

(1950)

17曲目は、ファッツ・ドミノ Fats Domino の「ファット・マン」。

  • R&Bチャート2位。
  • カテゴリー:R&B/ブギウギ
  • 作者:アントワーヌ・ドミノ Antoine Domino(ファッツ・ドミノの本名)、デイブ・バーソロミュー Dave Bartholomew
  • レーベルと番号:Imperial 5058、ロサンジェルス
  • B面:"Detroit City Blues"
  • 録音日・場所:1949年12月10日、ニューオリンズ
  • 発売日:1950年2月
  • なぜ重要か:インペリアルで70枚近くシングルを発売し、63曲をR&Bチャートに送り込んだファッツ・ドミノの最初のシングルであり、ニューオリンズのサウンドがする最初のニューオリンズのヒット曲となり、地元のミュージシャンでレコードを作ればいいんだと他の地域のレコード会社に確信させた。
  • 影響を受けたのは:チャンピオン・ジャック・デュプリー Champion Jack Dupree の "Junkers Blues" (1941)
  • 影響を与えたのは:ジミー・ビーズリー Jimmy Beasley、ウィリー・イーガン Willie Egan、ジェリー・リー・ルイス Jerry Lee Lewis

ニューオリンズのJ&Mレコード店の裏にあるJ&Mスタジオは、さほど利点がない。部屋の大きさは縦横3メートルから4メートルほどしかない。オーナーでエンジニアのコジモ・マタッサ Cosimo Matassaによれば、「詰め物をいっぱいした部屋だった。床にはカーペットを敷き、壁は柔らかいセルテックス(cellutex。繊維素材)の防音板だったし、天井もセルテックスだった。」エコーが生じないので、音楽は乾いた平板なサウンドとなった。マタッサは楽器のバランスをとるのが下手だったし、マスターディスクを作る旋盤が録音をダメにすることが時々あった。だが、J&Mスタジオには、にぎやかに楽しむことのできる専属バンドがいて、それはニューオリーンズ・バンドだったから、他のスタジオでは味わえないものがあった。

歌手ロイ・ブラウン Roy Brown とバンドリーダー、ポール・ゲイトン Paul Gaytonのおかげで、ニューオリンズはナウい街いう評判が高まり始めていた。ロサンジェルスのインペリアル・レコードの所有者ルー・チャッド Lew Chuddは、メキシコ音楽のレコード会社というイメージから抜け出すために、新たなR&B分野に最初から加わって有利な立場に立とうとニューオリンズに飛んだ。最初の仕事は、28歳の黒人トランペッター兼バンドリーダーのデイブ・バーソロミューをインペリアルのA&Rマンとして雇うことだった。バーソロミューは、週末にJ&Mレコード店から放送されるドクター・ダティ・オー Dr. Daddy-Oのラジオ番組で演奏し、J&Mスタジオの専属バンドを率いていた。

チャドが、ニューオリンズの有能なミュージシャンについてバーソロミューにたずねると、バーソロミューは、「ハイダウェイ・クラブで演奏しているファッツ・ドミノって奴がすごいって評判だ」と答えた。金曜の夜、バーソロミューとチャドがクラブを探し出し、ベースプレーヤーのビリー・ダイアモンドのバンドでピアノを弾いていたファッツを聴いた。バーソロミューは次のように回想する。「ファッツは囚人がよく歌う「ジャンカー・ブルーズJunker Blues」を歌っていた。ジャンキー(麻薬中毒者)の歌だ。1949年12月には、ほとんどがこの言葉の意味を知っていなかった。ファッツにレコードを作ってみないかと持ちかけ、チャドに紹介した。」

五日後、ファッツ・ドミノは、バーソロミューの八人のバンドとともに、コジモ・マタッサのスタジオにやってきた。バンドには、サックスのハーブ・ハーデスティ Herb Hardestyとアルビン・「レッド」・タイラー Alvin “Red” Tyler、ギターのアーネスト・マクレーンErnest McLain、ベースのフランク・フィールズFrank Fields、ドラムのアール・パーマー Earl Parmerがいた。このバンドは、ほとんどメンバーを変えず、このあと15年間、ドミノのバックを務めることになる。最初の曲は「ファット・マン・ブルーズ Fat Man Blues」で、ドミノがクラブで歌っていた「ジャンカー・ブルーズ」を作り直したものだった。

「ジャンカー・ブルーズ」は、1941年にチャンピオン・ジャック・デュプリーがコロンビア傘下のオーケー(Okeh)レーベルから発売していた。ファッツはデュプリーの歌詞を「いつもラリッているからジャンコと呼ばれている」から「20ポンドあるから太った奴と呼ばれている」に変えた。また、針、マリファナたばこ(reefer)、コカインといった言葉をすべて削除した。(のちにプロフェサー・ロングヘアは「ジャンカー・ブルーズ」のメロディをパクって「ティピティーナTipitina」を作り、ロイド・プライスは「ローディ・ミス・クローディLawdy Miss Claudy」を作った。)

チャドは、題名を「ファト・マン・ブルーズ」から「ファット・マン」に変えた。この曲は、ニューオリンズのR&Bとしても変な構造をしている。ファッツは、ロングヘア風ブギーを何小節かピアノで連打したあと、次のように歌う。「200ポンドあるから太った奴と呼ばれる。振舞いをわきまえているから女の子はみんな俺が好き。俺はランパート通りとカナル通りの角に立ち、すごいギャルたちを眺める。」ここまでは何も変わったところはないが、次の16小節、ファルセットボイスで「ワー、ワー、ワー」とミュート・トランペットの音をまねる。次の20小節はブギピアノの演奏で、最後にナンセンスな歌詞を1番歌う。

バーソロミューは、音がゆがんでいるので、最初は確信が持てなかった。「サックスは粗すぎるし、私はコントロールルームにいたのでトランペットを吹くことができなかった。それで、ファッツはピアノをガンガン鳴らした。ピアノは他の楽器よりもはるかに高く鳴り響いた。そういうふうにはしたくなかったけれど、しかたなかった。」

スタジオには三つのコンセントと三つのマイクしかなかった。ピアノにマイクを一つ割り当て、すぐそばでサックス奏者二人に演奏させた。二番目のマイクはギタリストとベーシストが共有した。三番目のマイクはファッツの歌に使用された。ドラマーのアール・パーマーは、三本のマイクに音が入るように大きく打ち鳴らさなければならなかった。マタッサがファッツとバンドのバランスをきちんととるのに苦労したのは無理もない。

しかし、ゆがんだ、低音が重いピアノが、ファッツの甲高いスキャットと妙にバランスをとっている、このレコードは売れた。インペリアル・レコードによれば、ニューオリンズだけで発売後10日間に1万枚売れた。「ファット・マン」は、生涯で2200万枚のレコードを売ったファッツ・ドミノの最初のレコードとなった。「ファット・マン」は、次の20年間に黒人音楽を形作ることとなる重要で独特のサウンドとしてのニューオリンズR&Bを確立した。ドラマーのアール・パーマーは、彼らが作り出したリズムのことを「ニューオリンズ特有のものだ。硬い8拍子 (hard eights) で、ルイ・ジョーダンのシャッフルとは違う。リズムミュージックに対する新たなアプローチのようなものだ」と述べた。さらに次のように言う。「バスドラムを聞けばニューオリンズのドラマーだとわかる。パレードのビートが内包されているからだ。」

ファッツ・ドミノの録音セッションで、アール・パーマーは、以前とは違う叩き方をした。彼は、ジャズ、ビバップ、デキシーランドなどの曲でさまざまなリズムを叩いた。デキシーランドでは最後のコーラス部分に到達したときだけ強いアフタービートを叩くのだが、「ファット・マン」は、最初から最後まで強いアフタービートを叩く必要があった。のちに、パーマーは、ロイド・プライスの「ローディ・ミス・クロディ」やリトル・リチャードのほとんどのヒット曲でも足早にバックビートを叩いた。

ファッツ・ドミノは1928年2月28日にニューオリンズに生まれた。ミシシッピー川沿いのフランス語を話す植民地で育ったパートタイムのバイオリン奏者の末っ子だった。ファッツ自身はクレオール英語を話す地域で育った。子供のころ、デキシーランドのミュージシャンだった姉の夫が鍵盤に音階を書いてピアノを教えてくれた。

アール・パーマーの回想によれば、ファッツは、「ファット・マン」のヒットのおかげで、安心できるニューオリンズから初めて離れなければならなかった。「ファッツは隠れてしまった。ニューオリンズから離れたくなかったからだ。彼をツアーに連れ出すのに三日かかった。バーソロミューが電話で彼に「ツワーに出ないと訴訟を起こされるぞ」と言うと、ドミノは観念してツアーに出た。

ドミノの初期のヒーローの一人は、ピアニストでソングライターでひょうきん者のファッツ・ウォーラーだった。彼は1943年に亡くなった。間違いなく、ドミノのユーモアのほとんどはウォーラーから覚えたものだ。その後、エイモス・ミルバーン Amos Milburn からも影響を受けた。ミルバーンは、テキサスのブギウギ・ミュージシャンで、1949年から1951年にかけて10数曲のR&Bヒットを飛ばした。しかし、バーソロミューは、ドミノのリラックスしたスタイルを作ったのはチャールズ・ブラウン Charles Brown だと主張する。彼は、1946年から1951年にかけてR&Bの世界で最も人気のあるアーティストの一人だった。「ファッツはチャールズ・ブラウンをコピーしたがっていたが、チャールズのような発声法じゃなかったし、洗練されたピアニストでもなかった。ファッツはブギウギしか演奏できなかった。だが、彼は、世界で最も素晴らしいブギウギを演奏した。」

「ファット・マン」の大ヒットにもかかわらず、同じ録音セッションからの曲はどれもヒットしなかった。1952年の中ごろに “Goin’ Home” がヒットするまでは鳴かず飛ばずだったが、それ以後は彼を止めるものは何もなかった。彼は自分のスタイルをトーンダウンさせ、「ファット・マン」のニューオリンズ・ブギを捨てて、ソフトな3連音符を選んだ。これはテキサスのピアニスト、リトル・ウィリー・リトルフィールド Little Willie Littlefield から覚えたもので、以後の彼のトレードマークとなる。ファッツ・ドミノは、1950年代に最もレコードを売ったR&Bエンターティナーとなり、「女はそれを我慢できない」など、よく知られたロックンロール映画に何本か出演した。彼の名前は、チャビー・チェッカー Chubby Checker、タビー・チェス Tubby Chess、Pudgy Parcheesiなどに影響を与えた。

ドミノは、ABCパラマウント・レコードに移籍後の1964年ごろ、ナッシュビルで「ファット・マン」を再録音した。彼の発声法は、オリジナルのように濁っていない。ファッツが「ワー・ワー」と歌う部分はハーモニカに置き換えられ、ダブルベースはエレキベースに変わり、ファッツの代わりに別のピアニストが演奏した(たぶんジェームズ・ブッカー James Booker)。もちろん、明るくて歯切れのよいステレオ録音だった。荒くて、くすんだオリジナルと比べると、ひどいものだった。

いまだファッツ・ドミノのバンドを率いているバーソロミューは、ロックンロール時代にファッツを人気者にしたのは彼の温かい声とフレンチ・クレオールのイントネーションだと主張する。「我々はみんな彼のことをカントリー・アンド・ウエスタン歌手だと思っていた。」(シネシャモ日記2008年8月)



18
Muddy Waters

Rollin' and Tumblin'

(1950)

18曲目は、マディ・ウォーターズ Muddy Waters の「ローリン・アンド・タンブリン」。

  • チャート入りせず。
  • カテゴリー:ブルーズ
  • 作者:マディ・ウォーターズ
  • レーベルと番号:Aristocrat 412、シカゴ
  • B面:"Rollin' and Tumblin', Part 2"
  • 録音日・場所:1950年3月、シカゴ
  • 発売日:1950年3月4月
  • なぜ重要か:初期のモダンな、エレキによるシカゴ・ブルーズ
  • 影響を受けたのは:ハンボーン・ウィリー・ニューバーン Hambone Willie Newbern の "Roll and Tumble"(1927)、ベビーフェイス・ルロイ・トリオ The Baby Face Leroy Trio の "Rollin' and Tumblin'"(1952)
  • 影響を与えたのは:マディ自身の "Louisiana Blues"(R&Bチャート10位、1950)、サンフォード・クラーク Sanford Clark の "The Fool"(ポップチャート7位、1956)、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ジョニー・ウィンター、ZZトップ、ロバート・クレイ、ボブ・ディラン
  • 重要なリメイク:エルモア・ジェームズ Elmore James (1960)、キャンド・ヒート(1967)

足でリズムをとりながらギターを弾く孤独な男は、ロックンロールの神髄とも言える人物で、あきらかにチャーリー・パットン、スキップ・ジェームズ、ロバート・ジョンソンなどのデルタ・ブルーズマンらのイメージを引き継いでいる。これら田舎のアーティストとモダンな都会の世界をつなぐこの男は、しゃがれ声の歌手兼ギタリストで、マッキンリー・モーガンフィールドという本名だが、マディ・ウォーターズという名前のほうがよく知られている。

マディ・ウォーターズは、ヤズー川とミシシッピー川にはさまれた三角地帯の低地にあるミシシッピー州ローリング・フォークで1915年4月4日に生まれた。彼のニックネームは早くからつけられていた。「よく、泥の中で遊んで、泥を食べようとしていた。祖母がマディと言いだし、そのあと子供たちがウォーターズと言い出した。」民族学者のアラン・ロマックスとジョン・ワークは1941年にウォーターズと出会った。彼らは、ブルーズ音楽を記録してほしいという国会図書館の依頼を受けて、携帯用のレコード録音機(acetate cutter)を持って、デルタ地帯をくまなく探していた。誰が最高のミュージシャンかと聞かれた地元民たちは、ストーバル農園で作男をしているウォーターズと答えた。ろマックスは、この時を含めて三回この地域に出向き、10数曲を録音した。これらは "Down on Stovall's Plantation" というアルバムで聴くことができる。

ロマックスが見つけたのは、ブルーズ音楽の未踏の起源に直接つながっている男だった。マディは、この二年前に亡くなったロバート・ジョンソンとは会ったことがないらしいが、ジョンソン、チャーリー・パットンなどの初期ブルーズマンたちと仕事をしたことがあるサン・ハウスとは、かなりの時間一緒に過ごし、ボトルネック奏法を教わった。

マディ・ウォーターズは、ロマックスの録音に勇気づけられ、イリノイ・セントラル鉄道でシカゴに移住する人々に加わった。多くの南部黒人が定住し、その中には姉(妹)夫婦もいた。最初、ウォーターズはシカゴのブルーズにまごついた。みんな南部出身のブルーズマンだったか、シカゴに定住してから流感ウイルスのようなものにかかっていた。ボードビルのスタイルとスウィングが彼らの音楽に入り込んでいた。ベースとドラムがビートを刻んでいた。姉が「あんたがやってるような古いブルーズはシカゴでは誰も聴かない」と言うので、ウォーターズはステラ製のエレキギターを買った。

コロンビアでのセッションが失敗に終わったのち、ウォーターズはフィルとレナードのチェス兄弟と出会った。彼らは1947年にアリストクラットというレコード会社を設立したばかりだった。

ウォーターズは昼間ベニス風ブラインドを売り、夜バンドを率いて演奏活動を行った。チェス兄弟は、最初の録音セッションでウォーターズのバンドのアンサンブルをとらえようとしたが、レナードは結果に不満足だった。デルタのブルーズマンにとって、アンサンブルよりも一人か二人で演奏するほうが楽だった。それに、レナードは、数個の楽器のバランスをうまくとるほどスタジオに慣れていなかった。レナードは、より単純なデルタの音楽を録音するために、ウォーターズのギターとアーネスト・「ビッグ」・クロフォードのダブルベースだけにした。彼の決定はうまくいった。マディの素朴な "I Can't Be Satisfied" は、ブルーズを南部に置いてきたシカゴの黒人たちに受けた。さらに郷愁を利用して "(I Fee Like) Going Home" を録音し、R&Bチャートの11位となる最初のヒットを飛ばした。

1948年11月、ウォーターズとベーシストのクロフォードは "Down South Blues" を録音した。ウォーターズのボトルネック・ギターが覚えやすいリフを繰り返す曲で、"Roll and Tumble" という古いミシシッピー・ブルーズに基づいている。レナードが発売しないと決めたので、60年代半ばまで日の目を見ることはなかった。

マディは、テネシーのブルーズマン、ハムボーン・ウィリー・ニューバーンが20年前に録音した本家の "Roll and Tumble" は録音しないことに決めた。たぶん、マディは、この曲を録音するにはバンドが必要だと感じたのだろう。ハードな「ローリング・アンド・タンブリング」スタイルのブルーズは、二つの異なるテンポを同時に演奏する必要があったからだ。1950年初めまでに、マディのマネージャー、モンロー・パシス Monroe Passis はパークウェイというレコード会社を設立した。パシスは、マディがレナード・チェスの録音に不満足なことを知って、マディのバンド(マディのボトルネック、リトル・ウォルターのハーモニカ、ルロイ・フォスターのドラムとセカンドギター)をスタジオに呼んだ。マディのチェスレコードとの独占契約の裏をかくために、パシスは、リトル・ウォルターとフォスターだけに歌わせて、ニセの名前でレコードを発売した。1950年2月か3月に1回のセッションで録音した8曲のうちの1曲が「ローリン・アンド・タンブリン」で、ルロイ・フォスターが歌い、あとの二人が絶妙な演奏をしている。しかし、マディは間違いを一つ犯した。シンプルなギターではなく、彼独特のボトルネック奏法を披露したのだ。

このベビーフェイス・ルロイ・トリオがパークウェイから出したレコードを聴いたチェス兄弟は激怒した。兄弟は、次の録音セッションでビッグ・クロフォードとともに「ローリン・アンド・タンブリン」を録音するよう要求した。同じセッションで、彼らは "Walkin' Blues" と "Rolling Stone" を録音した。この二曲が、新しく設立されたチェスレコードから1951年に発売されたマディの第一弾シングルの両面となった。何年もたってから、"Rolling Stone" が数名のイギリスのブルーズミュージシャンのお気に入りとなり、タイトルをバンド名にした。しかし、カントリーブルーズから決別し、ロックする50年代のシカゴ・ブルーズの基準を定めたのは「ローリン・アンド・タンブリン」であり、マディのボトルネック奏法によるエレキギターは、最初から最後まで二番目の応答的な声として機能した。1年以上前の "Down South Blues" 以来マディはスライド奏法を改良し、よりなめらかになり、テンポを上げたので、執拗なリフが曲を駆り立てる。

この新しいバージョンの「ローリン・アンド・タンブリン」はシカゴ以外ではヒットしなかったものの、パークウェイよりも配給網がすぐれていたので、ベビーフェイス・ルロイ・トリオのバージョンを打ち負かした。1年もしないうちにパークウェイは倒産し、ニューヨークのヘラルド・レコードがマスターテープを購入して「ローリン・アンド・タンブリン」を再発したが、無駄だった。

数ヵ月後、マディが歌詞を書きなおし、テンポを落として録音し、"Louisiana Blues" として発売すると、R&Bヒットとなった。

「ローリン・アンド・タンブリン」のあと、レナード・チェスは、態度を軟化し、バックミュージシャンを追加することを許した。それ以来、マディの音楽は、よりモダンで都会的なブルーズに変化していった。

1960年代のアメリカでフォークブームが起きたとき、ウォーターズは伝説的人物として評価された。イギリスでも、数えきれないぐらいのブルーズバンドがロンドンのパブでマディのフレーズをギターでかき鳴らし、ロックンロールのムーブメントを開花させた。

1983年4月30日、マディ・ウォーターズは睡眠中に亡くなった。(シネシャモ日記2008年9月1日)



19
Hardrock Gunter and the Pebbles

Birmingham Bounce

(1950)

  • チャート入りせず。
  • カテゴリー:ヒルビリー・ブギ
  • 作者:ガンター
  • レーベルと番号:Bama 104、アラバマ州バーミングハム
  • B面:"How Can I Believe You Love Me"
  • 録音日・場所:1950年初め、バーミングハム
  • 発売日:1950年3月
  • なぜ重要か:ダンスフロアの "rockin'" に関する白人のポピュラーレコードで最も初期のものの一つ。
  • 影響を受けたのは:
    "Mama Don't Allow No Easy Riders Here" by Cow Cow Davenport (1929)
    "Steel Guitar Stomp" by Hank Penny (カントリーチャート4位、1946)
  • 影響を与えたのは:
    "The Saints Rock'n Roll" by Bill Haley and His Comets (1956)
    "Jumps, Giggles and Shouts" by Gene Vincent (1956)
  • 重要なカバー:
    レッド・フォーリー Red Foley (カントリーチャート1位、ポップチャート14位)
    ライオネル・ハンプトン Lionel Hampton
    テックス・ウィリアムズ Tex Williams
    エイモス・ミルバーン Amos Milburn
    ピー・ウィー・キング Pee Wee King
    レオン・マコーリフ Leon McAuliffe
    トミー・ドーシー Tommy Dorsey

ハードロック・ガンターの「バーミングハム・バウンス」がヒットしなかったのは宗教のせいだ。ガンターは次のように言う。「バマ Bama レーベルを所有するマニー・ピアソン Manny Pearson のためにこの曲を録音した。私がよく知られているアラバマ、ジョージア、サウスキャロライナといった南部で演奏し始めて、ヒットしそうな気配だった。デッカレコードのポール・コーエン Paul Cohen がマスターを買いたいと申し出た。俺とマニーに5千ドル前金でくれると言った。だが、マニーは教会にかかわっており、印税の一部を教会に献金したかったので、デッカに売ろうとしなかった。ポールから電話がかかってきて、レッド・フォーリーにやらせると言って、流感で寝ていたレッド・フォーリーをたたき起して、「バーミングハム・バウンス」を録音した。彼のレコードは1位になり、俺のレコードを風邪で寝込ませちまった。」

シドニー・ルイ・ガンター・ジュニア Sidney Louie Gunter, Jr. は1925年2月27日にアラバマ州バーミングハムの郊外で生まれた。少年時代にギターを覚え、バーミングハム付近で生まれたブギウギに夢中になった。ブギウギという言葉を最初に使った1929年の「パイン・トップのブギウギ Pine Top's Boogie Woogie」のパイン・トップもバーミングハム出身である。黒人トランペッターのアースキン・ホーキンズ Erskine Hawkins もバーミングハム出身で、彼の「タキシード・ジャンクション Tuxedo Junction」はガンターの初期のお気に入りレコードの一枚だった。

ガンターによれば、ハードロックという名前は、車のトランクのフタが彼の頭上に落ちてきたが、彼はひるまなかったというエピソードに由来する。「俺は14歳で、おれの最初のコンサートのためにアトランタに行く途中だった。楽器をトランクに入れていた。俺が「バンジョーを渡してくれ」と言ったとき、大きなトランクの蓋が落ちてきて、俺に当たった。俺は、何事もなかったかのようにふるまった。」衝撃をものともしないガンターに驚いたバンド仲間は、彼の頭は岩のように固いに違いないと思って、彼のことを「ハードロック」と呼ぶようになった。のちに彼がバンドを組んだとき、自分のバンドをペブルズ(小石たち)と名づけた。

ガンターは、第二次大戦が終わって除隊になったのち、ハッピー・ウィルソンのカントリーグループ、ゴールデン・リバー・ボーイズに1年かそこら参加した。1948年までには、このバンドのマネージャー兼出演交渉者をしながら、バーミンガム5番街のビバリーホテルのラウンジでピアニストのヒュール・マーフィー Huel Murphy とともに演奏し、さらにラジオとテレビでも働いていた。テレビでは、子供向け人形劇の司会をした。ガンターによれば、ユダヤ人のカントリークラブ専属のバンドにも参加した。しかし、ガンターは、自分がカントリーのミュージシャンだと考えたことはなかった。「完全なヒルビリーミュージックは好きじゃない。ビートのあるものがやりたかった。当時一番影響を受けたのは、カントリー・ブギのハンク・ペニーだった。彼を乗り越えられなかった。彼を真似しようとした。フラットトップのマーチンギターまで真似した。」

地元の友人ジョン・ダニエルズは4人組のバンドを持っていて、バマ・レーベルのために録音していた。彼はガンターを経営者のマニー・ピアソンに引き合わせた。「当時、俺は地元で人気だったから、マニーは俺のレコードを出したがっていた。」録音セッションの日程を組んだとき、ガンターは3曲持っていた。「俺が本当に好きだったのは早いテンポの「ロンサム・ブルーズ」だった。残りはスローなカントリー "There Will Be Tears" と "How Can I Believe You Love Me" だった。もう一曲必要だったので、リハーサルに行く途中、ヒュール・マーフィーの家で書いた。おれの家から彼の家まで5分ほどだったが、彼の家に到着するまでにほぼ頭の中で完成していた。」

それは、「バーミングハム・バウンス」というタイトルの cut-time(2分の2拍子?)のブギで、"Mama Don't Allow" として知られるクラブ演奏曲に自由に基づいていた。"Mama Don't Allow" は、カントリーバンドの個々の演奏者に脚光を浴びせることのできる曲だった。「「ママはここではフィドル奏者を認めない」と歌うと、フィドル奏者がソロを演奏するという曲だった。俺は、「バーミングハム・バウンス」でバンドを披露したかった。」("Mama Don't Allow" の本当のタイトルは "Mama Don't Allow No Easy Riders Here" で、黒人ラグタイム・ピアニストのチャールズ「カウ・カウ」ダべンポート Charles "Cow Cow" Davenport が1929年に録音した。たぶん、彼のオリジナルではなく、より古い曲に基づいていると思われる。)

「バウンス」という言葉にはいくつかの意味があるが、ここでは明らかに次のような意味だろう。演奏者、特にピアニストと、聴衆が、古い木造の安酒場でロックし始めると、ステージ、テーブル、グラス、ボトルが弾み(バウンス)始める。

ガンター、マーフィーらのゴールデン・リバー・ボーイズは、バーミングハムの繁華街にあるバンクヘッド・ホテル内のラジオ局WBRCで録音セッションを行った。「マニーがテープレコーダーを持ち込んでいたし、マイクがいっぱいあった。ピアノ、ベース、スティールギター、ドラム各々にマイクを設置し、俺とフィドルが1本のマイクを共有した。」

「バーミングハム・バウンス」の主な特徴の一つは、ハードロックが黒人の言葉「ロッキン」を使ったことだ。「アラバマのデキシーの中心には、俺たちが大好きなバーミングハムと呼ばれる場所がある。ドラマーがしっかりしたビートを刻むと、みんな足をロッキンし、シャッフルする」という歌詞で、合間にメンバー各々がソロを演奏する。この歌詞のあとにはドラマーのボブ・サムナー Bob Sumner が演奏し、あとでフィドラーのビリー・タッカー Billy Tucker やスティールギターのテッド・クラブトゥリー Ted Crabtree が演奏し、間奏では全員が演奏する。その間、ガンターとジム・オデイ Jim O'Day がギターとベースでしっかりとブギのリフを演奏し続ける。

「みんなが踊ってジャンプし始める。ミュージックがロッキンすれば、誰も憂鬱にならない。ちょっとしたおかしなリズムにしっかりしたサウンド。ブギでジャンパー、それがバーミングハム・バウンス。」「バーミングハム・バウンス」は当初カントリー・ブギウギだったが、フィドルとスティールギターがアップテンポなホーンのメロディラインのようなものを演奏するので、4年後に登場するロカビリーの気配がある。

この曲が南部でかかり始め、1950年4月にビルボード誌が「ヒルビリーの掘り出し物」と称すると、20以上のレコード会社が、ほとんど考えられる限りのスタイルでカバーした。1947年の大ヒット曲 "Smoke! Smoke! Smoke! That Cigarette" のテックス・ウィリアムズ Tex Williams はキャピトルからカバー曲を出したし、R&Bブギ専門のエイモス・ミルバーン Amos Milburn はアラジンから出した。トミー・ドーシー Tommy Dorsey でさえポップス版を出した。しかし、本当にハードロック・ガンターがぶちのめしたのは、すぐれた配給網を持つデッカで、黒人市場のためにライオネル・ハンプトン Lionel Hampton のカバーを出し、カントリー市場のためにレッド・フォーリー Red Foley のカバーを出した。ガンターは次のように言う。「レッド・フォーリーがカバーを出したと聞いたラジオ局は、水道の蛇口を閉めるように、まったく俺たちのバージョンをかけなくなった。」フォーリーの「バーミングハム・バウンス」はカントリーチャートで1位となり、ポップチャートにも入り、年間8位のヒットとなった。

「バーミングハム・バウンス」のレコードをプレスするために現金を支払うが、もし売れたとしても販売者は何ヵ月もたってから支払いを行うため、ピアソンのバマ・レーベルは倒産する。フリーとなったガンターは、1951年の初め、デッカと契約する。

デッカ時代、ガンターは、"Boogie Woogie on Saturday Night" などのロカビリーの原型のような曲を録音した。彼とロバータ・リー Roberta Lee は、ドミノズの "Sixty Minute Man" さえカバーした。しかし、ガンターは、予備役将校としての任務を遂行するために陸軍に戻ると、彼がレコードで築き上げてきた勢いを失ってしまう。1952年に除隊すると、ウェストバージニア州ウィーリングのラジオ局WWVAの「ウェストバージニア・ジャンボリー」に10年間、断続的に参加した。

ガンターは、一時的にバーミングハムに帰っていたとき、"Gonna Dance All Night" という曲を録音した。この曲は、もともと、「バーミングハム・バウンス」の続編としてバマ・レーベルから発売したものだった。ガンターは次のように言う。「完全なタイトルは "We're Gonna Rock and Roll, We're Gonna Dance All Night" だった。サム・フィリップスがやってきて、俺たちの演奏を聴いた。彼は俺をメンフィスに連れて行って、録音したがっていたが、俺はできないと言った。それで、代わりにバーミングハムで録音し、彼にテープを送った。」R&Bを歌うことのできる、あの捕まえにくい白人(たぶんプレスリーのこと)をまだ探し回っていたフィリップスは、彼が知っている中でガンターが最も有名だったので、喜んで1954年5月に彼のレコードをサンから発売した。しかし、何も起こらなかった。1ヵ月後にプレスリーがサンレコードで最初の録音セッションを行うと、フィリップスはガンターに興味を失った。もっとも、1956年に二枚目の "Jukebox Help Me Find My Baby" を出したが。

ガンターは、キングなど数社でレコードを発売したが、どれもヒットしなかった。ガンターは保険の販売で収入を得るようになった。現在、彼はデンバーの山脈で暮らしており、冬になるとアリゾナで過ごす。「最初にクラブで聴衆に向かって「ロックンロールしようぜ!」と言ったのは俺だ。1949年のことだ。」(シネシャモ日記2008年10月2日から6日)



20
Hank Snow and His Rainbow Ranch Boys

I'm Moving On

(1950)

20曲目は、ハンク・スノウと彼のレインボー・ランチ・ボーイズ Hank Snow and His Rainbow Ranch Boys の「アイム・ムービン・オン」。

  • カントリーチャート1位(21週)、ポップチャート27位
  • カテゴリー:ヒルビリー・ブギ
  • 作者:クラレンス・E・スノウ
  • レーベルと番号:RCA 21-0328 (78回転)、RCA 48-0328 (45回転)
  • A面:"With This Ring I Thee Wed"
  • 録音日・場所: 1950年3月28日、ナッシュビル
  • 発売日:1950年6月
  • なぜ重要か:本格的なブギリズムによるトレイン・ソングの最初の大ヒット曲。
  • 影響を受けたのは:
    ジミー・ロジャーズ Jimmie Rodgers のトレイン・ソング
    ロイ・エイカフ Roy Acuff の "Wabash Cannon Ball" (1936)
    ハンク・ウィリアムズ Hank Williams の "Pan American" (1947)
  • 影響を与えたのは:
    エルビス・プレスリーの "MYstery Train" (1955)
    ジョニー・バーネットのロックンロールトリオ Johnny Burnette Rock 'n' Roll Trio の "Train Kept A-Rollin'" (1956)
    アーロ・ガスリー Arlo Guthrie の "The City of New Orleans" (ポップチャート18位、1972)
  • 重要なリメイク:
    レイ・チャールズ(ポップチャート40位、1959)
    ドン・ギブソン(カントリーチャート14位、1960)
    マット・ルーカス Matt Lucas (ポップチャート56位、1963)
    プレスリー(1969)
    ジョン・ケイ John Kay(ポップチャート52位、1972)
    エミルー・ハリス(カントリーチャート5位、1983)

「グランド・オール・オープリーが迫ってきていたので、神が下りてきて、自然と私に「アイム・ムービン・オン」を書かかせた」とハンク・スノウは言う。しかし、この霊感にもかかわらず、RCAビクターからこの曲の録音を許可をもらうには神の介在が必要だった。しかも、RCAはB面として発売した。本人を含めて誰も「アイム・ムービン・オン」が100万枚以上売れて1950年最大のカントリーヒットになるなんて思ってもみなかった。

現代のアメリカ音楽は列車のリズムとロマンスに基づいている。特にカントリーミュージックがそうで、"Chattanooga Choo Choo," "The Wabash Cannon Ball," "The Orange Blossom Special," "Pan American" それに不運なオールド97といった列車が強力な原動力となった。「アイム・ムービン・オン」は、この伝統を大いに利用している。曲が始まると同時にパワー全開で、ギターは車輪のようにカチカチと鳴り、フィドルは煙のようにシュッシュッと音を立て、スティールギターは夜の孤独な汽笛のようにうめく。「あの大きな八輪列車が線路をゆっくり走り、お前が本当に愛していたパパはもう帰ってこない。俺は動き続ける。俺はすぐに旅立つ。お前は俺の小さくて古い空を高く飛びすぎた。だから、俺は動き続ける。」"That big eight-wheeler rollin' down the track, means your true lovin' datty ain't comin' back; I'm moving on, I'll soon be gone, your were flyin' too high for my little ol' sky. so I'm movin' on."

ハンク・ウィリアムズの "Pan American" のように、ハンク・スノウは、不実な女性を残して、南に向かう。「お前が誓いを破ったから、すべて終わりだ。だから、俺は動き続ける。」スノウは、曲の中ほどで、列車の比喩を使って、家庭生活を描く。「お前がエンジンを変えた以上、俺の幹線にくだらない女を乗せる余裕なんてない。」最後に、リスナーは、テネシー州で列車を降り、シュッシュッと鳴るフィドルと嘆き悲しむスティールギターが夜のなかに消えていくのを聞く。

クラレンス・ユージン・スノウ Clarence Eugene Snow は、1914年5月9日に、カナダのノバスコティア州南岸の母子家庭に生まれた。5年生で学校をやめ、12歳で荷降ろしの仕事を始めた。「母親が雑誌の広告を見て、レッスン付きのギターを買ってくれた。仕事のない時は、そのギターを鳴らして過ごしていた。自分の稼ぎで買った最初のギターは5.95ドルで、古いT・イートン・スペシャルだった。」スノウは、カナダの通販ティモシー・イートンから購入したので、そう呼んでいた。彼が貨物船に乗って旅している間、アメリカ西部やカナダ平原の音楽に取りつかれた。特にお気に入りはジミー・ロジャーズだった。彼も労働者で、結核のために列車のブレーキ係をやめざるをえなくなって、カントリー歌手に転身した。「すべてはジミー・ロジャーズから始まった。私のヒーローだ。彼をコピーしようとした。彼の言葉づかい、歌詞の扱い方、ギター演奏、すべてを真似しようとした。「アイム・ムービン・オン」を書いている時、ジミーのことを考えていた。」彼は、自分の長男にジミー・ロジャーズ・スノウという名前を付けさえした。

ミシシッピー州生まれのジミー・ロジャーズがカントリー音楽の父であることはほぼ間違いない。1927年から亡くなった1933年5月まで彼がビクターに所属していた間、トレイン・ソング、ブルーズ、ジャズ、カウボーイ・ソングを数多く歌った。晩年の写真では、白いテンガロンハットに毛でおおわれた革ズボン(furry chaps)をまとった姿でポーズをとっている。このイメージによって、ジーン・オートリーはロジャーズの死の直後に歌手としての人生を歩み始めた。彼の最初のレコード "Methodist Pie" は非常に綿密にロジャーズを真似ていて、気味が悪いぐらいだ。しかし、ハンク・スノウがより引かれたのは、"Singing Brakeman" という1929年の短編映画のロジャーズで、鉄道員の帽子とオーバーオール姿で駅に座り、ギターを弾きながら "Waitin' for a Train" を歌っている。「私は昔の蒸気機関車が好きで、子供の頃よく追いかけていた」とスノウは言う。(まず第一にビクターがロジャーズと契約する気になったのは、バーノン・ダルハート Vernon Dalhart が "The Wreck of the Old 97" というヒルビリー・トレインソングで1927年にミリオンセラーを記録し、これがビクターにとって当時最大のヒットとなったからである。スノウはこの曲を1951年にカバーしている。)(訳注:この曲自体はジミー・ロジャーズとは関係なさそう。すなわち、別の歌手が歌ったトレインソングが大ヒットしたので、ビクターはトレインソングを歌う歌手を求めたということでしょう。)

クラレンス・スノウが最初に有名になったのはハリファックスのラジオのカントリー歌手としてだった。1936年、彼はモントリオールのカナダ・ビクターと契約し、名前をハンク・スノウに変え、ロジャーズの曲 "Yodeling Cowboy" にちなんで "Yodeling Ranger" として売り出した。彼の声が深みを増すと、"Singing Ranger" に変えた。1944年までに、スノウはもっと大物になることを決心し、アメリカに移った。彼がアメリカで最初に大当たりをとったのは、ウェストバージニア州ウェーリング郊外のラジオ局による「ウェストバージニア・ジャンボリー」で土曜日の夜に歌った時だった。ビクター(ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)と合併してRCAビクターとなっていた)は、カナダ・ビクターのためにスノウが録音していた "Brand on My Heart" を1948年に発売し、地方でヒットした。

スノウは、テキサス州で、アーネスト・タブ Ernest Tubb という別のジミー・ロジャーズ信奉者と出会った。彼は、裏で糸を引いて、1950年1月に「グランド・オール・オープリー」にスノウを出演させた。「オープリー」は全米20州で聴くことができたが、スノウは、彼が与えるであろう影響力を推し量ることができなかった。「最初の夜、拍手が非常に少なくて、とても失望した。すぐにナッシュビルをたとうとしたが、妻に説得されて残った。」ナッシュビルはまだ小さな町だったが、「グランド・オール・オープリー」に引き寄せられた音楽出版業者や曲の売込屋であふれ始めていた。ニューヨークの音楽出版社ヒル・アンド・レンジは、戦後のヒルビリーブームに乗ろうと、RCAのカントリー音楽A&Rマンであるスティーブ・ショールズ Steve Sholes と取引して、彼が抱えるミュージシャンにヒル・アンド・レンジと契約させた。その結果、ハンク・スノウは、RCAビクターとヒル・アンド・レンジの両方の契約下に入り、彼自身の歌についての契約を結び、ヒル・アンド・レンジお抱えの作曲家の曲しか録音できなくなった (signing over his own songs and recording only the music of composers in Hill and Range's stable)。

1950年3月、RCAビクターは、連続ドラマをレコードに録音する業者であるブラウン・ラジオ・プロダクションズの二階で最初の本格的なナッシュビル録音セッションを行った。エンジニアが、最新の機材と磁気テープを抱えてニューヨークから飛んできた。磁気テープは、新しい録音形態で、RCAビクターは大きな16インチ録音ディスクに代わるものとして期待していた。RCAビクターは、ブルースカイボーイズ、キティ・ウェルズ、ジョニー&ジャックなど、多くの主要カントリーアーティストをナッシュビルに呼んで、その週のうちに彼らの曲を録音した。ハンク・スノウのセッションは、3月28日の午後7時から10時に予定された。

その一年前、スノウは初めてアメリカで録音セッションを行った。それはシカゴだった。8曲録音したのだが、スティーブ・ショールズはスノウが書いた「アイム・ムービン・オン」を録音させなかった。「その曲には大いに自信があったが、RCAにはきっぱり断られてしまった。1950年にオープリーで歌っていた時、ナッシュビルで最初に録音セッションを行う機会を得たので、ショールズが気に入ろうが気に入るまいが、その曲を録音することを決心した。そのセッションのために選んだ曲は三曲だけだった。」そのうちの一曲、 "I Cried But My Tears Were Too Late" はスノウが作った曲で、他の二曲はヒル・アンド・レンジが選んだ曲だった。「それで、その夜の最後に「アイム・ムービン・オン」を忍び込ませた。曲を少し変えたので、たぶん彼は気づかなかっただろう。」

しかし、彼らが演奏を始めると、ショールズは曲がどう聞こえるべきかについて明確な考えを持った。フィドラーのトミー・バーデンは次のように言う。「あのイントロは少々トリッキーだった。スティーブ・ショールズは列車のような音を望んだので、私とベーシストのアーニー・ニュートンはそのように工夫した。」その結果、バーデンがフィドルでコードを交互に演奏してリズムを付け、ジョセフ・タルボットがスティールギターで寂しい汽笛をまねた。

密度の高い「アイム・ムービン・オン」を聴くと、四人の男だけで演奏しているなんて想像しがたい。膝にのせるタイプのギブソンの6弦電気スティールギターを演奏するタルボットはフィドルのトミー・バーデンと一つのマイクを共有した。レッド・フォリー Red Foley のバンドから来たアーニー・ニュートンは別のマイクでベースを鳴らし、ハンク・スノウは生ギターと歌を三番目のマイクから録音した。ショールズは、音を膨らませるために、不快感を与えるほどのレベルにまでアンプの音量を上げるようタルボットに指示した。録音セッション後、ショールズはタルボットに「今回の録音じゃ、一曲も使える曲はないな I don't think we've got a single side here we'll be able to use」と打ち明けた。

ヒル・アンド・レンジは "With This Ring I Three Wed" をA面にプッシュしたが、ディスクジョッキーたちはB面がお気に入りだった。「アイム・ムービン・オン」は21週間もカントリーチャートのトップに君臨し、ハンクの鼻にかかった歌声とバンドの純粋なヒルビリーサウンドにもかかわらず、ポップスファンもレコードを買った。「アイム・ムービン・オン」が大人気だったので、二曲目のトレインソング "The Golden Rocket" も二週間一位となり、「アイム・ムービン・オン」の完全なリメイクだった三曲目の "Rhumba Boogie" も八週間トップを続けた。この二曲の違いは、ちょっとしたルンバリズムがブギウギに織り込まれていることだけだった。

「アイム・ムービン・オン」は、朝鮮戦争でのアメリカ軍の非公式な行進曲のようなものになった。この奇妙な戦争の間、buggin' out (ずらかる)とう軍隊用語が生まれた。アメリカ軍は、山脈を上ったり下りたして、北朝鮮軍を敗走させたが、1950年12月に満州から中国共産党軍が攻めてくると、いそいで撤退した。

ハンク・スノウは大スターとなり、カントリーチャートに85曲送り込んだ。また、多くのロックンローラーに影響を与えた。プレスリーは、「アイム・ムービン・オン」や "(Now and Then) There's a Fool Such as I" など、ハンク・スノウの曲を数曲録音した。初期のプレスリーは、スノウのツアーに同行し、「グランド・オール・オープリー」のスノウのショーの中で「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を歌った。1955年後期、エルビスをRCAビクターと契約させるようスティーブ・ショールズに興味を持たせたのはハンク・スノウだったし、プレスリーが録音した曲を管理する独占権を1万5千ドルで音楽出版社ヒル・アンド・レンジに買わせたのもスノウだった。ハンク・スノウのビジネスパートナーであるトム・パーカー大佐は、プレスリーの活動の導き役となる。

カントリー音楽は、ハンク・スノウが「アイム・ムービン・オン」を録音してから数々の変化を遂げている。多くの場合、悪い方向に向かっている。42年後の夜なかに彼の列車の音を聴くと、鉄道のロマンス以上のものを我々は失ってしまったと告げているようだ。

「グランド・オール・オープリーをよく聴いたものだし、ロカビリーの考案者であるハンク・スノウのような人々を聴いた。「アイム・ムービン・オン」はよく聴いたものだ。」(ブッカーTとMGズのベーシスト、ドナルド・ダック・ダン)

(シネシャモ日記2008年11月1日から3日)

21
Ruth Brown
with Budd Johnson's Orchestra

Teardrops from My Eyes

(1950)

  • R&Bチャート1位(11週)
  • カテゴリー:R&B
  • 作者:ルディ・トゥームズ Rudy Toombs
  • レベールと番号:Atlantic 919、ニューヨーク
  • B面: "Am I Making the Same Mistake Again"
  • 録音日・場所:1950年9月、ニューヨーク
  • 発売日:1950年10月
  • なぜ重要か:アトランティック所属の安定したヒットメーカーによる最初の大ヒット曲で、この曲によって彼女はR&Bのファーストレディとしての地位を築いた。
  • 影響を与えたのは:ラバーン・ベイカー LaVern Baker
  • 重要なカバー:
    ルイ・ジョーダン (R&Bチャート4位)
    ラッキー・ミリンダー・オーケストラ(とワイノニー・ハリス) Lucky Millinder's Orchestra (with Wynonie Harris)
    レックス・アレン Rex Allen
    ジューン・ハットン June Hutton
    ルイス・プリマ Louis Prima

ルース・ブラウンがアップテンポのR&Bを歌えるなんて、本人を含めて、誰も考えたことがなかった。"Teardrops from My Eyes" は大ヒットとなり、半年もチャートにとどまり、ミス・リズムという異名を持つまでに至った。「バラード・タイプのスタンダードばかり歌っていたから、耳を疑ったわ。それまで私は良いバラードシンガーだと思っていたし、正直なところ、リズムナンバーはお気に入りじゃなかったの。最も私に大ヒットをもたらしそうにない曲だったわ。全力を尽くしてあの曲と戦ったわ。」

ルディ・トゥームズという黒人のソングライターが封筒に入った曲を持ってアトランティック・レコードにやってきて、"Teardrops from My Eyes" をさっと取り出すと、アトランティックの共同所有者であるハーブ・エイブラムソンは、すぐにルース・ブラウンに歌わせようと決めた。一見したところ、悲しげなブルーズだった。「雨が降るたびにあなたのことを思う。そんなとき、きまって憂鬱になるの。そして、私の目から涙が雨のように降る。」ルース・ブラウンは、声に少々キーキーした感じがあり、「声にひとしずくの涙を持つ女の子 the Girl with a Tear in Her Voice」と呼ばれていたので、「ティアドロップ」に関する歌なら、ルース・ブラウンがふさわしいと思ったのだろう。もっとありそうなのは、あきらかに女性シンガーのための歌詞で、1950年当時、アトランティックには女性歌手が二人しかいなかったからだ。もう一人はローリー・テイト Laurie Tate で、非常に人気のあったサボイ・レコードのリトル・エスターを真似た女の子だった。

ルース・ウェストン Ruth Weston は1928年1月12日にバージニア州ポーツマスで生まれた。教会の聖歌隊の娘だった。彼女がプロ歌手を始めたのは、トランペッターのジミー・アール・ブラウン Jimmy Earle Brown の楽団で、ブラウンはすぐに彼女と結婚した。1948年夏、ルースは、ラッキー・ミリンダー楽団の二番目の歌手となった(アニスティーン・アレン Annisteen Allen がメイン歌手だった)。しかし、彼女は歌えないと考えたミリンダーは、数週間後に彼女を解雇した。アトランティック・レコードの副社長アーメット・アーティガンが彼女と契約しようと考えたとき、彼女はワシントンのクラブでソロ歌手として歌っていた。アーティガンはチャーリー・ギレットに対し次のように語っている。「彼女をアポロシアターに出演させ、ニューヨークで録音するつもりだった。だが、ニューヨークに行く途中、ルースと彼女のマネージャー、ブランチ・キャロウェイ(キャブ・キャロウェイの姉)は事故にあい、ルースは9ヵ月入院しなければならなくなった。ほとんど余裕がなかったが、入院費は全額我々が支払った。しかし、私は、彼女がアトランティックと契約したことに非常に感謝していた。」

「リズムアンドブルーズ」という言葉は、ルース・ブラウンの最初のレコード「ソー・ロング」が1949年にヒットしたとき、ビルボードの紙面をにぎわしていた。このレコードの売り上げはリズムアンドブルーズ市場に限定されていたが、この若い才人にはすぐれたものがあるとアトランティックが納得するに十分だった。「ソー・ロング」は、標準的な女性の恋の歌で(もっとも、以前に Charioteers という男性ボーカルグループがレコードを出していたが)、ブラウンの明快な発声とざらついた声に完全にあっていた。当初、この曲とB面は、エディ・コンドン Eddie Condon によるジャズ風なインスト中心のアルバムにボーカルナンバーとして収録される予定だった。しかし、まだ松葉杖をついていたブラウンの歌唱が非常に力強かったので、そのアルバムに収めずに、彼女名義でシングルとして発売したのだった。その後の数枚のレコードは大してヒットしなかった。

ブラウンとルディ・トゥームズは "Teardrops from My Eyes" を録音する前の少なくとも一週間はこの曲を練習した。「楽譜が読めなかったから、ルディがメロディを教えてくれた。それをテープに録音して、うちに帰って何度も聴いたの。」録音では、カウント・ベイシー楽団の卒業生で、アトランティックの音楽ディレクター兼サックス奏者のアルバート・「バド」・ジョンソンが率いるバンドがバックを務めた。

この陽気な曲は、アトランティックの最初の45回転盤として発売され、のちにロックンロールと呼ばれるスタイルの数少ない女性先駆者のうちの一人としてルース・ブラウンを位置づけることとなった。バックでジョンソン楽団の五本のホーンが二つの異なるリフを演奏し、ベースが聴診器による鼓動のように四分の四拍子を刻む中で、ブラウンは、ムーディーなはずの歌詞に皮肉っぽいユーモアを加え、彼女の歌唱法が育った教会風の歌い方へと戻る。

「声にひとしずくの涙を持つ女の子」と言われることがブラウンは好きでなかった。「あのちょっとしたキーキー声は偶然なの。スタジオで偶然うわずったのだけど、ハーブ・エイブラムソンは「そのままにしとけ」と言ったの。」それで、"Teardrops from My Eyes" を宣伝するためのツアーに出たとき、別のあだ名を頂戴する時期に来ていた。「"Teardrops from My Eyes" がヒット中、フィラデルフィアのアール劇場でフランキー・レインと一緒に仕事をしたの。彼はミスター・リズムとして有名だった。私が舞台から降りようとすると、彼がやってきて、観衆に向かって「このレディはミス・リズムと呼ぶにふさわしいと思う」と言ったの。それ以来、このあだ名が定着したの。」

作者のルティ・トゥームズは、続けてブラウンのR&Bヒット曲を2曲書いた(そのうちの一曲は “5-10-15” )。さらに、クローバーズ Clovers のために "One Mint Julep" (First R&R 27曲目) を書いた。彼は1962年にハーレムで強盗によって殺された。

ルース・ブラウンは、1953年から1958年の間に、全米トップ40に入るヒットを3曲放った。"(Mama) He Treats Your Daughter Mean" と、当惑するほどポップな "Lucky Lips" と、ボビー・ダーリンが彼女のために書いた "This Little Girl’s Gone Rockin’" である。しかし、このときまでに、アトランティックはR&Bアーティストを10代のポップファン向けに仕立てようと努力したために、今日では聴くに堪えないアレンジで彼らのほとんどをダメにしてしまった。ブラウンは1961年にアトランティックを離れた。60年代と70年代は彼女にとって恵まれない時期だったが、テレビや映画(「ヘアスプレー」)で見事にカムバックし、クラブやフェスティバルで歓迎され、よくできた新しいレコードを何枚か発売した。(2006年死去)

(シネシャモ日記2008年12月)




22
Arkie Shibley
and His Mountain Dew Boys

Hot Rod Race

(1950)

  • カントリーチャート5位
  • カテゴリー:カントリー・ブギ
  • 作者:ジョージ・ウィルソン George Wilson
  • レベールと番号:Gilt Edge 5021、ロサンゼルス
  • B面: "I'm Living Alone with an Old Love"
  • 録音日・場所:1950年後期、ロサンジェルス
  • 発売日:1950年12月
  • なぜ重要か:ポピュラー音楽に自動車レースを持ち込み、アメリカの文化、特に若者の文化に対して車が持つ重要性を明確に示した。
  • 影響を受けたのは:"From San Pedro to Fresno" (1946?)
  • 影響を与えたのは:
    "Maybellene" by Chuck Berry(ポップチャート5位、1955)
    "Hot Rod Lincoln" by Charlie Ryan and the Livingston Brothers (1955)
    "Race with the Devil" by Gene Vincent and the Blue Caps (1956)
    "Chicken" by the Cheers (1956)
    "Beep Beep" by the Playmates (ポップチャート4位、1958)
    "Hot Rod Lincoln" by Charlie Ryan the Timberline Riders (ポップチャート33位、1960)
    "Hot Rod Lincoln" by Johnny Bond (ポップチャート26位、1960)
    "Shut Down" by the Beach Boys (ポップチャート23位、1963)
    のちに作られた自動車レースの歌ほぼすべて
  • 重要なカバー:
    Ramblin' Jimmy Dolan (カントリーチャート7位)
    Red Foley (カントリーチャート7位)
    Tiny Hill and His Orchestra (ポップチャート29位、カントリーチャート7位)
    Arthur Smith
  • 重要なリメイク:
    Charlie Ryan and the Timberine Riders (1964)

19世紀後期に自動車が発明されて以来、自動車レースは盛んだったが、少壮のレースドライバーが、文明から離れた西部の干上がった湖を捨てて、都会の街路、人けのない川床、滑走路、ハイウェイを不法に暴走し始めるのは、戦争が終わった直後の1940年代後期だった。彼らは、旧式のおんぼろ車ではなく、裏庭で改造し、装備を最低限に減らし、出力を強化した、ホットロッドと呼ばれる車を運転した。

ホットロッドレースの中心は、車文化の発祥地、カリフォルニアだった。より詳細に述べると、ロサンジェルス南部、サンペドロとウィルミントンの孤立した港町で、大人のホットロッダーや何人かの10代の若者が、太平洋沿岸の101号線や、ロサンジェルスから90マイル離れたサンホアンキン渓谷につながる99号線の「グレープバイン」で、クロスカントリー・レースを始めた。

ホットロッドの最初のレコードは、Connie Jordan and the Jordanaires の1947年の "Hot Rod Boogie" らしいが、これはインストナンバーだった。「ホットロッドレース」の起源は、女性を追い回すメキシコ系米国人が女性を口説くためにカリフォルニア南部を行った来たりすることを歌った、よく知られていない歌だという説の方が有力である。「サンペドロからフレスドまで、拒絶する女はいない」というような歌を、当時の映画の中でけっこう純潔な若い女優が非常に無邪気に歌っているらしい(筆者がこれを書いている時点で、映画も曲も女優も特定できなかった)。この曲が「ホットロッドレース」にインスピレーションを与えたにせよ、そうでないにせよ、サンペドロがホットロッド天国の中心地となるきっかけを与えている。

(筆者がこの本を書いた時代にインターネットが発達していなかったのが残念。その純潔な若い女性はディアナ・ダービン(なるほど純潔だ)、映画は「Can't Help Singing」、曲名は "Californ-i-ay"。なんと、偶然にも、私はこの映画が入った「ディアナ・ダービン・スイートハート・パック」という6作品入り米盤2枚組DVDを注文して、現在うちに届けられている途中。"Lady On A Train" というフィルムノワール風コメディが見たかったから購入したのです。YouTube でこの曲が歌われているシーンを見ると、たしかに男性が "From San Pedro to Fresco, No Maiden There Says No" と歌っているのだけど、これが直接「ホットロッドレース」に結びつくとは思えない。)



アーキー・シブリーが最初に録音した「ホットロッドレース」は、アコースティックギターが中心で、マイクを付けていないバンジョーがバックを務め、いくつかの節の最後にホーンのようなコードを鳴らすためだけにスティールギターが使われている。シブリーは、リラックスしたギターブギのリフに続いて、ウディ・ガスリー風に語り口調で歌い始める。このトーキングブルーズという歌い方は、1947年にテックス・ウィリアムズの"Smoke! Smoke! Smoke!" というカントリーソングがポップチャートの1位になってから流行していた。アーカンサスからカリフォルニアへの移住者は普通「アーキー」というニックネームだったので、シブリーは、テックスの追い風に乗ろうと、同じように素朴なニックネームを名前にした。

「俺と妻と弟のジョーはフォードに乗ってサンペドロを出発した。ガソリンはありまないし、タイヤの空気もなかったが、いまいましいフォードはなんとか動いた。真夜中に突っ走っていたら、うしろのマーキュリーがライトを点滅させて、ホーンを鳴らし、追い抜いていった。」挑戦を受けて立った彼らは、何マイルもマーキュリーと競争した。二台の車は「互角に戦って」「約40フィートの幅の痕跡を数々の町に」残す。当然、彼の「美しい花嫁」と弟ジョーは死にかかるほどおびえている。彼は、「多くの素敵な町の郊外に油のしみ」を作り、「警官の頭がぐるぐる回り」続けた。

レースが砂漠まで続くと、二台の車は「低く広範囲に疾走する a-flyin' low and a-flyin' wide!」(「ホットロッドレース」のいくつかのカバーバージョンはかなり歌詞を変えているが、この部分だけは残しているし、ビル・ヘイリーの "Rock the Joint"(最初のR&R28曲目)でも、ダンスフロアでロッキング・アンド・ローリングするのを表す用語として使われている)。勝負の決着はつかず、突然「バックミラーをのぞくと、何かがやってくるのが見えた。炎だと思った。」エンジンの出力を上げたモデルAフォードに乗ったガキがヒューッと走り抜け、ほこりと排気ガスで彼らを窒息させた。彼らは恥ずかくなった。「あの車が通り過ぎると、私は振り返った。マーキュリーの男は何も言うべきことがなかった。」

曲のなかにタイトルの「ホットロッドレース」という言葉は出てこない。この手落ちも作品の一部となり、ジーン・ビンセントの "Race with the Devil" (1956) にもボックスポッパーズ Voxpoppers の "The Last Drag" (1958) も同様にタイトルが歌詞の中に現れない。「ホットロッド」でさえ歌詞に出てこないが、彼のフォードが改造されて「一対のパイプと Columbia butt" が付いていると述べている。「隠語が理解できないみんなのために言うと、キャブレターが二つとオーバードライブ装置が一つ付いているということだ。」

「ホットロッドレース」を発売したレコード会社には奇妙な歴史がある。ギルトエッジは、1944年に、クリフ・マクドナルドというロサンジェルス住民のガレージで始まった。彼は、レコードプレス機を持っていた。同年、彼は、セシル・グラントという名前の黒人兵士が歌うバラード "I Wonder" を録音した。グラントは米軍慰問協会主催のUSOショーで歌っていたので、質の悪いセラックに録音されたレコードはかなり売れた。黒人アーティストが独立系レーベルから出したレコードとして最初の大ヒットとなった。グラントが録音したレコードの直販店として数年間活動したのち、ギルトエッジは、パサディナ郊外でフォースターレコードを経営していたビル・マッコールの手に渡った。マッコールは、自らのレーベルからヒルビリーとブルーズのレコードを出しており、配給網を拡大しようと1950年にギルトエッジを復活させたときも、それを続けた。たとえば、シェブリーのレコードの次にはボブ・ゲディンズ・トリオ Bob Geddins Trio のブルースレコードを発売した。

自動車のバラッドというのは1950年には珍しくなかった。初期の歌は、賞賛の対象がバギー(一頭立て軽装馬車)("The Surrey with the Fringe on Top")から馬のない乗り物(自動車のこと)("In My Merry Oldsmobile" "Let's Make Love in My Rumbleseat")に移行した。1930年代のブルーズマン、ロバート・ジョンソンは、エロチックな自動車のイメージを通して、女性との性的関係を表現した("Terraplane Blues")。そして、ジミー・リギンズの "Cadillac Boogie" (1947) のような歌は、ふさわしい車を持つことの優雅さを表現した。しかし、「ホットロッドレース」は、アクセルをぐっと踏み込んだ(put the foot on the pedal)最初の歌だった。

"Cadillac Boogie" やジャッキー・ブレンストンの "Rocket 88" といったR&Bナンバーでは、自動車はステータスシンボルだった。黒人が品よく快適に車を乗り回し、隣人たちを印象づけ、きれいな女性をナンパする。(あるいは、ペパーミント・ハリスの "Cadillac Funeral" のように、威厳をもって最後の安息の地に向かう。)ドラッグレース(ホットロッド(高速改造車)によるスピードレース)って何なんだろう?消耗と特殊な整備には金がかかるし、白人警官は、警告や反則キップによって、彼らをほっておかないだろう。あきらかに、白人の若者と黒人の両方が車の背後にある自由とセックスを表現しているが、1時間100マイルという速度でそれを表現できるのは白人の特権だった。

初期のドラッグレーサーの一人、カスタムカーの王様ジョージ・バリスは次のように言う。「街中でレースを行った。自らの命を失うかもしれないという猪突猛進の冒険を行った。40年代と50年代初期には、ホットロッダーは闘士とみなされていた。自らを車で表現していたからだ。もちろん、警察は、我々を追跡するだけでなく、ピストルを撃ってきた。殺されたものもいる。」1955年の映画「理由なき反抗」のチキンレースは、パシフィック・パリセーズで実際に起きた事件がきっかけだ。バリスはスーパーバイザーとして呼ばれ、ジェームズ・ディーンと一緒に仕事をした。チキンレースのシーンは、50年代のドラッグレースのイメージを最も長期間にわたって提供してくれるだろう。

シブリーの「ホットロッドレース」は1951年の初めにカントリーチャートを急上昇したが、メジャーのレコード会社から出た三つのカバーバージョンが追い越して、モデルAのガキのように、最終的にシブリーをチャートから吹き飛ばしてしまった。ランブリン・ジミー・ドーランとティニー・ヒルのバージョンは2月上旬にカントリーチャートでヒットし、ヒルのはポップチャートでも上昇した。二週間後には、デッカの何でも屋でカバー専門のヒルビリー歌手、レッド・フォーリーのバージョンもカントリーチャートを上昇した。

シブリーの「ホットロッドレース」のヒットに伸びがなかった理由の一つは、「白人の連中のように突っ走る」ことについての自慢である。白人のように生きることに関する自己満足的な言及は、1951年の南カリフォルニアにおいては好意的に受け入れられたかもしれないが、東部の人々にとっては、そのような人種差別的ほのめかしをラジオで流すことは急進的すぎると考えていた。たぶんそのために、他のミュージシャンは、不快感を与える歌詞を変えた。ジミー・ドーランは「平凡な連中」に、レッド・フォリーは、「貧しい連中」に、タイニー・ヒルは「金持ちの連中」に、チャーリー・ライアンは「素敵な連中」に変えた。

フィドルと卓越したスティールギターを中心に据えたバンドを持つジミー・ドーランは、曲のテンポをかなり早め、トーキングブルーズの要素をなくし、カントリーブギの要素を強めた。レッド・フォリーは最も洗練された演奏を行っている。シブリーの奇妙なテンポとぎこちない歌詞をなめらかにし、ギタリストはニューヨークのタクシーよりも警笛音をガンガン鳴らしている。

奇妙なことに、この曲をポップチャートにまで進出させたのは、350ポンドのバンドリーダー、タイニー・ヒルで、"Doodle Doo Doo" などの感傷的で古臭い曲で知られていた1940年代以降ヒット曲がなかった。彼は、物語の場所をサンペドロからココモ(たぶんインディアナの)に移し、不快感を与えそうな "twin pipes and a Columbia butt" という表現を "twin pipoes in that blunderbuss" に変えた。(同様に、ドーランも "that Columbia bus" に変えた。)

大ヒットになるのを阻まれたアーキー・シブリーは、続編 "Arkie Meets the Judge (Hot Rod Race #3)" を発売した。彼はサンペドロの自宅から連行され、裁判所で、この不法な行為における彼の役割を説明させられる。このレコードは「ホットロッドレース」よりもはるかに売れなかったが、いわゆる「アンサーレコード」が流行するきっかけを作った。カントリーとR&Bの両方の分野で人気となったアンサーレコードは、大衆の想像力をかきたてる生き生きとした人物や出来事についてのヒットに対する返答だった。(最初のR&R37曲目 "Work with Me, Annie" 参照。)

あっという間にカントリーの大スターになったファロン・ヤング Faron Young は、「ホットロッドレース」とテネシー・アーニー・フォードの1948年の大ヒット "Shot Gun Boogie" を組み合わせて "Hot Rod Shotgun Boogie" を作り、Tillman Franks and His Rainbow Boys という名義でレコードを発売した。この短い歌の中で、ヤングは、Hadacolをタンクに注ぎ込むことで車の馬力を上げた。「丘を駆け上がっても、哀れっぽい鼻声さえ出さない。」ヤングは、この二つの曲を利用しただけでなく、当時人気だった Hadacol ソングも利用した。ハダコールは人気のあった一般市販薬で、ビタミン不足といった病気に効いた。ダドリー・J・ルブランが発明したこの万能薬の主成分は12パーセントのアルコールだった。ファロン・ヤングは、ビル・ネトルズ Bill Nettles が1949年にヒットさせたカントリー "Hadacol Boogie" をコピーしたのだが、プロフェサー・ロングヘアの "Hadacol Bounce" やリトル・ウィリー・リトルフィールドの "Drinkin' Hadacol" なども念頭にあったのかもしれない。

サンペドロは海軍の町なので、歌手のミック・ウッドワード Mick Woodward は舞台を海に移して、「ホットロッドレース−海軍スタイル」という曲を作った。ミックワードにならって、ボー・トロイと彼のホイールズ Bo Troy and His Wheels も海を舞台にした "Haulin' Henry" を発売した。

最も永続したアンサーレコードは、チャーリー・ライアンとティンバーライン・ライダーズ Charlie Ryan and the Timberline Riders の「ホット・ロッド・リンカーン Hot Rod Lincoln」だった。ライアンによれば、彼とシブリーが同じ地域でツアーを行っていた1950年の同時期に、各々の曲を作ったそうだ。実際にホットロッドのリンカーンを持っていたライアンは、アイダホ州のルイストンでロードレースを始め、丘の頂上まで突っ走る(そこでは、のちにチャック・ベリーがクーペ・デ・ヴィルに乗ったメイベリーンを目撃する)(訳注:ルイストンの丘というのが有名らしい)。ライアンの出発点はシブリーのレコードである。「あの運命の日のホットロッドレースの物語を聞いただろ。フォードとマーキュリーの。これはそのときの内輪話だ。俺はモデルAに乗っていたガキだ。ある夜遅くサンペドロを出発した。月と星が明るく輝き、グレープバイン丘の上はすべてが素晴らしかった。車を次々と追い抜いたが、それらは止まっているように見えた。」ライアンがホードとマーキュリーを道路の外に吹き飛ばした後しばらくして、新しいホットロッドのリンカーンに乗り換えた。道路でキャデラック・セダンに出会い、二台は競争するが、ライアンはエンジン・トラブルを起こし、車を片側に寄せろと警官に命令される。彼のグループ、ティンバーライン・ライダーズは、巧みにギターとフィドルを使って、エンジンのノック音、警笛、フェンダーがガードポストにぶつかる音、警察のサイレンをうまく表現している。

「ホット・ロッド・リンカーン」は1960年まで注目を浴びなかった。その年、ベテランのカントリー・ミージシャンであるジョニー・ボンド Johnny Bond が、ジーン・オートリーのリパブリック・レーベルのために新たなバージョンを録音した。西海岸のラジオで放送され、カントリーチャートとポップチャートの両方に入った。ギルトエッジの親会社フォー・スター・レコードがライアンと彼のバンドに「ホット・ロッド・リンカーン」を再録音させ、ジョニー・ボンドと競わせた。二つのリンカーンは競い合って、ビルボードのホット100を駆け上がった。東部の州を巡業していたライアンは東海岸で好成績をあげ、西海岸ではボンドが優勢だった。後年、コマンダー・コディ Commander Cody (ポップチャート9位、1972)やアスリープ・アット・ザ・ホイール Asleep at the Wheel といったネオロカビリーバンドが、この曲をリバイバルさせた。

ライアンは、リンカーン物語をシリーズ化し続けた。"Side Car Cycle" は路上のロマンスを詳述している(これもジョニー・ボンドがカバー)。"Hot Rod Hades"、"I Married the Gal in the Side Car Cycle"、"Hot Rod Guitar" と続き、"Burlington Chase" では列車と競争した。

もちろん1960年代はカーソングの時代だった。"Shut Down"、"409"、"Little GTO"、"Dead Man's Curve"、"The Little Old Lady from Pasadena"、"Mustang Sally" など。1976年にも、ウィングチックス Wingtips というグループが "The California Kid" という曲によってサンペドロでレースを始めた。

しかし、自動車ソングを加熱させるきっかけを作った曲は、アーキー・シブリーの「ホットロッドレース」だった。

我々(この本の著者である Jim Dawson と Steve Propes)はシブリーを探しているところである。彼の本名はジョージ・ウィルソン George Wilson らしい。亡くなったビル・マッコール Bill McCall からシブリーの曲を購入した音楽出版社は、サンディエゴ近くの住所を知っていたが、その住所にはもういない。

(シネシャモ日記2009年1月)



23
Les Paul and Mary Ford
How High the Moon
(1951)

  • R&Bチャート2位、ポップチャート1位(9週)
  • カテゴリー: ポップス
  • 作者: Morgan Lewis, Nancy Hamilton
  • レベールと番号: キャピトル1451、ロサンジェルス
  • B面: "Walkin' and Whistlin'"
  • 録音日・場所: 1950年、ニューヨーク州ジャクソン・ハイツ
  • 発売日: 1951年3月と4月
  • なぜ重要か:
    オーバーダブや早回しなどの工夫を広範に使用した最初の大ヒット曲
  • 影響を受けたのは:
    ベニー・グッドマン「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」(1940、ポップチャート6位)
    ディジー・ガレスピー「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」(1944)
    レス・ポール自身の「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」(1945)
    パティ・ペイジ「コンフェス」(1948、ポップチャート12位)
  • 影響を与えたのは:
    「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(1955、ポップチャート1位)のギタリスト、ダニー・セドロン Danny Cedrone、「ビー・バップ・ア・ルーラ」(1956、ポップチャート6位)のギタリスト、クリフ・ギャラップ Cliff Gallup など多数
  • 重要なカバー:
    チャーリー・パーカー
  • 重要なリメイク:
    エラ・フィッツジェラルド(1960、ポップチャート76位)、グロリア・ゲイナー(1965)

ハーモニーの声は奇妙に似ていて、ボズウェルシスターズやアンドリューズシスターズのようだ。しかし、レコード会社の表示によれば、それらは一人の女性、メアリー・フォードによるものだ。オーバーダビング(多重録音)は当時「サウンド・オン・サウンド・レコーティング(音に音を重ねる録音)」と呼ばれていて、少なくともポップスの世界では割と目新しいものだった。レス・ポールは、何度もギターの音を重ねることのできるテープレコーダーを開発し始めたが、彼の工夫は珍妙なものでしかなかった。メアリー・フォードと組んで、オーバーダビングの曲を全米1位に押し上げるまでは。

多重録音した最初の有名ポップシンガーはパティ・ペイジだった。ペイジは次のように語っている。「1947年の大晦日の夜にシカゴで録音したの。ミュージシャンのストライキせいで1948年は録音が禁止されそうだったから。スタジオで「コンフェス」を録音しようとしたけど、バックコーラスがいなかった。雇うお金がなかったから、私のマネージャーが多重録音したらどうかと提案したの。」

当時の録音技術では、アセテート盤に直接録音しなければならなかったので、エンジニアは操作盤を配線し直すことで二つのレコーダーをつなげなければならなかった。ペイジが最初に録音した盤に合わせて歌うと、第二の機械がそれを第二のディスクに録音した。修正がきかないので、もし一曲を歌う間にミスを犯せば、その盤を捨てなければならなかった。マーキュリーレコードが「コンフェス」を発売したとき、レコードには「パティ・ペイジとパティ・ペイジによる歌」と表示されていた。次のシングル "With My Eyes Wide Open, I'm Dreaming" は四重唱で、レコードには「パティ・ペイジとパティ・ペイジとパティ・ペイジとパティ・ペイジ」と表示されていた。

最初に多重録音したのはペイジではなかった。オペラスターのローレンス・ティベット Lawrence Tibbett は1931年に "The Cuban Love Song" でテノールとバリトンを歌い、ジャズマンのシドニー・ベチェット Sidney Bechet は1941年の "The Sheik of Araby" でサックス二本、クラリネット、ピアノ、ベース、ドラムを多重録音した。しかし、パティ・ペイジは、多重録音の魅力を一般大衆に知らしめた最初のミュージシャンだった。すぐに彼女は二人の若い成り上がり者と競争することになる。レス・ポールとメアリー・フォードの多重録音は、さらに進んでいた。

レス・ポールはエジソンとジャンゴ・ラインハルトを足して二で割った存在だった。彼は1915年6月15日にウィスコンシン州ワウケシャで生まれた。本名は レスター・ウィリアムズ・ポルファス Lester William Polfus。少年の頃、バンジョー、ハーモニカ、ギターを独学で覚えた。機械いじりも好きだった。9歳のとき、「なぜ列車が通り過ぎると、窓がガタガタいうのか」という単純な質問に答えるための探究を開始した。13歳になるまでに独自のディスク録音機を開発した。ビクトローラのトーンアームとキャデラックのはずみ車を使い、2ヘルツのピッチで窓をガタガタいわす列車と同じ原理を利用した。彼は1929年に地元ラジオ局のヒルビリー・ショーに出演し始めたが、その一つをディスクに録音している。1943年、彼はハリウッドに移った。彼とデッカの契約を手配してくれたのはビング・クロスビーだった。翌年、彼の友人ナット・コールに招かれて、ノーマン・グランツの最初のジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックで演奏した(最初のR&R1曲目 "Blues" 参照)。

バンガローのガレージに録音スタジオを作った。最新機器をそろえていたので、アンドリューズシスターズなど何人かの一流アーティストがそこで録音した。スタジオ唯一の出入り口は窓だった。そのスタジオで、彼は自作エレキギターによる録音を試みることができた。実験によって、1947年にキャピトルレコードと契約したあとで「ニューサウンド」として知られるようになるものに到達した。彼は「ニューサウンド」と題された驚くべき25センチアルバムを録音した。スピードアップされたギターやワイルドな効果が特徴だった。アルバムの一曲、"Lover" は、非常に歯切れよくて時代を先取りしていたので、ヒットしただけでなく、ハイファイの試聴盤としても人気があった。

また、レス・ポールは自らの楽しみのための試みも始めた。ヒルビリー四重奏だ。しかし、リードシンガーがいなかった。たまたま歌うカウボーイのスター、ジーン・オートリーと出会って、アイリス・コリーン、サマーズ Iris Colleen Summers (1928年7月7日生まれ)というパサデナ出身の女性を紹介された。彼女は、ジーン・オートリーのラジオ番組で何度か歌ったことがあった。サマーズはレス・ポールのグループに参加し、メアリー・フォードとなった。1949年の大晦日にはレス・ポール夫人にもなった。

パティ・ペイジがB面に収めたピー・ウィー・キング Pee Wee King の「テネシー・ワルツ」で偶然にもヒットを飛ばしたとき、レス・ポールとメアリー・フォードは、そっくりバージョンをカントリー市場で発売し、多重録音の声が似ていたので混乱をもたらした。マーキュリーレコードはキャピトルが土足で踏み込んできたことに不満だったので、レス・ポールとメアリー・フォードが「モッキンバード・ヒル Mockin' Bird Hill」を出し、ヒットし始めると、パティ・ペイジを急いでスタジオに呼んで同曲を録音させた。この二つのバージョンはポップチャートで競い合った。両方とも3位まで上昇し、100万枚売り上げた。レス・ポールとメアリー・フォードにとっては1951年に発売したミリオンセラーヒット3曲の最初のレコードであり、彼ら最大のヒットで最も影響力が強い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」のお膳立てをした。

「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は1940年にモーガン・ルイスとナンシー・ハミルトンがブロードウェイ劇 "Two for the Show" のために書いた曲だ。この二人は "I'm Sitting on Top of the World" やレイ・ボルガー Ray Bolger の有名なテーマ曲 "Old Soft Shoe" も書いた。その年、ベニー・グッドマンは、ヘレン・フォレスト Heren Forrest のボーカルで「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」をポップチャートの6位までヒットさせた。1948年にはスタン・ケントン Stan Kenton の楽団が20位まで上昇させた。

レス・ポールとメアリー・フォードは1950年までにハリウッドを離れ、ニューヨーク州のジャクソン・ヘイツに居を構えた。新しいテレビ音楽ショー "Les Paul and Mary Ford at Home" のスポンサーに近づくためた。レス・ポールは自宅の地下室のスタジオで「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を録音した。レス・ポールはビーバップのファンで、ビーバップがまだ地下で潜行していた時代にこの曲を知った。1940年代初期にビーバップを築いたミュージシャンの一人、トランペット奏者のディジー・ガレスピー Dizzy Gillespie が、ビーバップ発展のかなり初期にこの曲をビーバップ賛歌に作り変えた。マイルズ・デイビスも録音した。サックス奏者イリノイ・ジャケー Illinois Jacquet がジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックで演奏したバージョンは、このコンサートをレコードにして発売するようモーゼス・アッシュ Moses Asch を説得するのに役立った(最初のR&R1曲目「ブルーズ」参照)。アルトサックス奏者チャーリー・パーカーの最も有名な曲の一つ、「オーニソロジー Ornithology」も「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」のコード変化に基づいているし、たぶんレス・ポールとメアリー・フォードがキャピトルからレコードを出す直前に、ソネットレーベルのために「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を録音している。

レス・ポール自身も、5年前の1945年に「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」のインストバージョンをVディスク V-Disc のために録音していた。Vディスクは、海外駐在米軍放送のレーベルで、1942年から1948年にかけて軍隊向けに78回転の30センチ盤を出していた。この初期のジャズバージョンは、リズムギター、ベース、ピアノが伴奏しており、1分半程度の使い捨てだった。

彼が再びこの曲を録音したのは、メアリー・フォードの姉妹キャロルが推薦したからだ。ポール自身はこの曲にあまり信頼を置いていなかった。「ミュージシャンが好む曲だが、大ヒットしたことは一度もなかった」からだ。しかし、ある夜、近くの居酒屋にいたとき、コースターにポップ調のアレンジを略述して、翌日か翌々日にギターのトラックを録音した。

ステレオ(ツートラック)のオープンリール・テープレコーダーは1954年にならないと利用できなかったが、レス・ポールはくじけなかった。ビング・クロスビーがくれたモノのレコーダーに再生ヘッドと録音ヘッドを取り付け、多重録音ができるようにした。

レス・ポールは、多重録音されたギターの音に電子的なエコーをかけたが、これは、のちにロカビリーレコードの特徴となった。メアリーの声も同じように処理した。多重録音にもかかわらず、メアリーのハーモニーは明瞭である。ボーカリストはマイクから2フィート(約60センチ)離れなけばならないというレコード業界の原則をレス・ポールが破ったからだ。彼は、メアリーのすべての息づかいを拾うために彼女をマイクから数インチ離れた所に立たせた(現在これは音楽産業で当たり前のことになっている)。振り返ってみると、本当に「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を特色づけているのは、レス・ポールのギターソロと終結部である。ビル・ヘイリーと彼のコメッツのギタリスト、ダニー・セドロンのほどんどのソロは、これを参照している。"Rock the Joint"(最初のR&R28曲目)と "Rock Around the Clock"(39曲目)におけるセドロンの素晴らしい仕事は、ほとんどレス・ポールの模倣である。

レス・ポールが完成したテープをキャピトルに渡したとき、重役たちは発売するのをためらった。「彼らは、歌詞の意味がわからないと言った。」だが、レス・ポールは、「パティ・ペイジに対抗するために」レコードを出すよう彼らを説得した。

1951年に「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」がどんなにワイルドでエキサイティングだったかを評価するには、その年に大ヒットを放ったポップ歌手を考えてみればいい。デビー・レイノルズ(「アバ・ダバ・ハネムーン」)、ジョー・スタッフォード("Shrimp Boats")、エームズ・ブラザーズ、ローズマリー・クルーニー、そしてもちろんドリス・デイとエディ・フィッシャーで、彼らはみんなビッグバンド時代の遺物だった。

このあと数年間、レス・ポールとメアリー・フィッシャーはヒット曲を出し続けたが、1951年に彼らが享受した成功には達しなかった。1953年に "Vaya Con Dios" が一位になったあと、彼らの人気は落ちて、ロックンロールによって業界から追い出されそうになった。だが、レス・ポールは、ギブソンの「レス・ポール」エレキギターとエイトトラックの録音装置によって名声と富を獲得した。メアリー・フォードはレス・ポールと1963年に離婚し、14年後にガンで亡くなった。

新たな世代のギタリストがレ
ス・ポールを発見し、彼のギブソンギターと録音は確実に永続する。

(シネシャモ日記2009年2月)



24
Jackie Brenston with His Delta Cats
Rocket 88
(1951)

24曲目は、ジャッキー・ブレンストンとデルタキャッツ Jackie Brenston with His Delta Catsの「ロケット88」です。

  • R&Bチャート1位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: Jackie Brenston
  • レベールと番号: Chess Records 1458、シカゴ
  • B面: "Come Back Where You Belong"
  • 録音日・場所: 1951年3月5日、テネシー州メンフィス
  • 発売日: 1951年4月
  • なぜ重要か:
    間接的にサンレコードの発足を手助けした。エレキギターのゆがんだ音とせわしないブギビートによって強められた演奏が50年代の数多くのレコードに影響をあたえた。
  • 影響を受けたのは:
    Jimmy Liggins "Cadillac Boogie"(1947)
  • 影響を与えたのは:
    Todd Rhodes "Rocket 69" (1952)
    The Medallions "Buick 59" (1954)
    Little Richard "Good Golly, Miss Molly" (1958, ポップチャート10位)
  • 重要なカバー:
    Bill Haley and the Saddlemen

「ロケット88」は、メンフィスのサン・スタジオで録音された最初のヒット曲であり、シカゴのチェス・レーベルにとって最初のR&Bチャート1位になった曲であり、アイク・ターナーにとって最初の大ヒットであり、何人かにとって最初のロックンロールだった。革新的な曲によくあることだが、「ロケット88」の魔力のほとんどは偶然の産物である。アンプのスピーカーが壊れたために、ギターの音が荒っぽく、不明瞭なものになったし、最初にこの曲を録音しようと決めたのは土壇場の決定だったと言われている。

ロケット88の正式名称は 1950 Hydra Matic Drive V-8 Oldsmobile 88 で、「ロケットエンジンの付いた最も安い車」だと宣伝された。貧しい連中でさえ味わうことのできた戦後アメリカの繁栄のクロムメッキ輝く象徴だった。第二次大戦によって庶民はジェット機の技術や未来風デザインに魅了されたので、自動車メーカーは、1950年型自動車によって未来の工学が手の届く範囲内となったと宣伝した。GMは、オールズ88エンジンを "フューチャーマチック(「未来 future」+「動く matic」)" として広告し、「なめらかなフューチャーマチック・ボンネット」のゆるやかにカーブする輪郭を大いに宣伝した。南部で差別されている黒人の若者でさえ、このロケットを運転する夢を描くことができた。

ジャッキー・ブレンストンは、1927年8月24日か1930年8月15日に、ミシシッピー州クラークスデイルで生まれた。ブレンストンは1944年に入隊するために年齢をごまかしたと告白しているので、後者が正しいと思われる。クラークスデイルは確固たるブルーズの町である。ロバート・ジョンソンは、1930年代半ば、クラークスデール郊外の49号線と61号線の十字路で悪魔に魂を売り渡したと言われている。

戦後、ブレンストンはクラークスデイルに帰り、地元のミュージシャンからアルトサックスを教わった。ブレンストンは、ピアニストのアイク・ターナーと出会った。1931年10月15日に郊外で生まれたターナーは、メンフィスのホテル・ピーボディでベルボーイとして働いていたので、クラークスデイルとメンフィスを行き来していた。「アイクはバンドを結成した。俺はあまりうまく演奏できなかったが、練習する時間をたっぷり与えてくれた。」そのバンド、キングズ・オブ・リズムはすぐに人気を呼び、彼らがミシシッピー州チェンバーズで演奏しているのを聞いたBBキングは、彼らをサム・フィリップスに紹介した。

1951年3月、バンドは、61号線を上って、ユニオン通り706にある白いタイル張りの小さなメンフィス・スタジオに着いた。アイク・ターナーの回想によれば、車旅行はひどいもので、「三度捕まった。一度はスピード違反だった。ベースを車の上においていたら、吹き飛んでしまった。その日はトラブルがいっぱいあった。雨が降っていた。メンフィスに遅く着いたので、その日は録音できなかった。長い間待たなければならなかった。」

ほとんどの録音技師は彼らを録音するのにしりごみしたに違いない。ギタリストのウィリー・キザート Willie Kizart はアンプを落として、コーンをダメにしたので、アンプから出てくる音がゆがんでしまった。しかし、絶えず何か新しいものを求めているサム・フィリップスは、録音を続けることに決めた。「修理のしようがなかった。アンプに紙をちょっと詰めたら、サックスのような良い音が出た。」他の録音技師なら、ゆがんだアンプの音を低く抑えようとするだろうが、フィリップスはそうじゃなかった。フィリップスは、ファジーなギターの音を強めて、アイク・ターナーのせわしないピアノと暴走しすぎてタイヤがスリップするようなレイモンド・ヒルのサックスとともにキザートが演奏するブギのリフを強調しようとした。

録音セッションは、ターナーが歌い、ブレンストンがアルトサックスを演奏する二つの曲で始まった。ブレンストンはアルトサックスを置いて、次の二曲を歌った。"Come Back Where You Belong" と「ロケット88」である。サム・フィリップスの記憶では、バンドは「ロケット88」のリハーサルを行っていない。「ロケット88」をその日に録音すべきかどうか決めかねていたが、バンドがその曲をふざけながら演奏しているのを聴いた彼は、ちゃんと演奏するよう求めた。これがサム・フィリップスの回想で、アイク・ターナーは大筋で同意している。「この曲は前夜に作り上げた。メンフィスに一晩中いたんだ。その日、その車を見かけたので、「ロケット88」と名付けた。俺たちが道路でトラブったとき、ある男が助けてくれたんだ。その男が乗っていたんだ。」もっとありそうなのは、ブレンストンとバンドがキングズ・オブ・リズムのショーで即興で作り上げ演奏した曲だということだ。当時の録音セッションでは4曲録音するのが普通なので、十分リハーサルを積んで、いつでも演奏できる曲数を持つことなくメンフィスまで長旅をするなんて、ありそうもない。アイク・ターナーによれば、録音セッションが終わると、フィリップスは各々に20ドルくれたそうだ。

ブレンストンは自分が「ロケット88」の作者だと主張したが、実際にはギタリストのジミー・リギンズが1947年に発売した「キャデラック・ブギ」の最新版だった。しかも、「キャデラック・ブギ」でさえ、ロバート・ジョンソンの1936年の「テラプレーン・ブルーズ」を革新的に作り変えたものかもしれない。ブレンストンは「キャデラック・ブギ」の歌詞を変えて、車種を最新のものにしているが、メロディやブギのビートはほとんど同じだ。それでも違いはある。リギンズのは、西海岸のジャンプブルーズでキーキー鳴るサックスを除いて、過ぎ去ったビッグバンド時代を懐かしむような演奏だった。ブレンストンは、ミシシッピーのデルタ地帯で田舎のブルーズを聞きながら育った若者たちと演奏している。

1951年当時、サム・フィリップスは、ロサンゼルスのモダーンレコーズにブルーズミュージシャンのマスターテープを貸したり売ったりしながら、かろうじて演奏者に報酬を与えることができた。しかし、モダーンレコーズは、BBキングなどのすぐれたミュージシャンを引き抜いたので、サム・フィリップスと仲が悪くなった。それで、フィリップスは、アイク・ターナーとキングズ・オブ・リズムがその日録音した四曲をシカゴのチェス兄弟に送った。チェスはブレンストンの二曲を4月に発売した。レコードが店頭に並んでいるのを見たアイク・ターナーは、誰でも殺しかねなかった。彼のバンドが演奏しているのに、レコードにはジャッキー・ブレンストンと彼のデルタキャッツと書いてあるだけで、ターナーの名前はどこにもなかった。アイクにとってさらに不運なことに、のちに同じ録音からアイクの二曲をチェスが発売したが、まったく売れなかった。

1951年6月に「ロケット88」はR&Bチャードで1位になり、5週間トップの座を守り、ドミノズの「シックスティ・ミニッツ・マン」に次ぐR&Bの年間ヒットとなり、ジャッキー・ブレンストンはスターとなった。しかし、それはブレンストンにとって最悪のことだった。「俺は青二才だった。ヒット曲はあったが、センスがなかった。誰ともツアーに出たことがなかったし、プロがどうするのかも見たことがなかった。」

アイク・ターナーの憤慨によってブレンストンとの間に亀裂が入り、結局バンドは解散した。「ロケット88」の人気のおかげで、ブレンストンは、フィニアス・ニューボーン・ジュニア Phineas Newborn, Jr. という若いメンフィスのピアニストなどをバックに、二年間ツアーを続けることができた。ジェネラル・モーターズは、ブレンストンがただで宣伝してくれたので、新型のオールズ88をプレゼントした。

だが、次のレコード "My Real Gone Rocket" も、その後のレコードも、まったくヒットしなかった。訴訟に巻き込まれ、ひどい目に会い、アルコールに溺れた。稼いだ金はすぐに使った。「ロケット88」の人気が廃れ、下取りに出して、おんぼろ車とも交換できなくなった頃、ブレンストンは、屈辱的なことに、アイク・ターナーのバンドに参加し、ほんの少しサックスを吹かせてもらうだけだった。ターナーはピアニストからギタリストに転向し、彼のバンドのリードシンガー、アナ・メイ・ブラック Anna Mae Bullock と結婚し、名前をティナ・ターナーに変えさせた。アイクが最初のヒット曲 "A Fool in Love" を出した1960年、ブレンストンはアイクのバンドにいた。ついに、アイクは「ロケット88」で受けた仕打ちの仕返しをしたのだ。

ブレンストンの1951年の成功の副産物は、ペンシルベニアの独立系プロデューサーが、田舎臭い曲ばかり演奏していたビル・ヘイリーを説得して「ロケット88」のカバーを演奏させたことである。ヘイリーのレコードはヒットしなかったが、一部の地域で売れ行きが好調で、白人市場のためにR&Bを録音するというヘイリーの方向性を作った。

ジャッキー・ブレンストンが1979年に心臓まひに襲われたとき、彼はメンフィスの街角の飲んだくれだった。12月15日に退役軍人病院 (V.A. hospital) で亡くなった。

1958年、リトル・リチャードは、「ロケット88」のアイク・ターナーのイントロをパクり、ほとんど一音たがわずに"Good Golly, MIss Molly" に作り変えた。


(シネシャモ日記2009年3月)



25
The Dominoes
Sixty Minute Man
(1951)

やっと半分まで来ました。25曲目は、ドミノズ The Dominoes の「シックスティ・ミニット・マン」です。

  • R&Bチャート1位 (14週)、ポップチャート17位
  • カテゴリー: R&Bノベルティ
  • 作者: ビリー・ワード Billy Ward、ローズ・マークス Rose Marks
  • レベールと番号: Federal 12022、シンシナティ
  • B面: "I Can't Escape from You"
  • 録音日・場所: 1950年12月30日、ニューヨーク
  • 発売日: 1951年4月/5月
  • なぜ重要か:
    ポップチャートにまで入った最初のR&Bヒット。二重の意味を持つ歌として最初のヒット曲。R&Bボーカルグループによる最初のミリオンセラー。
  • 影響を受けたのは:
    The Black Dominoes "Dancin' Dan" (1963)
    Bessie Smith "Hustlin' Dan" (1930)
    The Four Southerners "Dan the Backdoor Man" (1937)
  • 影響を与えたのは:
    The Swallows "It Ain't the Meat (It's the Motion)" (1952)
    数多くのアンサーレコード。たとえば、The Du-Droppers "Can't Do Sixty No More" (1952)、The Checkers "Don't Stop, Dan" (1954)、The Robins "The Hatchet Man" (1954)、The Cadets "Dancin' Dan" (1956)
    ドミノズも "Can't Do Sixty No More" を1955年に録音したが、The Du-Droppers のとは別曲。
  • 重要なカバー:
    The Jive Bombers
    Hardrock Gunter and Roberta Lee
    The York Brothers
  • 重要なリメイク:
    The Untouchables (1960)
    Clarence Carter (1973、R&Bチャート17位、ポップチャート65位)

YouTube で聴くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=jh6re_I__HQ (なぜか途中で終わっています)
http://www.youtube.com/watch?v=tCeI0e7EKDc&feature=related (オリジナルとは少し違うようです。)

"What Was the First Rock 'n' Roll Record?" という本を訳してきて、誰も私のブログなんて見ないだろうと思って、著作権についてはさほど気にせずにやってきたし、実際、どこからも文句はなかったけど(面白いという意見もあまり聞かない)、やっぱり気になるので、以後は、まとめた形で発表しようかなと思っています。そのまま訳したほうが楽で、まとめるのって、けっこう難しいので、今月一杯にはなんとかということで(なにしろ仕事が忙しい)。以後は、わりと有名な曲ばかりなので、これまでみたいに丁寧にやる必要もないかもしれないし。

題名の意味

「60分の男」という題名は、どこからきているのでしょうか。低音担当のビル・ブラウンによれば、15分のキス、15分のじらし、15分喜ばすこと、15分の "blowin' my top" だそうです。最後のは、私の辞書によれば「激怒する」とか「気が狂う」とかいう意味があるけど、流れからすると「いっちゃう」という意味でしょうか。こういうのは、double entendre という二重の意味を持つ語句なんですが、あまりに使われすぎたために、今では、ズバリそのものを表現しているとしか思えない。

この二重の意味を持つ歌詞を含むブルーズは何十年も前からあって、そういう曲を挙げています。40年代以降では、Julia Lee の "Snatch and Grab It"、Helen Humes の "Million Dollar Secret"、Billy Mitchell の "The Ice Man" などがあったが、その前にも "Frankie and Johnny" や Lucille Bogen の "Shave 'em Dry" という曲があったそうです。しかし、それらは百万枚以上売れなかったし、ポップチャートには入りませんでした。

「シックスティ・ミニット・マン」の主人公はラビン・ダン Lovin' Dan というのですが、ダンという人物は古くから歌われているそうです。19世紀のミンストレルショーでは Dan Tucker または Jim Dandy という名前でした(Dandy については1956年にラバーン・ベイカーが歌っているそうだし、1958年には Jesse Belvin という歌手が "Deacon Dan Tucker" という曲を歌っています)。残存している楽譜によれば、1921年には "The Lady's Man, Dapper Dan from Dixieland" という曲がありました。列車のボーイが、女と密会するかなんかの駅を通り過ぎるときに駅の名前を叫ぶとかいう歌で、駅の名前を叫ぶという技巧は、のちにルイ・ジョーダンの "Salt Pork, West Virgina" やジェームズ・ブラウンの "Night Train" など多くの曲で使用されました。

ブラック・ドミノズというジャズバンドが "Dancin' Dan (Fox Trot)" という歌を1923年に録音しており、ダンが主人公の歌として最初にレコード化されたものじゃないかと書いています。その7年後、ベッシー・スミスが "Kitchen Man" という歌でダンのことを歌っており、さらにその翌年には "Hustin' Dan" という歌も録音しています。1937年にはジョージア・ホワイト Georgia White が "Dan the Backdoor Man" を歌い、同年、フォー・サザーナーズ Four Southerners がカバーしています。ソングライターにとって、ダンは便利な男だったようです。というのも、ダンは、handy man、lover man、back-door man と韻を踏むからです。back-door man というのは、古いブルーズ用語で、夫が玄関から仕事に出かけると、裏口からこっそり忍び込む情夫のことです。しかし、この流れをくむ「シックスティ・ミニット・マン」は、甘いテナーボイスが中心の、耳あたりのよい、プロとして運営されていたボーカルグループであるドミノズにとって例外的なものでした(「プロとして運営されていた」の原文は professionally-run で、この訳には自信がありません)。

ドミノズ

ドミノズは、のちにビリー・ワードとドミノズと名乗っていたぐらいだから、ビリー・ワードが中心です。ところが、驚くべきことに、彼はグループの中で歌っていないのです。彼は、グループのコーチであり、ピアニスト兼オルガニストであり、ローズ・マークスとともにドミノズという商標の所有者でした。彼は、週給制によって、グループのメンバーを雇ったり解雇したりする権力を持っていました。すなわち、メンバーをいつでも入れ替えることができたわけで、のちにプラターズやドリフターズの所有者がこのシステムを採用しました。「シックスティ・ミニット・マン」が録音された1950年のメンバーは、テナーがクライド・マクファター、セカンドテナーがチャーリー・ホワイト、バリトンがウィリー・ラモント、ベースがビル・ブラウンでした。

ビリー・ワードとともにドミノズを所有していたローズ・マークスは若い白人女性で、オリオールズ(最初のR&R10曲目 "It's Too Soon to Know" 参照)のマネージャーで曲を提供していたデボラ・チェスラーを意識していたようです。彼女も野心を持った若い白人女性でした。マークスの提案で、ワードはハーレムで四人のボーカリストを集めたのです。

ドミノズという名前は、1923年に "Dancin' Dan (Fox Trot)" を録音したブラック・ドミノズから来ているのかもしれませんが、ドゥーワップグループの先駆的存在、インク・スポッツと対比した名前にしたかったのかもしれません。インク・スポッツ(インクのしみ)が白地に黒をイメージするのに対して、ドミノは黒地に白をイメージさせます。

レコード会社との契約

1950年10月、ローズ・マークスは、ドミノズをラジオの新人発掘番組に出演させました。観衆の反応が良かったのに気づいた黒人のアレンジャー兼ギタリストのレネー・ホールは、キングレコードのシド・ネイサンに電話します。当時、キングレコードはけっこうヒットを出していたのですが、ボーカルグループの市場にはあまり踏み込んでいませんでした。土ミニ図に関して、ネイサンはどうすればいいのかわからなかったので、A&Rマンのラルフ・バスに任せます(ラルフ・バスは、すでに、ジャック・マクビーの "Open the Door, Richard" とT・ボーン・ウォーカーの "Call It Stormy Monday" という大ヒット曲をプロデュースしていました)。

ラルフ・バスは、ドミノズをじかに聴いて、「ポップグループとしては十分にポップじゃないし、R&Bグループとしては十分にR&Bじゃない」と思いました。バスは、彼がどのようなものを望んでいるのかの例としてオリオールズのレコードを聴かせたら、ビリー・ワードは「そんな曲なら、いつだって書けるさ」と言いました。実際そのとおりでした。

シド・ネイサンはラルフ・バスを信頼していたので、バスのために子会社フェデラル・レコードを設立し、バスが発掘した新人を録音させることにしました。バスはドミノズをキングにいれたくなかったので、フェデラルに入れて、フェデラル最初のレコードを録音させました。

ドミノズのデビューシングル "Do Something for Me" は、18歳のクライド・マクファターがリードシンガーを務めるお涙頂戴のバラードで、R&Bチャートを上昇しました。B面の "Chicken Blues" のほうがロック調で、「シックスティ・ミニット・マン」の準備運動といった感じでした。こっちはビル・ブラウンがリードを務めました。A面はオリオールズのソニー・ティルのバラードを模倣し、B面はレイブンズのジミー・リックスのアップテンポなブルーズを模倣することで、ビリー・ワードは丸損を防いだ(hedging his bets) というのが、この本("What Was the First Rock 'n' Roll Record?")の著者の意見。

シックスティ・ミニット・マン

二回目のセッションで、「ハーバー・ライツ」と「シックスティ・ミニット・マン」を録音しました。「ハーバー・ライツ」は1940年のバラードで、この1950年当時、サミー・ケイのオーケストラが大ヒットさせていました。マクファターが、風変わりだが力強く歌っており、フェデラル・レコードはただちにドミノズの二枚目のシングルとして発売しました。「シックスティ・ミニット・マン」は二ヵ月後に発売されました。性的な含みが顕著なためにラジオでは放送禁止になりましたが、30週間R&Bチャートにとどまり、そのうちの半分近くでトップの座に君臨しました。オーケストラやクルーナー(低い声で感傷的に歌う流行歌手)が独占していたポップチャートにも入りました。

シド・ネイサンは小ずるいビジネスマンで、自らのヒット曲を別のジャンルでもヒットさせようとしました。カントリー・デュオのヨーク・ブラザーズに「シックスティ・ミニット・マン」をカバーさせましたが、ほかの「シックスティ・ミニット・マン」のカバー同様、ヒットしませんでした。なぜなら、オリジナルが強力すぎたし、独特すぎたからです。それで、ネイサンは、アンサーレコードを作ることにしました。新しいグループ、スワローズに "It Ain't the Meat (It's the Motion)" を歌わせて、小ヒットとなりました。二年後、ドミノズを脱退したビル・ブラウンがチェッカーズを結成し、同じ主人公の歌 "Don't Stop, Dan" をキングレコードから発売しました。1960年、ネイサンは、アンタッチャブルズのリメイクにあやかろうと、オリジナルに女声コーラスを加えたバージョンを発売しました。


(シネシャモ日記2009年4月)



26
Johnnie Ray with the Four Lads
Cry
(1951)

26曲目は Johnnie Ray with the Four Lads の "Cry"。いつ頃だったか、NHKでエド・サリバン・ショーのダイジェスト版のような番組を毎週放送していて、その中で、ジョニー・レイがたぶんこの曲を歌っているのを見たことがあります。中性的な白人が感情をあらわに歌う姿に少々気味悪さを感じました。

  • R&Bチャート1位、ポップチャート1位(11週)
  • カテゴリー: ポップ・バラード
  • 作者: チャーチル・コールマン Churchill Kohlman
  • レベールと番号: Okeh 12022、ニューヨーク
  • 片面: "Little White Cloud That Cried" (ポップチャート2位、こっちがA面)
  • 録音日・場所: 1951年10月16日、ニューヨーク
  • 発売日: 1951年11月
  • なぜ重要か:
    50年代最初の10代のアイドル。泣き叫ぶR&Bレコードのさきがけとなった。Orioles の "Crying in the Chapel"(1953年、R&Bチャート1位)や、クライド・マクファターが泣きながら歌う Dominoes の "The Bells" などが続いた。
  • 影響を受けたのは:(たぶん)
    Billy Eckstine "Crying" (1949、R&Bチャート12位)
    Lionel Hampton/Jimmy Scott "Everybody's Somebody's Fool" (1950)
    Griffin Brothers "Weepin' and Cryin'" (1951、R&Bチャート1位)
  • 影響を与えたのは:
    Garnet Mimms "Cry Baby" (1963、ポップチャート4位)
    Ray Charles "Crying Time" (1966、ポップチャート6位)
    Johnny Cash "Cry! Cry! Cry!" (1955、C&Wチャート14位)
    Roy Orbison "Crying" (1961、ポップチャート2位)など多数
  • 重要なカバー:
    Eileen Barton (ポップチャート10位)
    Four Knights (ポップチャート21位)
    Georgia Gibbs (ポップチャート24位)
    Bette McLaurin
  • 重要なリメイク:
    Knightsbridge Strings (1959、ポップチャート53位)
    Ray Charles (1965、ポップチャート58位)
    Ronnie Dove (1966、ポップチャート18位)
    Lynn Anderson (1972、C&Wチャート3位)
    Crystal Gayle (1986、C&Wチャート1位)
    (C&W はカントリー&ウエスタンのことです。)

一般の白人、特に男性は、黒人の教会や葬式以外、人前では泣かないものだと考えていた。だが、「クライ」を歌う白人のジョニー・レイの目からは涙が頬にあふれ出し、長髪が額にだらりと垂れ下がる。観客を悲嘆の極みにまで高めると、彼は気絶し、多くのファンも一緒に気絶する。

ジョニー・レイは1927年1月10日にオレゴン州ダラスに生まれる。少年時代の事故によって聴力が低下し、10代半ばには補聴器が必要となった。音楽に囲まれて育った。家族は、ビリー・ホリディやケイト・スミスからカントリー・ブギ歌手のローズ・マドックス Rose Maddox まで何でも聴いていた。特にビリー・ホリディが彼の心をつかんだ。彼は、50年代の基準からすると、恥ずかしがり屋の女々しい大人となった。男女の区別のない性格によって、若い女性たちに慕われたが、悪意あるゴシップに見舞われることも多かった。

1951年、ジョニー・レイはデトロイトの小さなナイトクラブで歌っていた。そこには黒人の客も白人の客もいて、彼の唯一の白人芸人だった。ひとつのショーは、だいたい5つの出し物で構成され、モーリス・キングと12人のオーケストラが常駐していた。キングは、のちにモータウン・レコードの最初のA&Rマンとなる。

現地のディスクジョッキー、ロビン・シーモアがレイの歌に惚れ込み、コロンビアのダニー・ケスラー Danny Kessler に紹介した。当時、ケスラーはコロンビア傘下のオーケイ Okeh レーベルを立て直しているところだった。オーケイは20年代から30年代初期にかけてベッシー・スミスなどのブルーズ歌手を数多く送り出したレーベルだった。シーモアから黒人ゴスペルの強烈さで歌う白人青年のことを聞いたケスラーは、レイが歌うのを見て興奮した。オーケイには黒人歌手クロード・トレニア Claude Trenier などがいたが、ジョニーが初めての白人だった。

ジョニー・レイの最初のレコードは、自分が書いたR&Bの失恋歌 "Whiskey and Gin" で、デトロイトのユナイテッド・サウンド・システムでモーリス・キングのバンドを伴奏に録音された。この曲が白人によって歌われていると想像した者はいなかっただろう。性別さえもはっきりとわからなかっただろう。この曲はクリーブランドなど北部の都市のいくつかでヒットし、レイがプロモーションのためにクリーブランドの駅に降り立つと、500人ほどの若者が押し寄せた。

コロンビアのトップA&Rマンだったミッチ・ミラーがすぐに飛びついた。後年はロックンロールの敵対者となったミラーだが、少なくとも1951年の基準では進歩派だった。彼は40年代後期にマーキュリー・レコードのために、リズム・アンド・ブルーズ風に感情をこめて歌う最初の白人の一人、フランキー・レイン Frankie Laine をプロデュースしていた。彼はジョニー・レイをニューヨークに連れて行き、バックボーカルにフォー・ラッズを付けて、録音させた。フォー・ラッズは一年後に「モッキンバード」でヒットを飛ばすことになる。

4曲録音したうちの3曲はミラーが持ち込み、「クライ」が含まれていた。「ミラーが自分に歌って欲しいレコードを聴かせてくれた。聞いたこともない女性が歌う甘ったるいちょっとしたバラードだった。」その歌手はラス・ケイシー Ruth Casey で、キャディラック・レコードという新しいR&Bレーベルから2ヵ月前にこの曲を発売していた。「クライ」を書いたのはチャーチル・コールマンという45歳の公務員で、ドライクリーニング工場の夜警のアルバイトをしていたときに、この曲を考え出した。

ミラーはジョニー・レイをどう録音していいか思いつかなかったので、即興で演奏させた。「クライ」のほかに "Broken Hearted" と "Please Mr. Sun" を録音した。「時間がまだあったので自分の書いた "Little White Cloud That Cried" をやることにした」とレイは回想するが、コロンビアの記録によると、「クライ」は "Little White Cloud That Cried" の翌日にミュージシャンを変えて録音されている。これら4曲すべてがポップチャートの上位に入った。

巧妙にもミラーは、「クライ」で、レイを前面に押し出し、フォー・ラッズは最初の「ウー・アー」と最後で聞こえるのみで、真剣に聴こうとしない限り、彼らの歌声は途中で聴こえない。バンドの演奏は控えめだ。ギターの Mundell Lowe、ベースの Ed Safranski、柔らかいベルのような音のする鍵盤楽器セレスタの Buddy Weed がバックを務めている。Ed Shaughnessy がドラムを叩いているらしいが、レコードでは聞こえない。

セレスタによって子守唄のような感じになり、自己憐憫的な歌にピッタリだった。レイは泣き叫ぶ子供のように歌い始める。「もーーーーし君の恋人がさよならの手紙を送ってきたら、泣けばスッキリするよ。もし君の頭痛がながーーーーーく続くようなら、君の憂鬱は曲を聴くたびにひどくなっていくよ」レイのすすり泣きから最大の効果をもたらすために、オーケイは「クライ」と "Little White Cloud That Cried" をカップリングして発売した。当初オーケイは後者を押すつもりだったが、ディスクジョッキーたちは「クライ」に飛びついた。レコードは少なくとも200万枚売れ、「クライ」は1952年3月から初夏まで11週間1位に君臨した。その間、"Little White Cloud That Cried" は2位にまで上昇した。レコードはイギリスでも大ヒットとなった。

「クライ」がチャートインした1951年暮れの二週間前、"Weepin' and Cryin'" という曲がR&Bチャートに登場した。グリフィン・ブラザーズというグループの曲で、ボーカルの黒人リトル・トミー・ブラウンも泣きながら歌った。ジョニー・レイが起こしたブームに乗っかって、R&Bチャートの1位になったが、あきらかに "Weepin' and Cryin'" のほうが録音が早い。レイが「クライ」の前にこの曲を聴いていたていたかどうかわからないが、両者ともリトル・ジミー・スコットを聴いていたことは確かだ。スコットがライオネル・ハンプトンのバンドをバックに歌った "Everybody's Somebody's Fool" は1950年のヒット曲で、ヒステリー寸前である。「クライ」のおかげでR&Bシンガーの感情のはけ口が開き、ドミノズのクライド・マクファターやファイブ・ロイヤルズのジョニー・タナーは、かつて教会でゴスペルを歌っていたときのように俗世間での自身を表現することができるようになった。

サン・レコードのサム・フィリップスが「ニグロのように歌う白人青年」を見つけたかったという有名な言葉は、もう一人のジョニー・レイを意味していた。レイの最初のレコードを支持した最初の有名なディスクジョッキー、ビル・ランデル Bill Randall は、1954年に北部における最初のエルビス・プレスリーの支持者となった。1956年1月28日、ドーシーブラザースのテレビショーでランデルが初めて国民にプレスリーを紹介したとき、彼はプレスリーをジョニー・レイと比較した。(ちなみに、プレスリーは、RCAと契約する前に、フランキー・レインやジョニーレイというR&B風の歌手を売り出したことのあるミッチ・ミラーと接触していたが、ミラーはプレスリーとの契約を断った。)

プレスリーとの関係で言えば、レイの人気が下降中だった1956年に、彼はサン・レコードから2年前に出た Prisonaires の "Walking in the Rain" という曲を選んで、ポップチャートの2位にまで上昇させた。プレスリーが「冷たくしないで Don't Be Cruel」「ハウンドドッグ」「やさしく愛して Love Me Tender」で16週連続で1位に君臨していなければ、1位になっていたはずだ。

ジョニー・レイは1990年2月24日に肝不全のためロサンジェルスで死去。

(シネシャモ日記2010年12月)



27
The Clovers
One Mint Julep
(1952)

  • R&Bチャート2位
  • カテゴリー: R&Bボーカルグループ
  • 作者: Rudy Toombs
  • レベールと番号: Atlantic 963, ニューヨーク
  • B面: "Middle of the Night" (R&Bチャート3位)
  • 録音日・場所: 1951年12月19日、ニューヨーク
  • 発売日: 1952年3月初め
  • なぜ重要か: 初期の「酒飲み」ヒットソングで、社会的メッセージを試みたもので、テナーサックスのソロにスポットライトを当てたボーカルグループのヒット曲として先駆的存在の一つ。
  • 影響を受けたのは: 1949年の Stick McGhee の "Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee" (R&Bチャート1位)から始まる、さまざまな酒飲みヒットソング
  • 影響を与えたのは:
    アトランティックのプロデューサー Jerry Leiber と Mike Stoller が作り上げた独創的な曲、すなわち
    The Cheers, "Bazoom (Need Your Loving)" (ポップチャート15位、1954)
    The Charms, "Bazoom (Need Your Loving)" (R&Bチャート15位、1955)
    The Robins, "Ten Days in Jail" (1953)
    The Coasters, "Young Blood" (ポップチャート8位、1957)
    The Clovers, "Love Portioin #9" (ポップチャート30位、 1959)
  • 重要なカバー:
    Buddy Morrow (ポップチャート30位)
    Louis Prima
  • 重要なリメイク:
    The Clovers (1959)
    Chet Atkins (ポップチャート82位、1960)
    Ray Charles (R&Bチャート1位、ポップチャート8位、1961)

「ある朝、道を歩いていると、ある女性と出会い、会話を始めた。一緒に酒を飲むために家に呼んだが、飲んだのは一杯のミント・ジュレップだけだった。それがすべての始まりだった。」「すべて」が示すのは、強制的な結婚と6人の子供ができたことだと、あとで判明する。

1952年のアトランティックはR&Bレーベルとして最高の人気を誇っているわけではなかった。シカゴのチェス、シンシナティのキング、ロサンゼルスのモダーンとスペシャルティがR&B界を支配していた。1949年のスティック・マギーの “Drinkin’ Wine Spo-Dee-O-Dee” と1950年のルース・ブラウンの “Teardrops from My Eyes” でヒットを放ったものの、ジョー・ターナー、レイ・チャールズ、クライド・マクファターとドリフターズによって成功するは、もっとあとである。この頃、定期的にヒットを放っていたのはワシントン市出身の五人組クローバーズだけだった。

結成時は「四葉のクローバー」という名前だったが、これだとメンバーの数が限られるために、クローバーズと名前を変えた。初めのうちは、パッとしない曲ばかり歌っていた。

アトランティックは、クローバーズのようなボーカルグループに興味がなかった。副社長アーメット・アーティガンは、ハーモニーグループは時代遅れだと思っていたが、ジュビリー・レコーズがオリオールズで成功していたのも知っていたので、クローバーズのオーディションをすることにした。

クローバーズと会っても、アーティガンが印象づけられることはなかった。「彼らはインク・スポッツが好きだったが、私はまったく好きじゃなかったし、彼らは Billy Eckstine の “Prisoner of Love” を録音したがっていた。」代わりにアーティガンは自分が書いた “Don’t You Know I Love You” を歌わせようと、彼らに歌って聴かせた。すると、メンバーたちは「見ろよ!この白人はブルーズを歌ってるぜ!」と言いながら笑い始めた。彼らのマネージャーが「黙れ!彼は会社の所有者だ!」と怒鳴った。

アトランティックは、クローバーズの歌い方を変えて、彼らが歌う曲を選んだ。ベテランのバンドリーダー兼ピアニストであるジェシ・ストーンが、レコードを録音するためのリハーサルを任された。「録音の1週間か10日前に、彼らのマネージャーの住むバルティモアに出かけていった。彼らに歌わせたかったのは南部のサウンドだったが、彼らは北部の青年たちだったので、ピンとこないようだった。」1951年から1955年までの間、クローバーズはオリジナル曲しか録音しなかった。アーティガンが彼らに聴かせた “Don’t You Know I Love You” はR&Bチャートで1位となった。続く “Fool, Fool, Fool” も1位となった。

幸運にも、彼らの最初のセッションにはサックス奏者フランク・フロアショウ・カリー Frank “Floorshow” Culley のバンドが呼ばれていた。R&Bのボーカルグループはサックスなしのほうがスムーズにいくものだが、その日アトランティックはカリーのバンドを予約していたので、カリーは、演奏しようがしまいが、バンドリーダーとしての賃金を要求した。それで、ジェシ・ストーンは、決まりを破ってカリーを使用し、彼のブルージーで騒々しいサックスがレコードの売上げに貢献することとなった。それ以降、活気あるテナーサックスのソロがクローバーズのサウンドの一部となった。さらに、あらゆるニューヨークのボーカルグループがサックスソロを取り入れたがるようになった。

それまでR&Bチャートで1位を続けていたクローバーズだが、「ワン・ミント・ジュレップ」は、1952年初頭に2位どまりとなった。たぶん、B面もヒットしたので、ビルボード誌がレコード店での売上げとともに計算に入れていたジュークボックスでの回数が二分されたためだろう。さらに、同じアトランティックのルース・ブラウンが “5-10-15 Hours” で1位を独占していたためでもある。

“5-10-15 Hours” も「ワン・ミント・ジュレップ」もルディ・トゥームズ Rudy Toombs の曲で、ルース・ブラウンの最初の大ヒット “Teardrops from My Eyes” も彼の曲だった。「ワン・ミント・ジュレップ」は、彼が書いた一連の酒飲み歌の最初のものである。その後、クローバーズのために “Nip Sip”、エイモス・ミルバーン Amos Milburn のために “One Scotch, One Bourbon, One Beer”、ルイ・ジョーダンのために “Fat Back and Corn Likker” を書いた。

「ワン・ミント・ジュレップ」は、若者が優しいワナにひっかかるという古典的な物語だ。ある日、起き上がって周囲を見回すと、指輪がはめられており、ガキどもがいる。リードボーカルのバディ・ベイリー Buddy Bailey の記憶では、おおざっぱに事実に基づいているとトゥームズが彼に語ったことがある。「どこかへ向かおうとしていたのに女性にのぼせあがってしまった男をいっぱい知っていると彼は言った。10年後、突然、彼らは最初に向かおうとしていたところへ行きたくなる。」

エイモス・ミルバーン、フロイド・ディクソン、ペパーミント・ハリスがうめくように歌い、ワイノニー・ハリスが叫ぶように歌う酒場のバラッドは人気があったが、クローバーズにとって酒飲み生活は気分転換でしかなかった。ロマンチックなバラードが好きなリードボーカルのベイリーによると、「ワン・ミント・ジュレップ」は、あまり意味のない馬鹿げた歌だった。彼は、ミント・ジュレップの原産地であるケンタッキー州ルイスビルにさえ行ったことがなかった。

しかし、フランク・カリーのバンドにはケンタッキー生まれのハリー・バン・ウォールズ Harry Van Walls がいた。この33歳のピアニストは、「ワン・ミント・ジュレップ」で、歌詞同様に売上げに貢献したと思われる驚くべきピアノ三連音符を弾いている。ベイリーは、彼が風変わりな人物だったことを述懐する。「バン・ウォールズがやってきたとき、オーバーコートを着て、シャーロック・ホームズの帽子を目のところまで下げてかぶっており、セッション中もずっとその格好だった。」

ベイリーによると、クローバーズは録音するまでに十分練習していた。「アトランティックは俺たちをニューヨークに連れてきて、アポロ劇場に1週間出演する契約をし、録音のために練習する時間をたっぷりくれた。各メンバーは125番街のテレサ・ホテルの風呂つきの個室をあてがわれたが、そこは週32ドルしかしなかった。俺たちは水増しして倍の宿泊費をアトランティックに請求した。アトランティックは録音のために約600ドルを各メンバーに支払い、結局それだけしかくれなかったので、どんな方法ででも、もっとお金が必要だった。」

「アトランティックはルディ・トゥームズを雇い、何曲か作らせた。俺たちは、「ワン・ミント・ジュレップ」がすぐれたノベルティソングで、アップテンポのR&Bで、陽気な曲だということに同感した。俺たちがやったことといえば、アレンジに自分たちの考えを入れてもらったことだ。テンポを上げて、ダンサブルにしたかったんだ。望まない妊娠は、17歳で、特に黒人なら、やっかいなことだった。今やどの階級にとっても平等にやっかいなことだ。俺たちはユーモラスにやりたかったし、現実どおりにしたかった。俺たちは時代に先駆けていた。」

ユーモアの一部は、ミント・ジュレップで酔っ払う若い黒人という不調和なアイディアから生まれている。バーボン、砂糖、ミントの葉っぱを氷にそそいで作る、たっぷりで冷たい飲み物、ミント・ジュレップは、貴族階級の南部人、特にスカーレット・オハラのような美女がお気に入りの飲み物だった。言い換えると、単に女性の飲み物というだけでなく、白人の女性の飲み物だった。

1959年、メンバーが少し変わったクローバーズは、ユナイテッド・アーティスツのために「ワン・ミント・ジュレップ」を再録音したが、売れなかった。2年後、レイ・チャールズがR&Bチャートの1位に送り込み、ポップチャートでもヒットした。

“Lovey Dovey” “Your Tender Lips” “Devil or Angel” といったクローバーズの50年代半ばの古典が、のちに白人によってポップチャートでヒットしたが、クローバーズ自身は、ロイ・エリス・オーケストラの伴奏で歌った “Love Love Love” という馬鹿げた、みんなで一緒に歌おうという感じの曲まで、ポップチャートに入ることはなかった。そのときまでに、ストリングスをバックにしたバラードではなく、同じレーベルのコースターズによるコミカルなおふざけがロックンロール時代の流行となっていた。クローバーズはアトランティックからユナイテッド・アーティスツに移籍して、コースターズの曲作りとプロデュースを手がけていたジェリー・リーバーとマイク・ストーラーのプロデュースによって「ラブ・ポーション・ナンバーナイン」を歌った。ポップチャートの23位まで上昇したが、クローバーズはコースターズのようなサウンドになっていたし、それならばコースターズだけで十分だった。クローバーズは二つのグループに分裂し、いろんなレコード会社から散発的にレコードを出したが、もうヒットは生まれなかった。

(シネシャモ日記2010年12月)



28
Bill Haley and the Saddlemen
Rock the Joint
(1952)

  • チャート入りせず
  • カテゴリー: ヒルビリー・ブギ
  • 作者: クラフトン、キーン、バグビー
  • レベールと番号: Essex 303, ペンシルベニア州チェスター
  • B面: "Icy Heart"
  • 録音日・場所: 1952年2月/3月、フィラデルフィア
  • 発売日: 1952年3月終わり
  • なぜ重要か: この曲の突発的な成功によって、ビル・ヘイリーはヒルビリーからR&Bへと移行した。スラップバック・エコー slap-back echo の使用と、打楽器としてのベース弦の打ち鳴らしが、ロカビリー・サウンドの基礎を確立した。
  • 影響を受けたのは: Jimmy Preston and His Prestonians の "Rock the Joint" (R&Bチャート6位、1949)(14曲目参照
  • 影響を与えたのは: Bill Haley and His Comets "Rock Around the Clock" (ポップチャート1位、1955)
  • 重要なカバー: Lola Ameche
  • 重要なリメイク: Bill Haley and His Comets (1957)

R&Bとカントリーのミュージシャンがお互いの分野の曲をカバーすることはあっても、各々のスタイルに固執した。たぶん、ビル・ヘイリーは、その伝統を打ち破った最初のヒルビリー歌手である。1951年、彼とサンドメンは、ジャッキー・ブレンストンの「ロケット88」を、ゆったりしたカントリー・ブギで録音した。この曲も飛び上がるパフォーマンスもヘイリーの柄に合っていなかった。ヘイリーは、ハンク・ウィリアムズのような泣き節を好んでいた。しかし、デイブ・ミラーというフィラデルフィアのレコードプレス工場の作業員が南部を旅行中にブレンストンの「ロケット88」を聴いて、彼が新たに設立しようとしていたレーベルのためにヒルビリーとクロスオーバーする曲として「ロケット88」を録音したくてしょうがなくなった。彼は、友人であるWPWAラジオ局のアナウンサー、ジャック・ハワードに電話して、R&Bをカバーすることのできる白人バンドが町にいないかどうか聞いた。ハワードは容易に探し出すことができた。WPWAにはビル・ヘイリーが率いる専属ヒルビリーバンドがいて、ニュージャージー州グロスター付近のカントリー専門ナイトクラブ、ツイン・バーズで「ロック・ザ・ジョイント」というR&Bソングをふざけながら演奏しているのをハワードは直接見たことがあった。

ウィリアム・ジョン・クリントン・ヘイリー・ジュニアは、1925年7月6日にミシガン州ハイランドパークで生まれ、ペンシルベニア州の郊外にある工業の町チェスター近くにある小さな町ブースウィンで育った。ヘイリーは、内気で、左目が見えなかったので、自意識が強かったが、少年時代、地域のオークション会場でギターを弾きながら歌った。最初にレコーディングしたのは1948年で、Four Aces of Western Swing とともにハンク・ウィリアムズの歌をカバーし、「ヨーデルを歌うビル・ヘイリー」として地元で有名になった。1年後、ヘイリーは自分のバンド、サドルメンを結成した。

録音はひどいが演奏はエキサイティングなサドルメンの「ロケット88」は、バレルハウスのブギ・ビートが特徴で、ペンシルベニア州西部やニュージャージー州で人気となったが、車で移動しながらの手売りというミラーの販売方法のため、よそでは売れなかった。それで、ヘイリーは、ヒルビリーの哀歌や挽歌を再び歌うようになった。

ジャック・ハワードは、サドルメンが客席を暖めるために演奏していた冗談ソング「ロック・ザ・ジョイント」を録音するように勧めた。ヘイリーもバンドもミラーも同意し、WPWAのスタジオで録音した。B面は"Icy Heart"で、ハンク・ウィリアムズの"Cold Cold Heart" の盗作だった。

ビル・ヘイリーは次のように回想する。「WPWAでカントリーのライブ番組をやった。自分の番組の前には「リズム判事の裁判所」という2時間の番組が放送され、ディスクジョッキーはジム・リーブス Jim Reeves だった。ジムは白人だったが、人種を問わずなんでもかけた。自分の番組の準備をしている間、よく彼の番組を聴いていたので、かなり影響を受けたと思う。彼はテーマソングとして「ロック・ザ・ジョイント」を使用していたので、自分の番組でも演奏し始めた。演奏するたびに、ものすごい反響があった。それで、歌詞を少し書き直し、レコードを発売したら、大ヒットとなった。」

ヘイリーによる「ロケット88」のカバーは、車のクラクションが入ったカントリーだったが、「ロック・ザ・ジョイント」は違った。彼とサドルメンは新たな領域に進んだ。オリジナルは、同じチェスター出身のジミー・プレストンによるもので、1949年9月にR&Bチャートの上位まで昇った(14曲目参照)。プレストンとヘイリーは、同じ小さな町に住み、2歳しか違わなかったが、プレストンが黒人だったため、お互い知らなかった。

ヘイリーは、"we're gonna rock, rock this joint" という繰り返し部分は残したものの、カントリーの聴衆を引きつけるために全体的に歌詞を変えた。一番は、プレストンの最後に少し似ていなくもない。ヘイリーの一番は「郵便箱をこわし、床を引き裂き、窓を割り、ドアを壊そう。俺たちはロックするんだ...」で、プレストンの最後は「壁を倒し、床を引きちぎろう。警察がやってきて、ドアをノックするまで」である。ヘイリーは、残りの部分を自由に歌っている。プレストン同様、さまざまなダンスステップを提案しているが、プレストンがジターバグ、ハックルバック、ジェリーロールについて歌っているのに対して、ヘイリーは白人のカントリーの聴衆に対して叫びながら指示する。「シュガーフット・ラグを踊れ。並んで、低く飛んで、広く飛んで a-flyin' low and a-flyin' wide」とか、「古いポール・ジョーンズやバージニア・リールを踊れ。感じるままに足を動かせ」とか。"flyin' low and a-flyin' wide" は、アーキー・シブリーの「ホット・ロッド・レース」(22曲目参照)に由来する。その曲では、二台の車が砂漠をぶっ飛ばす様子を描写するのに使用されていた。

二枚のレコードは演奏の点でかなり異なる。プレストンは、基本的なリズムセクションと金切り声をたてるテナーサックスだけで、ギターはない。ヘイリーは、3本のギター(自分の生ギター、ダニー・セドロン Danny Cedron のエレキ、そしてスティールギター)とホンキートンクピアノはあるが、サックスもドラムもない。ヘイリーの「ロック・ザ・ジョイント」で最も素晴らしい特徴のひとつは、セドロンによるレス・ポール風の鮮やかなソロである。セドロンは、二年後、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」で、そっくりそのままの演奏をする。プレストンのオリジナルでは手拍子によってリズムが強調されていたが、ヘイリーのバージョンでリズムを強調するのはアル・レックス Al Rex が打ち鳴らすダブルベースである。「俺の古いベースには響柱がなかったので、音程が出せずに、ガタンゴトンという音しかしなかった。デイブ・ミラーは「俺が聞きたかったのはその音だ!。マイクをベースに付けろ。その音をとらえるんだ」と言った。それが始まりさ。」

サドルマンやコメッツのサウンドは、いわゆるスラップ・ベースに大きく依存する次世代のロカビリーのミュージシャンたちに影響を与えたが、ベースを叩く技法は新しいものではなかった。スラップ・ベース奏法は遅くとも90年前にニューオリンズで始まったと言う専門家もいる。当時、街角で演奏するバンドは、バケツに穴を開け、ほうきの柄を差し込み、一本の弦をピンと張って作るベースが流行していた。バケツを反響させるためには、弦をしっかり叩かなければならなかった。このお手製ベースから四弦のダブルベースに移行すると、一人楽団のような音を出すことができるようになった。初期の代表者は、ニューオリンズのジャズマン、ジョージ・ポップス・フォスター George "Pops" Foster だった。1926年に電気マイクが到来する前に使われていたメガホンはダブルベースの低い音を拾うことができなかった。そのため、ライブ演奏でベース奏者が活躍していても、録音となるとチューバ奏者が代役を務めた。しかし、20年代後期までには、技術が改良され、ポール・ワイトマン Paul Whiteman はベース奏者を前面に押し出すことができたし、数年のうちに、デューク・エリントン楽団のベース奏者ウェルマン・ブランド Wellman Brand がニューオリンズ風のベースを叩く奏法を有名にした。

「ロック・ザ・ジョイント」は75,000枚売れた。デイブ・ミラーの小さなエセックス・レーベルとしてはたいしたものだ。「ロック・ザ・ジョイント」はシカゴでヒットしたため、黒人のジャズクラブで、ディジー・ガレスピーの次の一週間演奏することとなった。観衆が退場したため契約が途中で打ち切られたが、ヘイリーは自分が何かをつかんだことに気づいた。彼が再びヒルビリー歌手に戻ることはなかった。

(シネシャモ日記2010年1月10日)



29
The Dominoes
Have Mercy Baby
(1952)

  • R&Bチャート1位(10週)
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: ビリー・ワード Billy Ward、ローズ・マークス Rose Marks
  • レベールと番号: Federal 12068、オハイオ州シンシナティ
  • B面: "Deep Sea Blues"
  • 録音日・場所: 1952年1月28日、シンシナティ
  • 発売日: 1952年4月
  • なぜ重要か: 黒人ゴスペルミュージックの情熱的な要素を特徴とするR&Bソングとして最初にヒットした。
  • 影響を与えたのは:
    Clyde McPhatter and the Drifters, "Whatcha Gonna Do" (R&Bチャート2位、1955)
    Hand Ballard and the Midnighters, "The Twist" (R&Bチャート6位、1959;ポップチャート28位、1960)
    Little Richard, "True Fine Mama" (ポップチャート68位、1958)
  • 重要なリメイク: 
    Titus Turner (1957)
    The Bobbettes (ポップチャート66位、1960)
    James Brown (ポップチャート92位、1965)

「ハブ・マーシー・ベイビー」はドミノズがR&Bチャートで1位に送り込んだ2番目で最後の曲だ。一年前の最初の大ヒット曲「シックスティ・ミニット・マン」(25曲目参照)はビル・ブラウンのよく響く低い声が特徴だったが、この曲は情熱的なテナーのクライド・マクファターによって完全に異なるサウンドになっている。「慈悲をかけてくれ、ベイビー。俺が悪かった。俺の心は悲しみで一杯だ。元に戻れないか。俺はろくでなしだ。ウソはつくし、だますし…」この曲が、罪のあがないを叫ぶゴスペルと異なるのは、ベイビーという言葉が入っていることだ。「ハブ・マーシー・ベイビー」は、ヒットパレード用に飾られた教会の歌だ。マクファターは、ジュビリー jubilee の歌手出身なので、ゴスペルの激しさで歌うことができた。

クライド・マクファターは1932年11月15日にノースカロライナ州ダーラムで生まれた。父はバプティストの宣教師で、教会のオルガン奏者だった。5歳のとき、聖歌隊に入れられ、数年のうちにソロを任されるようになった。3人の兄弟と3人の姉妹も聖歌隊で歌った。このゴスペル一家がニュージャージー州に引っ越すと、10代のクライドは ハーレムのマウント・レバノン教会を拠点とするマウント・レバノン・シンガーズ Mount Lebanon Singers に加わった。

1950年にドミノズを結成しようとしていたアレンジャーのビリー・ワードは、マクファターがアポロシアターの素人大会で優勝してすぐ、マクファターとマウント・レバノン仲間二人をオーディションした。ドミノズはラジオ番組「アーサー・ゴッドフリーのタレントスカウト Arthur Godfrey's Talent Scouts」に出演し、これがフェデラル・レコーズとの契約につながった。フェデラルは、シンシナティの有力なキング・レーベルの子会社だった。「シックスティ・ミニット・マン」は1951年最大のR&Bヒットの一曲となった。このノベルティソングの成功にもかかわらず、ワードは二匹目のドジョウを狙おうとしなかった。彼はグループの中心をマクファターに移行させ、"I Am with You" "That's What You're Doing to Me" "I'd Be Satisfied" といった曲を確実にヒットさせた。しかし、この時代の最高の歌手の一人であるマクファターは、さほど名声を得なかった。ビリー・ワードは、自分自身が歌わなかったにもかかわらず(ピアノやオルガンを演奏した)、グループ名をビリー・ワードとドミノズに変えた。マクファターは、一時、クライド・ワードという名前でビリーの弟を演じさせられた。ワードは完全にドミノズを所有していたので、マクファターやグループの名前をいかようにも変えることができたし、すぐにメンバーを解雇することができた。

ドミノズが「ハブ・マーシー・ベイビー」を録音する頃までに、有名な低音のビリー・ブラウンは去っていた(彼は自分のグループ、チェッカーズを結成し、「シックスティ・ミニット・マン」に似た "Don't Stop, Dan" を録音した)。かわりに、地元で有名なラークスというグループからデビッド・マクニール David McNeil が加わった。セカンド・テナーのチャールズ・ホワイト Charles White はジェームズ・バン・ローン James Van Loan に代えられ、ホワイトはクローバーズに加入した。「シックスティ・ミニット・マン」のときのメンバーは、マクファターとウィリアム・J・「ウィリー」・ラモント William J. "Willie" Lamont だけになった。

1952年初め、ワードはグループをキング・レーベルのコネチカット・スタジオに連れて行き、4曲録音した(4曲録音するのが当時の標準だった)。そのうちの三曲は、ブルーズの "Deep Sea Blues"、マクニールがリードボーカルで「シックスティ・ミニット・マン」風の "Pedal Pushin' Papa"、ロサンジェルスの黒人作曲家レオン・ルネ Leon Rene が作り、マクファターが神経を張りつめたテナーの震える歌声を聞かせる "When the Swallows Come Back to Capistrano" だった。それまでの1年半にも同様に録音を行っていたが、二番目に録音した曲によって、この日は特別なものとなった。

マクファターのおかげで、「ハブ・マーシー・ベイビー」は黒人の教会から生まれた。題名は容易に「ハブ・マーシー、ジーザス(キリスト様、ご慈悲を)」に変えることができた。魅力的なゴスペルの叫びであり、たぶん過去十年間のボーカルグループの曲で最も電撃的だった。最後は、泣いているマクファターでフェードアウトする。(「ハブ・マーシー・ベイビー」に続編があるとしたら、最も奇妙で胸を打つドミノズの "The Bells" で泣きながら歌うマクファターを聴けば、想像できるかもしれない)。

この録音のあと、ドミノズはツアーに出る。二ヵ月後の3月21日、最初のロックンロール・コンサートと呼ぶ人もいる Cleveland Arena におけるアラン・フリードの悪名高き Moon Dog's Coronation Ball で主役を務める。このショーが定員以上の観客を集めたため、何千人もの人々(おもに黒人少年)が暴動を起こし、新聞の一面を飾った。

ドミノズはR&Bチャートに12曲を送り込み、そのうちの二曲が1位になった。彼らの最後の大ヒット曲は、1957年のユージン・マムフォード Eugene Mumford がリードボーカルを務める「スターダスト」だった。

アトランティック・レコーズの副社長アーメット・アーティガンは次のように回想する。「ワードはドミノズを軍隊のように指揮した。彼らはいつも身ぎれいにしていた。ワードはとても有能で、会社を経営できるタイプの男だった。」だが、彼のしつけに加えて、報酬の少なさによって、グループ内の士気が問題となった。ドミノズのプロデューサーだったラルフ・バス Ralph Bass は次のように言う。「ワードは人使いが荒く、それがマクファターには気に食わなかった。グループは給料制で、メンバーはお金を稼ぐことができなかった。」マクファター自身も次のように回想する。「みんなが俺のレコードを聴いている区域に帰っても、コカコーラさえ買えないことが多かった。」

ワードは1953年半ばにマクファターを解雇する。これは、マクファターが率先して行ったことにちがいない。というのも、自分の代わりとして若いテナー歌手のジャッキー・ウィルソン Jackie Wilson をワードに紹介しているからだ。マクファターはアトランティックに移籍して、ドリフターズ Driftersを結成する(34曲目 "Money Honey" 参照。まだ訳していませんが)。

ジャッキー・ウィルソンの才能にもかかわらず、ドミノズは以前のようにはいかず、1957年にウィルソンがソロ活動を始めると、ユージン・マムフォードが代わりに加入した。ワードはドミノズをラスベガスに連れていき、賭博師たちのためにヒット曲を歌わせた。1956年12月のサン・スタジオにおける有名なミリオン・ダラー・カルテット・セッションにおいて、プレスリーは、ウィルソンとドミノズが「冷たくしないでDon't Be Cruel」などの彼のヒット曲を焼き直しているのを見たことがあると語っている。ドミノズは、サン・スタジオで白人の聴衆のために "Behave, Hula Girl" と "Music, Maestro, Please" を録音した。Jan and Arnie のストリッパーに寄せる歌 "Jennie Lee" (1958) のカバーは馬鹿げている。60年代半ばまでにドミノズは消滅した。


(シネシャモ日記2010年1月15日)



30
Lloyd Price
Lawdy Miss Clawdy
(1952)

  • R&Bチャート1位(7週)
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: ロイド・プライス
  • レベールと番号: Specialty 428、ロサンゼルス
  • B面: "Mailman Blues"
  • 録音日・場所: 1952年3月13日、ニューオリンズ
  • 発売日: 1952年4月半ば
  • なぜ重要か: ロックンロールに取り入れられた最初のニューオリンズ・ヒット。
  • 影響を受けたのは:
    Champion Jack Dupree "Junker Blues" (1941)
    Andy Kirk "Hey Lawdy Mama" (R&Bチャート4位、1943)
  • 影響を与えたのは:
    中間韻を踏んだ題名の歌。たとえば、
    The Drifters "Money Honey" (R&Bチャート1位、1953)
    Varetta Dillard "Mercy, Mr. Percy" (R&Bチャート6位、1953)
    The Clovers "Lovey Dovey" (R&Bチャート2位、1954)
    Veretta Dillard "Promise, Mr. Thomas" (1955)
    Larry Williams "Dizzie Miss Lizzie" (1958)
    Little Richard "Good Golly, Miss Molly" (ポップチャート10位、1958)
  • 重要なリメイク: 
    Elvis Presley (アルバム Elvis Presley ポップチャート1位、1956)
    Gary Stites (ポップチャート47位、1960)
    The Buckinghams (ポップチャート41位、1967)
    Mickey Gilley (カントリー&ウェスタンチャート3位、1976)

ウエストコーストのブルーズが1950年代初期に枯渇し始めたとき、スペシャルティ・レコーズ社長アート・ループ Art Rupe は、ロサンジェルスからニューオリンズに飛んで、新たなファッツ・ドミノを探し回った。アート・ループがノース・ランパート街のJ&Mスタジオでオーディションを行うと地元の黒人ディスクジョッキーが告知すると、R&Bのミュージシャンや歌手が列を成したが、ループにとっては、みんな素人すぎたし、とても下手だった。ループは、何の成果も得ることなくロサンジェルスに戻ることになりそうだった。

最後にオーディションしたのは17歳の歌手ロイド・プライスで、ほかの歌手と同様か、それ以上に下手に見えた。ループは次のように回想する。「彼は何度もリハーサルして、時間ばかり食っていたので、「坊や、気を落ち着かせることができないなら、もう帰るよ」と言った。すると、彼は泣き出したので、「わかった、聴いてやるよ」と言ったら、「ローディ・ミス・クローディ」を歌い始めた。感情の入った歌いっぷりに感動して、ロスに帰る飛行機をキャンセルしたよ。」

プライスは自分のバンドを持っていなかったので、ループはデイブ・バーソロミューのバンドを雇った。ファッツ・ドミノもピアノで参加していたバンドは、プライスのまとまりのない8小節のブルーズをアレンジして、まともなものにした。結局、ループは、新たなファッツ・ドミノだけでなく、ファッツのバンドとファッツ自身も獲得した(バンドは曲をニューオリンズ風シャッフルで演奏している)。おまけに、二年前ドミノに最初のヒット曲 "The Fat Man" をもたらしたニューオリンズのスタンダード "Junker Blues" のメロディの変形も手に入れた。

ロイド・プライスの回想は少し違っていて、彼は泣いてなんかいない。「たまたまバーソロミューが母の家にいて、俺がこの曲を歌うのを聞いた。彼は「もっと歌詞を長くしろよ。それは歌なのかい。もっとまともなものにしたら、誰かに聞かせてやるよ」と言った。アート・ループは曲を気に入ったが、録音する前にニューヨークに飛んで行ってしまった。二ヵ月後、彼がニューヨークから戻ってきて、録音したいと言った。

プライスが放課後に空港で働いていると、彼の兄弟が「ラジオでお前の歌がかかった」と電話してきた。最初はどの曲かわからなかったが、すぐに「ローディ・ミス・クローディ」がラジオから流れるのを自分で聞いた。「自分じゃないみたいだった。自分がどう聞こえるのか知らなかったから。ニューオリンズの有名な黒人クラブ Dew Drop Inn から電話がかかり、一晩50ドルで歌わないかと誘われた。」空港での週給の2倍だった。

「ローディ・ミス・クローディ」は、チャートに半年とどまり、その年最大のR&Bヒットとなった。プライスはキャッシュボックスの1952年ベスト新人R&B歌手賞をもらった。白人のレコード市場でも売れたために、売上げ枚数が100万枚近くになり、地元のカントリーバンドもよく演奏した。「あのレコードには境界がなくて、みんな買った。」しばらくの間、ニューオリンズで録音されたどの新しいR&Bソングも「ローディ・ミス・クローディ」のようなサウンドのように聞こえた。

ロイド・プライスは、1935年3月9日にニューオリンズ郊外のケナーで生まれた。少年時代はトランペットとピアノを練習した。高校ではブルーボーイズというバンドを組んで、ジェームズ「オーキドーキ」スミス James "Okie Dokie" Smith がディスクジョッキーを務める人気のR&Bラジオ番組にレギュラー出演していた。スミスは、新発売のレコードに興奮するたびに「ローディ・ミス・クローディ」というフレーズを使った。当時はディスクジョッキーがCMもしゃべっていたが、CM中もこのフレーズをよく使った。二つのクライアントを詰め込んで、「ローディ・ミス・クローディ、マクスウェル・ハウス・コーヒーを飲んで、マザーズの自家製パイを食べよう」というように宣伝していた。「ローディ Lawdy」は、間投詞 "Lordy!" の南部なまりで、ロイド・プライスによると、「ローディ・ミス・クローディ」は、女性について語るときに、よく使っていたそうだ。

"Lawdy" という言葉は昔からレコードに登場していた。1929年、Blind Teddy Darby が "Lawdy Lawdy Blues" を録音した。1943年、Andy Kirk と彼のバンドの "Hey Lawdy Mama" がヒットした。一年後、Roy Milton が同曲をカバーする。クローディンやクローディアの愛称「クローディ」という言葉も Jimmy Witherspoon の1950年の "Miss Clawdy B." で使用されていた。

ロイド・プライスの次のレコード "Oooh Oooh Oooh" は同じ3月のセッションで録音された曲で、これもR&Bチャートの4位まで上昇するヒットとなった。その後のレコードはデビュー曲ほどのパワーがなかったし、1953年にプライスは兵役で極東に飛ばされる。1955年にスペシャルティに戻る頃には、リトル・リチャードがヒットメイカーとして取って代わっていた。その何ヵ月も前、プライスは、デモテープをアート・ループに送ってみたらとリトル・リチャードに勧めていたのだった。おまけに、リトル・リチャードは、プライスが使っていたニューオリンズのバンドをバックに録音していた。プライスがスペシャルティから出した最後のレコード "Forvie Me, Clawdy" はまったく売れず、過去の人になってしまったと思われた。

しかし、ロイド・プライスは進取的な男だった。自分自身のレーベルを立ち上げ、新たな曲を録音した。ベルティの1851年のオペラ「リゴレット」のアリア "Caro Nome" のメロディに自分で歌詞をつけた "Just Because" によって、ABCパラマウントが、そのレコードと歌手を拾い上げた。"Stack-O-Lee" や "Wade on the Water" といったヒット曲が何曲が続いた。プライスはニューヨークのエンターテイナーとなり、小さなレコード会社やナイトクラブに投資した。

彼がスペシャルティにいた頃、ラリー・ウィリアムズがプライスのキーボード奏者で付き人だった。彼は、"Just Because" をカバーしたし、アルバムのために「ローディ・ミス・クローディ」も録音した。しかし、何よりもウィリアムズがプライスの真似をしたのは題名の付け方で、「ディジー・ミス・リジー」や「ボニー・マロニー」など数曲をヒットさせた。

世間で広く「ローディ・ミス・クローディ」が知られるようになったのは1956年で、10週間アルバムチャートのトップにとどまったプレスリーのデビューアルバムに収録されていたからだった。

1958年から59年にかけてのプライスのABCパラマウント時代のヒット曲が女性コーラスとの掛け合いだったので、スペシャルティは、「ローディ・ミス・クローディ」のオリジナルに女性コーラスをダビングし、シングルとしても発売し、「ローディ・ミス・クローディ」という1959年のアルバムにも収録した。このリメイクは売れることなく、単に当惑の種になっているだけである。

(シネシャモ日記2011年1月20日、21日)



31
Hank Williams and the Drifting Cowboys
Kaw-Liga
(1953)

  • カントリーチャート1位(13週)、ポップチャート23位
  • カテゴリー: ヒルビリー
  • 作者: ハンク・ウィリアムズ、フレッド・ローズ
  • レベールと番号: MGM 11416、ニューヨーク
  • B面: "Your Cheatin' Heart" (カントリーチャート1位 (6週))
  • 録音日・場所: 1952年9月23日、ナッシュビル
  • 発売日: 1953年1月30日
  • なぜ重要か: カントリー・ミュージックの主義を拡大させたロカビリー原型レコード
  • 影響を与えたのは:
    Roy Orbison "Go Go Go" (1956)
    Johnny Preston "Running Bear" (ポップチャート1位、1960)
  • 重要なカバー:
    Dolores Gray (ポップチャート23位)
    Bill Farrell
    Champ Butler
  • 重要なリメイク: 
    Charley Pride (カントリーチャート3位、1969)
    Hank Williams, Jr. (カントリーチャート12位、1980)

1952年9月後半にハンク・ウィリアムズは4曲録音して、そのうち3曲がカントリーチャートの1位になった。しかし、ハンクは、そのことを知ることなく、この世を去った。録音から三ヵ月後、1952年の大晦日から1953年の元日にかけての夜中、ウエストバージニア州オーク・ヒル近くの裏道で、運転手付きのキャデラックの後部座席で29歳のヒルビリー・スターは亡くなった。

彼が亡くなった夜、彼の「ジャンバラヤ」は何週間も1位に君臨していたし、新曲も2週間前に出たばかりだった。若くして亡くなったミュージシャンにありがちだが、彼の新曲の題名も予言的なものだった。"I'll Never Get Out of This World Alive" (生きてこの世は出られない)。ハンクの曲としては最良の部類に入る曲ではなかったが、カントリーのファンが殺到して、1位に押し上げた。

彼のレコード会社MGMは、最後の録音セッションから「カウ・ライジャ」を発売した。「骨董店の玄関のそばに立つ木彫りのインディアンが、店内のインディアンの少女に恋をした。そこに突っ立ているだけで、恋心を見せなかったので、彼女はイエスともノーとも返事することができなかった」という寓話である。カウ・ライジャが内気を克服する前に、お客が少女を買っていった。「彼の心臓はコブの多い松材で作られていたので、恋心を示すには堅すぎた。」歌の最後、カウ・ライジャは、「これ以上ないほどの寂しさで一杯で、古い松の木のままだったらなあと願いながら」そこに立っている。他のハンク・ウィリアムズのユーモラスな曲同様、「カウ・ライジャ」には、ちょっとした大事なメッセージが込められている。大ヒットとなり、ポップチャートにも顔をのぞかせた。音楽的な特徴は、二つの異なるテンポで構成されていることだ。歌詞はインディアンのトムトム・ビートに乗って歌われ、古いカウボーイ映画で育った者にはおなじみの寂しげなインディアンのメロディをフィドルが奏でる。すると、繰り返しの部分で、ロカビリーのようなテンポの速いサウンドとなる。

B面の "Your Cheatin' Heart" (偽りの心) のほうが今日ではよく知られている。フランキー・レインとジョニ・ジェームズが歌って大ヒットし、スタンダードナンバーになったからだ。MGMは、最後のセッションの残りの曲、"Take These Chains from My Heart" と "I Could Never Be Ashamed of You" も発売した。前者はカントリーチャートの1位となり、今日では1963年のレイ・チャールズによるヒットで知られている。

ハンク・ウィリアムズは1923年9月17日にアラバマ州マウント・オリーブに生まれた。彼は、ティー・トット Tee-Tot として知られるルーフェ・ペイン Rufe Payne という名前の黒人ストリートミュージシャンから多くを教わった。ハンクが10歳のとき、ティー・トットから最初のギターをもらい、リリー・ウィリアムズが息子のためにギターのレッスン料をティー・トットに支払った。1937年、母親とともにモンゴメリーに引っ越してから数年後、ハンクは地元のラジオで有名になった。彼の最初のレコードは、ニューヨークの スターリング・レコーズ Sterling Records から発売されたが、ナッシュビルの興味を引いたのは彼の曲だった。音楽出版業者フレッド・ローズが彼の指導者となり、"Honky Tonkin'" というアップテンポの曲によって、ハンクはMGMと契約した。

1947年に "Move It on Over" がヒットしたのち、ハンク・ウィリアムズはカントリー界における最大のスターとなり、ポップス歌手に定期的にカバーされる最初のヒルビリー・ソングライターの一人となった。彼自身ポップスのヒットが2曲ある。20年代にティンパンアレーのソングライターが作った "Lovesick Blues" は、ハンクのヨーデルのようなファルセットにもかかわらず、1949年にヒットパレードの24位まで上昇した。彼のレコードはよく売れたものの、1952年の終わりまでにハンクの人生はボロボロになりつつあった。離婚を経験し、酒に溺れ、薬を乱用し、背中の怪我のためにモルヒネに手を出すようになった。酔っ払って出演したり、まったく出演しなかったりで、1952年8月にグランド・オール・オープリーを首になるという最終的な屈辱を味わう。ハンクは、故郷のモンゴメリーに戻って、数週間、母親と過ごした。

母親は、息子と、妊娠している恋人ボビー・ジェットのために、町から30マイル離れたマーティン湖の Kowaliga キャンプにある小屋を借りてやった。そのキャンプ地は古いインディアン村の敷地にあった。小屋で回復している間、ハンクは、地元インディアンの伝説からインスピレーションを得て、「カウ・ライジャ」のほとんどを書き、「偽りの心」を仕上げていた。しかし、休暇は早めに終わった。人前で酩酊したためにアレクサンドリア市の刑務所に入れられたからだ。数日後、フレッド・ローズはモンゴメリーでハンクと会って、繰り返し部分を加えて「カウ・ライジャ」を完成させた。また、のちにローズが語ったところでは、カウ・ライジャを生身のインディアンではなく、木製のインディアンに変えたほうがいいんじゃないかとハンクに提案した。

1ヵ月後にハンクがナッシュビルのスタジオに入ってきたとき、体は骸骨で、顔はむくみ、覚醒剤で興奮し、自己崩壊で荒廃していた。その日、何かをやることができたのは驚きだ。「生きてこの世は出られない」の初期のセッションに参加したチェット・アトキンズは「少し歌うと、椅子に倒れこんだ」と回想する。

MGMは死後15年間ハンクのシングルを発売し続けた。その多くは、ハンクと彼のギターによるデモで、市場で売れるようにオーバーダビングされた。ロックンロール時代に発売された "Fool About You" には、ロカビリーバンドの演奏がダビングされていた。ハンクがまだ通用すると信じるMGMは、ハンクが作った "My Bucket's Got a Hole in It" をティーンアイドルのリッキー・ネルソンがヒットさせたとき、そのカバーとして1958年にハンクのオリジナルを再発売した。

「カウ・ライジャ」の人気によって、Hank Thompson の "Squaws Along the Yukon"、Johnny Preston の1960年のヒット "Running Bear"、ラリー・バーンの "Please Mr. Custer" といった多くの陳腐なインディアン・ソングが発売された。

「カウ・ライジャ」がヒットしたあと、 Kowaliga キャンプに巨大な木製のインディアンが建てられ、その後、石像に代えられた。

(シネシャモ日記2011年1月24日)



32
Willie Mae "Big Mama" Thornton
with Kansas City Bill
Hound Dog
(1953)

  • R&Bチャート1位(7週)
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: ジェリー・リーバー、マイク・ストーラー、ジョニー・オーティス (あとでオーティスの名前は削除される)
  • レベールと番号: Peacock 1612、テキサス州ヒューストン
  • B面: "Night Mare"
  • 録音日・場所: 1952年8月13日、ロサンジェルス
  • 発売日: 1953年2月終わり
  • なぜ重要か: 影響力が大きいこの曲の最初のレコードであり、 リーバーとストーラーが重要なソングライターとして確立した。
  • 影響を与えたのは:
    Rufus Thomas の "Bear Cat" (R&Bチャート3位、サン・レコーズの最初のヒット)やRoy Brown の "Mr. Houng Dog's in Town" など数多くのR&Bアンサーソング。最終的に、50年代最大のロックンロール・ヒットとなるエルビス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」をもたらす。
  • 重要なカバー:
    Little Esther
    Tommy Duncan
    Eddie Hazelwood
  • 重要なリメイク: 
    Freddy Bell and His Bell Boys (1955)
    Elvis Presley (ポップチャート1位、1956)
    Homer and Jethro ("Houn' Dawg")
    Lalo Guerrero ("Pound Dog")

「ハウンド・ドッグ」は、1956年に世界的な現象となったエルビス・プレスリーの登場に密接な関係のある曲だ。"Don't Be Cruel" (冷たくしないで) との両面ヒットによって、8月から11月にかけてポップチャートの1位を11週間にわたって独占した。「ハウンド・ドッグ」は、初期のエルビスとロックンロールに対するマスメディアの軽蔑的な敵意をもたらした。それには、ちゃんとした理由があった。「ハウンド・ドッグ」は、男性が歌うと、意味を成さないからだ。

なぜなら、4年前、ユダヤ人の10代の少年二人が、300ポンドある黒人のレズビアンのために書いた歌だからだ。ビッグ・ママ・ソーントンは亡くなる数年前、次のように語っていた。「当時、リーバーとストーラーは少年で、茶色の紙袋の裏に歌詞を書いていた。私はその歌詞を歌い始めた。語ったり、叫んだりしながら。すべて自分流だった。」

ウィリー・メイ・ソーントンは、1926年12月11日、アラバマ州モンゴメリーに生まれた。黒人芸人が出演する劇場 (chitlin circuit) で歌手、ドラマー、ハーモニカ奏者、コメディアンとして頭角を現し始めた。1951年、彼女は、ヒューストンのギャングの一員ドン・ロビー Don Robey と契約した。ロビーは、ユダヤ人と黒人のハーフで、ナイトクラブ、出演契約取次店、ピーコック・レコーズ Peacock Records を所有していた。ボディーガードに囲まれた暴力的な男だったが、ソーントンを尊敬していたので、いつも彼女には良くしていたらしい。

マイク・ストーラーは次のように言う。「彼女は300ポンド近くあったように見えた。リハーサルのときでも、おどけていたし、思い鉄製の台が付いたマイクを片手に持って、それを宙でひっくり返しながら歌っていた。彼女は本当にパワフルな女性だった。彼女の顔にはナイフの傷がいくつかあったが、とても美しい微笑みをした。でも、たいていは辛辣だった。」

泣かず飛ばずの "All Fed Up" と "Cotton Pickin' Blues" を発売したあと、ロビーは、ビッグ・ママをロサンジェルスに送って、A&Rマンでバンドリーダーのジョニー・オーティスと一緒に仕事をさせた。オーティスは、リトル・エスターの "Double Crossin' Blues" など、一連のR&Bヒットを送り出していた。オーティスは、黒人に見せかけたギリシャ人ドラマーで、黒人女性と結婚し、黒人街に住んでいた。彼は、ロサンジェルスにおいて、勝負師の業界だった音楽業界でも、とりわけ油断ならない人物と見なされていた。彼は、同時にいくつかの独立系レコード会社のために、タレント・スカウト、バンドリーダー、プロモーター、アレンジャーをしていた。ロビーからビッグ・ママの次のレコードをプロデュースしてほしいと頼まれたので、オーティスは自分のバンドを集めた。ギタリストはカール「ピート」ルイス Carl "Pete" Lewis、ドラマーはリアード「カンザスシティ」ベル Leard "Kansas City" Bell、ピアニストはデボニア「レディ・ディー」ウィリアムズ Devonia "Lady Dee" Williams だった。曲のアイディアを探すために、オーティスは、自分たちの曲を録音してほしいと彼にせがんでいた二人の若者を呼んだ。

ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーは、各々バルティモアとニューヨーク出身の東海岸からの移住者で、1950年ごろロサンジェルスで知り合った。ジェリー・リーバーは次のように語る。「私は8小節か12小節のブルーズの歌詞を書いていて、作曲できるパートナーを探していた。誰かがロサンジェルス市立大学の学生だったマイクを紹介してくれた。」二人が最初に売った曲は、"That's What the Good Book Says" と "Real Ugly Woman" で、地元でブルーズを発売していたモダン・レコーズが購入して、各々ロビンズとジミー・ウィザースプーンに歌わせた。

マイク・ストーラーは次のように回想する。「僕たちはロサンジェルスでジョニー・オーティスといくつか仕事をした。各々18歳と19歳のときだ。リトル・エスターとメル・ウォーカー(オーティスのバンドの歌手)のために何曲か書いた。オーティスの自宅に呼ばれた。ガレージをリハーサル室に改造していた。オーティスは、ウィリー・メイ・ソーントンを紹介し、彼女の歌を何曲かプロデュースしなきゃならないと言った。」

リハーサル室でソーントンが歌うのを聞いたあと、二人はリーバーの家に戻った。ストーラーの回想を続けると、「私がピアノを弾き始めると、ジェリーが大声で歌い始めた。10分ほどで「ハウンド・ドッグ」ができたので、車でオーティスの家に行き、ソーントンに歌って聞かせると、「いいわね、それなら歌えるわ」と言った。」

ジョニー・オーティスが最近語ったところでは、彼は自分流に「ハウンド・ドッグ」を仕上げた。それは、古い12小節のブルーズで、性的に役立たずになった怠惰な男を避けようとする女性の歌だ。「二人の歌詞には黒人が気分を害する部分があった。ナイフやケンカや傷に関する歌詞は、パッとしない、お決まりの表現だ。俺はその部分を消して、「あんたが求めているのは女じゃない。あんたが求めているのは家庭だけ」という歌詞を加えた。」オーティスの修正にもかかわらず、「ハウンド・ドッグ」には性的な比喩が多く残されている。「あんたは尻尾を振ることができるけど、もうあんたにエサをあげるつもりはないわ。」

ストーラーは回想する。「2日後、ロサンジェルスの南西部にあるワシントン通りのスタジオに行った。オーティスの家でのリハーサルでは、オーティスがドラムを叩いたが、独特のチューニングで、素晴らしいトムトム・サウンドを出した。スタジオでは違った。オーティスはドラマーのリアード・ベルを連れて来ていた。僕たちがオーティスにドラムを叩いてほしいと頼むと、オーティスは「じゃあ、誰がプロデュースするんだい?」と言うので、リーバーが「僕たちだ」と言った。リーバーがブースに座り、僕がフロアに残ると、オーティスはドラムのところに行って、自分のドラムをチューニングし始めた。リーバーがソーントンに「さあ、ひとうなりしてください」と言うと、彼女は「歌い方の指図なんていらないわ!」と言った。でも、彼女はそうしたし、うまくいった。2つのテイクで済んだ。」

「ハウンド・ドッグ」は、8曲録音したセッションの最初の曲だった。オーティスのバンドが全員控えていたが、「ハウンド・ドッグ」は、ルイジアナ出身の奇抜なブルーズマンで、Tボーン・ウォーカー風のギターを弾くピート・ルイスによる電気ギターにほとんどを頼っている。「ハウンド・ドッグ」は、基本的にルイスとソーントンの掛け合いで、オーティスのドラムとプエルトリコ出身のベース奏者マリオ・デルガード Mario Delgarde がファンキーでジャズ風のリズムを加えている。

ピーコック・レコーズが6ヵ月後にレコードを発売したとき、ドラマーのリアード「カンザスシティ」ベルは参加していなかったのに、レコードには彼の名前がクレジットされた("Kansas City Bill" と間違って表記されている)。オーティスは、別のレコード会社との契約上、自分の名前を使用することができなかったし、ベルも正体を知られたくないがために間違った表記にしたのかもしれない。しかし、オーティスは、ソングライターとして、リーバーとストーラーとともに名前を連ねた。このことで訴訟が長引き、多くの対立を生み出した。

ストーラーは次のように言う。「オーティスが作曲者としてクレジットされたので、僕たちは訴訟を起こし、勝訴した。彼は曲の分け前の3分の1を要求していた。僕たちは条件付きで同意したが、その条件は守られなかった。三人で曲を共同出版するはずだった。出版のために共同で会社を設立したが、彼は勝手にドン・ロビーの会社と契約し、僕たち二人の代理として契約する権利があるとドンに言った。これは、まったくナンセンスだ。オーティスに対しては良い思い出もあるが、よく複数の取引を一度にやろうとしていた。」

オーティスは次のように回想する。「リーバーとストーラーは、未成年だから、契約を取り消すことができた。もし自分が正当な分け前をもらっていたら、彼らが子供たちを大学に進学させたように、自分も子供たちを大学に進ませることができただろう。あれは合法的な詐欺行為で、俺はだまされた。」

事態をより複雑にさせたのは、オーティスが、アーティストとソングライターの両方で、シンシナティのキング/フェデラル・レコーズのシド・ネイサンと独占契約を結んでいたことだった(「ハウンド・ドッグ」のレコードに彼のバンドがクレジットされていないのはそのためだ)。ただちに、ネイサンは、出版料の50%を求めて、ロビーの出版会社を訴えた。ネイサンは、この曲からすぐ利益を得るために、オーティスのバンドの元リードシンガー、リトル・エスター・フィリップスに「ハウンド・ドッグ」をカバーさせた。しかし、彼女のバージョンはヒットしなかったし、ネイサン自身も、オーティスの名前が曲から削除されたときに、「ハウンド・ドッグ」の出版料を得ることができなくなった。

「ハウンド・ドッグ」はR&Bチャートの1位となり、50万枚以上を売上げ、1953年に最も売れた黒人レコードの一枚となった。この曲をかけたディスクジョッキーの一人が、メンフィスのWDIAラジオのルーファス・トーマスだった。彼は、"Bear Cat" というユーモラスなアンサーソングを作った。"bear" は、黒人用語で、けんか腰の女性か醜い女性を意味し、1938年からブルーズに登場する言葉だった。トーマスは、2年前にジャッキー・ブレンストンが「ロケット88」を録音したユニオン・アベニューのサム・フィリップスのスタジオで "Bear Cat" を録音した。フィリップスが新設したサン・レコーズから発売された "Bear Cat" は、同社にとっての最初のヒットとなった(R&Bチャート3位)。

ストーラーは次のように回想する。「当時「ハウンド・ドッグ」を出版していたドン・ロビーが、訴訟を起こしたか、起こしそうだった。当時の慣行でアンサーソングというのがあって、"Bear Cat" がそうだった。それまで著作権所有者の適法性が争われることはなかった。(「ハウンド・ドッグ」の)著作権の所有に関する最初の訴訟となった。サム・フィリップスは、"Bear Cat" 売上げ1枚につき2セントをロビーに与えることで争いの種をなくした。ルーファス・トーマスは、10年後に "Walkin' the Dog" で大ヒットを飛ばした。

「ハウンド・ドッグ」のカバーレコードのほとんどは、Betsy Gay、Tommy Duncan (ボブ・ウィルスのテキサス・プレイボーイズの元リードシンガー)、Jack Turner、Billy Starr などのカントリー歌手によるものだった。

1955年初め、フレディー・ベルとベルボーイズ Freddy Bell and the Bell Boys というシカゴ出身のバンドがティーン・レコーズのために「ハウンド・ドッグ」を録音した。ビル・ヘイリーと彼のコメッツに似せて演奏した。1956年4月、エルビス・プレスリーがラスベガスのホテルの2週間のショーで不成功に終わったとき、彼とバンドは小さなクラブを数回訪れ、ベルボーイズが演奏するのを見た。エルビスは、彼らの演奏する「ハウンド・ドッグ」がお気に入りだったが、彼らがビッグ・ママのブルーズをふざけて演奏していたということは知らなかったようだ。いずれにせよ、2ヵ月後、エルビスはラスベガスからニューヨークの録音スタジオに行き、「ハウンド・ドッグ」を録音した。そのとき、エルビスはバンドのメンバーに「奴らが演奏したようにやろう」と言っている。エルビスの「ハウンド・ドッグ」がヒットすると、マーキュリー・レコーズは急いでフレディ・ベルとベルボーイズと契約を交わし、彼らにとっては二度目の「ハウンド・ドッグ」を録音させたが、まったくヒットしなかった。ピーコック・レコーズが再発したビッグ・ママのオリジナルも同じ運命となった。1956年、あらゆる意味で、「ハウンド・ドッグ」はプレスリーによるものが存在しているだけだった。

ビッグ・ママには他のヒット曲がない。ロサンジェルスに定住し、芸能界から離れていた。1960年代後期、ジャニス・ジョプリンが彼女を再発見した。ビッグ・ママは数枚のアルバムを録音し、「ハウンド・ドッグ」を再録音し、「ボール・アンド・チェイン Ball and Chain」という新しい曲を発表した。ジョプリンは、「ボール・アンド・チェイン」をミリオンセラーのアルバムの中でカバーした。ビッグ・ママ・ソーントンが1984年7月25日にガンで亡くなったとき、ロサンジェルス南部の荒れ果てた家に、痩せこけて、疲れきって住んでいた。

(シネシャモ日記2011年2月3日)



33
Big Joe Turner
Honey Hush
(1953)

  • R&Bチャート1位(8週)、ポップチャート23位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: ブラウン
  • レベールと番号: Atlantic 1001、ニューヨーク
  • B面: "Crawdad Hole"
  • 録音日・場所: 1953年5月12日、ニューオリンズ
  • 発売日: 1953年8月
  • なぜ重要か: ロックンロール誕生にとって重要な場所であるカンザスシティのジャズとニューオリンズのR&Bを結合させた初期の曲
  • 影響を受けたのは:Big Joe Turner, "Adam Bit the Apple" (1950)
  • 影響を与えたのは:Big Joe Turner, "Shake, Rattle, and Roll" (ポップチャート22位、1954)
  • 重要なリメイク: 
    The Johnny Burnette Rock 'n Roll Trio (1956)
    Big Joe Turner (ポップチャート53位、1959)
    Elvis Costello (1981)

ターナーが最初にレコードを作ったのは1939年で、ピアノ奏者ピート・ジョンソン Pete Johnson に寄せるオードで、"Roll 'Em Pete" という題名だった。1940年代から50年代初期にかけて、大小さまざまなレーベルから、さまざまな名前でレコードを出し、盛衰を繰り返した。「俺にはいろんな呼び名があった。ブルーズ・シャウター、ジャンピン・ジョー、ハウリン・ジョー・ターナー、バーキン・ジョー・ターナーなど。声が大きかったからね。昔はマイクがなかったから、声が強くなきゃいけなかった。TBジョーと呼ばれることもあった。若い頃は小さくて、骨と皮しかなかった。みんな、俺が結核だと思っていた(TBは結核 tuberculosis の略)。そんなことは時とともに吹っ飛んだ。大きくなっていったからね。」

ターナーは、シャウトするブルーズの歌い方を一般に広めたとされている。「俺は自分でその歌い方を編み出したんだ。俺が若い頃は、みんなブルーズをゆっくり歌っていた。俺はビートを乗せようと思って、アップテンポで歌ったんだ。ピード・ジョンソンと俺は、それがとてもうまくなった。」

ターナーのブレイクは1951年にやってきた。まだ駆け出しのアトランティックが、ニューヨークのアポロ劇場でカウント・ベイシー楽団に在籍して失敗に終わった40歳のベテラン歌手ターナーと契約することに決めた。アトランティックのアーメット・アーテガンは次のように言う。「ショーのあとでバーに連れて行った。とても落ち込んでいた。「うちに来ればヒット曲を出してあげるよ」と誘った。最初のシングルは、ハリー・バン・ウォールズ Harry Van Walls がピアノ伴奏のバラード "Chains of Love" で、R&Bチャートで大ヒットし、ポップチャートでも30位まで上昇した。

ターナーは、50年代から60年代にかけて、彼のよく知られた歌詞やキャッチフレーズに頼った。「いつもアドリブや違うフレーズを入れていた。街で耳にしたことや、冗談などだ。「黙れ、ベイビー、そのペチャクチャ yakkety yak をやめろ」とか。「ハニー・ハッシュ」もそうだ。この曲にあっているから入れた。レコードにはアドリブがたくさん入っている。頭に何か浮かぶと、入れるんだ。もっと調子が良くなるんだ。」「ハニー・ハッシュ」はアドリブとして歌に入れられただけではない。それ自体が歌となった。アトランティックのためにニューオリンズで行った4回目のセッションでは、女性蔑視の「ハニー・ハッシュ」のほかに好色なブルーズ "Crawdad Hole" も録音した。ターナーは、たいてい全米ツアーに出ていたので、ターナーがアトランティックのために録音した曲の在庫がなくなっていった。アーテガンは、叫べば聞こえるぐらい近くに来たらスタジオに出向けという電報を打った。五月、たまたまターナーがニューオリンズの近くまで来ていたが、コジモ・マタッサのJ&Mスタジオに予約が入っていたので、ラジオ局WSDUのスタジオで録音することにした。幸いなことに、トロンボーン奏者のプルーマ・デイビス Pluma Davis が彼のバンドとともにニューオリンズにいた。彼は、2年前、ターナーがフリーダム・レコーズのためにヒューストンで行った録音に参加したことがあった。

「ジョージア州の綿畑の大きな車のように動かせ」とターナーが叫ぶと、ジェームズ・トリバー James Tolliver のワイルドなブギ・ピアノと、プルーマ・デイビスのバンド、ザ・ロケッツが曲を進行させていく。ターナーが言うことを聞かない女の話を歌い始めると、デイビスは予測のつかないトロンボーンの音で答える。「うちへ来い。おしゃべりをやめろ。うちへ来て夕食を作れ。おしゃべりはするな。ペチャクチャしゃべってばかりいる。ニュースがあるよ、ベイビー。お前はただの野良猫だ。」曲の最後では脅しにかかる。「俺をイライラさせるな。俺は野球のバッドを持っているんだからな。」それから、「ハイヨー、ハイヨー、シルバー」と叫びながらフェードアウトする。この録音セッションは、アトランティックの厳格な基準からすれば、少々ルーズで即興的だが、二曲ともすばらしいグルーブ感があるし、珍しくバリトンサックスがソロをとっている。通常は、テナーサックスがソロをとり、バリトンサックスはホーンセクションの一部でしかない。

ターナーが自分自身のアドリブに基づいて曲を作ったのなら、ブラウンという作者は誰か?それはルー・ウィリー・ブラウン Lou Willie Brown で、当時のターナーの奥さんだった。ルイ・ジョーダン、ボー・ディドリー、ジョニー・オーティス、ジェシ・ベルビン Jesse Belvin らと同じく、ターナーは曲の出版を管理するために権利を妻に譲渡した。ルー・ウィリーは、アトランティックの出版会社プログレッシブ・ミュージックと契約していなかったので、ターナーの寛大でない契約に従う必要がなかった。ただ、離婚後に問題になるのだが。

ニューオリンズでヒットするのに二ヵ月かかったのち、1953年10月に「ハニー・ハッシュ」は全米でヒットし始めた。

「ハニー・ハッシュ」は、"Adam Bit the Apple" (アダムがリンゴをかじった)というビッグ・ジョーが1949年にフリーダム・レーベルのために録音した歌を拡大したものだった。基本的に同じメロディとコード進行で、どちらも怒った男の調子だった。最初「ヤケティ・ヤック Yakkety Yak」という題名だったが、なぜだかすぐに「ハニー・ハッシュ」に変えられた(「ヤケティ・ヤック」という題名はコースターズのナンバーワンヒットとして復活する)。1954年、ターナーは「ハニー・ハッシュ」のほとんどを「シェイク・ラトル・アンド・ロール」で再利用した(36曲目)。

1956年、エルヴィス・プレスリーが「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を取り上げてすぐ、ジョニー・バーネットのロックンロールトリオがロカビリー調で「ハニー・ハッシュ」を録音した。1959年、ビッグ・ジョー・ターナーは、より活気のない10代向けのロックンロール版「ハニー・ハッシュ」をアトランティックのために再録音し、ポップチャートに数週間登場させた。この大きくて重いブルースマンの最後のヒットだった。

(2012年4月13日)



34
Clyde McPhatter and the Drifters
Money Honey
(1953)

  • R&Bチャート1位(11週)
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: ジェシ・ストーン Jesse Stone
  • レベールと番号: Atlantic 1006、ニューヨーク
  • B面: "The Way I Feel"
  • 録音日・場所: 1953年8月9日、ニューヨーク
  • 発売日: 1953年9月
  • なぜ重要か: ドリフターズの最初のヒットであり、マクファターがR&Bでゴスペルのフレーズと強烈さを使用し続けるもとになった。
  • 影響を与えたのは:
    "Work with Me, Annie" by Midnighters (R&Bチャート1位、1954)
    "Ooby Dooby" by Roy Orbison (1956)
    "Be Bop A Lula" by Gene Vincent (ポップチャート7位、1956)
    "Hanky Panky" by Tommy James and the Shondells (ポップチャート1位、1966)
  • 重要なリメイク:
    Elvis Presley (アルバム Elvis Presley、ポップチャート1位、1956)
    The Coasters (1965)
    The Bay City Rollers (ポップチャート9位、1976)

ドリフターズという名前だけ聞くとヒルビリー・バンドと間違われそうだ。クライド・マクファターと契約したアトランティック・レコードのアーメット・アーティガンは、ドリフターズの名前だけではなく、クライド・マクファターの名前も好きではなかった。西部劇のコメディ俳優を思わせたからだ。でも、クライドは自分の名前が好きだった。彼はドミノズで二年半匿名で歌っていたが、自分の名前が認識されることを渇望していた。

1932年にノースカロライナ州で生まれたマクファターは、バプテスト牧師の息子であり、教会の聖歌隊の一員だった。少年時代は歌の天才だった。40年代半ばに家族が北方に引っ越すと、ハーレムのマウント・レバノン・シンガーズの一員となった。1950年、ビリー・ワードはマクファターと契約して、ドミノズに参加させた。ドミノズがフェデラル・レコードと契約すると、マクファターは最初の六つのセッションに参加し、記憶に残る曲ほとんどすべてでリードボーカルを担当した(たとえば、"Have Mercy Baby" (29番参照))。だが、ワードによってグループがより白人のなめらかなサウンドになっていくにつれ、情熱的なテナー青年マクファターはゴスペルやR&B色の強いものを好むようになった。しかも、ドミノズの人気は自分に負うところが大きいので、週給をもっともらってもいいと思っていた。決定的な屈辱が来た。商業紙が彼のことをクライド・ワードと書いたのだ。これでは、グループの所有者ビリー・ワードと間違えられてしまう。マクファターは1953年5月に脱退し、マウント・レバノン・シンガーズの仲間だったウィリアム・アンダーソン(テナー)、デビッド・ボールドウィン(バリトン)、ジェームズ・ジョンソン(バス)、そして知り合いだった14歳のリトル・デビッド・ボーガンとともに五人組を結成した。グループ名はクライド・マクファターとドリフターズで、彼が唯一のリードシンガーであり、彼が思い描くゴスペル・サウンドを創造することができた。

マクファターの高い声と歌い方が好きなアーメット・アーティガンが、ある夜ドミノズを聴きに行くと、マクファターがいない。楽屋でビリー・ワードにたずねると、買い越したというので、アーティガンはマクファターを探し出し、契約を交わした。

1953年6月に最初の録音が行われた。このとき「ルシール Lucille」という素晴らしい演奏が生まれたが、発売されたのは1年後にB面としてだった(リトル・リチャードの「ルシール」とは異なる曲)。だが、何年かして、マクファターの素晴らしい録音のひとつだと評価されるようになった。その録音のあと、アーティガンは新しいグループを結成するよう提案した。ドリフターズは一新された。ガーハート・スラッシャー(テナー)、アンドリュー・スラッシャー(バリトン)、ビル・ピンクニー(テナー)、ウィリー・ファービー(バス)が新たなメンバーとなった。スラッシャー兄弟は、40年代から活躍しているスラッシャー・ワンダーズというゴスペルグループのベテランだった。

ドリフターズは、8月の録音のために、クライドの姉妹グラディスのアパートで2か月間練習した。アーティガンと彼の新しいパートナー、ジェリー・ウェクスラーは、前回より曲も演奏も素晴らしいだろうと確信していた。曲は、アーティガンとウェクスラーによる "Let the Boogie Woogie Roll" と、25年近くレコード業界にいる黒人ピアノ奏者でプロデューサーのジェシ・ストーン Jesse Stone の曲だった。その曲が "Money Honey" である。このあと、彼はビッグ・ジョー・ターナー Big Joe Turner の "Shake, Rattle, and Roll" を書くことになる(この「最初のロックンロールは何か」の36曲目に出てくるので、乞うご期待)。

「マニー・ハニー」のテーマは、お金に困っている者ならだれでもが興味を持つだろう。クライドは、彼からお金をもらおうとする者たちに囲まれていたが、彼には払うお金がなく、「家主が玄関のベルを鳴らしたが、俺は長い間鳴るままにしておいた」。「俺と仲良くしたいなら、お金がなくちゃね」と歌うと、ここでサム・テイラーが絶妙にテナーサックスを演奏をし、ハリー・バン・ウォールズか作者のジェシ・ストーンが三連音符を二度強打し、ウェクスラーが「バグパイプ・ハーモニー」と呼ぶナンセンスな「あ〜、う〜ん」のリフをグループが歌う。この「あ〜、う〜ん」は一年後にハンク・バラードとミッドナイターズが大ヒット曲 "Work with Me, Annie" で使用する(37曲目に登場するので、乞うご期待)。

「マニー・ハニー」はドリフターズの最初のレコードとして発売された。45回転盤と78回転盤とでは違うテイクが使われているという話もある。R&Bチャートで1位になり、チャートに21週間とどまった。

ファービーが抜けて、ピンクニーがバスを担当するようになった四人組ドリフターズは、"Such a Night"(プレスリーが1964年にヒットさせた)、"Honey Love"、"Whatcha Gonna Do" (メロディーがハンク・バラードの "The Twist" に使われた)、ソウルフルな「ホワイト・クリスマス」といった彼ら最良の作品を録音し、ヒットさせた。

マクファターは、1954年後期にグループを脱退して、アトランティックでソロになるまで、6枚のシングルに参加した。だが、ソロになる前に徴兵され、1956年に除隊すると、"Seven Days" "Treasure of Love" "A Lover's Question" などのR&Bやポップスを次々とヒットさせた。残念なことに、ドリフターズ脱退後の曲は、間抜けでポップな女性コーラスのために、ほぼ台無しになっている。聴くに値するのは、ドリフターズ時代の古い録音を使用したB面のいくつかである。1959年、マクファターはアトランティックからMGMに移籍し、さらにマーキュリーに移籍し、1962年に "Love Please" という大ヒット曲を飛ばした。マーキュリーでは、「マネー・ハニー」の退屈なバージョンを再録音した。その後は、すっかり下り坂となった。新たなソウルシンガーたちが彼から多くを借用したが、彼自身は過去の人となった。

マクファターが脱退しても、ドリフターズの人気は続いた。ドミノズがビリー・ワードとローズ・マークスが所有するグループの商標だったように、ドリフターズもジョージ・トレッドウェルらが所有するグループであり、メンバーは従業員でしかなかった。ドリフターズのヒット曲のほとんどをプロデュースしたマイク・ストローラーは「まるで奴隷仕事のようだった」と述べている。

1958年、トレッドウェルは、メンバー全員を解雇して、ベン・E・キングがリードシンガーのファイブ・クラウンズを後釜にすえ、彼らをドリフターズと名乗らせた。彼らの "There Goes My Baby" 以降もヒットは続いた。

「マニー・ハニー」は、大ヒットしたプレスリーのデビューアルバム "Elvis Presley" に収録されたために、1956年にラジオでよくかかった。ドリフターズのオリジナルやプレスリーのリメイクに影響されたロカビリー歌手も何人かいる。ロイ・オービソンとジーン・ビンセントの初期のレコードは、あきらかに「マニー・ハニー」の影響を受けている。

ルース・ブラウン Ruth Brown は、60年代後期にアポロシアターで行ったコンサートでのクライド・マクファターをおぼえている。「自分と彼とフランキー・ライモンが出るコンサートだったけど、ライモンが薬の飲みすぎで死んでいるのが発見され、劇場に来られなかった。そのニュースが劇場に届くと、クライドは動揺した。クライドはとても深刻に受け止めた。舞台に上がると、ひどく狼狽して、"Treasure of Love" を延々と歌い続けた。バンドが演奏をやめたあとでも。アポロの所有者に頼まれたので、彼を連れ戻そうと舞台に出て行った。彼のそばに立ち、二人で一緒に歌い、一緒に舞台を降りた。とても動揺していたわ。」

ブルーズのライター、マルシア・バンス Marcia Vance が晩年のマクファターを訪ね、自分はあなたのファンだというと、落ち込んだアルコール中毒のマクファターは「自分にファンはいない」と返事した。それから一年もたたない1972年6月13日、マクファターはニューヨークのホテルの一室で心臓まひのために亡くなった。

(2012年11月13日)



35
The Crows
Gee
(1953)

  • R&Bチャート2位、ポップチャート14位
  • カテゴリー: ドゥーワップ
  • 作者: William Davis, Viola Watkins
  • レベールと番号: Rama 5、ニューヨーク
  • A面: "I Love You So"
  • 録音日・場所: たぶん1953年2月10日(ニューヨーク)
  • 発売日: 1953年3月(チャート入りしたのは1954年4月)
  • なぜ重要か: 独立レーベルによる最初の重要なクロスオーバーR&Bレコードのひとつ。 最初に100万枚売れた50年代のドゥーワップレコード。
  • 影響を受けたのは:
    "Gee, Ain't I Good to You" by the Nat Cole Trio (R&Bチャート1位、ポップチャート15位、1944)
    "Gee, Baby" by Johnny Otis with Mel Walker (R&Bチャート2位、1951)
  • 影響を与えたのは:
    数多くのドゥーワップレコードとR&Bのナンセンスソング、たとえば
    "Sh-Boom" by the Chords (ポップチャート5位、1954)
    "Oop Shoop" by Shirley Gunter and the Queens (R&Bチャート8位、1954)
    "Bim Bam" by the Drifters (R&Bチャート7位、1954)
    "ko Ko Mo" by Gene and Eunice (R&Bチャート6位、1955)
    "Tweedle Dee" by LaVern Baker (ポップチャート14位、1954)
  • 重要なカバー:Joe Loco and His Mambo Stylings, June Hutton, the Skylarks
  • 重要なリメイク:
    Jan and Dean (ポップチャート81位、1960)
    The Hollywood Flames (R&Bチャート26位、1961)
    Pixies Three (ポップチャート87位、1964)

1953年、リズム&ブルーズが北部のゲットーと南部のジムタウン(ジム・クロウ法によって黒人が住む区域)から飛び出して、白人の若者の耳をとらようとしていた。それまでR&Bがポップチャートで目立った動きをしたのは "Sixty Minute Man"(25曲目参照)だけで、性のほのめかしがあったからだった。この状況が変化したのは、ニューヨークのちっぽけなレーベルが荒削りな街角のレコード「ジー」を発売したからで、本当に街角で録音したようなサウンドだった。「ユア・ヒット・パレード」で認められるほどヒットするまでに一年かかったが、メジャーのレコード会社の堅固な配給網をくぐりぬけて、最初の本当の50年代R&Bヒットとなった。

クロウズのメンバーは、ダニエル・「サニー」・ノートン(リードボーカル)、ビル・デイビス(バリトンとテナー)、ハロルド・メイジャー(テナー)、ジェラルド・ハミルトン(バス)、マーク・ジャクソン(テナーとギター)だった。グループは1951年にハーレムの142番街で結成された。他の街角で練習する黒人グループのように、アポロ・シアターで水曜の夜行われるタレントショーのオーディションを受けていた。一等賞をもらったとき、クリフ・マルティネスというエージェントがコンサートに出演させてくれた。トランペット奏者のフランク・ハンフリーズのバックでコーラスをつけるというものだった。そのあと、マルティネスは彼らを歌手兼ピアニストのビオラ・ワトキンズ Viola Watkins に紹介した。彼女はコーラスグループとギタリストが必要だったし、クロウズはピアニストとアレンジャーが必要だったので、両者にとって都合がよかった。彼らがレコーディングする潮時になったとき、マルティネスはジョージ・ゴールドナーという地方レコード経営者と契約した。

ゴールドナーはマンハッタンにラテンアメリカ系のダンスホールを数軒持っていた。彼はラテン系の女性と結婚したのち、ラテン音楽の大ファンとなり、マンボやチャチャのレコードを作るために Tico レーベルを設立した。彼が最初に契約したミュージシャンの中にはティト・プエンテもいた。だが、流行に敏感なラテン系の少年たちがR&Bに合わせて踊り始めたので、Rama というR&Bレーベルも設立した。Rama レーベルのために彼が最初に行ったのは、ビオラ・ワトキンズの家に行って、彼女とクロウズをオーディションすることだった。

マンハッタンのベルトーン録音スタジオでの最初のセッションは、ビオラがリードボーカル、クロウズがバッキングボーカルの "No Help Wanted" で始まり、続いてクロウズのバリトン、ビル・デイビスが書いた "I Love You So" というバラード、そして3曲目が「ジー」だった。

デイビスは次のように述懐する。「ジー」は6分か7分で書いた。サニーにリードボーカルを担当させ、残りの者にバッキングボーカルを教えた。」グループがゴールドナーに歌を披露すると、ゴールドナーは「ウー、ウー、ウー、ジー」という、ちょっとした聞かせどころを入れることを提案した。ゴールドナーは、"I Love You So" と「ジー」を最初のシングルとして選んだ。

「ジー」は「ヘッド・アレンジメント」(その場で口頭で指示すること)による曲がヒットした初期の例である。センチメンタルな歌詞やメロディよりも、その「感じ」が特徴的だった。グループが「ダーデュダ、ダーデュダ、ダーデュダ、ダーダーダー」と最初の四小節を歌うと、ノートンが「オーホーホーホー、ジー、マイオーオー、ジーヒー、ウェル、オーオー、ジー、なぜ俺はあの娘が好きなんだ」と、うれしそうに歌う。コーラスはこれ以上なく深遠である。「俺を抱いてくれ、きつく抱いてくれ、離さないでくれ、危険を冒すつもりはない、彼女をとても愛しているから。」

斧曲の驚きのひとつは、チャーリー・クリスチャン風のギターソロで、スコットランド民謡 "The Campbells Are Coming" を引用している。記録によると、ギター奏者はロイド・「タイニー」・グライムズ Lloyd "Tiny" Grimes で、当時アトランティックとの契約下にあったが、こづかい稼ぎのためにあちこちで演奏していた。グライムズは、自分の即興演奏の中に有名な曲の一節を加えることで有名だった。特にスコットランドのメロディーが好きだった。この二年前、キルトを着た自分のバンド Rockin' Highlanders を率いて "Loch Lomond" を録音した。チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・クリスチャンのレコードに参加したことがあるジャズギタリストであるタイニー・グライムズの存在は、本当に彼だとしても、クロウズのセッションに不釣り合いのように思える。

ゴールドナーは、「ジー」を発売する際、バラードの "I Love You So" をA面にした。曲が全米でゆっくりと上昇し始めたとき、不思議な現象が起こり始めた。卸売業者が「"I Love You So" が売れており、B面の「ジー」に対するリクエストが次第に強まっている」という報告をビルボード誌で9月に掲載した。年末までに「ジー」はデトロイトとロサンジェルスで大ヒットし始めた。12月のビルボード誌には、「最も異常な反応のひとつがクロウズと「ジー」に起こり始めている」と書いてある。

翌1954年1月までにレコードは10万枚以上を売り上げた(その年の終わりまでに100万枚売り上げることになる)。4月にはチャート入りし、R&Bチャートの2位まで上昇する。

「ジー」がヒットし始めたとき、ギャンブル中毒のゴールドナーは金に困っており、曲の出版権をメリディアン・ミュージック Meridian Music に売却した。メリディアンの所有者はモリス・レビーで、彼は地元ギャングの一員で、ナイトクラブのオーナーで、出演契約、出版、マネージメント、録音など、R&Bのあらゆる面にかかわっていた。レビーは、1954年にアラン・フリードをニューヨークに連れてきた最大の責任者であり、二人で「ロックンロール」というフレーズを商標化しようとたくらんだ。のちに、ジョージ・ゴールドナーは、いくつかのレコード会社を設立し、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズやシャンテルズといったタレントを育てることになるが、再びギャンブルの借金を払うために、すべてレビーに売却する。レビーが「ジー」を所有した結果のひとつは、曲からビオラ・ワトキンズという名前が消え、モリス・レビーの名前にとって代わられたことである。

1954年4月のビルボード誌には、レコード業界で急伸している分野の一つがR&Bだという報告がある。1953年のR&Bレコードの売上げは1500万枚を超え、全米で700名のディスクジョッキーがR&B専門にレコードをかけ、75以上のレコード制作会社が定期的にR&Bレコードを発売していた。このブームに火をつけているのはティーンエイジャーだった。

あきらかに市場は変化しており、大会社がこの流れを止めることはできなかった。だが、この流行もクロウズ自体には助けにならなかった。「ジー」がヒットする前、ゴールドナーは彼らの次のレコード "Call the Doctor" を発売したが、まったく売れなかった。「ジー」がヒットし始めると、ゴールドナーは3枚目 "Baby" を急いで発売するが、これもさっぱりだった。最後のあがきで、ゴールドナーは全米のディスクジョッキーを訪問して、「ジー」のA面 "I Love You So" をヒットさせようとしたが、無駄に終わった。1954年夏までにクロウズは忘れ去られ、側面に「クロウズ」と書かれた彼らの1955年型クライスラーは回収された。しかし、彼らの当初の成功は、瓶から魔法使いの召使を出したも同然で、インディーズのレコード会社や配給業者は、自分たちがヒットレコードをもたらす力を持っていることを知ってしまった。

(2012年12月4日)



36
Big Joe Turner
Shake, Rattle, and Roll
(1954)

  • R&Bチャート1位、ポップチャート22位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: Charles Calhoun (別名 Jesse Stone)
  • レベールと番号:Atlantic Records 1026、ニューヨーク
  • B面: "You Know I Love You"
  • 録音日・場所: 1954年2月15日(ニューヨーク)
  • 発売日: 1954年4月
  • なぜ重要か: 数十年前から歌っていたビッグ・ジョー・ターナーが10代のお気に入りとなった。 また、50年代と60年代のロックンロールの形成にアトランティックが積極的な役割を果たすきっかけとなった。
  • 影響を受けたのは: ブギウギミュージックやターナー自身の "Honey Hush" (ポップチャート23位、1953)
  • 影響を与えたのは:
    Big Joe Turner "Flip, Flop, and Fly" (R&Bチャート2位、1955)
    Gene Vincent "Jumps, Giggles, and Shouts" (1956)
    The Collins Kids "Hop, Skip and Jump" (1957)
  • 重要なカバー: Bill Haley and His Comets (ポップチャート7位)
  • 重要なリメイク:
    Elvis Presley (アルバム Elvis Presley、ポップチャート1位、1956)
    Authur Conley (ポップチャート31位、1967)

成功したロックンロールのミュージシャンの中で誰よりもビッグ・ジョー・ターナーは黒人音楽の歴史を経験している。彼は、1938年12月にニューヨークのカーネギーホールで行われた「スピリチュアルからスウィングへ」コンサートで演奏している。多くの白人聴衆にブギウギとブルーズを紹介した画期的なコンサートだった。彼のカンザスシティブルーズのシャウト唱法は、Jimmy Witherspoon、Eddie "Cleanhead" Vinson、Roy Brown、Wynonie Harris などのお手本となったし、今度は彼らがプレスリー、ジェームズ・ブラウン、オーティス・レディングなどに影響を与えた。

1911年5月18日にカンザスシティで生まれたビッグ・ジョーは、思いもよらず50年代にR&Bのスターになったとき、太った中年だった。自己流で歌うバーテンダーは、厚い胸と大きな頭で自分の声を増幅していた。1938年、彼は、ブギピアノ奏者ピート・ジョンソンとともに、デッカのボーカリオン・レーベルと契約し、"Roll 'Em, Pete" などの人気を博した一連のレコードを発売した。当初から、レコード会社は彼に「ブルーズのボス」というレッテルを張った。1946年、"My Gal's a Jockey" で最初の大ヒットを飛ばした。だが、数年後、アトランティックと契約したとき、彼は盛りをすぎたと思われていた。

だが、新しい血の注入によって、彼は元気になった。ビーバップは衰えつつあり、人々は、再び踊ることのできる音楽を求めていた。アトランティックでの最初のレコード "Chains of Love" は1951年にR&Bチャートで1位になっただけでなく、黒人音楽としては珍しくポップチャートの30位まで上昇した。しかし、彼の本当の躍進は1953年の "Honey Hush" (33曲目) であり、ニューオリンズのミュージシャンとともに録音された。その一年後、「シェイク・ラトル・アンド・ロール」でまた1位となるヒットを飛ばした。

この曲の作者名はチャールズ・カルホーンとなっていたが、これはアトランティックの多産なソングライター兼アレンジャーのジェシ・ストーンの別名だった。彼が別名を使ったのは、ASCAPとBMIという二つの放送事業者協会に所属したかったからだ。だが、第二次大戦中にビッグ・ジョーが "Shake, Rattle, and Roll" を歌っていたという指摘がある。イギリスのライター、クリフ・ホワイトが調べたところでは、ビッグ・ジョーがニューヨークのカフェ・ソサエティで演奏していた1943年のある夜 "Shake, Rattle, and Roll" を演奏したと新聞の批評家が書いている。残念ながら、ビッグ・ジョーは当時この曲を録音しなかった。

この曲の誕生に関して二つの説があるが、これは互いに矛盾しない。というのも、ジェシ・ストーンとジョー・ターナーはカンザスシティ時代からの友人だからだ。一晩中ターナーが座って新しいブルーズソングをアドリブで歌っていたので、それらの曲がくり返しになったり、似たものになる。ジョー・ターナーのベスト盤を編集しようとしたら、リスナーを退屈させないような曲順を考えつかなければならない。ジェシ・ストーンがジョーの歌う初期の即興の「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を聞いて、なにか新しいものに変えて、ジョー・ターナーに投げ返したというのは大いにありうる。ストーン自身が語っているところでは、彼が「シェイク・ラトル・アンド・ロール」という表現を聞いたのはポーカーゲームの最中で、カードを配るのをサイコロを投げるのにたとえて誰かが言った冗談だった。それを、とりとめもない歌詞をつなげる工夫として使用したのだ。

ジョー・ターナーの1954年のレコードに対するジェシ・ストーンの貢献は大きい(特にピアノ)。ジェシ・ストーンは重要な人物なのに、忘れ去られがちである。彼は1901年にカンザスシティで生まれ、20年代にピアニスト兼アレンジャーとして活躍し、1927年にコロンビアのオーケー・レーベルから "Starvation Blues" を発売した。40年代初期、ジミー・ドーシーのヒット曲 "Sorgham Switch" を書き、1947年のアトランティック・レコーズの設立にかかわった。アトランティック唯一の黒人スタッフとして、彼はA&Rマンとなり、ドリフターズのために「マニー・ハニー」を書いた。のちに、アトランティックの社長アーメット・アーティガンは、「ジェシ・ストーンは誰よりも基本的なロックンロールのサウンドを発展させた」とチャーリー・ギレットに語った。

ストーンはこう考えた。白人のガキは自分たちが踊れるリズムがあるかぎりR&Bを聞くだろうと。「それで、俺はベースのパターンを考え、それがロックンロールと同じようなものになった。ドゥー、ダドゥー、ダン、ドー、ダドゥー、ダン、これだ!」ストーンはこのパターンをドリフターズ、ルース・ブラウン、クローバーズ、ジョー・ターナーの何十曲ものヒットに利用した。「1954年の1月か2月、プロデューサーのハーブ・アブラムソンが「ジョー・ターナーの次のレコードは雰囲気を変えて、アップテンポのブルーズが欲しい」と俺に言った。俺は、シェイク・ラトル・アンド・ロール、フリップ・フロップ・アンド・フライといった言葉をつなげて、30か40番まで考え出した。それから、よい部分だけを取り出した。「海産物店をのぞいてる片目の猫」という行は俺のバンドのドラマー、ベビー・ラベット Baby Lovett からもらった。奴はそんな行ばかり考え出していた。」

ジョー・ターナーは回想するごとに話を飾り立て、作り変える癖があるが、「シェイク・ラトル・アンド・ロール」については次のように語っている。「レコーディングの最中にジェシ・ストーンがやってきて、新曲が2つあるって言うんだ。俺たちはレコーディングを中止して、新曲を聞いた。「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を聞いたあと、ストーンに2回ほど歌ってくれないかと頼んだ。彼が歌うのを聞いて、演奏することに決めた。自分たちが録音するつもりだった曲の一つを取り除き、代わりにそれを入れた。バックボーカルがいなかったので、スタジオにいる連中に歌わせた。アーメット・アーティガン、ジェリー・ウェクスラーたちだ。俺はストーンが書いたとおりに歌った。」

録音記録によると、「シェイク・ラトル・アンド・ロール」は当日録音した5曲のうちの1曲目である。したがって、録音の最中にストーンがやってきたというターナーの回想は本当じゃなさそうである。ストーンが書いたとおりに歌ったというのも眉唾もので、ターナーは自分で歌詞をつけ加えている。

ジェシ・ストーンの特徴的なピアノの三連音符、三人による力強いホーン・セクション、オフビートのドラム、絶え間ない手拍子、ヘイウッド・ヘンリーによる間奏のバリトンサックスに駆り立てられて、「シェイク・ラトル・アンド・ロール」は1954年5月にR&Bチャート入りし、3週間トップに君臨し、1955年初めまでチャートから落ちなかった。ポップチャートでも22位まで上昇し、主流におけるジョー・ターナーの最高位となった。白人がカバーするのはいつもどおりで、デッカのビル・ヘイリーのカバーがポップチャートで7位まで上昇した。どちらも100万枚以上を売り上げ、「シャイク・ラトル・アンド・ロール」は最初のロックンロールの大ヒットとなった。同じセッションでのストーンの曲 "Well All Right" も1954年末にR&Bチャートでヒットした。

エルビス・プレスリーは1956年にRCAから発売したデビューアルバムで歌っている。ビル・ヘイリーはジョー・ターナーのオリジナルよりも歌詞を上品に作り変えているが、プレスリーは両方を混ぜている。デッカとRCAの重役たちは、「俺は海産物店をのぞいてる片目の猫みたいだ」という歌詞に隠れている好色な意味に気づかなかったようで、ビル・ヘイリーとプレスリーのバージョンでは削除されていない。しかも、1956年1月28日にドーシー兄弟の「ステージ・ショー」でプレスリーが初めて全米のテレビ出演をしたときの「シェイク・ラトル・アンド・ロール」でも、そのまま歌っている。同番組でプレスリーはジョー・ターナーに敬意を表して、ターナーの次のレコード "Flip, Flop, and Fly" を続けて歌っている。

ジョー・ターナー、ビル・ヘイリー、プレスリーの「シャイク・ラトル・アンド・ロール」は、演奏に対する重点の置き方が異なる。これは各々が別方向からロックンロールにアプローチしているからだ。ジェシ・ストーンのピアノとアル・シアーズのテナーサックスがターナーのオリジナルをあおりたてる。ヘイリーは、二本のサックスとダブルベースに頼っている。プレスリーのは、スコティ・ムーアのギターとDJフォンタナのドラムが支配している。三つともエキサイティングだが、共通するものはほとんどない。

1956年、ジョー・ターナーは、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(AIP)の映画 "Shake, Rattle, and Roll" に出演し、ファッツ・ドミノに次ぐ番付だった。ジョーは2曲歌ったが、どちらも「シェイク・ラトル・アンド・ロール」ではなかった。実際、映画の中で誰もこの曲を歌っていない。(訳注: 映画は "Shake, Rattle, and Rock" だと思います。ちゃんとした役者が主演しているコメディで、ミュージシャンの中ではファッツ・ドミノに次ぐ番付だったのでしょう。IMDbによるとジョー・ターナーは4曲歌っています。が、確かに誰も「シェイク・ラトル・アンド・ロール」は歌っていません。)

1967年、短期間だったが、ソウル歌手アーサー・コンレイがトップ40にこの曲を送り込んだ。ジョー・ターナーは、健康状態がすぐれなかったが、1985年11月24日にロサンジェルスで心臓まひによって亡くなるまで歌い続けた。

映画ファンならビデオでジョー・ターナーが「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を歌うのを見ることができる。黒人の劇場で長編の前に上映されていた短編 "Showtime at the Apollo" シリーズのために50年代中期に撮影されたものだ。

(2012年12月31日)



37
The Royals / The Midnighters
Work with Me, Annie
(1954)

  • R&Bチャート1位、ポップチャート22位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: ハンク・バラード Hank Ballard
  • レベールと番号: Federal Records 12169、シンシナティ
  • B面: "Until I Die"
  • 録音日・場所: 1954年1月14日、シンシナティ
  • 発売日: 1954年2月
  • なぜ重要か: アンサーソングという部門を確立し、アンサーソングがポップチャートで1位となり、音楽産業におけるR&Bの重要性を示した。
  • 影響を受けたのは: Roy Brown の一連の「Fanny」ソング、クライド・マクファターとドリフターズの「マニー・ハニー」(R&Bチャート1位、1953)
  • 影響を与えたのは: 同グループの "Annie Had a Baby" (ポップチャート23位、1954)という続編や Etta James の "The Wallflower"(R&Bチャート1位、1955)や Georgia Gibbs の "Dance with Me, Henry" (ポップチャート1位、1955) といったアンサーソングなど10数曲nd His Comets (ポップチャート7位)
  • 重要なリメイク:
    Elvis Presley (アルバム Elvis Presley、ポップチャート1位、1956)
    Authur Conley (ポップチャート31位、1967)

「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」は、ヒットするとは思われていなかった。当初、レコード会社は販売をやめようとした。ハンク・バラードによると、「尼僧の集団がジュークボックスからレコードを引っぱり出すんじゃないか」と会社は心配したのだ。だが、みだらな「アニー」は非常に成功したので、地下で数々のアンサー・レコードが出回り始め、50年代半ばのアメリカの民族と社会の何重もの層をはい上がって、最終的に地上に出てきた。

1950年代初め、リズム・アンド・ブルーズは、主流のポップスから分離され、スラム街に閉じ込められていた。黒人アーティストがバラードを歌い、それがポップチャートに入るほど美しくて胸を打つものであっても、必ず、大きなレコード会社が、より柔らかく、洗練されたアレンジで白人歌手にカバーさせた。黒人歌手が破滅的な白人の模倣を避ける唯一の方法は、黒人社会の外では理解できないか粗野な歌詞の曲を録音することだった。たとえば、1951年にドミノズが録音した "Sixty Minute Man" は、どぎつすぎて、どの白人レコード会社も手を出さなかった。その結果、"Sixty Minute Man" は1951年に一番売れたR&Bになったし、100万枚をはるかに超えた。何千人もの白人もこのレコードを買って、戸棚の一番上に隠し持った。

"Sixty Minute Man" の大ファンの一人がヘンリー・「ハンク」・バラードというデトロイトの若者だった。1936年生まれの彼は、ロイヤルズというシンシナティのフェデラル・レコーズ所属のあまり成功していないグループに参加したとき、ドミノズのレコードから得た教訓を身に着けていた。汚く歌うことである。彼は、グループのリードボーカルに昇格すると、下品な "Get It" をR&Bチャートのトップテンに送り込んだ。

創造力があふれ始めたバラードは、"Sock It to Me, Mary" という曲も作った。ツアーからシンシナティに帰るやいなや、バラード、ヘンリー・ブース、チャールズ・サットン、そしてベース歌手のサニー・ウッドは、有名なバンドリーダーのサニー・トンプソンとともにその曲を録音した。フェデラル・レコーズのプロデューサー、ラルフ・バスによると(彼は "Sixty Minute Man" のプロデューサー)、彼はバラードに曲の調子を少し下げるよう頼んだ。録音セッション中、エンジニアの妻アニー・スミスがコントロール室が入ってきたので、バスとバラードは題名を "Work with Me, Annie" に変えることにした。

ラルフ・バスの説明にハンク・バラードは反論しています。バラードは、子供時代の恋人アニー・バトラーにちなんで題名をつけたと言っています。「録音する数か月前にシカゴでアニーを見たんだ。彼女を観客に紹介すると、彼女は俺以上にサインをせがまれたんだ。」だが、バラードの頭の中にはロイ・ブラウンによる一連の「ファニー」ソングが頭にあったはずだ。ロイ・ブラウンは、1948年に「グッド・ロッキン・トゥナイト」でヒットを飛ばしたあと、「ファニー・ブラウン」を録音した。その後、「ミス・ファニー・ブラウン・リターンズ」と「アイ・ウォント・マイ・ファニー・バック」を録音し、この「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」が大ヒットしたときには「ファニー・ブラウン・ゴット・マリッド」を録音した。ハンク・バラードがやったことといえば、名前を少し変えるだけだった。

バラードは次のように言う。「デトロイトでは、「今夜一緒に仕事ができないか」って女の子にたずねるんだ。すると、「昨日ちょっと仕事をしたからダメよ」というように返事される。「仕事」が何を意味するかわかるだろ?」ミュージシャン仲間では別の意味を持ち、ソロを演奏する者に対して "Work with it!" と叫ぶが、歌詞の文脈から「仕事」が何を意味するか間違う者はいない。

フェデラル・レコーズが「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」を1954年2月に発売したとき、連邦通信委員会はただちに抗議した。バラードは笑いながら語った。「彼らは社長のシド・ネイサンの事務所にやってきて、壁から彼の許可証をひったくろうとしたんだ。ボストンの尼僧たちはレコード店を囲み、ジュークボックスからレコードを取りあげた。」ラルフ・バスは次のように言う。「問題は、白人の少年たちがこんなレコードを初めて聞いたことだ。黒人が聞いている限りでは大丈夫だったんだ。」ネイサンは、レコードを販売店から引きあげようかと考えた。性的な意味合い以外にも、グループの名前の問題があった。ニューヨークのアポロ・レコーズがロイヤルズはファイブ・ロイヤルズと混同しやすいと文句を言ったのだ。この問題は、フェデラルの親会社であるキング・レコーズがファイブ・ロイヤルズをアポロからひそかに奪って、4月に録音を開始したとき、より深刻化した。

フェデラルはグループ名をミッドナイターズに変えることで問題を回避した。この名前は、仕事終わり後の時間というグループのイメージにマッチした。ロイヤルズ名義のレコードは現在コレクターズ・アイテムになっている。この曲の好色さという問題は解決するのがもっと難しかったが、レコードはものすごく売れていた。特にニューヨークとフィラデルフィアで売れた。レコード会社は一日中フェデラルに電話して、もっとレコードを送れと頼んだ。大衆はラジオ局に電話して、この曲をリクエストした。ビルボード誌は「今週の買い」に指定した。それで、いくつかの黒人ラジオ局や中流黒人市民が曲をかけるのをやめようと試みたにもかかわらず、5月に全米R&Bチャートで1位になり、7週間トップに君臨した。結局、「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」は半年間チャートにとどまった。

曲が驚くほど流行したので、ウエストコーストのDJの何気ない冗談から続編への期待が高まりました。当時のビルボード誌の記事によると、そのDJが曲をかけたあと、「君がこれを素晴らしいと思うなら、同じグループの"Annie Had a Baby" も聞くべきだ」と冗談を言ったのだ。もちろん、そんなレコードはないが、多くのリスナーは本気にした。ウエストコーストのレコード店は "Annie Had a Baby" を注文するためにフェデラル・レコーズや親会社のキングに電話をかけた。キングのトップA&Rマンで黒人のソングライター、ヘンリー・グローバーは、題名に似合う曲をでっちあげ、ワシントンに飛び、ハワード・シアターに出演中のミッドナイターズをつかまえ、地元のスタジオで録音した。グローバーはマスターテープを持ってオハイオに急いで戻り、注文をさばけるだけの枚数のレコードをプレスすることができた。

この続編も2週間R&Bチャートで1位となり、元歌とともに3か月半チャートにとどまった。1954年の末には三度目の "Annie's Aunt Fannie" もなんとかトップテンに入った。この曲は、ロイ・ブラウンの悪名高きファニーにアニーを結びつけるものだった。キングは、ロイ・ブラウンがデラックス・レコーズのために40年代後期に録音したマスターテープを所有していたので、ブラウンの「ファニー」シリーズのレコードを再発した。曲名の含まれる「ファニー」は、もともと「Fanny」というスペルだったが、ミッドナイターズの曲にあわせて「Fannie」に変更した。

こうした狂乱的な録音活動によって別の黒人ミュージシャンたちもアンサーソングを出した。Hazel McCollum and El Dorados は "Annie's Answer" を発売した。北カリフォルニアのミッドナイツというグループは "Annie Pulled a Hum-Bug" を、Lena Gordon and Sax Kari は "Mama Took the Baby" を、Danny Taylor は "I'm the Father of Annie's Baby" を発売した。フェデラル・レコーズも Linda Hayes に "My Name Ain't Annie" を歌わせた。バックは Platters で、リードシンガーの Tony Williams は彼女の兄弟だった。Nu-Tones の "Annie Kicked the Bucket" で終わりを告げたかと思いきや、2年後の1956年には、バディ・ホリーというハンク・バラードのファンが "(Annie's Been A-Workin' on) The Midnight Shift" を録音した。

それでも、これら一連の「アニー」レコードはR&Bというサブカルチャー内にとどまっており、より大きな白人市場ではノベルティー(珍盤)
としてしかみられていなかった。この延々と続いている物語が本当にポップチャートへと入り込んだのは、不道徳なアニーがオリジナル歌手ヘンリー・バラードと交代したときである。

ロサンジェルスのバンドリーダー、ジョニー・オーティスは、この数年前にデトロイトでロイヤルズを最初に発見して、フェデラル・レコーズに紹介したのだが、エタジェームズ・ホーキンズ Ettajames Hawkins という新たな弟子を発見した。サンフランシスコ在住の黒人とイタリア人のハーフで、エタ・ジェームズと名前を変えた(1938年生まれ)。彼女は、60年代に、すぐれた女性ソウル歌手の一人となった。しかし、1954年後期には、ロサンジェルスの小さなインディーレーベルであるモダン・レコーズで歌手として出発したばかりだった。オーティスは、自分が曲を書いたと主張しているが、エタの説明は違う。エタが、アビーとジーンのミッチェル姉妹とともに、ベイエリアでピーチズという名前で活動していたとき、彼女たちはアンサーソングとして "Roll with Me, Henry" を書いた。彼女たちはハンク・バラードに曲を聞いてもらったが、彼は興味を示さなかった。彼女たちがサンフランシスコのジョニー・オーティス・ショーで歌っていたとき、オーティスはエタの母親の許しを得て、彼女とミッチェル姉妹をロサンジェルスに連れて行って、レコーディングした。

ロックンロールという言葉は白人に浸透し始めたばかりだが、ジョン・リー・フッカーが1950年に録音した「ロックンロール」よりもっと前からセックスを意味する黒人の表現だった。「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」同様、1954年最大の黒人ヒットの一つはビッグ・ジョー・ターナーの「シェイク・ラトル・アンド・ロール」だった。それで、「ロール・ウィズ・ミー、ヘンリー」をジョニー・オーティス・バンドとともにモダン・レコーズのスタジオで録音された感謝祭前夜には、R&Bは波に乗っていた。ジョニー・オーティスかモダン・レコーズのアレンジャーのマックスウェル・デイビスか誰かが、最後の瞬間に曲をデュエットで歌わせようという提案をした。彼らは便利屋ミュージシャンのリチャード・ベリーを呼んで、彼の深くニュアンスに富んだ声でヘンリー役をやってくれと頼んだ。(のちに、ベリーは、「ルイ・ルイ」を書いて、最初に録音した男として有名になる。)

「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」同様、「ロール・ウィズ・ミー、ヘンリー」は多くのラジオ局から拒否され、レコードを回収されそうになったが、モダン・レコーズの社長、ジュールズ・ビハリは、レコードのインパクトを和らげることにし、タイトルを "The Wallflower" に変えた。ピーチズは後方に押しやられ、エタの名前がレコードに掲載された。リチャード・ベリーの名前はどこにもなかった。

1955年正月に発売された「ウォールフラワー」は、1年前の「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」のように、R&Bチャートを勢いよく上昇し、トップの座を邪魔したのはペンギンズの「アース・エンジェル」のみだった。「ウォールフラワー」は四か月ヒットを続けたので、モダン・レコーズはエタ・ジェームズとリチャード・ベリーをスタジオに呼び戻し、"Hey, Henry!" を発売した。ハンク・バラードとミッドナイターズは、「ワーク・ウィズ・ミー、アニー」のヒットが収まったので、"Annie Had a Baby" の曲に合わせて "Henry's Got Flat Feet (Can't Dance No More)" を録音し、R&Bチャート14位というそこそこのヒットとなった。これで輪が閉じるように思えた。ハンクは、自分のオリジナルに対するアンサーソングに答えたからだ。だが、待て!

これらの曲がヒットしたにもかかわらず、これはほんの一部にすぎなかった。エタ・ジェームズがヘンリーとセックスのかわりにダンスをしているのだとほのめかすことによって、アニーのみだらな物語歌をおとなしくしたからには、シカゴのマーキュリー・レコーズは "Dance with Me, Henry (Wallflower)" という題名のレコードを出すことで、あいまいさを完全に除去するしかなかった。「カバーレコード工場」と呼ばれたマーキュリーは、ジョージア・ギブズ Georgia Gibbs というソフィー・タッカーみたいな女性歌手をスタジオに呼んだ。彼女によるラバーン・ベイカーの「トウィードル・ディー」の活気のないカバーは、当時大ヒットしており、別の黒人女性を黙らせるには完ぺきな選択だった。盗作が問題にならなかった時代に、この手直し版はポップチャートを急上昇し、4週間1位を保ち、1955年最大のヒット曲のひとつとなった。アボットとコステロ主演で同じ題名の映画が作られ、映画の中でジョージア・ギブズが曲を歌った(訳注:未確認)。

最終的に、エタ・ジェームズとリチャード・ベリーが1956年にニューオリンズに出向いて、テンポを早くしたロックンロール版 "Dance with Me, Henry" を作った。だが、そのときまでに誰もアニーやヘンリーのことなんて気にしなくなっていた。というのも、みんなの話題はエルビスのことばかりだったからだ。

アーサー・ポーターのドライブするエレキギター(チャック・ベリーの登場よりも一年前)、アロンザ・タッカーの鳴り響くエレキベース(エレキベースが登場した最も初期のレコードのひとつ)、サニー・トンプソンのブギ・ピアノ、グループの「アー・ウー」、ハンク・バラードの興奮した叫び声は、ロックンロールの到来を予告していたし、ビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」に影響を与えたのは確かだ。

このアニーとヘンリーの一連の歌に関する謎のひとつは、「ロール・ウィズ・ミー、ヘンリー」の印税を誰がもらったかだ。「ロール・ウィズ・ミー、アニー」の作曲者はハンク・バラードだとクレジットされているので、同じメロディの「ヘンリー」も彼がもらうべきだ。しかし、エタ・ジェームズのはジョニー・オーティスしか名前がクレジットされていない。バラードは、このときオーティスから得た教訓に従って、1958年、クライド・マクファターとドリフターズの "Whatcha Gonna Do" からメロディを無断で借用し、新たな歌詞をつけて、 "The Twist" を出した。

(2013年1月28日)



38
The Chords
Sh-Boom
(1954)

  • R&Bチャート2位、ポップチャート5位
  • カテゴリー: ドゥーワップ
  • 作者: Keyes, Feaster, McRae, Edwards
  • レベールと番号: Cat 104、ニューヨーク
  • B面: "Cross Over the Bridge" (A面) のちに "Little Maiden"
  • 録音日・場所: 1954年3月15日、ニューヨーク
  • 発売日: 1954年4月
  • なぜ重要か: 初期のドゥーワップのヒットのひとつで、ナンセンスな歌詞のヒットのひとつ。1950年代に初めてトップ10に入ったインディー・レーベルのシングル。成長しているR&B市場が本格的に注目を浴びた。
  • 影響を受けたのは:
    "Gently Down the Stream" (traditional)
    The Four Knights "Oh Baby Mine (I Get So Lonely)" (ポップチャート2位、1954)
    The Five Crowns "You Could Be My Love" (1953)
  • 影響を与えたのは:
    10何曲かのナンセンスなドゥーワップソング、The Harptones の "Life Is But a Dream" (1956)
  • 重要なカバー:
    The Crew-Cuts (ポップチャート1位)
    Stan Freberg (ポップチャート14位)
    The Billy Williams Quartet (ポップチャート21位)
    Leon McAuliffe

コーズの「シュブーン」の物語は、奇妙なひねりのある奇妙な大河小説である。最初は、マーキュリー社の人気白人女性歌手によるヒット曲を黒人R&Bグループにカバーさせようという独立レーベルの試みで始まるが、この試みはさほど成功しなかった。続いて、DJたちがB面を何度もかけて、ヒットさせた。今度はマーキュリーがカバーして、オリジナルを蹴飛ばしそうになったが、最終的には黒人グループのオリジナルが勝利した。

1954年当時、ニューヨークがドゥーワップの取引の中心になると誰が想像しただろうか。たしかに、クロウズの「ジー」、ファイブ・ウィロウズ、ハーレムのボビー・ロビンソンがプロデュースしたベルベッツの「アイ」やスカーレッツの「ディア・ワン」があった(最後の曲はファイブ・サテンズの「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」として有名)。街にはドリフターズ、クローバーズ、レイブンズのヒット曲を練習する連中がいたが、ディオンとベルモンツやリトル・アンソニーとインペリアルズといったグループが何十曲ものヒットを飛ばすにはブリル・ビルディングのドゥーワップ工場の発展を待たなければならなかった。プロデューサーのジョージ・ゴールドナーは独立レーベルのラマ・レコーズを立ち上げていたが、ボーカルグループの何百ものレーベル(ゴールドナーのジー、ゴーン、エンドを含む)のほとんどが設立されるのは、まだ先の話である。

キャット・レコーズは、こうしたレーベルで最初に設立されたものの一つである。「キャット」は黒人ジャズメンたちのスラングで、かっこいいミュージシャンのことを指した。キャット・レコーズは1954年4月にアトランティックによって設立された。ものすごい広がりを見せるR&Bから利益を得ようとしたためである。キャットは4枚の非常に異なるレコードを同時発売した。レコード番号101番は「ブルーズ・マンボ」オーケストラ、102番は「リトル・シルビア・バンダープール」(のちのミッキーとシルビア)、103番はR&Bクルーナーのジミー・ルイス、そして104番がコーズだった。

1954年7月3日、キャッシュボックス誌の論説で、アトランティックのジェリー・ウェクスラーとアーメット・アーティガンが新しい「キャット・ミュージック」について語っている。「R&Bに熱狂し始めた白人ティーンエイジャーが、興奮させるR&Bのレコードを「キャット」ミュージックと呼び始めた。すべてのR&Bがキャット・ミュージックと呼ぶに値するわけではない。興奮させるものじゃなきゃならないし、熱心で鋭い若者にメッセージを贈るものでなきゃならない。」

結局、究極的なキャット・ソングを歌う究極的なキャット・グループはコーズだったし、「シュブーン」が唯一のキャット・レーベルのヒットだった。だが、なんというヒットだろう!

コーズは、ブロンクスのモリス・ハイスクールの生徒が結成したチューントッパーズとして出発した。学校の音楽教室や、地元の鬼才ルパート・ブランカーの家のピアノを囲んで練習した。ブランカーは、非公式の音楽ディレクターとしてグループに残ることになる。リード・テナーがカール・フィースター、テナーがジミー・キーズとフロイド・マクレー、バリトンがクロード・フィースター、バスがウィリアム・エドワーズだった。

チューントッパーズはアトランティックの事務所でオーディションを受け、「シュブーン」を聞かせた。曲は気に入られたが、グループ名が少々硬かった。キャット・ミュージックには、ポップスではなくジャズの含みがあったので、コーズと正式に名づけられた。だが、彼らの録音セッションをプロデュースしたジェリー・ウェクスラーは、この名前を思いついたのがグループなのかアトランティックなのか、おぼえていない。

アトランティックのベテランの黒人A&Rマン、ジェシ・ストーンは、クローバーズやドリフターズのような他社のグループがスタジオに持ち込んだのと同様のタイトなサウンドに仕上げようと、容赦なくリハーサルをくりかえさせた。最終的に4月の後期にコーズが4曲録音したときでさえ、「シュブーン」を22回録音しなければならなかった。

「シュブーン」は二つの影響を受けている。この年の初め、フォーナイツ Four Knights というキャピタル・レコーズの黒人ポップグループが「Oh Baby Mine (I Get So Lonely)」というノベルティソングをヒットさせた。Pat Ballard というカントリー歌手が書いたこの曲はとても変なレコードだった。フォーナイツは白人のようなサウンドで、この曲のスタイルはバーバーショップ・カルテット・ミュージックにとても似ていた(19世紀の「Gently Down the Stream」に基づいていた)。「Oh baby mine」と歌うバスのオスカー・ブロードウェーを除いては。フォーナイツはドゥーワップの歴史に名を刻んでいないが、ブロードウェーが歌うフレーズは街角の若い黒人グループに印象づけたし、今でも、40年代風に録音された耳ざわりな50年代の音に聞こえる。チューントッパーズの「シュブーン」は、「Oh Baby Mine」のコード進行といくつかのメロディに基づいている。くりかえし部分の最後の行「Life could be a dream, sweetheart」も、「Life could be so fair」のいただきである。また、ファイブ・クラウンズ Five Crowns (のちに、1959年の「There Goes My Baby」で有名なドリフターズとなる)による「You Could Be My Love」からも影響を受けている。

「シュブーン」が売れたのは、楽しいボーカルとバカバカしい歌詞に加えて、サム・テイラーの16小節にもわたるテナーサックスのソロのおかげでもある。通常は8小節だが、ジェシ・ストーンかジェリー・ウェクスラーが、もうひとつパンチが欲しいと思ったのだろう。1916年にテネシー州で生まれたサム・テイラーは、ラッキー・ミリンダー Lucky Millinder やキャブ・キャロウェイ Cab Calloway のバンドを経たのち、ニューヨークで最高のセッションミュージシャンの一人となった。

ウェクスらーによると、「シュブーン」を録音したのは、コーズの最初の録音セッションで4曲必要だったというだけの理由だった。「「Three Little Fishes」と同じようなナンセンスな歌で、重要なレコードになるとは夢にも思わなかった。「Cross Over the Bridge」のほうが面白いと思っていた。」

「Cross Over the Bridge」はパティ・ペイジのヒット曲のカバーだった。当時、おこぼれにあずかるためにポップスのヒット曲をカバーするのはR&Bのレーベルにとって当たり前のことだった。それで、キャット・レーベルは、「Cross Over the Bridge」をA面にし、「シュブーン」をB面にした。だが、コーズのレコードを聞いたDJたちはB面こそがかける価値のある曲だと考えた。5月末までに「シュブーン」はニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、クリーブランドといった大都市でヒットし始めた。

故アーノルド・ショウ Arnold Shaw は、著書 The Rockin' 50 の中で、1954年晩春におけるカバーレコードや著作権について洞察をしている。当時のショウは、Hill and Range Songs という大手音楽出版社で曲を売り込む仕事をしていた。彼は、西海岸の情報源から、「シュブーン」がロサンジェルスのR&Bチャートで1位になったことを知った。大ヒットを予感したショウは、6千ドルの前払金で「シュブーン」の著作権の半分を買い取る交渉をアトランティックと行った。アトランティックは、6千ドルもらえるうえに、大手音楽出版社が宣伝してくれれば、残り半分の著作権で大もうけできるので、乗り気だった。しかし、音楽出版社の社長ジーン・アバーバックはショウの説得に応じなかった。知られていない黒人の歌に対して額が大きすぎたのだ。

偶然、アバーバックは、シカゴのマーキュリー・レコーズが白人グループ、クルーカッツ Crew-Cuts を使って、ひそかに「シュブーン」を録音したことを知った。彼は、すぐに「シュブーン」の権利の半分を取得するようショウに命じた。「アトランティックが1週間待っていれば、利益を半々にする必要もなかったろうに」とショウは書いている。

1954年7月、「シュブーン」はトップテン内に急上昇したが、クルーカッツがコーズを抜き、1位となった。クルーカッツのバージョンはカリフォルニア州南部以外のあらゆる地域で猛威をふるった。今、両者を比べてみると、どちらがニセモノか歴然としている。

アトランティックは、「シュブーン」のほうが売れると気づき、B面からA面に変えて、B面に自社が権利を持つコーズの曲「Little Maiden」を入れた。A面の権利者がだれであろうと、B面の権利者はA面と同じだけの印税を得ることができたからだ。

すぐに「シュブーン」は冗談音楽のスタン・フリーバーグの標的になった。彼のパロディは、プロデューサーができる限り曲をナンセンスなものにしようとしている様子を録音したもので、歌手に対して「まだ理解できるじゃないか!」と注意する。フリーバーグのパロディがおかしかったのは、フリーバーグがピーター・ポッター司会のCBSのテレビショー「Juke Box Jury」に出演するまでで、彼は「このレコードでR&Bが終わりになればいい」と国民に対して語った。そのすぐあと、ポッターは、1954年の趣味の悪い音楽を嘆き、印刷物で次のような不満を述べた。「20年後、レコード会社は「シュブーン」のような曲を再発するだろうか?」

コーズの次の曲「Zippity Zum」も「シュブーン」のナンセンス路線を引き継いでいるが、活気がなかった。全国放送のテレビショーに何度か出演したが、鳴かず飛ばずだった。

1954年の終わり、以前存在していた別の黒人グループ、コーズが、名前の使用権で異議を唱えた。キャット・レーベルは、コードキャッツという名前で次の2枚を発売し、1955年にはシュブーンズという名前に変えた。1958年、グループはシュブーンズ名義で「ブルー・ムーン」を録音した。この曲は、3年後、マーセルズ Marcels の風変わりなドゥーワップのヒット曲となった。他のR&Bグループ同様、コーズは、ロゴを側面に付けたクライスラーのリムジンを手放して、ゲットーの名もなき黒人へと戻っていった。ジェリー・ウェクスラーは次のように言う。「彼らは破滅する運命にあった。彼らには規律がなかった。あたりかまわず滅茶苦茶にし、ホテルの部屋を無茶苦茶にした。彼らをツアーに出したら、悲惨な話しか戻ってこなかった。」

アトランティックは20枚のシングルを出したのちキャット・レーベルをたたんで、かわりにアトコ Atco を立ち上げた。アトランティックの最新音楽、よりソフトなアレンジで味を薄めたクロスオーバーR&Bを出すためだ。

「シュブーン」の精神はハープトーンズ Harptones の1955年のヒット曲「Life Is But a Dream」に受け継がれ、1957年にはウィロウズ Willows の「Church Bells May Ring」のくりかえし部分に受け継がれた。ドゥーワップのブームが1961年に再び訪れたとき、アトコはコーズの「シュブーン」を再発した。もちろん、「シュブーン」は、その後のアトランティックのアンソロジーに必ず入っている。

(2013年2月28日)



39
Bill Haley and His Commets
Rock Around the Clock
(1954)

  • ポップチャート23位 (1954); R&Bチャート3位、ポップチャート8週間1位 (1955); ポップチャート39位(1974)
  • カテゴリー: カントリー・ブギ、フォックス・トロット
  • 作者: ジミー・デナイト Jimmy DeKnight、マックス・フリードマン Max Freedman
  • レベールと番号: デッカ29124、ニューヨーク
  • B面: "Thirteen Women" (A面)
  • 録音日・場所: 1954年4月12日、ニューヨーク
  • 発売日: 1954年5月、1955年5月
  • なぜ重要か: ロックンロールと呼ぶことのできる最初のポップチャート1位の曲
  • 影響を受けたのは:
    "Victory Walk" by Charlie Barnet (1942)
    "Around the Clock" by Wynonie Harris (1945)
    "Move It on Over" by Hank Williams (カントリーチャート4位、1947)
    "Cornbread" by Hal Singer (R&Bチャート1位、1948)
    "How High the Moon" by Les Paul and Mary Ford (ポップチャート1位、1951)
    "Rock the Joint" by Jimmy Preston (R&Bチャート6位、1949), Bill Haley and the Saddlemen (1952)
  • 影響を与えたのは: みんな
  • 重要なリメイク: The Sex Pistols (1979)

ビル・ヘイリーとサドルメンは、1951年から53年にかけて、フィラデルフィアをベースにしたデイブ・ミラーのホリデイ・レーベルとエセックス・レーベルからレコードを発売し、名声を得ていた。ヘイリーは、ハンク・ウィリアムズ風のカントリー・バラードとボブ・ウィルス風のテキサス・スウィングが好きだったが、ミラーは「ロケット88」や「ロック・ザ・ジョイント」のようなR&Bをやるように勧めた。「ロック・ザ・ジョイント」のヒットによって、ヘイリーは、アップテンポでブルーズ風の音楽が有望なことを悟った。

1953年、サドルメンがフィラデルフィアのクラブの専属バンドになると、カウボーイハットとブーツを脱いで、タキシードを着るようになった。このスタイルに合わせるために、バンドの名前も変えなきゃいけないとヘイリーは考えた。地元のディスクジョッキーがコメッツという名前を推薦したので、ビル・ヘイリーとサドルマンはヘイリーズ・コメッツになったが、ヘイリーは自分のフルネームを初めに持ってきたかったので、ビル・ヘイリーとヘイリーズ・コメッツという名前でエセックス・レーベルからシングルを発売した。その後、デッカからレコードを発売する際、ビル・ヘイリーと彼のコメッツへと名前を変えた。1953年の「クレージー・マン、クレージー」が突発的なヒットとなったので、地元のクラブは少年たちでスシ詰めとなり、アンドリューズ・シスターズの1947年のヒット曲「ハートブレイカー」を作ったマックス・フリードマンがヘイリーにアプローチしてきた。フリードマンがジミー・マイヤーズとともに作った「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は1953年夏にバンドのレパートリーに加わり、聴衆たちを喜ばす曲となった。

だが、ヘイリーのレコード会社の社長デイブ・ミラーとジミー・マイヤーズが不仲だったために、ヘイリーは「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を録音することができなかった。仕事ではジミー・デナイトという名前を使うジミー・マイヤーズは次のように語る。「マックス・フリードマンと一緒に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を作ったとき、ビル・ヘイリーが念頭にあった。それで、彼にこの曲を提供したとき、彼はとても喜んだ。彼はすぐに自分のための曲だとわかったんだ。」デイブ・ミラーが録音してくれないので、マイヤーズは別のレコード会社をあたった。マイヤーズは次のように語る。「Sonny Dae and His Knights が最初に録音したんだ。地元でけっこうヒットしたが、そのレコード会社には全国への配給網がなかった。」マイヤーズは自分でも録音した。「ビッグバンドだった。Jimmy DeKnight and His Knights of Rhythm というグループ名だった。」ビル・ヘイリーは1953年末にエセックス・レーベルとの契約が切れるのを待たなければならなかった。

(ちなみに、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」という題名の最初の曲は、1950年にサックス奏者ハル・シンガー Hal Singer が作って、録音した。ラッキー・ミリンダー Lucky Millinder の1942年の "Let It Roll" の雑な類似曲だが、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore の1948年の "We're Gonna Rock, We're Gonna Roll" に影響を受けており、ビル・ヘイリーのと全然違う。題名は歌詞に出てこない。歌っているのは、オリジナルの "Spo Dee O Dee" を歌ったサム・サード Sam Theard。)

ビル・ヘイリーと彼のコメッツのヒット曲の力で、マイヤーズは1954年4月に彼らをデッカ・レコーズと契約させ、ベテランのプロデューサー、ミルト・ギャブラー Milt Gabler に引き渡した。彼は、10年前、ビル・ヘイリーをジャズ歌手から失恋を歌う歌手へと転向させた人物である。

ビル・ヘイリーと彼のコメッツの最初の録音セッションはニューヨークのピシアン・テンプルで行われた。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」と「サーティーン・ウイミン」の二曲しか録音されなかった。録音スタジオのピシアン・テンプルは以前ダンスクラブだったので、ステージがまだ残っており、まるでコンサートを行っているかのような雰囲気を出すことができた。当時のメンバーは、ギターのダニー・セドロン Danny Cedrone、スティールギターのビリー・ウィリアムソン Billy Williamson、ピアノとアコーディオンのジョニー・グランデ Johnny Grande、ベースのマーシャル・ライトル Marshall Lytle、サックスのジョーイ・ダンブロージオ Joey D'Ambrosio だった。ギャブラーは、ピシアン・テンプルの音響から大きなビートサウンドを強調したかったので、彼のセッションドラマー、ビリー・ゲサック Billy Guesak を連れてきた。最初の三つの音から始まって、ゲサックはエコーのかかったスネアドラムを曲の間じゅう鳴り響かせ、以前のヘイリーのレコードにはなかったダイナミックさを「ロック・アラウンド・ザ・クロック」にもたらした。

当時の録音セッションは3時間で2曲か4曲録音しなければならなかったが、フェリーが遅れたためにビル・ヘイリーは1時間かそこら遅れてやってきた。それで、「サーティーン・ウイミン」を録音したあと、ほとんど時間がなかった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のテイク1は音のバランスのために行われ、レコードになったのはテイク2だった。

曲は単純そのものだった。ヘイリーと彼女は一晩中踊ろうとしていた。「晴れ着を着て、一緒に行こうよ。時計が一つ鳴ったら楽しもうよ。時計が2つ、3つ、4つと鳴って、バンドが疲れ始めたら、「もっとやれ!」って叫んでやろうぜ。夜が完全に明けるまで、踊って、踊って、踊りまくろうぜ。」時計が真夜中を告げると、三台のギター、ライトルのベース、ドラム、ダンブロージオのテナーサックスによるバンドがブギのビートを刻み始め、最終章へと突入する。最後は即興演奏を終わらせる「カントリー・ターン country turn」と呼ばれる技法が使われている。レス・ポールの「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」の最後と非常に似ている。

「ロック・アラウンド・ザ・クロック」には似た曲が二つある。まずは、ヘイリーがR&Bナンバーをカバーした2年前の「ロック・ザ・ジョイント」。特に、レス・ポールの「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」にインスパイアされたダニー・セドロンの間奏のギターはそっくりである。翌年、ゴッサム・ミュージックは、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が「ロック・ザ・ジョイント」の盗作だとして、ジミー・マイヤーズを告訴した。マイヤーズの弁護士は会見で「同じ歌手が同じスタイルで歌っているのだから二つのレコードが似ているのは当然だ」と述べだ。また、フリーランスの作曲家であるマックス・フリードマンが「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を書いて、それをマイヤーズに売ったことも告白した。ゴッサムとマイヤーズは法廷外で和解した。

メロディはハンク・ウィリアムズの最初のヒットである "Move It on Over" (1947) に似ている。これは、ビル・ヘイリーがハンク・ウィリアムズのファンだったことから考えると、ヘイリーが作曲か編曲に関ったことを示唆している。「ロック・ザ・ジョイント」のB面はヘイリーガ書いた "Icy Heart" で、あきらかにウィリアムズの "Cold Cold Heart" の盗用である。1957年に、ヘイリーと彼のコメッツは "Move It on Over" をロック風にカバーしている。一日中ロックするというアイディアでさえ目新しいものではなかった。1945年にワイノニー・ハリス Wynonie Harris とジミー・ラッシング Jimmy Rushing が "Around the Clock" という曲を録音している。

ジミー・マイヤーズによると、デッカはヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が好きではなく、売れないと思って、B面に入れた。デッカは、1954年当時、この種の音楽をどう呼んでいいのかわからなかったので、フォックス・トロットと呼んだ。

信じられないことに、A面は「サーティーン・ウイミン」という奇妙なミッドテンポの曲だった。原子力による惨事のあとに13名の女性とともに生き残った男を歌っている。これはカバーで、オリジナルは、ディッキー・トンプソン Dickie Thompson がヘラルド・レコーズから同じ年の初めに発売したR&Bナンバー "Thirteen Women and One Man" である。この曲はニューヨークのラジオ局WHOMが3月に放送禁止にした。というのも、女性たち各々が男の日常生活で果たす役割について歌詞に疑問があったからだ。この変な曲が「ロック・アラウンド・ザ・クロック」よりも優先された事情を理解するには、そもそもなぜデッカがビル・ヘイリーと契約したかを知らなければならない。

ミルト・ギャブラーはルイ・ジョーダンがデッカから発売したR&Bヒットを長年プロデュースしていた。その中には "Saturday Night Fish Fry" や "Caldonia" が含まれている。1940年代、ジョーダンは、そぎ落としたR&Bバンドを率いて、多くのヒットレコードを出した。さらに、映画への出演によって、ジョーダンは40年代のトップ黒人スターとなった。だが、1953年までに、彼のスウィングを基本としたジャンプ・ブルーズは流行遅れとなり、売り上げがかなり落ち込み、契約更新時に彼との契約を打ち切った。

ギャブラーは、ポップ市場がR&Bを受け入れつつあることを察して、ジョーダンの成功例を白人に当てはめることにして、すでに "Crazy Man, Crazy" という予期しないヒットでスターになっていたビル・ヘイリーと彼のコメッツに白羽の矢を立てた。

ルイ・ジョーダンなら「サーティーン・ウイミン」を控え目な面白い曲にしたかもしれない。唯一の問題は、ジョーダンのようないたずらっ子的なユーモアをビル・ヘイリーが持ち合わせていなかったことだ。実際、無表情のヘイリーにはほとんどユーモアのセンスがなかった。それで、彼の「サーティーン・ウイミン」は核による大惨事ほどのおかしさしかもたらさなかった。いずれにせよ、すぐにDJたちはB面をかけ始めた。

1954年5月29日、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は一週間だけトップ40に入った。23位だった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が歴史の中に埋没しそうだったので、ヘイリーは次の曲、ビッグ・ジョー・ターナーの「シャイク・ラトル・アンド・ロール」のカバーへと進んだ。マイヤーズは次のように言う。「完全に失望した。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」はヒットするだろうと心底思っていたんだ。デッカがあの曲をお払い箱にしようとしているのがわかったので、トランクに荷物を詰めて、6週間か8週間、車であちこちを回った。ラジオのアンテナを見つけるごとに、ラジオ局に飛び込んだ。DJたちは正しい面をターンテーブルにのせてくれた。フィラデルフィアに帰ってくるまでに、レコードが売れ始めた。それから、ハリウッドで知っている名前の人ごとに200枚ずつレコードを送ったんだ。幸いなことに、「暴力教室 Blackboard Jungle」で使ってくれることになった。」

デッカは「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を再発し、まるで新しいレコードでもあるかのように販売業者やDJたちに配給した。1955年7月9日に1位となり、9月まで君臨した。イギリスでも1位になった。この曲が蹴落としたのは非常に古臭い "Cherry Pink and Apple Blossoms White" だった。「ロック・アランド・ザ・クロック」は別の安っぽい映画をもたらした。ビル・ヘイリーと彼のコメッツが主演する同名の映画である。

「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のダニー・セドロンによる速弾きはロックンロール史上最も有名なギターのソロだろうが、セドロンはその栄光にあずかる前に亡くなった。1954年夏に心臓まひで亡くなったのだ。

ヘイリーは自分の成功をバンドと分かち合わなかったので、月給をもらう従業員でしかないことにイライラしていたオリジナルのコメッツは次第に離れて行った。サックスのジョーイ・ダンブロージオは次のように回想する。「俺が「ロック・アラウンド・ザ・クロック」でいくら稼いだか教えてやろうか。たった42ドル50セント。録音セッション一回分に対する組合の基準額さ。ゴールドレコードさえもらっていないんだぜ。100万枚売れる前にバンドを離れたからさ。」

ディック・リチャーズ Rick Richards はヘイリーのバンドの正式のドラマーだが、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の録音では別のドラマーと入れ替えられた。彼もヘイリーがすぐにメンバーを入れ替えるのを証言している。「1955年9月、俺たちはヘイリーに昇給を頼んだんだ。彼は拒絶したよ。その週、彼はキャデラックの新車を買ったのに。」すぐに、ディック・リチャーズ、マーシャル・ライトル、ジョーイ・ダンブロージオはコメットをやめて、自分たちのグループ、ジョディマーズを結成した(Jodimars は彼らの名前 Joey, Dick, Marshall をつなげたもの)。

1970年代初期、MCAはデッカの商品カタログを引き継ぎ、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を再発した。ちょうど、リチャード・ネイダー Richard Nader がマジソン・スクエア・ガーデンで開いたオールディーズ・ショーでビル・ヘイリーが見事にカムバックしたころだった。テレビの懐古的なドラマシリーズ "Happy Days" の最初のシーズンでテーマ曲として使用されると、1974年に3度目のチャートインを果たし、39位まで上昇した。ヘイリーは新たな人生を送ることになったが、アルコール中毒によって彼の人生は下り坂にあった。妄想にとらわれ、理由もなく激怒した。1981年2月9日、テキサス州ハーリンガーで、落ちぶれた孤独な死を迎えた。

(2013年3月17日)



40
The Robins
Riot in Cell Block #9
(1954)

  • チャート入りせず
  • カテゴリー: R&Bノベルティ
  • 作者: ジェリー・リーバー、マイク・ストーラー
  • レベールと番号: Spark 103、ロサンジェルス
  • B面: "Wrap It Up"
  • 録音日・場所: 1954年4月と5月、ロサンジェルス
  • 発売日: 1954年5月後期
  • なぜ重要か: リーバーとストーラーがコースターズのヒットパターンを確立した。
  • 影響を受けたのは:
    題名は1954年の映画「Riot in Cell Block #11」に由来する(ドン・シーゲル監督の「第11号監房の暴動」)。曲自体はロビンズの以前のレコード "Ten Days in Jail" に基づく。
  • 影響を与えたのは:
    "The Big Break" by Richard Berry (1954)
    "Jailhouse Rock" by Elvis Presley (ポップチャート1位、1957)
    "Trouble" by Elvis Presley (1957)
  • 重要なカバー: Vicki Young with Big Dave
  • 重要なリメイク: Wanda Jackson (1961), Commander Cody (1974)

ロックンロールの世界で最も成功した曲作りコンビ、ジェリー・リーバー Jerry Leiber とマイク・ストーラー Mike Stoller が監獄に魅了されていたのなぜか。法律と衝突する汚れた環境に黒人の聴衆が容易に同一化できると彼らは信じていたのだろうか。二人がロビンズに提供した最新の曲は "Ten Days in Jail" (監獄での10日間)で、クローバーズの "One Mint Julep" に基づいた感じの曲だったし、その前にもリンダ・ホプキンズ Linda Hopkins のために "Three Time Loser" を書いている。その後も、しばらく、この傾向を続けている。

もっと重要なのは、このコンビが求め続けていたすべての要素が初めて「第9監房の反乱」で結集したことである。3分のメロドラマは、彼らが提供したコースターズの曲や一連のR&Bノベルティソングをヒットさせる公式となり、そうした曲は、50年代後期から60年代初期にかけての曲の中で今日最も愛されている曲になっている。

ロビンズ/コースターズの起源は少々複雑である。ロビンズは、ロサンジェルスの初期のR&Bボーカルグループだった。双子のビリーとロイのリチャード兄弟は両方ともバリトンで、テノールのテレル・レナードとともにエーシャープトリオ A-Sharp Trio を組んだ。一年後、三人は、ジョニー・オーティスのバレルハウス・クラブで木曜の夜行われていたアマチュアコンテストに出た。オーティスは彼らをクラブのバンドとして雇ったが、クラブのまわりをうろついていた低い声のボビー・ナンを加えることを勧めた。しばらくの間、オーティスは、彼らをフォー・ブルーバーズ Four Bluebirds と呼んだが、四人は古臭いと思って、ロビンズに変えた。

1950年、彼らは、ジョニー・オーティスのもとで、センセーショナルな13歳のリトル・エスターのレコード "Double Crossin' Blues" のバックボーカルを務めた。これは同年最大のR&Bヒットのひとつとなった。ロビンズは "If It's So, Baby" を発売し、R&Bチャートの10位内に入った。だが、オーティスとの問題によって、彼らはツアーをすることも、成功を利用することもできなかった。メンバーのレナードは次のように回想する。「自分たちのレコードがヒットしていたことさえ知らなかった。ジョニーがツアーに出かけても、自分たちを置き去りにし、バンドのメンバーが自分たちの代わりを務めた。」

1951年、ロビンズは、ロサンゼルスのモダン・レコーズと短期間契約し、"That's What the Good Book Says" という曲を録音した。リーバーとストーラーという二人の白人のティーンエイジャーが書いた曲だった。リーバーは次のように言う。「ブルーズとゴスペルを混ぜこぜにしたような曲で、とてもひどい曲だったが、とにかく自分たちにとって最初のレコードになった。」

2年たたないうちに、モダン・レコーズの社長ジュールズ・ビハリは、ロビンズのメンバーたちがスタジオを自由に出入りできるようにし、制作助手を務めさせたり、西海岸で最高のA&Rマンの一人であるサックス奏者兼バンドリーダーのマックスウェル・デイビス Maxwell Davis からビジネスを教えてもらう機会を与えた。マックスウェル・デイビスは、初期の何十曲ものロックンロールヒットを影で支えた男だ。リーバーとストーラーが監修した初期の録音セッションの一つは、フレアーズ Flairs というジェファーソン高校のボーカル5人組のためのもので、フレアーズには、バリトンの Obidiah Jessie、テノールのコーネリアス・ガンター Cornelius Gunter、ベースのリチャード・ベリー Richard Berry がいた。このセッションは二つの理由で重要である。リーバーとストーラーにとって、フレアーズの "She Wants to Rock" は、磁気テープという新しいメディアを実験するチャンスだった。フレアーズにとって、"She Wants to Rock" は最初のレコードであり、かろうじてヒットと呼べる唯一の曲だった。長い目で見てより重要なのは、この曲がフレアーズをリーバーとストーラーに紹介したことだった。

"She Wants to Rock" の終わり、リチャード・ベリーが「誰か助けてくれ、彼女がドアを突き抜けるほど俺を揺らすんだ」と叫ぶ。その部分で、リーバーとストーラーは、音響効果のような特別なものが必要だと考えた。二人は、1951年に録音されたローカルR&Bヒット "Goodbye Baby" をおぼえていた。この曲の中で、歌手リトル・シーザーは彼女を射殺し、曲の終りで自殺する。それで二人は、二本の木をたたいて、銃撃のような音を出し、ベリーがドアを突き抜けるほど揺さぶられる音を表現した。それは小さな出発だったが、リーバーとストーラーは自らの道を歩み始めた。

数か月後、二人はRCAから電話をもらった。ロビンズはRCAと契約したばかりで、ロビンズのマネージャーからの二人に曲を書いてもらえないかという依頼だった。二人は喜んで承諾した。そのうちの一曲は "Ten Days in Jail" で、ロビンズの新しいテノールのリードボーカル、グラディ・チャップマン Grady Chapman が歌った。チャップマンの個人的な体験が歌詞に盛り込まれているそうである。「俺は破産して、貧しかったから、メアリー・リーを信用するしかなかった。彼女にはめられたんだ。」そこへ大きなボスのボビー・ナンが背後から忍び寄り、「看守!」と叫ぶ。ロビンズがRCAで出したほかのレコード同様、この曲は売れなかったが、これが始まりだった。

すぐにリーバーとストーラーは自分たちのレーベル、スパーク・レコーズを設立し、地元の宣伝マンを雇い、ロサンゼルスのメルローズ街に事務所を構えた。最初に契約したミュージシャンたちの中にロビンズがいた。ストーラーは次のように回想する。「4曲を3週間リハーサルして、スタジオ入りした。録音セッションの際に説明するだけという、ほかの西海岸のインディーズの慣習とは違っていた。ぼくたちの書いた曲は複雑で、オチやジョークに基づいていたので、各メンバーの一瞬のタイミングが大事だったんだ。」

双子のリチャード兄弟とレナードはまだバックアップ・ボーカル担当で、ボビー・ナンはベースを担当していたので、出たり入ったりしていた一連のテノール歌手にリードボーカルを頼らざるをえなかった。"Ten Days in Jail" でリードを担当したチャップマンが去ったので、リーバーとストーラーはソロで歌っていたテキサス出身の歌手カール・ガードナー Carl Gardner を雇い、これでグループは固まった。

翌年、1954年には3度のセッションで12曲録音した。テナーサックスのギル・バーナル Gil Bernal、ギターのチャック・ノリス Chuck Norris (バーニー・ケッセル Barney Kessell も1度セッションに参加)、ベースのラルフ・ハミルトン Ralph Hamilton、ドラムのジェシ・セイルズ Jesse Sailes がバックを務めた。リーバーとストーラーは小さなスタジオ、マスター・レコーダーズを使用した。フェアファクス・アベニューにあるスタジオで、エイブ・ロビン Abe "Bunny" Robyn が経営していた。彼は、録音の可能性をいろいろ追求するが好きなエンジニアで、変な場所にマイクを置いたり、テープを継ぎはぎして奇妙な音を作ったりしていた。二人の若者、創造的なエンジニア、一流のミュージシャン、そしてボーカルグループというユニットができあがった。

彼らの最初の曲が「第9監房の反乱」で、 "Ten Days in Jail" を発展させたものだった。だが重要な違いがいくつかある。"Ten Days in Jail" のグラディ・チャップマンは、おかしくて自己憐憫の曲調に似合う甲高いテノールだったが、「第9監房の反乱」はコメディというよりドラマだ。リードシンガーは、「1953年7月2日、俺は武装強盗のために服役していた。その日の朝4時、俺は独房で寝ていたが、笛が鳴って、誰かが叫んでいるのが聞こえた」という歌詞を無表情に歌うとき、粗野じゃなきゃいけない。グループが「暴動が起こっている!」と叫ぶと、バーナルのサックスが甲高い音を出す。リーバーは回想する。「ボビー・ナンで試したが、彼ではうまくいかなかった。」それで、威嚇するような低いダミ声のフレアーズのリチャード・ベリーを起用することにした。ベリーはモダン・レコーズと契約していたが、そんなことはどうでもよかった。文句を言ってきたら、あれはボビー・ナンの声だと言えばいいのだから。

リチャード・ベリーは次のように回想する。「リーバーとストーラーはこっそりやってきた。モダン・レコーズは許可しないだろうからね。彼らはモダンでかなり働いていたから、「I Don't Know」(ウィリー・メイボン Willie Mabon がチェス・レコーズから発売した1952年のR&Bヒット)などで、俺がメイボンのかわりに歌っていることをスタジオあたりで知った。二人は、ウィリー・メイボンがやっているように、歌うんじゃなくて語ってほしいと言った。ロビンズの低音歌手は、とてもきれいな声だったし、うまい歌手だったので、かわりに俺にやってほしかったんだ。」

リチャード・ベリーは、穏やかに話す男で、服役の経験はないのだが、そんなことを彼の表現豊かな声から気づく者はいないだろう。彼による囚人の登場人物は冷笑的な雰囲気プンプン出し、自分の都合のよいように言葉をねじ曲げる。彼はサイコパスのように聞こえる。武装強盗のために服役しているって?みんな容易に信じるだろう。この曲の別の要素は、独特のブルージーなホーンのリフで、「ドラグネット」のようなテレビの犯罪ドラマに由来しているように聞こえる。ダ、ダ、ダ、ダー。このすぐあと、1955年の「黄金の腕」でエルマー・バーンスタインが作曲したテーマでも同様のリフが使われている。

ベリーとロビンズが「第9監房の反乱」を録音したあと、リーバーとストーラーはセイルズによる断続音のドラミングにあわせて、マシンガンとサイレンの音を加えた。ストーラーは回想する。「私たちはテープを切り刻んだ。"There's a riot goin' on..." というくりかえし部分は曲の間じゅう同じだ。自分たちが一番気に入っているくりかえし部分を選び、それを複製し、それをテープに押し込んだ。ときどき、ちょっとした仕掛けをしているが、それは自分たちの作業の大事な部分じゃない。」曲が仕上がると、「第9監房の反乱」はラフで黒っぽい雰囲気になった。

レコードはラジオでよくかかったが、刺激的なテーマゆえに問題が生じる。1954年7月、CBS-TVのニュースショー Juke Box Jury は曲を流すのを拒否したし、KNXT-TVも同様の措置をとった。この論争によってロサンジェルスではレコードがよく売れたが、ほかではさっぱりだった。

その間、モダン・レコーズのジュールズ・ビハリはリチャード・ベリーがバイトでコンサートを行っているのを知り、「第9監房の反乱」を利用した曲を作るよう命じた。ベリーが作ったのは "The Big Break" で、恥知らずのまねごとだった。このレコードは、ベリーの名前で10月半ばに発売された。

ロビンズの次のレコード "Framed" では、ボビー・ナンが低音の任務に復帰し、リチャード・ベリーのまじめくさったやり方をまねた。「第9監房の反乱」ほど売れなかった。次のレコード "Next Time" は "Framed" の答えで、妻に生活費を与えないことで仮釈放に違反する。これはさらに売れなかった。

リーバーとストーラーは何か間違ったことをやっていると考え、方向転換し、コール・ポーターのスタンダード「I Love Paris」をR&B風に作り直したものを録音した。レコードが発売されると、コール・ポーターの曲の権利を持っている音楽出版社 Chappell Music は、曲を馬鹿にしており、著作権に損害を与えているとして、レコードを回収させた。

それで、二人は "Smokey Joe's Cafe" というドラマ仕立ての曲を書いた。メキシコで迷子になる観光客の話だ。二人は、もっとよく配給や宣伝をしてもらえる方法を探した。ストーラーは回顧する。「ロビンズのレコードの何枚かはロサンゼルスで8千から9千枚も売れた。サンフランシスコで数千枚、オハイオ州かどこかでで6枚。それだけだった!」さらに続ける。「もしヒットしても、販売業者は、レコードをプレスするのに間に合うように支払ってくれない。大ヒットしたのに破産することだってありうるのだ。」

10月、アトランティック・レコーズは、"Smokey Joe's Cafe" のマスターテープを借りて、新たに設立された参加のレーベル、アトコ Atco から発売した。R&Bチャートの10位まで上昇し、Hit Parade's Top 100 にも食い込むほどのポップス・ヒットにもなった。アトランティックは、リーバーとストーラーと前代未聞の契約を結んだ。二人が設立したスパーク・レーベルのマスターテープを全部買い上げ、音楽出版業に二人を参加させ、二人の好きなようにレコードを制作させた。

11月、ビルボード誌には、「ロビンズは解散した。アトコはロビンズのリード・シンガーとベース・シンガーを含む新たなユニットを作る計画である」という記事が掲載された。ロビンズのマネージャー、ジーン・ノーマンは、自分のレーベルのために自らロビンズのレコードを作る決心をした。当初のエーシャープ・トリオ、すなわち双子のリチャード兄弟とテレル・レナードはノーマンのもとにとどまり、リード・シンガーのグラディ・チャップマンを呼びもどした。一方、カール・ガードナーとボビー・ナンは、ビリー・ガイとレオン・ヒューズとともに、リーバーとストーラー、エイブ・ロビン、サックス奏者ギル・バーナルを含む同じミュージシャンと行動をともにした。最初に録音したのは、"Smokey Joe's Cafe" の延長線上にある "Down in Mexico" だった。彼らは自分たちをロビンズと呼ぶことができないので、当時「コースト」と呼ばれている地域に住んでいたことから、コースターズと名乗った。

リーバーとストーラーは、リチャード・ベリーがいたフレアーズの "She Wants to Rock" をおぼえていたので、レオン・ヒューズを解雇して、フレアーズのメンバーだったヤング・ジェシーとコーネル・ガンターを雇った。その間、リチャード・ベリーは「ルイ・ルイ」を書くが、それはまた別の話。

リーバーとストーラーはプレスリーの映画のために曲を書き始めた。これまでのいきさつから、彼らが「監獄ロック Jailhouse Rock」という題名を思いつくのに苦労はなかった。プレスリーの次の映画「闇に響く声 King Creole」では、「第9監房の反乱」の独特なブルーズのリフを「トラブル」に使用した。

コースターズの3枚目のシングル「サーチン Searchin'」が1957年にポップチャートのトップ近くまで上昇したとき、アトコはコースターズのアルバムを急いで発売した。14曲のうち7曲は、スパーク・レコーズから買い上げていた古いロビンズの曲だった。そのため、今でもアトランティックはコースターズの数々のベストアルバムに「第9監房の反乱」と "Smokey Joe's Cafe" を含めることができるのである。

(2013年3月31日)



41
Elvis Presley
That's All Right
(1954)

  • チャート入りせず
  • カテゴリー: カントリー/ロカビリー
  • 作者: アーサー・クルーダップ
  • レベールと番号: Sun Records 209、テネシー州メンフィス
  • B面: "Blue Moon of Kentucky"
  • 録音日・場所: 1954年6月か7月、メンフィス
  • 発売日: 1954年7月19日
  • なぜ重要か: ロカビリーとして広く認められている最初のレコードで、プレスリーの初めてのレコード。カントリーのギタリストの一世代全員が180度転換した。
  • 影響を受けたのは: "That's All Right" by Big Boy Crudup
  • 影響を与えたのは: ジェリー・リー・ルイスやカール・パーキンズからジョン・フォガティやビートルズに至るまで全員
  • 重要なリメイク: Marty Robbins (カントリーチャート7位、1955)
エルビス・プレスリーは、1953年秋に、メンフィスのサム・フィリップスのスタジオでティン・パン・アレーの二曲 "My Happiness" と "That's When Your Heartaches Begin" の個人的なデモを78回転で録音したが、翌年夏までフィリップスから呼び出しがなかった。エルビスはオーディションにかけつけたが、フィリップスから「もっと努力が必要だ」と言われた。

その前の4年間、サム・フィリップスは、BBキング、ハウリン・ウルフ、ロスコー・ゴードンらのブルーズ・ミュージシャンと主に仕事をしたが、いくつかビルビリー・バンドも録音した。フィリップスは、サン・レコーズを始める前に、ロサンジェルスのレコード会社にカントリー音楽を貸し出していたし、自分のレコード会社を持ってからも、Ripley Cotton Choppers, Howard Seratt, Earl Peterson, Hardrock Gunter, Harmonica Frank といった白人ミュージシャンのシングルを発売していた。

1954年5月、フィリップスは、ダグ・ポインデクスターとスターライト・ラングラーズ Doug Poindexter's Sterlite Wrangers の録音セッションを行い、"My Kind of Carrying On" という曲を録音した。ポインデクスターの鼻にかかった声やスティールギターやフィドルは特にどうということはなく、普通のヒルビリーものだった。だが、ところどころで、ウィンフィールド・スコット・ムーアによるエレキギターが光っていた。友人たちは彼のことをスコッティと呼んだ。また、ドラムのかわりに速いリズムを刻んでいたのはビル・ブラックというベース奏者だった。

プレスリー登場のための舞台は整った。

1935年1月8日にミシシッピー州テュペロのはずれで生まれたエルビス・アーロン・プレスリーは、1948年に家族とともにメンフィスに引っ越した。1950年までに自分の部屋でギターを弾くようになっていたし、黒人街のダンディを貧しい白人が真似たような格好をしていた。額からなであげた髪型をして、メンフィスの黒人のナイトライフの中心地であるビール・ストリートで買ったピンクと黒のシャツを着ていた。

ヒュームズ・ハイスクールの同級生ジョージ・クレインは、お涙ちょうだいのレッド・フォーリー Red Foley のバラード "Ol' Shep" をプレスリーが歌ったのをおぼえている。ミセス・マーマン先生はエルビスのギター演奏をほめたが、「歌うのが速すぎて、歌詞が理解できないわ」と加えた。少年はすでに自分の道を進みつつあったのだ。

サム・フィリップスは直感的にエルビスの才能を見抜いたが、この若者にはステージの経験が必要だった。フィリップスは、メンフィス周辺でポインデクスターのバンドとともにエルビスを出演させた。その後、エルビス、スコッティ・ムーア、ビリー・ブラックの三人だけを引き抜いて、録音に備えた。ブラックは、プレスリーに将来性がないと思って、最初は乗り気でなかった。三人は一週間ほど練習したが、録音までどれくらいかかったか誰もおぼえていない。最初の録音は1954年の6月終わりか7月初めに行われた。最初の曲は "Without You" で、5月にプリゾネアーズ Prisonaires の録音を行ったテネシー州立刑務所でフィリップスが知ったのかもしれない(サン・レコーズから発売されたプリゾネアーズの "Walking in the Rain" は1952年のヒットとなった)。この曲はエルビスにはむずかしすぎたので、7年前にアーネスト・タブ Ernest Tubb によって有名になったカントリー・バラードの "I Love You Because" に変更した。フィリップスは、自分のテープレコーダーに2テイク録音したあと、三人を休憩させた。

フィリップスとエルビスは、すでに、"Rock Me Mama" や "That's All Right" などのアーサー・「ビッグボーイ」・クルーダップの曲を録音できるかどうか議論していた。エルビスは、クルーダップの曲を少なくとも数曲歌うことができた。スコッティ・ムーアの回想によると、休憩中、エルビスは「ザッツ・オール・ライト」をふざけて歌い始めた。ギターのムーアは、キーが何かわかると、エルビスに加わった。フィリップスがコントロールルームから出てきて、驚いて、「録音しようじゃないか」と言った。ビル・ブラックがベースでリズムを刻み、エルビスが生ギターでリズムを補足した。フィリップスは、「スラップバック」エコーを加えて、全体のサウンドを豊かにした。

今日、「ザッツ・オール・ライト」の二つのテイクが残っている。レコード発売されたものと、よりカントリー風のものである。発売されたテイクは、ビッグボーイ・クルーダップの1946年のオリジナルに非常に似ている。違うのは、クルーダップがドラマーを使用しているのに対し、エルビスのはスコッティ・ムーアのギターが電気エコーマシンを通じて銀鈴のような音を出していることである。(Autry Inman というカントリー歌手が1年前に「ザッツ・オール・ライト」という曲をヒットさせているが、完全に違う曲である。)

ママっ子のエルビスにとって、「ザッツ・オール・ライト」は魅力的な作品だったに違いない。多くの人は、完全な題名が「ザッツ・オール・ライト、ママ」だと思っているし、クルーダップのオリジナルにもママという言葉がたくさん出てくる。「それでいいんだよ、ママ。それでいいんだよ。どのようにやっても、それでいいんだよ、ママ。」ママは本当のママなのか、彼女のことなのか。くりかえし部分で、クルーダップは「ママが俺に言った。パパも俺に言った。息子よ、女はお前の命取りになるよ。」あきらかにクルーダップは母親のことを歌っている。でも、歌詞の中の母親はどうなんだろう?彼女も命取りになる女性のうちの一人に聞こえる。エルビスは、1954年のリメイクで、くりかえし部分を微妙に変えている。「ママが俺に言った。パパも俺に言った。息子よ、お前が一緒に遊んでいる娘はお前には良くないよ。」こんな田舎のアドバイスをエルビスはどこで拾ったのだろう?彼の過保護な母親、グラディスか?

エルビスはクルーダップの歌詞の後半も変えている。「ベイビー、1足す1は2、2足す2は4、俺はあの女を愛しているが、手放さなきゃならなかった」という部分を完全に削除している。たぶん、彼自身の解釈に何も付け足さないからだろう。それから、「ベイビー、君が俺を望まないなら、なぜそう言ってくれないんだ。俺が君の家のまわりをうろついて、君を悩ますことはなくなるんだぜ」を「ベイビー、俺は町を去るところだ。俺が君の家のドアのあたりをうろついて、君を悩ますことはなくなるんだ」に変えている。

その他の点では、1946年のブルーズのオリジナルから、さほど離れていない。クルーダップのように、高い声で歌っているし、打楽器のような感じでギターを使っている。多くのミュージシャンはエルビスのギターの腕前を忘れているが、三人によるサウンドを増強するには十分すぎる。彼は演奏スタイルをクルーダップのレコードから習った。1956年にエルビスはリポーターに次のように語っている。「僕は、自分が今演奏しているようなスタイルをアーサー・クルーダップが演奏しているのをよく聞いた。アーサーが感じたすべてを自分が感じることができるところまで到達していれば、これまで誰も見たことないようなミュージシャンになっているだろう。」

クルーダップは、亡くなる5年前の1969年に、「エルビスは俺が演奏したのと同じように演奏しなかった」と語っている。「彼はヒルビリーみたいなものに作り替えた。でも、俺は好きだった。」

「ザッツ・オール・ライト」はサン・レコーズの34番目のレコードだった。サム・フィリップスは数名のDJにアセテート盤を送ったが、最初から「ザッツ・オール・ライト」をかけたのはデューイ・フィリップスだけだった(サム・フィリップスの親戚ではない)。彼は「ザッツ・オール・ライト」を毎晩かけ、このシャイな若い歌手をラジオ局のスタジオに呼び、気づかれないようにインタビューを放送した。ビルボード誌はレコードを気に入り、「プレスリーは有能な新人歌手で、カントリー市場かR&B市場で大ヒットを飛ばすことができる」と書いている。にもかかわらず、「ザッツ・オール・ライト」はチャート入りせず、二か月しても、のちのヒット曲の一日の売上げに到達しなかったはずだ。しかし、"The Lousiana Hayride" にレギュラー出演するようになったし、グランド・オール・オープリーに出演したし、ショービジネスで最も驚くべきキャリアの一つをスタートさせた。一年後、マーティ・ロビンズが「ザッツ・オール・ライト」をカントリー・チャートでヒットさせた。

サム・フィリップスは、「黒人のように歌う白人の青年を探していた」と語ったとされることが多いが、彼はそれを否定する。「私が探していたのは模倣者ではなかった。私はフィーリングを求めていたのだ。」彼はそれを「ザッツ・オール・ライト」のエルビス・プレスリーに見つけたし、同じことは二度と起こらないだろう。

(2013年4月11日)

42
The Penguins
Earth Angel (Will You Be Mine)
(1954)

  • R&Bチャート1位、ポップチャート8位
  • カテゴリー: ドゥーワップ
  • 作者: Jesse Belvin, Curtis Williams, Gaynel Hodge
  • レベールと番号: Dootone 348, ロサンジェルス
  • B面: "Hey, Senorita" (A面)
  • 録音日・場所: 1954年9月、10月、ロサンジェルス
  • 発売日: 1954年10月
  • なぜ重要か: 「アース・エンジェル」の成功は、白人アーティストによる活気のない模倣ではなく、リズム・アンド・ブルーズ自体が全国規模で評判を呼ぶ新たな時代の到来を告げた。すぐに、ロックンロール革命が全国を吹き荒れることになる。いわゆる「ブルームーン」変革に基づいた多くのヒット曲の最初のレコードである。
  • 影響を受けたのは:
    "Dream Girl" by Jesse and Marvin (R&Bチャート2位、1953)

    "
    I Know" by the Hollywood Flames
    "I Went to Your Wedding" (written by Jesse Mae Robinson, 1953)
    "Blue Moon" (written by Richard Rodgers and Lorenz Hart, 1934)
  • 影響を与えたのは: 
    "Daddy's Home" Shep and the Limelights (ポップチャート2位、1961)などの何十ものドゥーワップ・レコード
  • 重要なカバー:
    The Crew-Cuts (ポップチャート3位)
    Gloria Mann (ポップチャート18位)
  • 重要なリメイク:
    Johnny Tillotson (ポップチャート57位、1960)

    The Cleftones (1962)
    The Vogues (ポップチャート42位、1969)
    New Edition (ポップチャート21位、1986)
ドゥートーン・レコーズ Dootone Records の社長ドゥーツィ・ウィリアムズ Dootsie Williams は次のように言う。「ヒットレコードには二種類ある。もっとも普通なのは宣伝されたヒットであり、宣伝されなければ、ヒットもしない曲だ。もうひとつは自然なヒット曲だ。一年に一曲あるかないかだ。必要なのは、ラジオで何度かかかることである。一生に一度あるかないかだ。私には一曲しかない。「アース・エンジェル」だ。」

「アース・エンジェル」とそれをヒットさせた10代のボーカルグループのストーリーは、アメリカの奇妙で奔放なロックンロール時代の象徴である。正気な作家なら誰も思いつかないだろう。

ウォルター・「ドゥーツィ」・ウィリアムズは、1930年の高校を卒業してからプロのトランペット奏者でバンドリーダーである。1953年、ロサンゼルスのブラウン・シスターズ・ハーレム・クラブのお抱えバンドのリーダーをしていたとき、若い客たちが新しいボーカルグループを好んでいることに気づいた。すでにデモレコードのレーベル、ドゥートーンを2年前に設立していたので、レコードを出すためにグループを物色し始め、メダリオンズ Medallions という4人グループを見つけた。彼らの最初のレコード "Buick 59" は南カリフォルニアで大ヒットとなった。

1954年秋、この一生に一度の曲とともに四人組を見つけた。彼らはペンギンズと名乗っていた。グループのリーダーは、カーティス・ウィリアムズというハンサムは高校生だった。カーティスは、フラミンゴズという近所の仲間で作った五人組から出発した。フラミンゴズはレコードを出したことがないが、このグループからいくつかの重要なグループが生まれた。フラミンゴズが解散したとき、アレックス・ホッジはプラターズを結成し、リチャード・ベリーとコーネリアス・ガンターはフレアーズ Flairs を結成し、カーティス・ウィリアムズはハリウッド・フレイムズ Hollywood Flames に加入した。

カーディスは数か月しかハリウッド・フレイムズにいなかったが、その間にゲイネル・ホッジ Gaynel Hodge と一緒に「アース・エンジェル」を完成させた。この曲は、彼らの師であるジェシ・ベルビン Jesse Belvin から習った。たしかに、ベルビンとマービン・フィリップス Marvin Phillips がデュオで1952年にヒットさせた "Dream Girl" に似ているところがある。メロディの構造が非常に似ている。「ドリーム・ガール、ドリーム・ガール」は「アース・エンジェル、アース・エンジェル」へと発展し、前者の特徴的な「ホワイ、オー」は後者のバックコーラスとなった。

ゲイネル・ホッジは次のように語る。「カーティスと俺は1951年にハイスクールの合唱団で出会った。俺は14歳で、カーティスは16歳ぐらいだった。ジェシが「アース・エンジェル」を書き始めると、カーティスが興味を持って、一緒に書き始めた。ジェシが兵役に就き、俺とカーティスがハリウッド・フレイムズに参加したあと、そこで1年ぐらい歌った。そのグループにいたとき、ジェシー・メイ・ロビンソン Jessie Mae Robinson という黒人女性が俺たちを雇って、彼女の曲 "I Went to Your Wedding" のデモを作らせた。俺たちは一節を借りて、「アース・エンジェル」に組み入れた。

ロビンソン夫人は、1940年代から、ダイナ・ワシントン、Tボーン・ウォーカー、ルイ・ジョーダン、チャールズ・ブラウンなど多くのミュージシャンにブルーズのヒット曲を書いてきた。のちには、プレスリーのために "Party" を書いたが、その曲をロカビリーとしてヒットさせたのはワンダ・ジャクソンだった。1953年のロビンソン夫人のビッグヒットは "I Went to Your Wedding" で、ダミタ・ジョー Damita Joe がスティーブ・ギブソンのレッド・キャップス Steve Gibson's Red Caps とともに録音した。当時話題を呼んでいたマーキュリー・レコーズのパティ・ペイジがポップスの大ヒットにした。だが、それよりも前に、ホッジとウィリアムズはメロディと歌詞の一部を「アース・エンジェル」に盗用していた。

初期の「アース・エンジェル」がどんな曲だったか知りたければ、1953年のハリウッド・フレイムズの "I Know" を聞けばいい。クリーミーな声のゲイネル・ホッジがリードで、カーティス・ウィリアムズはバリトンを歌っている。「アース・エンジェル」を特徴づけているカーティスのピアノで始まるのは同じだ。コード進行もほとんど同じで、ブリッジまでくると、ホッジがリードをセカンドテナーに引き継ぐのも同じである。1年後の「アース・エンジェル」では、同じようにクリーブ・ダンカンがデクスター・ティスビーに引き継ぐ。

どちらの曲もロジャーズ&ハートの「ブルー・ムーン」と同じコード進行である。このありふれたコード進行によって、今のオールディーズグループは、ドゥーアップの曲をメドレーで際限なく歌うことができる。

カーティス・ウィリアムズはハリウッド・フレイムズから独立して、近くのハイスクールに通っていたクリーブ・ダンカンという若いテナー歌手と運命的な出会いをした。クリーブは次のように回想する。「サンターバーバラ街(今はマーティン・ルーサー・キング通り)にあるカリフォルニア・クラブのタレント発掘ショーで歌っていたら、カーティスがやってきて、グループを組まないかと言った。彼はバリトンのブルース・テイトを連れてきて、俺は第二テナーのデクスター・ティスビーを連れてきて、2曲覚えて、タレント発掘ショーに出演した。カーティスはすでに「アース・エンジェル」を持っていたが、俺のスタイルに合うように少し作り変えた。」

彼らは、初期のメンソールたばこであるクール・シガレットのイラスト・ロゴからペンギンズと名乗った。ダンカンは次のように回想する。「仲間の一人がクールを吸っていて、パッケージのウィリー・ザ・ペンギンをからかい始めた。俺たちはクールになりたかったのさ。」南極の鳥以上にクールなものがあるだろうか。しかも、鳥の名前をつける伝統があった。すでにレイブンズ、オリオールズ、ロビンズ、カーディナルス、ラークス、クロウズが50年代の黒人ボーカルグループの基準を確立していた。

クリーブ・ダンカンとドゥーツィ・ウィリアムズは、彼らを引き合わせた人物がダンカンの親戚であるテッド・ブリンソンだったと述べている。ブリンソンは当時郵便配達だったが、ビッグバンドの時代にはジミー・ランスフォードやアンディ・カークのバンドでベースを演奏していたし、その後、自分の家の裏庭にあったガレージを改装して、録音スタジオを作っていた。そのスタジオで、シングルトラックのアンペックスのテープレコーダーを使って、ジェシー・メイ・ロビンソンがデモテープを録音したり、ドゥーツィが彼のドゥートーン・レコーズのミュージシャンを録音していた。

ペンギンズが最初にブリンソンのスタジオで行ったのは、ウィリー・ヒーデン Willie Headen というブルーズ歌手のバックボーカルだった。ドゥーツィは、録音の途中で、彼らに "No There Ain't No News Today" を録音させた。だが、彼の興味を引いたのは、「ヘイ、セニョリータ Hey, Senorita」というカーティス・ウィリアムズが作った曲だった。ドゥーツィは数年間、音楽出版にたずさわっていたので、自分たちで曲を作るグループを所有することは、彼の資本家としての本能をくすぐった。

ドゥーツィは次のように回想する。「配給業者はビートのあるブルーズを望んだ。ところが、ペンギンズはポップス志向だので、そういうのが苦手だった。当時の配給業者は権限があったので、彼らの意見を取り入れなきゃいけなかった。だから、ブリンソンのスタジオでは、「ヘイ、セニョリータ」に集中して、曲にビートをつけた。何人かスタジオに呼んで、ハンド・クラッピングを入れた。そのあと、二番目の曲として「アース・エンジェル」を録音した。」

このセッションはデモテープを作るためのものだった。ドゥーツィは回想を続ける。「ドラマーがいたが、名前は忘れた。カーティスがピアノを弾き、テッドがレコーダーのスイッチを入れ、ベースをかまえた。彼の演奏は、ビッグバンド時代からの安定した基本的なスタイルだった。まくらでドラムの音を弱くして、低音が声を消してしまうのを防いだ。隣の部屋で犬が吠えるたびに、スタジオを出て行き、犬を黙らせ、別のテイクを録音した。あとでエレキギターとサックスを加えるつもりだったが、まずデモを作って、ジョン・ドルフィンに聞かせ、彼の意見をもらいたかった。」

1954年当時のロサンジェルスで、ジョン・ドルフィンの意見は大きかった。ドルフィンがハリウッドで経営しているオールナイトのレコード店は、ロサンジェルスのR&B活動の中核だった。このレコード店の正面ウィンドウから放送されていたKRKDラジオショーは多くの地元ヒットを生んだ。それで、ドゥーツィはペンギンズのテスト盤をドルフィンの店に持ち込んだ。ドルフィンは、勤務中のDJだったディック・「ハギー・ボーイ」・ハグという白人青年にレコードをかけるよう頼んだ。ドゥーツィは次のように言う。「まだ完成していないとドルフィンに言おうとした。でも、彼はハギーにレコードをかけろと言って聞かなかった。ハギーが両面をかけたあと、俺は家に戻った。翌日、ハギーが電話をかけてきて、「みんなが「アース・エンジェル」をリクエストしている」と言った。」

録音には演奏楽器が少なかったし、未完成で、手作り感があったが、ドゥーツィ・ウィリアムズは彼のドゥーツィ・レーベルから1954年10月に、そのまま、レコードを発売した。最初は「ヘイ・セニョリータ」のほうがよく放送されたが、そのうちB面の「アース・エンジェル」へのリクエストが増えた。12月、この単純で洗練されていないラブバラードはビルボードのR&Bチャートに入った。1955年1月19日、R&Bチャートで1位となり、3週間君臨したのち、ジョニー・エイスが亡くなったあとで発売された "Pledging My Love" にトップの座を奪われた。

その当時の自然な成り行きとして、大会社は白人歌手に曲をカバーさせ、オリジナルがポップチャートに入り込む前に葬り去るはずだった。実際、マーキュリー・レコーズは、クルーカッツ The Crew-Cuts にカバーさせ、当然のごとく3位まで上昇した。だが、ペンギンズの「アース・エンジェル」は、消え去るかわりに、クルーカッツのレコードと競い合い、ポップチャートの8位まで上昇した。

黒人レコードの運命が突然変化したのは、初めて独立系の販売業者がポップス市場に影響力を持ったからである。ほとんどが白人音楽だが黒人音楽も売っていたエセックス、エピック、ドットなどの新しい独立系レーベルのおかげで、シド・タルマッジのレコード・マーチャンダイジングのような地元の配給会社も、より大きなレコード店、ポップスのラジオ局、ポップスのジュークボックスに入り込むことができるようになった。いったん「アース・エンジェル」が西海岸市場で影響を誇示すると、ほかのインディーズの配給業者はタルマッジと取引することを切望するようになった。クロウズの「ジー」と同じパターンで、ゆっくりと「アース・エンジェル」は西海岸から東海岸へと、あるインディーズの配給業者の管轄区域から別の区域へと、広がっていった。最終的にアラン・フリードが取り上げて、ニューヨークでのヒットをもたらした。1955年5月21日、「アース・エンジェル」によってドゥーツィはシド・タルマッジとともにゴールドレコードを受賞した。

ペンギンズは分け前にあずかることができなかった。彼らは、さらに4曲、すぐれた曲を録音し、次に発売した "Ookey Ook"
もヒットすると思われた。しかし、グループとドゥーツィ・ウィリアムズとの間に印税をめぐって言い争いが生じ、その結果、シカゴ生まれのソングライター兼マネージャーのサミュエル・「バック」・ラムの策略に身をゆだねることになった。この影響力のある白人の精力的な実業家(彼はチャーリー・パーカーの最初のサボイ・レコーズの録音セッションをプロデュースしたことがある)が、ドゥーツィ・ウィリアムズよりも素晴らしいレコードを提供できると黒人ティーンエイジャーに納得させるのに時間はかからなかった。当初、ウィリアムズからラムへの切り替えはうまくいったかのようにみえた。ペンギンズは、クルーカッツと同じマーキュリー・レコーズと契約した。クリーブ・ダンカンの回想によると、ラムに代わってから、活動範囲が広がり、東海岸にもツアーするようになり、アポロ劇場やアーサー・フリードのブルックリン・パラマウント劇場で演奏したり、「エド・サリバン・ショー」で歌ったりした。だが、当初の成功の背後には災難が待ちかまえていた。

ラムは、1991年の新年に亡くなる前、彼がマネージしていたプラターズを売り出すためにペンギンズを利用したことを認めた。「マーキュリー・レコーズはペンギンズだけを求めていたが、俺は両方のグループを録音スタジオに連れて行った。」ペンギンズは、「アース・エンジェル」「ヘイ、セニョリータ」「Ookey Ook」を1955年2月のセッションで再録音したが、どれも長年公表されないままだった。プラターズは、ラムの曲のひとつ「オンリー・ユー」を録音した。

ペンギンズのダンカンは次のように言う。「ラムの望どおりに行動するしかなかった。自分たちのサウンドがあったのに、別のやり方でやらされた。俺たちは制作をコントロールすることができなかった。ドゥートーンではグループの努力次第だった。俺たちが曲やアイディアを持って行って、ドゥーツィに聞かせ、ときどき彼がつけ加えた。だが、マーキュリーでは、ラムがすべてを指示したし、彼が俺たちのために書いた曲はすべて「アース・エンジェル」みたいだった。彼は、いい曲をプラターズのためにとっておいたんだ。」

クリーブ・ダンカンによると、ラムは、ペンギンズという名称の支配権を得ることができなかったので、グループに対する興味を失った。「ラムは、プラターズを使った "Rock All Night" という映画で、俺たちにも歌わせるから、かわりに名前をゆずってくれないかと言ってきた。俺は断った。」ラムがプラターズにご執心だったのは、プラターズには響き渡るテナーのリードボーカル(トニー・ウィリアムズ)がいたし、サウンドが洗練されていたからだ。ラムは、1940年代初期にインク・スポッツのために曲を書いた。インク・スポッツのハーモニーはスムースでポップだった。事実上、プラターズは50年代のインク・スポッツになった。だが、プラターズもバック・ラムの創造物でしかなかった。彼らの人気が最高潮に達したときでさえ、5人のメンバーはとても低い月給しかもらっていなかったが、ラムは百万長者になった。

マーキュリーでは、いくつかいい曲を録音したものの、ペンギンズのヒット曲は生まれなかった。彼らは、「アース・エンジェル」の最初のレコーディングに対する権利も失った。ドゥーツィ・ウィリアムズは次のように言う。「彼らがマーキュリーに移籍するとき、契約書の条項によって印税がもらえなくなると彼らに告げた。彼らは「ビッグになるんだから、印税なんてどうでもいい」と言った。」カーティス・ウィリアムズは、「アース・エンジェル」を大手音楽出版社ピア・インターナショナル Peer International に転売した。ドゥーツィは75万ドルを求めて訴訟を起こした。ジェシ・ベルビンとゲイネル・ホッジが曲のほとんどを書いたとロサンゼルス最高裁判所が判断したので、ドゥーツィは「アース・エンジェル」に対するすべての権利を取り戻した。

1956年、ペンギンズはマーキュリーからニューヨークのアトランティック・レコーズに移籍したが、一時的だった。彼らがカリフォルニアに戻ったとき、意気消沈していたし、借金を抱えていた。ブルース・テイトはもうグループにいなかった。彼は、1955年の感謝祭前夜、女性をひき逃げし、殺人罪で逮捕された。ランディ・ジョーンズ Randy Jones がかわりに入ってきた。ほかの三人はすべてにウンザリしていた。ドゥーツィは次のように回想する。「デクスター・ティスビーのクレジットカードは1500ドルの借りこしだったし、スタンダード・オイルは彼の車を差し押さえた。クリーブ・ダンカンには借金があったし、のどを手術しなければならなかった。カーティス・ウィリアムズは、扶養義務の不履行で妻から訴えられていて、刑務所に入れられそうだった。彼らは俺に借金をきれいにしてくれないかと頼んできた。彼らに稼がせてもらったので、借金を十分返せるぐらいのおカネをやった。そのかわり、昔ドゥートーンで録音した曲による将来の印税に対する権利を放棄する契約を交わした。」

1957年、一から出直すために、ペンギンズはドゥーツィ・ウィリアムズのために再び録音した。彼らのサウンドはまったく違っていた。カーティスのかわりにテディ・ハーパー Teddy Harper が入っていた。カーティスは、刑務所に入るのが嫌だったので、カリフォルニア州から逃げていた。ドゥーツィは、ピアニスト、ソングライター、中心人物としての彼の役割が大きかったことを痛感した。「カーティスは普通の人が持つ抑制心にかけていたが、彼はペンギンズにとって本当の才人だった。」

すぐにペンギンズとドゥーツィは別れた。デクスター・ティスビーはハワイに移住し、実業家になった。カーティス・ウィリアムズとブルース・テイトは亡くなった。ドゥーツィ・ウィリアムズはロックンロールを捨て、レッド・フォックス Redd Foxx のパーティー・アルバムをプロデュースして百万長者になった。彼は1991年晩夏に亡くなった。

クリーブ・ダンカンはペンギンズにとどまった。1963年、新たなボーカリストを加えて、グループを立て直し、"Momories of El Monte" をチャート入りさせた。フランク・ザッパが曲を作り、プロデュースし、「アース・エンジェル」などの50年代中期のドゥーワップ数曲に対して敬意を払った。現在のペンギンズの歌唱は陳腐で、あまり要求しないオールディーズ・ファン向けだが、クリーブが「アース・エンジェル」を歌うと、まだ1954年当時のようなサウンドなので、一気に当時に戻ってしまう。


(2013年4月24日)

43
LaVern Baker and the Gliders
Tweedle Dee
(1954)

  • R&Bチャート4位、ポップチャート14位
  • カテゴリー: R&Bノベルティ
  • 作者: ウィンフィールド・スコット Winfield Scott
  • レベールと番号: アトランティック1047、ニューヨーク
  • B面: "Tomorrow Night" (A面)
  • 録音日・場所: 1954年10月20日、ニューヨーク
  • 発売日: 1954年11月
  • なぜ重要か: ラバーン・ベイカーの最初のヒット。連邦議会への訴えにより、メジャーなレコード会社がマイナーなレコード会社から曲とアレンジの両方を盗む慣行が公に問題となった。
  • 影響を受けたのは: マンボの大流行と、"Sh-Boom" "Ko Ko Mo" "Gee" などのナンセンスなR&Bヒット
  • 重要なカバー: Georgia Gibbs (ポップチャート2位)、Bonnie Lou, Vicki Young, Al Sears (インスト)
  • 重要なリメイク: Little Jimmy Osmond (ポップチャート59位、1972)
1955年、ラバーン・ベイカーにとって最初の大ヒット曲が生まれそうだった。キャッチーなR&Bノベルティの「トウィードリー・ディー」はチャートを上昇しつつあり、白人のレコード店では買い求める客が殺到していた。だが、ラバーンがラジオで曲を聞いたとき、なにかが変だった。曲が終わると、DJは、ジョージア・ギブズ Georgia Gibbs の「トウィードリー・ディー」が1位まで上昇しそうな勢いだと告げた。

過去二年間、シカゴのマーキュリーなどのメジャーなレコード会社は、白人歌手にR&Bの曲をカバーさせることで、ヒット曲を盗んでいた。オリジナルの荒っぽい部分をけずり、洗練されたアレンジを加え、すぐれた配給網を利用して、オリジナルが頭を持ち上げる前に大量のレコードを市場に送り込んだ。独立系のアトランティックは、ポップなアレンジで黒人歌手に歌わせ、白人のラジオで放送されるようにし、主流のレコード購入者をひきつけて、メジャーな会社の市場での優位に一発かましてやろうと決心した。だが、ジョージア・ギブズが所属するマーキュリーは、ラバーン・ベイカーの曲、彼女のボーカルスタイル、さらにアレンジまでもコピーすることで、盗みの手口を洗練させた。これはR&Bレコードの白人ポップス版ではない。オリジナルの複製であり、あきらかに最初から最後まで模倣であり、何の創造力もいらない盗みである。「トウィードリー・ディー」は、カバーレコード戦争における重大な分岐点となった。

ドロレス・ウィリアムズ Delores Williams は、1929年11月11日にシカゴで生まれた。彼女の叔母はメンフィス・ミニー Memphis Minnie で、1920年代と30年代に活躍した有名なブルーズ歌手だった。ドロレスは、バプテスト教会の聖歌隊のソロ歌手となったが、第二次大戦後は地元のクラブで世俗的な音楽を歌い始めた。

一年後、ドロレスは、デトロイトで最高の黒人クラブ、ショウ・フレイム・バー Show Flame Bar で歌い始め、多くの注目を集め、何人かのA&Rマンから誘いがあった。オーケー Okeh とナショナルは各々ビー・バーカー Bea Barker とリトル・ミス・シェアクロッパー Little Miss Sharecropper として彼女の歌を録音した。そのときまでに、彼女は、ピアニスト、トッド・ローズ Todd Rhodes のバンドに参加していた。1952年、ローズはドロレスをキング・レコーズに連れて行った。そのときに彼女は名前をラバーン・ベイカーに変えたが、誰もスペルを正確につづることができなかった。彼女がキングから発売した初期のレコード "Pig Latin Blues" には Lavern Baker と書かれていた。一年後、アトランティックが彼女と契約し、"Soul on Fire" という彼女が作った曲をレコード化したとき、LaVerne Baker となっていた(彼女の最大のヒット "Jim Dandy" のラベルも同じだった)。のちのアルバムのジャケットには La Vern となっているが、これはダンサー兼歌手のジョセフィン・ベイカーにあやかろうとしたのかもしれない。ジョセフィンは、フランスでは La Baker として知られており、ときどきラバーンは彼女と親戚だと主張した。しかし、ほとんどのレコードでは LaVern であり、ベイカー嬢自身が好んだつづりと思われる。

1954年10月に彼女がアトランティックのスタジオに入ったとき、「トウィードリー・ディー」が彼女のキャリアを前進させるような曲だとは彼女自身もアトランティックの社長アーメット・アーティガンも思っていなかった。その日の目玉は、1948年のロニー・ジョンソン Lonnie Johnson のヒット「トゥモロウ・ナイト」であり、そっちがA面、「トウィードリー・ディー」はB面となった。

当日の録音セッションで4番目に録音された「トウィードリー・ディー」は、ほとんど偶然にベイカーが歌うことになった。この日のセッションのために、アトランティックは、アトランティックお抱えのボーカルグループ、キューズ Cues を彼女のバックに使うことを決めていた。聞かせどころで彼女と一緒に歌わせるためだ(純粋なR&Bにとどまるつもりなら必要ないが、ポップス市場で売ろうとするのであれば、バックで一緒に歌わせることは必至だった)。キューズは、異なる名前を使って、アトランティックのソロ歌手のバックで歌っていた。たとえば、ルース・ブラウン Ruth Brown のレコードならリズメイカーズ Rhythmakers で、アイボリー・ジョー・ハンター Ivory Joe Hunter のレコードならアイボリートーンズ Ivorytones、ビッグ・ジョー・ターナー Big Joe Turner のレコードならブルー・キングス Blue Kings といった具合だった。ラバーン・ベイカーのときは、グライダーズ Gliders と名乗った。彼らはラバーンのサウンドに欠かせないものとなり、彼女のその後のアトランティックによる録音セッションには全部参加した。キューズのメンバーは、テナーのオリー・ジョーンズ Ollie Jones、ファースト・テナーのエイベル・デコスタ Abel DeCosta、セカンド・テナーのジミー・ブリードラブ Jimmy Breedlove、バリトンのロビー・カークランド Robey Kirkland、ベースのエディ・バーンズ Eddie Barnes だった。

ロビー・カークランドは、メンバーのだれよりも、自分のことをプロのジョーマンだと思っていたはずだ。彼はロビー・カーク Robie Kirk という名前でソロとして歌っていたし、曲を書くときには、南北戦争の有名な将軍から借りた名前、ウィンフィールド・スコット Winfield Scott を使用していた。ラバーン・ベイカーのバックアップ・シンガーの一人として彼女に「ウィンフィールド・スコット」と彼のR&B子守唄「トウィードリー・ディー」を紹介したのはカークランドだった。(カークランドは、彼女の次のR&Bヒット "Bop-Ting-a-Ling" も書いたし、のちにはオーティス・ブラックウェル Otis Blackwell と組んで、"Return to Sender" など二曲をプレスリーのために書いた。)

もちろん、"Tweedle Dee" ("tweed-lee dee" と発音する)は、"Tweedle Dum and Tweedle Dee" という言い回しに由来しており、これは「互いにとても似ている二人」とか「別れがたい二人」を意味する。ルイス・キャロルは、「鏡の国のアリス Through the Looking Glass」の中でトウィードルダムとトウィードルディーという双子の兄弟を有名にしたが、この登場人物はすでに民話の中に存在していた。トウィードル・ダムとトウィードル・ディーというライバル同士のフィドラーで、一人は高い音を弾き、もう一人は低い音を弾いて、互いに対照をなしたり、結合したりする。

録音セッションには、ニューヨークで最も多産なR&Bサックス奏者、サム・テイラーも参加した。彼が吹き鳴らすサックスの興奮によって、「トウィードリー・ディー」は単なるノベルティ以上のものになっている(ちょうど、サム・テイラーが7か月前に参加した「シュブーン Sh-Boom」がそうだったように)。ドラマーのコニー・ケイ Connie Kay は、カウベルで安定したマンボリズムを刻むことによって、ダンス市場で流行することを確実にしていた。今日ではほとんど忘れ去られているが、1954年と55年にアメリカ中を席巻したマンボ・ブームは、R&Bブームと競い合っており、多くの者は、アングロ=ブラジリアンのマンボミュージックが優勢になるだろうと感じていた(そして、そう願っていた)。

今や、必要とされているのは、ナンセンスな歌詞の曲だった。1954年、特にポップチャートでは、R&B風のナンセンスソングが売れていた。クロウズの「ジー」、コーズとクルーカッツの「シュブーン」、ジーン&ユーニス Gene and Eunice、クルーカッツ、ペリー・コモの「ココモ」などである。

「トウィードリー、トウィードリー、トウィードリー、ディー。これ以上ない幸せ。ジミニー・クリケッツ、ジミニー・ジャック、あなたは私の心をカタコト動かす。トウィードリー、トウィードリー、トウィードリー、ディー。」ラバーンがウォーミングアップを終えると、歌詞はより深遠になる。「いいね、いいね、ハニーデュー。いつもあなたのことを見守っているわ。トウィードリー、トウィードリー、トウィードリー、ドウ。」ラバーン・ベイカーの「トウィードリー・ディー」は、いつでも自然にヒットしそうな曲だった。でも、それはラバーンではなかった。ベイカーもポップチャートに食い込んだが、ジョージア・ギブズがさえぎって、トップ近くまで上昇した。

マーキュリーのパティ・ぺイジがベイカーと同じアトランティックのルース・ブラウンにとってかなわない相手になったのと同様("Oh, What a Dream" と "Mambo Baby" がペイジによってカバーされた)、ジョージア・ギブズはベイカーが望まない生き霊となる。ジョージア・ギブズは1920年にフレッダ・ギブズとしてマサチューセッツに生まれ、フレディー・ギブソンとして30年代後半にエディ・デ・ランジ Eddie de Lange のオーケストラに参加し、Lucky Strike Hit Parade で全国放送のラジオに進出した。1942年にジョージア・ギブズに名前を変え、1944年に最初のヒットを放った。アンドリューズ・シスターズの "Shoo-Shoo-Baby" のカバーだった。だが、R&Bがポップチャートに進出しようとするまでは、さほど売れなかった。「トウィードル・ディー」は彼女の最初の大ヒットだった。彼女の唯一のナンバーワンヒットは1955年の "Dance with Me, Henry" で、エッタ・ジェームズ Etta James の "Roll with Me, Henry" を小ざっぱりさせ、超やぼったくしたものだった。

ビルボード誌によると、1955年2月、ラバーン・ベイカーが「現代の著作権侵害者から歌手を守るために1909年著作権法を改正する可能性を研究すべき」と国会議員のチャールズ・ディグス・ジュニア Charles Diggs, Jr. に訴えた。ベイカーの嘆願書には次のように書かれていた。「ジョージア・ギブズとキャピトル・レコーズのカバー歌手ビッキー・ヤング Vicki Young は自分のアレンジを一音たがわずレコードに複製した。レコード購入者が他のバージョンを買ったために、自分は1万5千ドルの印税を損失した。私が書いた曲や、私のために書かれた曲を他人が歌うのはかまわないが、一音たがわず自分の音楽を盗む傲慢さには、とても憤慨する。」

カバーの慣習は30年代後半にさかのぼる。当時、さまざまなアーティストが、似たアレンジで同じ曲を録音した。当時、アーティストではなく曲が大切で、音楽出版社は、曲を宣伝する演奏者を雇い、できるだけ多くのプロデューサーやアーティストに演奏・録音させようとした。音楽出版社は、ヒット曲がラジオでかかったり、レコードで売れたり、ジュークボックスでかかったり、楽譜として売れたりすることで印税をかせいだ。自分の曲を書いたり、どの曲を歌うか決めることができる歌手はほとんどいなかったので、彼らが最も願っていたのは、自分自身の曲を作ることだった。"The Night We Called It a Day" のフランク・シナトラや、"Little White Lies" のディック・ハイムズ Dick Haymes のように。だが、通常、有望な曲があると、各レコード会社は自社のアーティストに録音させることを望んだ。そのため、たとえば "Open the Door, Richard" には多くの異なるバージョンがある。

大手レコード会社のためにポップスのアレンジャーがヒルビリー、フォーク、黒人音楽などの特定の市場から曲を奪って、中流の白人の購入者のために作り変え始めても、一般的にカバー制作は問題とはならなかった。ある曲が特定の市場でヒットすると、他の市場のアーティストが自分たちのバージョンを急いで録音したが、出版社も作曲者も誰も気にしていないようだった。というのも、市場は互いに厳格に分離されていたからだ。しかし、R&Bが1950年代初期に垣根を越え始めると、和らげられ、洗練されたアレンジのカバーレコードが垣根を立てて、黒人アーティストをポップチャートに立ち入らせないようにした。この時点で、カバー制作は既成の差別主義的なビジネス方針になっていた。ジョニー・オーティスの言葉を借りると、「その方針によって、白人は黒人から音楽を盗んで、大金を得ることができた。」

1950年の重要な訴訟事件で、デッカはロサンジェルスの小さな独立レーベルから40万ドルを守った。2年前、ポーラ・ワトソン Paula Watson という黒人ピアニストが "A Little Bird Told Me" というポップス風のノベルティソングを録音した。黒人の作曲家ハービー・O・ブルックス Harvey O. Brooks がスープリーム・レコーズ(黒人の歯科医アル・パトリックが所有)のために書いた曲だった。ワトソンのレコードが幅広くヒットし、ポップチャートに入り込んだとき、デッカが曲をカバーした。カナダ人のナイトクラブ芸人イブリン・ナイト Evelyn Knight によるものだった。ワトソンのレコードはポップスのヒットとなったが、ナイトのカバーは100万枚売れた。アル・パトリックは、デッカがアレンジを盗んだとして、訴訟を起こした。だが、ロサンジェルスの連邦判事は、アレンジはオリジナルと十分に異なるし、著作権者は曲を所有するがアレンジは所有しないというデッカの主張を支持した。判事は、両方のレコードを聞いたあと、二つのアレンジはあきらかに異なるのみならず、デッカのレコードのほうが素晴らしいと述べた。最終的に、デッカの法的論争はパトリックの蓄えを消耗させ、判決が下されるまでに、スープリーム・レコーズは倒産した。この訴訟は、「トウィードリー・ディー」に関するアトランティックによる同様の訴訟が敗訴となる可能性を非常に高くする判例となった。

通常、白人はインディーズのR&Bレーベルと付属の音楽出版社を所有していたので、ポップスの風がどちらに吹こうと、彼らは儲けることができた。しばしば、彼らはソングライターの印税の分け前にあずかったし、そうでない場合でも、適切に印税を与えることはまれだった。それで、黒人アーティストたちは、もっぱら全国ツアーでカネを稼がざるをえなかった。だが、クラブや劇場のオーナーに対する自分たちの価値を維持するには、レコードを必要とした。大会社が、よりスムーズにプロデュースされ、よりうまく配給される白人のレコードを発売することで、オリジナルのヒットレコードの息を止めると、黒人アーティストの生計は崩壊した。

マーキュリーが「トウィードリー・ディー」をカバーしたとき、アトランティックの連中を公然と侮辱する怠惰を示した。ほかのプロデューサーがリトル・リチャードやファッツ・ドミノをカバーする場合、少なくとも、オリジナルの荒い、その場でのアレンジに代わるオリジナルのポップなアレンジを思いつかなければならなかった。だが、アトランティックの滑らかで洗練されたアレンジに対してマーキュリーができることといったら、盗むことだけだった。アトランティックのエンジニア、トム・ダウドは次のように語っている。「「トウィードリー・ディー」を録音したあと、マーキュリーが電話してきて、ジョージア・ギブズで曲をカバーするつもりだと言った。同じミュージシャンとアレンジャーを獲得したので、同じエンジニアが欲しいと言った。」アーメット・アーティガンは次のように語っている。「大会社にとっては楽な仕事だった。彼らは、白人アーティストを使って、俺たちのレコードをコピーした。白人のラジオ局は白人のカバーを流した。「すみませんねえ。私たちには荒っぽすぎるんですよ」と決まって彼らは言った。」

DJのアラン・フリードは、コピーレコードをかけるラジオ局を批判した。「彼らは、カバーのほうが質が良いという弁解をいつもしていたが、オリジナルの「トウィードリー・ディー」の質が悪いなんて言うことができるのだろうか。」フリードのニューヨークのラジオ局WINSは、公式な方針として、コピーレコードをかけないことを表明した。

ギブズは1956年にもラバーン・ベイカーをカバーした。これも軽いノベルティソングで、 "Tra La La" という曲だった。だが、そのときまでに、40年代からのビッグバンドの残存者は、東京ローズぐらい時代錯誤になっていた。"Tra La La" のB面の "Jim Dandy" がベイカーの最初の大ヒットになると、ギブズもカバーした。だが、時代は変わり、ベイカーの "Jim Dandy" がマーキュリーのカバーを完全にチャートから除外した。ミス・ギブズは、ロックンロールの栄光を勝ち取るという自らの夢に必死にしがみついたが、1958年に愚かな「フラフープ・ソング Hula Hoop Song」によって最後の腰のひとひねりをしただけだった。活気のないキャリアにふさわしい終わり方だった。今日、ジョージア・ギブズは忘れ去られているが、ラバーン・ベイカーは生き続けている。

(2013年5月3日)

44
Johnny Ace with the Johnny Otis Orchestra
Pledging My Love
(1954)

  • R&Bチャート1位(10週間)、ポップチャート17位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: Ferdinand Washington, Don Robey
  • レベールと番号: Duke 136、テキサス州ヒューストン
  • B面: "No Money"
  • 録音日・場所: 1954年1月27日、ロサンジェルス
  • 発売日: 1954年12月2日
  • なぜ重要か: 白人のカバーに打ち勝った最初のR&Bのポップスヒット曲のひとつ。また、78回転盤よりも45回転盤のほうが売れた最初のレコードのひとつで、レコード購入市場における重要な人口統計学的な変化を示している。
  • 影響を受けたのは: ナット・キング・コール、ルロイ・カー、民謡 "Down in the Valley" のメロディ
  • 影響を与えたのは: 数々のアンサーソングとトリビュート
  • 重要なカバー: Teresa Brewer (ポップチャート17位)、ルイ・アームストロング、フォー・ラッズ
  • 重要なリメイク:
    Jesse Belvin (1958)
    Roy Hamilton (ポップチャート45位、1958)
    Johnny Tillotson (ポップチャート63位、1960)
    Aretha Franklin (1969)
    Kitty Wells (カントリーチャート49位、1971)
    Oscar Weathers (R&Bチャート31位、1972)
    Elvis Presley (1977)
    Emmylou Harris (カントリーチャート9位、1984)
1955年初期、"Pledging My Love" というブルーズっぽいバラードが2か月半R&Bチャートのトップに君臨し、ポップチャートでも17位まで上昇した。歌っているのは25歳のジョニー・エイスで、物悲しげに、話すような声で歌い、とても印象的だった。"Pledging My Love" の成功を見届けるまでエイスが生きなかったことで、よけい彼の歌唱が心を締めつける。彼は、前年のクリスマスイブにピストル自殺したのだ。

ジョニー・エイスの死は、何年かのちまで世界中に知れ渡ることはなかったが、アメリカの黒人にはショックだった。1952年に彼の最初のレコードがR&Bチャートで1位になってから、黒人が出演する劇場ではスーパースターだった。彼のレコードはすべてハーレム・ヒットパレードのトップ近くまで上昇した。"My Song" "Cross My Heart" "The Clock" "Saving My Love for You" "Please Forgive Me" "Never Let Me Go" がそうである。彼の直接的で悲しげな歌唱は男も女もひきつけた。

エイスは第一にバラード歌手で、アップテンポの曲は月並みである。彼はピアノに座り、観客に気づいていないかのようにマイクに歌いかける。バラエティ誌は、ハーレムのアポロシアターでの彼のパフォーマンスを「堅苦しい」と批判した。しかし、ハンサムなバリトンの無表情なブルーズに対する女性たちの反応は熱烈で、彼女たちはレコードを聞きながら泣いた。

ジョン・M・アレクサンダー・ジュニア John M. Alexander, Jr. は1929年6月9日にメンフィスで生まれた。父親は聖職者で、彼を含む10人の兄弟は厳格な家庭に育ち、ジョニーは内向的な大人になった。説教師の家庭で育ったほとんどの者がそうであったように、彼はピアノ演奏とスピリチュアルを歌うことを習った。だが、若いころ、ナッシュビル生まれの歌手兼ピアニストのルロイ・カー Leroy Carr に衝撃を受けた。たぶんルロイ・カーは最初に人気が出た都会のブルーズマンで、"In the Evening (When the Sun Goes Down)" で知られる。1935年に急性アルコール中毒で29歳で亡くなる前に、彼は、チャールズ・ブラウン、レイ・チャールズ、ジェシ・ベルビンなどの40年代、50年代に低い声でやさしく歌うブルーズ流行歌手のお手本を作っていた。だが、カーの最も悲劇的な信奉者はジョン・アレクサンダーだろう。ほとんど忠実にカーの足跡をたどった。

短期間のつまらない海軍の兵役からメンフィスに戻ったあと、ジョン・アレクサンダーは町を遊びまわった。彼の最初の録音は1951年で、ロサンジェルスのモダン・レコーズのためにアイク・ターナーと一緒に行ったものだった。アレクサンダーの歌唱は、まとまりがなく、散漫で、のちの魔力に欠けていた。

メンフィスで最高のR&Bラジオ局WDIAの白人幹部デビッド・マティス David Mattis は、自分のレーベル、デューク・レコーズ Duke Records を立ち上げ、ロスコー・ゴードン Roscoe Gordon の曲を録音した。ロスコー・ゴードンは、地元のピアニストで、50年代を通じて数多くのエキサイティングなレコードを送り出すことになる。当時、ゴードンのようなR&Bの有名人は、使い走りの歌手やミュージシャンを連れて旅することが多かった。ゴードンの使い走りは、ボビー・ブランドという名前の若い歌手だった。マティスはブランドの録音セッションを用意し、ブランドに歌詞を渡し、ビール・ストリーターズ Beale Streeters という名前の数名のミュージシャンを呼んだ。そのピアニストがジョン・アレクサンダーだった。

しかし、WDIAスタジオで録音する日、ブランドが字を読めないことがわかった。だから、マティスが渡した歌詞をおぼえていなかった。マティスは何か録音したくてしょうがなかった。「俺は、ジョニーがルース・ブラウンの "So Long" を歌うのを聞いて、とても良いと思った。著作権を侵害しない程度まで "So Long" のメロディーを変えて "My Song" を作った。」その日のうちに彼らはその曲を録音した。

くすんだ録音にもかかわらず、マティスはアレクサンダーの催眠的な歌い方に印象づけられた。アレクサンダーは、ソニー・ティル Sonny Til などのボーカルグループのバラード歌手に似ていたが、バックにいたのはソフトなボーカルグループではなく、洗練されていないメンフィスのブルーズマンだった。

アレクサンダーは、父親を困惑させたくなかったので、本名を使いたいくなかった。その結果、ジョニー・エイスが生まれた。黒人の文化では、「エイス」は頼れる奴や守ってくれる奴のことを言うが、マティスは別の理由でジョニー・エイスという名前をつけた。「当時の大スターをくっつけたんだ。ジョニー・レイ Johnnie Ray とフォー・エイセス Four Aces だ。」

"My Song" は、マティスがレコードをかけることができる場所でなら、どこでもリスナーに印象づけた。しかし、彼には資金がなかった。彼は配給網を確立しているパートナーを探した。彼が見つけたのはドン・ロビー Don Robey という49歳のヒューストンの企業家だった。

ドン・ロビーは、アイルランドとユダヤの先祖を持つ明るい肌の黒人で、戦後に築いたナイトクラブ帝国のおかげで1950年代にはヒューストンの百万長者の一人になっていた。彼は、黒人が出演する劇場をテキサスに所有していた。タクシー会社も持っていたし、ヒューストンで最高の黒人ナイトクラブも、レコード店も、タレント事務所も持っていた。ピーコックというレコード会社も所有していた。マティスが知らなかったのは、ロビーが武装したボディガードを引き連れたギャング団員だということだった。

ロビーは、1952年7月にデューク・レコーズの権利を半分取得したので、"My Song" を必要なだけ宣伝することができた。"My Song" は1位になり、あらゆるレコード会社がカバーを出した。ダイナ・ワシントン、ハダ・ブルックス、マリー・アダムズ(ロビー自身のピーコック・レーベル)、サバンナ・チャーチルがカバーした。不幸なことに、マティスは半分の分け前をもらうことができなかった。彼が共同経営者としての権利を主張するためにヒューストンのロビーの事務所を訪れると、ロビーは「そんなものはない」と言って、45口径の中を机から取り出した。マティスは、格安の価格でデューク・レコーズの権利の半分を売却した。

1953年夏、ロビーはジョニー・エイスをロサンジェルスに出向かせて、ピーコック・レコーズのビッグ・ママ・ソーントンと組ませた。彼女は「ハウンド・ドッグ」で大ヒットを飛ばしていた。エイスとソーントンは、8か月間、ツアーをして、デュエットも録音した。1954年1月、エイスとソーントンはロサンジェルスに戻った。ロサンジェルスでは、ジョニー・オーティスが、6名のアーティストとともにマラソン・セッションを録音していた。エイスはオーティスと4曲録音した。その中にはエイスが亡くなったあとでヒットした "Pledging My Love " と "Anymore" が含まれていた。

"Pledging My Love" はジョニー・オーティスのバイブとエイスがポロンと弾くピアノで始まる。メロディーは "Down in the Valley" という民謡にとても似ている。"Down in the Valley" は1944年にアンドリューズ・シスターズ Andrews Sisters が、1951年にウィーバーズ Weavers がヒットさせた。歌詞は、若者が女性の耳元でささやくような感じだ。「永遠に、ダーリン、僕の愛は真実だ。いつも、永遠に、君だけのことを愛している。お返しに約束してくれ。君の愛が僕の魂の火をつけて、永遠に燃やしてくれることを。」「永遠」という言葉はマントラのように曲の間じゅう繰り返され、若い愛の完璧な心情になっている。エイスの "Pledging My Love" の興味深い謎は、最後の節でマスターテープに何が起こったかだ。「残りの生涯、僕は君を永遠に愛し続けるよ。けっして僕は君と君の優しい愛し方から離れないよ。」あきらかに、何かがカットされ、つなぎあわされており、耳はそれを無視しようと努力する。

この曲を作った二人のうちの一人はロビー自身だが、彼は残忍な悪漢で、作曲家ではない。もう一人は、ルイジアナ州出身の若い黒人DJ、フェルディナンド・ファッツ・ワシントン Ferdinand "Fats" Washington で、車椅子生活を送っていた。同じセッションで録音した "Still Love you So" と "Anymore" も彼が曲を書いた。フェルディナンドの未亡人ベティ・ワシントンは次のように言う。「彼は "Pledging My Love" を詩として書いた。ロビーのスタジオ・アレンジャー、ジョー・スコット Joe Scott がそれに曲をつけた。彼はファッツが書いた歌詞すべてに曲を書いた。ドン・ロビーはまったく曲を書いていない。」にもかかわらず、ロビーは曲を完全に自分の所有物にした。ベティは続ける。「ファッツは著作権について何も知らなかった。契約のせいで彼はすべての権利を失った。私たちが得たのはBMIが支払ったお金だけだった(ラジオで曲がかかるとBMIはソングライターに代金を支払っていた)。のちにファッツ・ワシントンは幸運を得る。彼が書いた "I'll Be Home" は1955年にフラミンゴスによってR&Bヒットとなり(5位まで上昇)、パット・ブーンによってポップヒットとなった(4位まで上昇)。1960年代には、彼が書いた多くの曲をBBキングが歌った。

"Pledge My Love" の力にもかかわらず、ロビーは、ほぼ一年間、発売しなかった。理由はわからない。エイスは、最新ヒット "Never Let Me Go" をひっさげてツアーをしていた。クリスマスイブの日、エイスは、ヒューストン・シビック・オーディトリアムの楽屋にビッグ・ママ・ソーントンらといた。その一週間ほど前、彼は22口径のピストルを買っていた。バンド仲間たちは、彼がピストルをまわりの人たちに向けたりして、ふざけていたので、文句を言った。その日の夕方、かわい子ちゃんをヒザに乗せていたエイスは、女の子を楽しませようと、ピストルを自分の頭にあてて、引き金をひいた。弾が彼の頭をぶち抜いた。

エイスは幸せな男ではなかった。最後の数か月、女、食べ物、酒におぼれていた。女生徒の活動は食べ物や酒のカロリーを十分に消費するほどではなかったので、20キロ近く太った。死の何日か前に撮影されたスナップ写真の彼は、宣伝用の写真のハンサムな若者とはまったく違っていた。

"Pledging My Love" は、1954年12月始めに発売されてから勢いがなかったが、エイスの死が引き起こしたセンセーションと一般人の悲しみによって、ただちに恩恵を受けた。マスコミはエイスの死をロシアン・ルーレットのせいにしていた。

78回転盤よりも45回転盤の売上げがまさったことは重要だ。R&B市場で新しい流行が始まったことを知らせているからだ。小さな45回転盤は、まず白人の若い購入者を引きつけ、次に黒人のディーンエイジャーを引きつけた。大人は、自分たちが一緒に育った10インチの78回転盤にまだ愛着があった。あきらかに、45回転盤の "Pledging My Love" は、新たな広範囲の聴衆を見つけた。

次の数週間、哀れを誘うジョニー・エイスのトリビュート・ソングが市場に押し寄せた。20年前に歌手兼ピアニストのルロイ・カー Leroy Carr が亡くなったあとのようだった。ジョニー・ムーアのスリー・ブレイザーズ Johnny Moore's Three Blazers が "Johnny's Last Letter" を出してR&Bチャートの15位まで上昇した。エイスの初期のヒット "Please Forgive Me" のメロディーに、理解を乞う自殺メモの歌詞をくっつけたものだった。妊娠していたバレッタ・ディラード Varetta Dillard は、"Johnny Has Gone" と嘆く歌で6位まで上昇した。彼女のレコード会社サボイは、彼女のおなかの子の父親はジョニー・エイスだというデマを流した。リンダ・ヘイズ Linda Hayes は "Why, Johnny, Why?" と訴えた。ジョニー・エイス自身の "Anymore" も、何か月もチャートインした。これもフェルディナンド・ワシントンが作った曲で、"Pledging My Love" と同じときに録音した曲だった。ドン・ロビーは、録音していたエイスの曲がなくなると、新人歌手バディ・エイス Buddy Ace を売り出そうとしたが、この若者はジョニー・エイスの物悲しげな魅力に欠けていた。

1958年、ロックンロール市場が衰えると、ロビーは "Pledging My Love" のオリジナルテープにストリングスとジョーダネアーズ Jordanaires のバックコーラスを加えたが、ありがたいことに、さほど聞いた人はいなかった。1983年、ポール・サイモンが "The Late, Great Johnny Ace" を作り、アルバム Hearts and Bones に収録した。

"Pledging My Love" は何十人もの歌手に歌われたが、たぶん最も皮肉なバージョンは、もう一人の甘やかされて、まわりから孤立して育ったシャイなメンフィスの青年によるものだった。エルビス・プレスリーは、グレイスランドのジャングル・ルームにおける最後のセッションで "Pledging My Love" を録音した。"Way Down" のB面として発売され、1977年8月に彼がなくなると、チャートを上昇した。

(2013年5月16日)

45
Ray Charles
I've Got a Woman
(1954)

  • R&Bチャート1位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: Ray Charles, Renald Richard
  • レベールと番号: Atlantic 1050、ニューヨーク
  • B面: "Come Back Baby" (A面、R&Bチャート4位)
  • 録音日・場所: 1954年11月18日、ジョージア州アトランタ
  • 発売日: 1954年12月終わり
  • なぜ重要か: 多くの点で、50年代のR&Bに終わりをもたらした曲で、初期の60年代ソウルへと進化する非常にゴスペル風の新たな音楽の先駆けである。
  • 影響を受けたのは: "My Jesus Is All the World to Me" by Professor Alex Bradford (1954)
  • 影響を与えたのは: オーティス・レディング、ジェームズ・ブラウン、ウィルソン・ピケット
  • 重要なリメイク:
    Elvis Presley (Elvis Presley, アルバムポップチャート1位、1956)
    Sammy Davis, Jr. (1960)
    Jimmy McGriff (ポップチャート20位、1962)
    Rick Nelson (ポップチャート49位、1963)
    Freddie Scott (ポップチャート48位、1963)
    Ray Charles (ポップチャート79位、1965)
初期の偉大なR&Bソングのほとんどは、ゴスペルにインスパイアされているか、直接利用していると言われている。"I've Got a Woman" の場合は、レイ・チャールズとレナルド・リチャードが曲を作ったとクレジットされているものの、疑いもなくメロディーはスピリチュアルを俗っぽく作り直したものである。

レイ・チャールズのバンドでトランペットを吹いていたレナルド・リチャードは、インディアナ州サウス・ベンドからナッシュビルへツアーのために移動している途中で、レイ・チャールズとともに "I've Got a Woman" を思いついたと語っている。「いつものようにラジオでゴスペルを聞いていたんだ。とてもグルーブのよいスピリチュアルがかかったので、俺たちは曲に合わせて "I Got a Woman" と歌い始めた。レイが「これで何かできないかな」と言った。翌朝までに、彼は、別の曲のために書いた歌詞をラジオで聞いたメロディに組み合わせた。ラジオで聞いた曲は、プロフェッサー・アレックス・ブラッドフォード Professor Alex Bradford の "Jesus Is All the World to Me" で、スペシャルティ・レコーズから発売されたものだった。(のちに、レイ・チャールズは、ほかのスピリチュアルをヒット曲に書き直している。Dorothy Love Coates の "Hallelujah! I Love Him So" は "Hallelujah I Love Her So" になり、"You Better Leave That Liar Alone" は "Leave My Woman Alone" になった。)

間もなく、レイ・チャールズはアトランティックのアーメット・アーティガンとジェリー・ウェクスラーと連絡をとった。ウェクスラーは最初に "I've Got a Woman" を聞いたときのことを次のように説明している。「1954年11月、チャールズは、新しいバンドを聞いてもらうために我々をアトランタに呼んだ。ピーコック・ナイトクラブで午後に彼と会った。彼は我々のためにバンドを待機させていた。我々が場内に入るやいなや、チャールズはカウントをとって、"I've Got a Woman" を演奏し始めた。」

アーティガンの回想によると、チャールズとバンドはしっかり演奏をリハーサルしていた。それまで、レイ・チャールズはニューヨークやニューオリンズでスタジオミュージシャンを使って録音していたが、今度は彼自身のバンドを持っていた。アーティガンは次のように語っている。「彼らはチャールズが何を演奏してほしいか完全に把握していた。彼の頭には、各ミュージシャンが演奏すべき、すべての音が入っていた。」

ドラマーのグレン・ブルックス Glenn Brooks が標準的なニューオリンズのシャッフルビートを刻むと、ドン・ウィルカーソン Don Wilkerson とデビッド・「ファットヘッド」・チャールズ David "Fathead" Charles のテナーサックスとバリトンサックスが鋭い打楽器のようなリフを鳴らす。レイ・チャールズが歌い始める。レイ・チャールズは "I got a woman" と歌っており、"I've got a woman" とは歌っていないが、曲名は文法に従った。

あの素晴らしい「ウェール」という歌いだしは、ビッグ・ジョー・ターナー、ロイ・ブラウン、ワイノニー・ハリスといったブルーズのシャウターの定番となった。曲の始まりを告げ、リスナーの注意をひく工夫となった。2年後、バディ・ホリーは "Rave On" や "Early in the Morning" で、この工夫を新たな高みへと持ち上げた。

アトランタで最高のR&Bディスクジョッキー、ゼナス・シアーズ Zenas Sears は、ラジオ局WGSTでレイ・チャールズと彼のバンドを録音した。レイ・チャールズらは、"Blackjack" "I've Got a Woman" "Greenbacks" "Cme Back Baby" を録音した。

"Come Back Baby" はローウェル・ファルソンの同名曲に基づく、教会で歌われるような曲で、1955年1月半ばにチャートインしたが、DJたちはB面を好み、翌週から "I've Got a Woman" が1位に向けて上昇し始め、R&Bチャートに20週とどまった。"Come Back Baby" は4位が最高だった。同じセッションで録音されたほかの2曲も、1955年にR&Bチャートのトップテンに入った。

レイ・チャールズ・ブラウンは、ジョージア州アルバニーで1930年9月23日に生まれ、フロリダ州グリーンビルで育った。5歳から7歳の間に緑内障で失明した。レイは、近所の店の主人からピアノを習った。のちにサックスも習い、初期には好んで演奏した。

南部の多くの黒人少年のように、彼は教会で育ったので、ゴスペルが骨の髄までしみている。ジュークボックスでは、ジミー・ランスフォード Jimmie Lunceford やラッキー・ミリンダー Lucky Millinder らのスウィングバンドの音楽を聞いた。彼が最初におぼえたのはリル・グリーン Lil Green の1940年のブルーズヒット "Romance in the Dark" だった。ナッシュビルのラジオショー「グランド・オール・オープリー Grand Ole Opry」にも強く影響を受けた。グランド・オール・オープリーは白人のカントリー音楽の厳格な催しだったが、多くの黒人に人気があった。

両親が亡くなったあと、セント・オーガスティンの州立盲人学校を退学して、さまざまなフロリダのバンドと演奏を始めた。その中には、白人だけのカントリーバンド、フロリダ・プレイボーイズ Florida Playboys も含まれていた。レイ・チャールズは15歳だった。彼は盲目の黒人エンターテイナーの流れをくんでいた。ブルーズマンのブラインド・ブレイク Blind Brake、ブラインド・ボーイ・フラー Blind Boy Fuller、ブラインド・レモン・ジェファーソン Blind Lemon Jefferson、ゴスペルグループのファイブ・ブラインド・ボーズ・オブ・アラバマ Five Blind Boys of Alabama、バラード歌手のアル・ヒブラー Al Hibbler の伝統を受け継いでいた。当時、彼に深く影響を与えていたのはナット・キング・コール Nat King Cole とピアニスト兼バラード歌手のチャールズ・ブラウン Charles Brown だった。ナット・コール・トリオのようなバンドを結成し、チャールズ・ブラウンの歌とピアノのスタイルをまねた。レイ・チャールズ・ロビンソンは、ボクサーのシュガー・レイ・ロビンソンと混同されないように、ロビンソンを除外した。ワシントン州のシアトルに引っ越したあと、1949年にダウンビートと契約した。彼が最初に契約したそのレコード会社は、黒人が所有するロサンジェルスのインディーズレーベルだった。すぐに会社は名称をスウィングタイム Swingtime に変えた。会社の同僚にはローウェル・フルソン Lowell Fulson がいて、当時、オリジナルの "Come Back Baby" を録音した。

レイ・チャールズは、最初のレコーディングで、彼はチャールズ・ブラウンのささやくような、洗練された声で歌った。最初のヒット曲は1951年の "Baby Let Me Hold Your Hand" で、あらゆる点から、チャールズ・ブラウン風だった。翌年、アトランティックが2500ドルで彼と契約をするまで、自分らしい声を発見しようとしなかった。彼が作る曲は、まだチャールズ・ブラウン風だったが、外部のブルーズ素材では、ゴスペルを自分の演奏に取り入れ始めた。トーキング・ブルーズの "It Should Have Been Me" は彼の最初の大ヒットとなった。だが、1954年にアトランタのラジオ局で録音するまでは何も起きなかった。天才が出現した!

"I've Got a Woman" を発売してから1年以上たったとき、エルビス・プレスリーがナッシュビルのRCAスタジオに入って、RCAのための最初の録音を行った。最初にテープに録音したのは "I've Got a Woman" で、次の「ハートブレイク・ホテル」のためのウォームアップだった。アトランティックがレイ・チャールズの曲の題名を "I've" にしたように、RCAは10代のリスナー向けに "I Got a Sweetie" に題名を変えた(文法は間違っているが)。プレスリーの荒々しく、エコーのきいたバージョンは1956年のアルバム「Elvis Presley」に収録された。アルバムは10週間一位に君臨し、数百万枚を売り上げ、初めて白人の大衆にR&Bを紹介した。

10年以上たち、別の二人の歌手がポップチャートに "I've Got a Woman" をポップチャートに送り込んだのち、レイ・チャールズは新しいバージョンをABCパラマウントのために録音した。ポップスのアレンジがされており、小ヒットとなった。

(2013年5月25日)

46
Bo Diddley
Bo Diddley
(1955)

  • R&Bチャート1位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: Ellas McDaniel (ボー・ディドリーのこと)
  • レベールと番号: Checker 814、シカゴ
  • B面: "I'm a Man" (A面、R&Bチャート1位)
  • 録音日・場所: 1955年3月2日、シカゴ
  • 発売日: 1955年3月終わり
  • なぜ重要か: ロックンロールに直接アフリカのリズムを取り入れ、"patted juba" ビートを使用したレコードの伝統の先駆けとなった。
  • 影響を受けたのは: "Hambone" by Red Saunders' Orchestra, with Dolores Hawkins and the Hambone Kids (1952)
  • 影響を与えたのは:
    Baddy Holly "Not Fade Away" (1957)
    Johnny Otis "Willie and the Hand Jive" (ポップチャート9位、1959)
    Dee Clark "Hey Little Girl" (ポップチャート20位、1959)
    Strangeloves "I Want Candy" (ポップチャート11位、1965) など何百ものレコード。
自分の名前を歌の題名にして、ヒットさせるなんて、ざらにありゃしない。でも、ボーは、ハンボーン・キッズ Hambone Kids の「ハンボーン Hambone」を借用している。2年前に「モッキングバード」として有名になった伝統的な子供の歌だった。

1952年2月にオーケー・レーベル Okeh Label から発売された「ハンボーン」は、ドラマーのレッド・サンダーズと彼のオーケストラ Red Saunders and His Orchestra とクレジットされており、ドロレス・ホーキンズ Dolores Hawkins とハンボーン・キッズが、ハンボーンとして知られる西アフリカのリズムに合わせて、体を叩きながら歌っている。より正確にいえば、それは「パッテド・ジューバ patted juba」リズムであり、当初、黒人の靴磨き少年たちが流行させたときは、"shave and a haircut, two bits" リズムと呼ばれていた。子供たちは、脚、おなか、胸をドラムとして使用して、リズムを叩いた。豚のもも肉の骨(ハンボーン)は、貧しい南部の家庭が青野菜の煮込みを味つけするのに一般的な食材で、シカゴ南部の学校まで届くまでにジューバ・リズムにこの名前がつけられた。

レッド・サンダーズが「ハンボーン」を録音しようと決めたとき、三人の少年をハンボーン・キッズとして使用して、遊び場風の原型をとどめることにした(三人の少年のうち、Delecta Clark は、のちに人気歌手 Dee Clark となり、彼の最大のヒット "Hey Little Girl [In the High School Sweater]" はハンボーン・ビートを使用することになる)。オーケストラと名づけられているにもかかわらず、サンダーズのバンドのベースとドラム、ドロレス・ホーキンズのうなり声が少々、単純な歌、手の打ちならし、すぼめた唇から出すポンという音しかなかった。「ハンボーン」はR&Bのノベルティ・ソングだった。

しかし、その後、ボー・ディドリーが取り上げて、パッテド・ジューバを増幅させた。彼のエレキギター、レスター・ダペンポート Lester Davenport のハーモニカ、ジェローム・グリーン Jerome Green のマラカス、ルロイ・カークランド Leroy Kirkland のバスドラムとタムタムが調和して、リズムを前へ前へと推し進める。ディドリーは最初「アンクル・ジョン Uncle John」という題名をつけていた。偶然にも、一年後にリトル・リチャードが「ロング・トール・サリー」につけた最初の題名と同じだった。だが、ディドリーがシカゴでこの曲を録音する寸前に、7年前に学校でつけられたニックネームにちなんだ題名にしようと決めた。「友人たちが俺のことをボー・ディドリーと呼び始めたんだ。今でも意味がわからない。でも、キャッチーな名前だ。」

この名前の由来に関してボーはいろんな説明をしているが、もっともらしいと思えるのは、彼が15歳のころにセミプロのボクサーを短期間やっていたことに関係している。"bo diddly" は俗語で「ガキ大将」という意味だった。しかし、彼が作ったギターに由来する可能性もある。1945年、彼は職業訓練学校に入学し、最初のエレキギターを作った(ロサンジェルスのハード・ロック・カフェに現存する)。ディドリーが育ったシカゴ南部のミシシッピー・デルタ地域では、板、クギ、綿糸で作られた一弦ギターを "diddly-bows" と呼んでいた。多くの黒人少年がこのギターを作った。「俺は大工かメカニックになりたくて、音楽で生計を立てたいとは思わなかった。ボー・ディドリーでいることは、自分にとって大きな驚きだ。」

ディドリーは、「ボー・ディドリー」という芸名を、最初のレコードに印刷するまで使ったことがなかった。"Bo Diddley" の "e" は、チェス兄弟がつけ加えたもので、ボーはいまだに "Diddly" とサインしている。

彼は、1928年12月28日か30日にミシシッピー州マッコムの近くの農場でオーサ・エラス・ベイツ Otha Ellas Bates として生まれ、いとこのガッシー・マクダニエル Gussie McDaniel に育てられた。すぐに、彼女の名字がベイツのあとにつけ加えられた。エラスが6歳か7歳のとき、彼らは北上してシカゴに移り住んだ。ティーンエイジャーになると、姉がくれた生ギターを古いラジオに接続した。友人ジェローム・グリーンともう二人で Langley Avenue Jive Cats というグループを結成し、小銭を稼ぐために街角で演奏した。その後、彼は自分のギターを作る。

「一時期、ルイ・ジョーダンのように演奏したかった。弦楽器でだ。マディ・ウォーターズのようにブルーズを演奏しようとしたが、ダメだった。それで、思考錯誤しながら自分自身のものを作り上げざるをえなかった。それがロックンロールと呼ばれているものになったんだ。」

彼の転機となった一枚があるとしたら、それはジョン・リー・フッカーの「ブギー・チレン Boogie Chillen」だった。1949年のR&Bの大ヒット曲だ。「俺はマディ・ウォーターズの大ファンだったので、フッカーのレコードは変に聞こえた。」ディドリーは、フッカーのエレキギターの単調な音だがリズミカルなパワーに引きつけられた。フッカーは、エコーをかけ、増幅させた和音の減衰を利用して、一人で録音したレコードを穴埋めした。

ディドリーと彼のバンドは、何軒かの安酒場で演奏したのち、708クラブで定期的に演奏し始めた。当時のメンバーは、彼のほかに、ハーモニカのビッグ・ボーイ・アーノルド Big Boy Arnold、ドラムのクリフトン・ジェームズ Clifton James、洗濯だらいベースのルーズベルト・ジャクソン Roosevelt Jackson だった。「小さなレコーダーでデモテープを作った。最初はビージェイ・レコーズ Vee-Jay Records に持って行ったが、追い出された。それで、通りの向かいにあったチェス・レコーズに行ったんだ。」

レナードとフィルのチェス兄弟は気に入ってくれたが、ディドリーに自分たちのスタジオで再録音しないかと申し出た。ディドリーのグループのメンバーは誰も組合カードを持っていなかったし、チェス兄弟は自分たちのミュージシャンを使いたかったので、ピアノにベテランのオーティス・スパン Otis Spann を加えた新しいバンドがディドリーにあてがわれた(曲「ボー・ディドリー」のなかでピアノは聞こえないが)。ドラマーのルロイ・カークランドとマラカスのジェローム・グリーンだけが、ディドリーが以前仕事をしたことのあるミュージシャンだった。

標準的な3時間のセッションで、4曲録音した。最初は「アイム・ア・マン」で、「ボー・ディドリー」は三番目だった。あきらかにチェス兄弟は「アイム・ア・マン」がヒット曲として有力だと考えていた。

ディドリーは回想する。「マラカスの演奏の仕方をジェロームに教えた。マラカスは「ボー・ディドリー」にユニークなサウンドをもたらした。あのジャングル風リズムの感じだ。この曲を開始した当初ドラムが入っていなかったので、マラカスで穴埋めしたら、どこか荒野にいるように聞こえたし、エコーがかかった環境では素晴らしい音がすることがわかった。」エンジニアは、マラカスとカークランドのバスドラムとトムトムを強くミックスして、さまざまなリズムを強調した。その結果、この古典的な呼びかけと受け答えの演奏において、ディドリーのボーカルに対する「受け答え」になった。ディドリーのトレモロ・ギターが唯一のメロディをかなでている。その他の楽器は、ハーモニカでさえ、細かく刻んだリズムのパターンを演奏しており、単にビートを持続させる機能しか果たしていない。

チェス兄弟は、子会社のチェッカー Checker からレコードを発売した。当時、チェッカーは、ローウェル・フルソン Lowell Fulson の "Reconsider Baby" とリトル・ウォルター Little Walter の "My Babe" の大ヒットで上り調子にあった。チェッカーは、ディドリーのレコードとともに、当時獲得したばかりのフラミンゴス Flamingos のシングルも発売した。フラミンゴスがヒットを飛ばすまでしばらく待たなければならなかったが、ボー・ディドリーは最初から大ヒットを飛ばした。

1954年のマディ・ウォーターズの「フーチー・クーチー・マン Hootchie Cootchie Man」の流れをくむ「アイム・ア・マン」のほうがレナード・チェスのお気に入りで、当初はこっちを宣伝していた。4月下旬のビルボード誌も「両面ともいいが、今週は「アイム・ア・マン」が優勢である」と書いている。振り返ってみると、当時どっちが本当のヒットだったか見分けるのはむずかしい。両方ともR&Bチャートで1位になったからだ。唯一の違いは、「ボー・ディドリー」が18週間もR&Bチャートにとどまったことで、「アイム・ア・マン」よりも7週多い。その間、ボー・ディドリー自身は6か月間の有名アーティストが集う全米ツアーに出かけることになった。だが、「ボー・ディドリー」はポップチャートに食い込むことはなかった。

すぐに、ファンや批評家たちが歌詞の意味を解明し始めた。「俺の可愛い子が、自分は殺されたと言った my pretty baby said she was murdered」といった歌詞はほとんど意味をなさない。バディ・ホリーは、1956年に「ボー・ディドリー」をデモとして録音したが、「俺の可愛い子は、自分は鳥だと言った my pretty baby said she was a bird」と解釈している。ホリーが1959年に亡くなったあとダビングされたバージョンは1964年にイギリスのチャートに入った。ディドリー自身は次のように言っている。「みんな理解していない。歌詞を台なしにしている。そんなんじゃないんだ。「俺の可愛い子は、困ったことになったと言った my pretty baby said she was for it」が本当だ。

奇妙なことに、バディ・ホリーは、最も印象的な「ボー・ディドリー・ビート」を披露している。1957年、ホリーは彼の最良の "Not Fade Away" を発売した。B面のクリケッツ名義の "Oh Boy" はチャートに入ったが、"Not Fade Away" はチャートに入らなかった。1964年、ローリング・ストーンズの最初のアメリカでのヒットとして再浮上し、その後、何度も演奏されている。ホリーのディドリーに対する敬意をレコーディングした多くのアーティストの一人は、ボー・ディドリー自身で、1970年初期のことだった。

1955年11月20日、DJのトミー・「ドクター・ジャイブ」・スモール Tommy "Dr. Jive" Small のR&Bコンサートの一環としてラバーン・ベイカーやファイブ・キーズとともにニューヨークに出演した際、CBSテレビの土曜夜の「エド・サリバン・ショー」のプロデューサーたちが15分間のコーナーで彼らを紹介することに決めた。このとき初めて純粋なリズム・アンド・ブルーズが全米のテレビで披露された。「俺は「ボー・ディドリー」と「アイム・ア・マン」を歌うことになっていた。テネシー・アーニー・フォードが「16トン Sixteen Tons」でヒットを飛ばしていて、楽屋で俺が歌うのを聞いた奴らが、それも歌わないかと持ちかけてきたので、「かまわない」と言った。そのとき、俺は追加で歌うと思っていたんだ。それは誤解だった。奴らは「ボー・ディドリー」のかわりに「16トン」を歌ってもらいたかったんだ。もし俺がそれをやっていたら、今の俺はいないだろう。チェス・レコーズが俺をクビにしただろうから。」

テレビのスタッフたちは、何度も「16トン」のレコードをかけてディドリーが「16トン」を歌う準備をし、演奏中に彼に見せるための歌詞カードまで用意した。だが、ディドリーは字を読むのが下手だったので、「16トン」の代わりに「ボー・ディドリー」を演奏した。「カードには「16トン」の歌詞が書いてあったのかもしれないが、俺に見えたのは「ボー・ディドリー」の歌詞だけだった。」

ディドリーは、ジャングル・リズムに都会的な技術を組み合わせて、たんなるエレキギターから、あらゆる種類の小物が装備されたV型や箱型のギターへと進化した。

ボー・ディドリーは、1959年までに二つのレコードをポップチャートに食い込ませたが、チェスとチェッカーの同僚、チャック・ベリーほどの成功を得ることはできなかった。それでも、他のロッカーたちに対する彼の影響は同じぐらい深い。特にイギリスの有名なミュージシャンたちに影響を与えた。

チェスの他のミュージシャンたちと同様、印税を全額もらっていないという不満をのちに述べている。「3万枚売れたと聞いたのに、本当は23万枚売れていた。3万枚で満足したら、奴らはそれ以上の印税をネコババするのさ。」

でも、彼はチェス・レーベルを信頼していた。「俺はレナードとフィルのチェス兄弟に敬意を持っている。最初のロックンロールのレコード会社を設立したからね。俺たちはリズム・アンド・ブルーズと呼んでいたが、それはロックンロール以外の何物でもなかった。」ボー・ディドリーは、2か月前に登場したチャック・ベリーとともに、ブルーズの会社をロックンロールの会社に変えた。もう、どちらのジャンルも元には戻ることができなくなる。

(シネシャモ日記2013年6月5日)

47
Chuck Berry
Maybellene
(1955)

  • R&Bチャート1位 (11週)、ポップチャート5位
  • カテゴリー: カントリー風R&B
  • 作者: Berry, Fratto, Freed (のちにチャック・ベリーのみ)
  • レベールと番号: Chess Records 1604、シカゴ
  • B面: "Wee Wee Hours"
  • 録音日・場所: 1955年5月21日、シカゴ
  • 発売日: 1955年7月
  • なぜ重要か: R&Bにカントリーを混ぜた黒人アーティストによる最初のポップスヒットで、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフなどが所属するブルーズ専門レーベルのチェスを本流に引き入れた。
  • 影響を受けたのは:
    Bob Wills and the Texas Playboys の "Ida Red" (1938) "Ida Red Likes the Boogie" (カントリーチャート10位、1950)
    Arkie Shibley "Hot Rod Race" (カントリーチャート5位、1950)
  • 影響を与えたのは:
    Eddie Cochran "Twenty Flight Rock" (1957)

    Elvis Presley "Jailhouse Rock" (ポップチャート1位、1957)
    チャック・ベリー自身 "Nadine" (R&Bチャート23位、1964)
    Big John Greer, Mercy Dee "Come Back, Maybellene" (1955)
  • 重要なカバー: Marthy Robbins (カントリーチャート9位)、Jim Lowe (R&Bチャート13位)
  • 重要なリメイク: Johnny Rivers (ポップチャート12位、1964)
ロックンロールの歴史家のなかには、1955年のカリプソ・レコード "Oh Maria" というジョー・アレクサンダーとキューバンズ Joe Alexander and the Cubans をチャック・ベリーの最初の録音としている(ベリーがギターを弾いている)。メンフィスのデューク・レコーズ Duke Records のデビッド・マティス David Mattis は、1952年に彼とデモを録音していると主張している。だが、どちらの話もベリー自身が否定している。彼は公式な見解を支持している。「メイベリン」が最初のレコーディングであると。

1926年10月18日に生まれたチャールズ・エドワード・アンダーソン・ベリー Charles Edward Anderson Berry はでティーンのアイドルになりそうには見えなかったが、ニューヨークのDJアラン・フリードの助力によって1955年夏に「メイベリン」を発売した(フリードは作者のクレジットに加えてもらうことを条件にレコードを宣伝した)。チャックは30歳近かったし、美容師の免許を持った既婚者で、子供が二人いた。だが、彼の心は若かった。彼は19歳の若者よりもうまく思春期の歌を書くことができた。メイベリンのキャデラック・クーペ・デ・ビルに対抗して走るチャックのV-8フォード。エンジンは狂ったように動き、激しく打ちつける雨のなかで湯気を立てる。

チャック・ベリーは10代半ばでギターを弾き始めたが、最初はブルーズだった。高校で初めて演奏したとき、ウォルター・ブラウン Walter Brown の1941年のヒット曲 "Confessin' the Blues" を歌った。だが、白人のクラブでもうかる仕事をしたかったので、スタンダードやカントリーの曲を演奏するようになった。彼に強く影響を与えたのは、ジャズ・ギタリストのチャーリー・クリスチャン、カール・ホーガンとハム・ジャクソン(ルイ・ジョーダンのバンドのギタリストたち。ジャクソンをフィーチャーしているルイ・ジョーダンの "Saturday Night Fish Fry" はチャック・ベリーの "Reelin' and Rockin'" の原型である)、ジャンゴ・ラインハルト、マディ・ウォーターズ、Tボーン・ウォーカーだった。Tボーン・ウォーカーの特徴的なブルーズのリック(よく使われる短いフレーズ)は、ベリーのいくつかの曲に登場し、のちに「チャック・ベリーのリック」と呼ばれるようになる。もう一人の師匠はフロイド・マーフィで、彼のギターはジュニア・パーカーのブルー・フレイムズがサン・レコーズで録音した曲ではっきり聞こえる。「メイベリン」におけるベリーの演奏は、パーカーの1953年の "Mystery Train" におけるマーフィのソロを引用している。実際、「メイベリン」のリズムは、自動車よりも列車のリズムを思わせる。

ピアニストのジョニー・ジョンソンは、1952年のクリスマス直後にチャックがサー・ジョン・トリオに加入したことをおぼえている。すぐに、チャックはサックス奏者に取って代わる。「チャックにはショーマンシップがあった。おどけていたし、ダック・ウォークを思いついたし、彼が書く曲は独特だった。それで、コンサートは大盛況だった。」ジョンソンによると、ベリーは当初からシャッフル・ブギを演奏していた。「実際にはどれも同じパターンだった。キーが違うだけだ。」

マディ・ウォーターズのコンサートのあとでアドバイスをもらったチャックは、シカゴまでドライブし、チェス兄弟のオーディションを受けた。79ドルのテープレコーダーを使って彼とジョニー・ジョンソンが居間で録音した2曲が収録されたテープを渡した。二人は、"Wee Wee Hours" というオリジナルのブルーズをプッシュしたが、レナード・チェスは二曲目の "Ida May" に興味を持った。彼はベリーに録音しに来るように申し出たが、題名が田舎っぽすぎるので変えるよう提案した。美容師としての経験から、ベリーはインスピレーションを得るのにメイベリンの化粧品以外のものを必要としなかった。5月21日にシカゴに再び出向き、チェスのスタジオで録音した。たぶんメイベリン社から訴訟を起こされるのを心配して、スペルを "Maybelline" から "Maybellene" に少し変えた。

ジョニー・ジョンソンは次のように回想する。「あれはチャックが書いたウエスタンで、俺たちが演奏しているのをレナード・チェスが聞いたんだ。彼は気に入ってくれたが、曲名がなかった。スタジオの隅にマスカラの箱が置いてあったので、レナードが「メイベリンにしよう」と言ったんだ。」(別の話では、メイベリンは、チャックが小学三年だったときの牛の名前である。)

"Ida May" は、 "Ida Red" という古いスクエアダンスの曲に影響されている。1938年にウエスタン・スイングのフィドラー、ボブ・ウィルス Bob Wills がヒットさせた。そのときチャックは12歳だったが、ウィルスはその後何度も録音している。1946年のバージョンは、レスター・バーナード Lester Barnard による短いギターソロがフィーチャーされており、ベリーに影響を与えたと考えられている。"Ida Red" と「メイベリン」の歌詞の構造は非常に似ている。だが、「メイベリン」のくりかえし部分は相当変えていて、まったく違う二つの曲をつなげているような感じだ。もちろん、歌詞は純粋にチャック・ベリーのそれだ。

ベリーの「メイベリン」は、ロバート・ジョンソンの最初のレコード "Terraplane Blues" (1936) 以前にさかのぼるブルーの伝統を受け継ぐ車の歌である。だが、歌詞は、モダンでホットロッドで、白人の若者が好きそうなものである。ホットロッドの歌は、アーキー・シブリー Arkie Shibley の "Hot Rod Race" が50年代初期にいくつものカバーやアンサーソングをもたらして以降、少なくとも5年の歴史があるが、ベリーはハイウェイでのレースを曲に適合させた最初の黒人パフォーマーだった。「メイベリン」はベリーには珍しい曲だった。彼の本流は "Wee Wee Hours" にあった。Stick と Brownie McGhee が1951年に録音した "Wee Wee Hours" や、1942年の "Mean Ol' World" などのTボーン・ウォーカーの曲に似ていた。"Wee Wee Hours" はチャック・ベリーが自分の名前を確立しようとした曲だった。

このセッションで、レナード・チェスは、サウンドを豊かにするために、ジョンソンのバンドに二人加えた。ベテランのブルーズマン、ウィリー・ディクソン Willie Dixon がスタンダップ・ベースを演奏し、ボー・ディドリーのバンドのマラカス奏者ジェローム・グリーンも参加した。チェスは、ミックスの際にグリーンのマラカスを前面に押し出したが、ベリーの驚くほどフレッシュなギター演奏のために、リスナーはほとんど気づかなかった。

ホーンのように聞こえるベリーの刺すようなギターのイントロから、2分20秒後にフェイドアウトするまでの間に、「メイベリン」は新たな音楽のジャンルを形成した。ギブソンのエレキギターで演奏するフレーズは基本的にR&Bだが、彼が加えるトワンギーで、鮮明で、double-stringed のリズムはカントリーの風味を与えている。

ベリーは、基本的なAABのブルーズ形式で歌い始める。続いて彼のV-8フォードとメイベリンが乗ったクーペ・デ・ビルとのレースとなり、丘の上でクーペ・デ・ビルをとらえる。

それでも、「メイベリン」が動き出す前に、チェスは少しガソリンを注入しなければならなかった。チェス兄弟は、DJのアラン・フリードと取引し、彼を共同作曲家にすることで、ムーングロウズの "Sincerely" と "Most of All" をヒットさせたことがった。「メイベリン」で、フリードは、ソングライターとして名を連ね、3分の1の印税を得た。(シカゴのレコード配給業者 Russ Fratto も「メイベリン」の録音セッションに参加したと言われており、曲をダビングしたものを個人的にフリードに持って行った。)Fratto は彼の配給網で「メイベリン」をプッシュしたし、フリードは影響力の強い彼のラジオショーで何度も「メイベリン」をかけた。(ベリーは1986年に「メイベリン」の著作権を完全に取り戻した。)

「メイベリン」は1955年8月にR&Bチャートに入り、11週間一位にとどまった。B面の "Wee Wee Hours" もR&Bヒットとなった。「メイベリン」はポップスチャートにも入り、5位まで上昇した。ボー・ディドリーの成功とともに、ベリーは伝統的でゆるぎないシカゴブルーズを売れないものにした。突然、ベテランのブルーズマンが昨日の新聞のように古臭いものとなった。その多くは、ベリーとディドリーのチェスでの同僚たちだった。

まだサン・レコーズの比較的無名の歌手だったエルビス・プレスリーは、ベリーに敬意を表して、「ルイジアナ・ヘイライド」カントリー・ラジオ・ショーで「メイベリン」を歌った。

別のチャック・ベリーの曲「メンフィス」をリバイバルヒットさせたジョニー・リバーズは、1964年に「メイベリン」をリメイクした。両方とも大ヒットした。より重要で、より間接的なことは、「メイベリン」のユーモラスでわかりやすい歌詞とベリーのその後の曲は、ビーチボーイズの初期のヒットに影響を与えた。さらに、ベリーの鋭いフレーズは、バンドのヘビーなリズムとともに、ローリング・ストーンズのサウンドの原型を作った。

ベリーは、その後、ロックの基盤だと今日考えられている音楽を録音し、"Rock Rock Rock" や "Go, Johnny, Go" など何本かの映画にも出演した。後者の映画では、演奏のみならず、セリフもしゃべった。50年代のロックンローラーとしては珍しい。のちに、たびたび法に触れたことで彼のキャリアは脱線してしまった。60年代にときおりヒット曲を出し、1972年に「マイ・ディンガリング My Ding-A-Ling」がポップチャートで1位になったものの、これらの曲は初期作品の活気や革新に欠けていた。ベリー自身がひからびただけでなく、ジョニー・ジョンソンのブルーズバンドによるしっかりしたバック演奏もなくなった。振り返ると、ジョンソンのリズミカルなピアノは、ベリーのギターぐらい重要だった。キース・リチャーズは、「メイベリン」などの初期のベリーのヒット曲はギターよりもピアノにマッチしたキーで演奏されていることに気づくことで、チャック・ベリーの名曲に対するジョンソンの貢献を強調した。

今日のチャック・ベリーは、1987年の映画 "Hail! Hail! Rock n Roll" で主題として扱われたあと、アメリカで偶像視されている。彼のコンサートは、リハーサルなしで、気が抜けており、調子が狂ったものだ。音楽に関心のある者なら、聴くのが苦痛だ。だが、慣習はそんなの気にしない。「メイベリン」のようなオールディーズの間じゅう気取って歩く限り、まるでロックンロールの創造を再び目撃しているかのように感じるからだ。

(2013年6月14日)

48
Little Richard
Tutti Frutti
(1955)

  • R&Bチャート2位 (6週)、ポップチャート17位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: Dorothy LaBostrie, Richard Penniman, Lubin
  • レベールと番号: Specialty 561、ロサンジェルス
  • B面: "I'm Just a Lonely Guy (All Alone)"
  • 録音日・場所: 1955年9月14日、ニューオリンズ
  • 発売日: 1955年10月
  • なぜ重要か: リトル・リチャードがロックンロール最初のワイルド男として確立した。
  • 影響を受けたのは:
    Slim and Slam "Tutti Frutti" (ポップチャート3位、1938)
    Slim Gaillard "Tutti Frutti" (1945)
  • 影響を与えたのは:
    Otis Redding "Shout Bamalam"(彼の最初のレコード)
  • 重要なカバー: Pat Boone (ポップチャート12位)、 Art Mooney
  • 重要なリメイク: Elvis Presley (アルバム Elvis Presley、ポップチャート1位、1956)、Little Richard
リトル・リチャードは言う。「本当に家をぶち壊す一曲は「トゥッティ・フルッティ」だった。歌詞は卑猥だった。「トゥッティ・フルッティ、すてきなケツ、合わなくても無理すんな、グリースを塗れば簡単になるよ。」白人は大笑いするが、黒人はそんなに好きじゃない。奴らはブルーズが好きなんだ。それで「トゥッティ・フルッティ」を録音しようと思ったことはなかったが、やってしまったんだな、これが。」この曲の録音にはもうひとつの障害があって、それはアナルセックスに関する歌らしいということだった。

リトル・リチャードは曲の由来をはっきり知らないが、彼の初期の師匠である故R&Bシンガーのビリー・ライト Billy Wright との付き合いのなかで取りあげた可能性がある。リトル・リチャードに派手で陽気なライフスタイルを紹介したのはビリー・ライトだった。「衣装も髪型もメーキャップも彼を真似たんだ。メーキャップをした男なんて見たことがなかったから。」リチャードは、ボーカルのイントネーションもライトから借用した。それは、彼の最初のレコーディングで披露している。1951年、ライトは、リチャードがRCAビクターと契約するのを手助けした。

リチャードは、サウス・キャロライナの歌手兼ピアニスト、エスキュー・リーダー Eskew Reeder (芸名エスケリータ (Esquerita) から、この曲の初期のバージョンを取りあげた可能性もある。リチャードは次のように言う。「ジョージア州メイコンのグレイハウンド・バスのターミナルでこの陽気な奴と出会った。俺がエスケリータを家に連れてくると、彼はピアノで "One Mint Julep" を演奏し始め、甲高い音を出した。「どうすれば、そんな音が出せるんだい」と俺が聞くと、「教えてやるよ」と彼が答えた。俺が本当に演奏し始めたのはそのときだ。フレージングに関しては多くを彼から習った。彼は本当にたくさん教えてくれたんだ。」(のちにエスケリータはキャピトル・レコーズと契約し、「新しいリトル・リチャード」として売り出されたが、彼の声はハスキーすぎたし、彼のレコードは雑然としていた。)

1986年に亡くなる前、エスケリータは、「俺がリチャードと会ったとき、彼はまだオブリガートの「フゥー!」という声を使っていなかった。まともな歌い方だった。」「オブリガートの叫び声」は、オペラを勉強していた姉妹たちから何年も前にいただいたものだった。だが、リトル・リチャード自身は、「クララ・ワード・シンガーズ Clara Ward Singers にマリオン・ウィリアムズ Marion Williams という女性がいて、彼女が「神を愛している、フゥー!」と歌っていて、そこからもらった」と言っている。

さらにさかのぼれば、スリム・ゲイラード Slim Gaillard が1938年と1945年に録音した「トゥッティ・フルッティ」をリチャードが聴いた可能性がある。1938年のは当時ヒットした。トゥッティ・フルッティは、刻んだフルーツが入ったイタリアのお菓子で、ゲイラードがいつものようにナンセンスな歌詞にするようなフレーズだった。多彩な黒人のジャズマンであるゲイラードは、淋病を持った売春婦の隠語で表現した "Flat Foot Floogie (with the Floy Floy)" のような風変わりなレコードを出していた。1946年、ゲイラードは、「プティ、プティ、プティリー、フーティ、プティリー、ブーティ」という歌詞のバカげた歌 "Cement Mixer" でポップヒットを飛ばした。ゲイラードの「トゥッティ・フルッティ」は、リトル・リチャードが何年もたってから歌ったものと似ている。リトル・リチャードの歌詞は新しいが、コーラス部分はゲイラードの「トゥッティ、フルッティ、フルッティ、トゥッティ、フルッティ、フルッティ、トゥッティ、フルッティ、フルッティ」とさほど違わない。

1953年にリトル・リチャードがバンドを組むまで、ビリー・ライトやエスケリータのような髪型で、ピアニスト兼歌手のファッツ・ウォーラーのように空に向けて目をぐるぐる回しながら、彼自身の「トゥッティ・フルッティ」を歌っていた。ウォーラーのように、意味ありげに微笑み、鉛筆のように細い口ひげをしていた。リトル・リチャードは、あきらかに、自分の環境の統合者だった。彼は、初期のR&B歌手活動が失敗に終わったあと、メイコンのバスステーションで皿を洗いながら、この曲を練っていた。「ボスに言い返すことができなかったから、かわりに「ウォプ、ボップ、ア、ルー、ボップ、ア、ロップ、バム、ブーム」とか言ってたんだ。ボスは俺が何を考えているか、わからなかった。「トゥッティ・フルッティ」は、皿を運んだり、ポットやなべを洗ったりする負担を減らすために歌ってた。」

リチャード・ウェイン・ペニマン Richard Wayne Penniman は1932年12月5日にメイコンで生まれた。彼の家族は敬虔な安息日再臨派(セブンスデー・アドベンチスト)で、祖父と二人の叔父が牧師だった。リチャード自身も聖歌隊で育ち、教会のピアノを弾いた。しかし、父親が彼の女性的な言動をバカにしたこともあって、16歳になるまでに家族から離れた。彼は地元の安酒場で演奏した。ラジオ局のタレント・コンテストで優勝した。その賞品はRCAとの契約だった。

リトル・リチャードがRCAに在籍した期間は短かったし、ヒューストンのピーコック・レコーズのために二度ほど録音セッションを行ったが、何も起きなかった。だが、彼はしつこかった。ロイド・プライス Lloyd Price のアドバイスで、リチャードはロサンジェルスのスペシャルティ・レコーズのアート・ループ Art Rupe にデモテープを送った。スペシャルティは3年前にロイド・プライスの「ローディ・ミス・クローディ」をヒットさせていた。ループは最初リチャードから感銘を受けなかった。ビリー・ライトらに似すぎていたからだ。だが、スペシャルティの37歳の新人A&Rマンでバンドリーダーのロバート・ブラックウェルがリチャードには何かあると感じた。ブラックウェルには新人を発掘する才能があった。過去に、レイ・チャールズとクインシー・ジョーンズを彼のバンドに参加させたことがあった。

ブラックウェルの提案で、彼とループは、スペシャルティが多くのミュージシャンを録音したニューオリンズに出向いた。彼らはリトル・リチャードと契約を結び、丸二日間レコーディングをすることにした。ループは、リチャードの才能やブラックウェルの制作能力をよく知らなかったので、たくさんの音源が欲しかったのだ。リチャードはリハーサルを積んだバンドを持っていたが、コジモ・マタッサのJ&Mスタジオミュージシャンを使うことにした。彼らは、ファッツ・ドミノがインペリアル・レコーズから出したヒット曲だけでなく、スペシャルティの多くのレコードでも演奏していた。ブラックウェルは、ヒューイ・スミス Huey Smith もピアニストとしてや知った。のちに、スミスは、"Rockin' Pneumonia and Boogie Woogie Flu" と "Sea Cruise" というヒット曲を飛ばした。テナーサックスのリー・アレンとレッド・タイラー、ギタリストのフランク・フィールズ、ドラマーのアール・パーマーらは、もはや「ファッツ・ドミノのバンド」とは呼ばれなくなることに気づいた。その年の終わりまでに、レコード会社がニューオリンズに押し寄せてきて、J&Mスタジオで彼らと録音することになるだろう。なにしろ、彼らは「リトル・リチャードのバンド」なんだから。

ブラックウェルは1985年に亡くなる少し前に次のように語った。「スタジオは家具店の裏にあって、普通のモーテルのような部屋だった。部屋に入るとグランドピアノが置いてあった。私はグランドピアノのふたを開け、マイクを入れて、サックス奏者のアルビン・テイラーとリー・アレンに音を吹き入れさせた。アール・パーマーのドラムはドアの外にあり、そこにもマイクを置いた。ベースはスタジオの反対側だった。」

当時、プロデューサーは、バンドがウォームアップしている間に、ヘッドフォンを聴きながら、音のバランスを調整しなければならなかった。「もし音がうまくいっていなかったら、マイクを持ってあちこち動き回らなければならなかった。部屋の中でバランスをとるのに45分から1時間かかった。」

最初の日、9月13日、リトル・リチャードとバンドは、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが書いたリトル・ウィリー・リトルフィールド Little Willie Littlefield の "K.C. Lovin'" を含む4曲を録音した。スペシャルティは、のちにこの曲を「カンザス・シティ」として発売する。しかし、概して、その日のリトル・リチャードの選曲は平凡で、ブラックウェルはガッカリしてスタジオを離れた。

翌日も4曲録音することになっていた。ドロシー・ラボストリー Dorothy LaBostrie という地元の少女が書いた "I'm Just a Lonely Guy" という曲が含まれていた。ブラックウェルは次のように述べる。「自分の曲を録音してくれとしつこくせがまれた。どの曲も同じだったが、この曲は歌詞が良かったので、録音することにした。ループがレコードにできる良い曲を二曲ロサンジェルスに持って帰らなければならなくて、そのうちの一曲はドロシーの曲だと思った。だが、リチャードが用意した曲はヒットしそうになかったので、不安になった。録音が張り詰めたムードになったので、リラックスするために休憩をとった。その間、リチャードが「トゥッティ・フルッティ」を軽く歌っているのを聴いたんだ。それはナイトクラブの歌だった。だが、きわどい歌詞だったので、使い物にならなかった。」

幸いにも、ラボストリーが自分の曲の録音がどうなっているかうろついていた。「彼女をスタジオに呼んで、歌詞をきれいにしてもらうことにした。リチャードは、彼女の前できわどい歌詞を歌うのを恥ずかしがった。それで背を向けて歌ったんだ。壁に向かって。リチャードは三回歌った。最後にドロシーが言った。「もう十分よ。」彼女が新しい歌詞を持って入ってきたのは、セッションが終わる予定時刻の15分前だった。ピアニストのヒューイ・スミスはこの曲を知らなかので、リチャードに演奏させた。マイクと彼とピアノの間にセットし、別のマイクをピアノの中に入れた。バンドはホットになっていて、バランスも良かったので、「トゥッティ・フルッティ」を演奏した。時間切れになるまで、2度か3度演奏しただけだった。」皮肉なことに、この汚いちょっとした曲は、リトル・リチャードのゴスペル風の歌い回しとクララ・ワード・シンガーズからいただいた「フウーーー!」で彩りを添えたために、ほとんどスピリチュアルのようになった。このようなゴスペルの強烈さを持つ曲は商業市場になかった。

「スーという名前のギャルがいた。自分が何をすればいいか知っている。東にロックして、西にロックして。俺が一番愛した女なんだ。」アート・ループがこの曲を聴いたとき、彼はノベルティとしてこの曲をはねつけたが、十分に売れるほど変わっていると思った。だが、まず、修正が必要だった。J&Mスタジオは壁と床と天井に詰め物をいっぱいしていたので、自然なエコーがなかった。それで、テープをプレスのためのマスターディスクに移す際、ループは、少しエコーを加え、音を高くするためにテープを速くすることで、曲を活気づけた。

セッションの前に、リトル・リチャードは、アーティスト兼ソングライターとしてスペシャルティの標準的な契約を結んだ。今日の基準では、彼のアーティストとしての印税「レコード一枚につき0.5セント」はわずかだ。リトル・リチャードの楽譜出版権に関しては、リチャードは「50ドルでスペシャルティに売った」と言っている。作者にはルビンという怪しげな名前が加えられているが、これはアート・ループの別名だろう。

テネシー州ナッシュビルのラジオ局WLACの番組 "Randy's Record Mart" のDJジーン・ノーブルズが「トゥッティ・フルッティ」をかけているのをリトル・リチャードが聴いたのはメイコンの自宅でだった。「曲が流れたので、「母さん、俺だよ!」と叫んだ。」有名な通販レコード店の所有者ランディ・ウッドは「トゥッティ・フルッティ」を大変気に入って、自分のレーベル、ドット・レコーズでカバーすることにした。歌ったのはテネシー州出身のハンサムな歌手、パット・ブーンだった。リトル・リチャードのオリジナルは、インディーレーベルの黒人レコードとしてはポップチャートで善戦したが、ブーンのバカバカしく礼儀正しいカバーのほうがはるかに売れた。

ブラックウェルは、白人のカバー歌手をくじけさす唯一の方法は次の曲をもっと速くすることだと判断した。「「ロング・トール・サリー」では、速く速く歌わせた。録音が終わると、リチャードのほうを向いて、「パット・ブーンがついていけるかどうか見てみようじゃないか」と言ったんだ。」パット・ブーンはカバーを出して、100万枚売った。

たぶん、「トゥッティ・フルッティ」の最も奇妙なカバーは、アート・ムーニーのバンドによるものだった。オシー・スミス Ocie Smith というバンドの若い歌手は、のちにO.C. Smith という名前で二曲ほどヒットを飛ばす黒人だが、コピーしたのはリトル・リチャードのではなく、パット・ブーンのバージョンだった。

リトル・リチャードは「トゥッティ・フルッティ」のいくつかのバージョンを出しているが、どれもオリジナルには及ばない。1964年、ヴィージェイ・レコーズ Vee-Jay Records はスペシャルティ時代のヒット曲数曲を再録音させたが、それらはひどい!だが、それらはアルバムに収録されて、オリジナルでもあるかのように販売されている。常にスペシャルティの商標を探すこと。

(2013年6月19日)
49
Carl Perkins
Blue Suede Shoes
(1956)

  • カントリーチャート1位、R&Bチャート2位、ポップチャート2位
  • カテゴリー: ロカビリー
  • 作者: Carl Perkins
  • レベールと番号: Sun Records 234、テネシー州メンフィス
  • B面: "Honey Don't"
  • 録音日・場所: たぶん1955年12月18日、メンフィス
  • 発売日: 1956年1月1日
  • なぜ重要か: 最初のロカビリーヒットで、ビルボード誌のポップ、カントリー、R&Bチャートすべてで1位近くまで上昇した。サン・レコーズをロカビリーの本拠地として確立させ、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、その他あまり成功しなかった多くのミュージシャンを引き寄せた。
  • 影響を受けたのは:
    ハンク・ウィリアムズ、ギタリストの "Butterball" Page と Arthur Smith, ブルーズマンの John Westbrook
  • 影響を与えたのは:
    若者の派手な服装をたたえた何十ものロカビリーレコード。たとえば Gene Vincent の "Red Bluejeans and a Ponytail" (1956)、パーキンズ自身の "Pink Pedal-Pushers" (1958)、Dodie Stevens の "Pink Shoe Laces" (ポップチャート3位、1959)
    パーキンズのレコードはリッキー・ネルソンやジョージ・ハリソンにも影響を与えた。
  • 重要なカバー: Elvis Presley (ポップチャート20位)、Boyd Bennett (ポップチャート63位)、Pee Wee King、 Lawrence Welk
  • 重要なリメイク: Johnny Rivers (ポップチャート38位、1973), John Lennon (1975), the Toy Dolls (1983), Con Hunley (カントリーチャート49位、1986)
17世紀のフランスでは、なめしていないキッド革でできたスウェーデン製の手袋が大流行した。フランス人はそれを grants de suede(スウェーデン製の手袋)と呼び、柔らかい毛の表面をスウェードと呼ぶようになった。1950年代初期までに、スウェード革やスウェードの布(スウェードのように見える織物)で作られた靴がオシャレなアメリカの黒人の間で流行した。1951年、アルトサックスのチャーリー・パーカーがマーキュリー・レコーズで "My Little Suede Shoes" を録音した。2年もしないうちに、メンフィスあたりの若い白人の男たちがビール・ストリートの黒人の衣料店にやってきて、ひもや伊達男が好んだピンクや黒の服で着飾った。おしゃれでクルーな男の必需品となったのは、スウェードの靴で、さまざまな色に染められていた。

カール・パーキンズは、テネシー州ジャクソンでホンキートンクを演奏していたとき、相手の女性よりも靴がする減らないことに気を使っていたダンサーを観察した。彼は、サン・レコーズの同僚ジョニー・キャッシュが最近彼に語ったことを思い出させた。キャッシュは、空軍で知った黒人について笑いながら語った。彼は、ピカピカに磨いた政府支給の靴を踏むなよと冗談交じりに警告していた。彼は、その靴をブルー・スウェード・シューズと呼んだ。何日かたった夜、パーキンズの頭に二つの出来事がうづまいて、起き上った。「スウェードはあのあたりで流行し始めていた。朝の3時ごろだった。俺は横になって、若者のことや、彼がどれだけ自分の靴を愛しているか考えた。だが、どうやって曲を始めていいのかわからなかった。そのとき古い子守唄が思い浮かんだ。"One for the money, two for the show, three to get ready and four to go"。彼は一階に降りて、ギターをつかみ、ジャガイモの袋にペンで曲を書きはじめた。15分もしないうちに、彼は「ブルー・スウェード・シューズ」を書きあげた。

「俺が歌っていると、女房が叫ぶんだ。「あんた、うるさすぎるわよ。子供たちが起きるじゃない。でも、誰の曲なの」「俺たちの曲さ」と答えたら、「それはヒットするわ」と言ったんだ。」

カール・リー・パーキンズ Carl Lee Perkins は、1932年4月9日に生まれた。テネシー州の北西部のミシシッピー川近くだ。「最初のギターは、俺が4歳か5歳のとき、父親が作ってくれたんだ。煙草の箱にほうきの取っ手をつけたものだったが、俺はそれが好きだった。」

パーキンズの人生と音楽は「グランド・オール・オープリー」の影響を受けている。家には電気がなかったので電池のラジオで父と一緒に聞いた。近くに住んでいた黒人の小作人にも影響を受けた。「オープリー」によって彼は二人のギター・ヒーローを知った。「バターボール」ペイジ "Butterball Page" とアーサー・スミス Arthur Smith だ。前者はアーネスト・タブ Earnest Tubb のバンドで一弦ギターを弾いていた。後者の1948年の「ギター・ブギー Guitar Boogie」(最初のロックンロール12曲目)は "git-fiddle" pickin' の新たな基準を確立した。この番組によって、パーキンズはハンク・ウィリアムズを知った。のちに、パーキンズは初期のレコードで彼のマネをしている。だが、最もパーキンズに影響を与えたのはブルーズマンのアンクル・ジョン・ウェストブルック Uncle John Westbrook で、畑の真向かいに住んでいた。

「夜、いつも彼は表のポーチに座っていた。バケツに詰めた油布を燃やして、蚊よけにしていた。「俺は、アンクル・ジョンのところに行って、彼がギターを弾くのを聞いていいかと父に頼んだ。俺の残りの生涯で何をやりたいのかを知るインスピレーションを与えてくれたのは彼だった。あのシンプルで小さいギターで彼が作り出すサウンドが俺の心に深く刻んだものから逃れることは決してできない。」

カントリーの二人の偉大な人物、ジミー・ロジャーズとハンク・ウィリアムズと肩を並べられるのは、このブルーズとカントリーを混合した経験のおかげである。二人とも、人生の初期に、年上の黒人から学んでいる。南部の白人と黒人の厳格な区別にもかかわらず、小作人家庭におけるパーキンズの経済的苦境は、黒人の隣人たちが耐えしのんだことと、さほど違わない。

彼の兄弟ジェイとクレイトンのギターとベース、それにW.S.ホーランドのドラムをバックに、1954年後期からサンレコーズのサム・フィリップスのプロデュースによってレコード制作を始めた。最初の二枚 "Turn Around" と "Let the Jukebox Keep on Playing" は、ハンク・ウィリアムズ風のヒルビリーだが、そのうちの一枚のB面 "Gone Gone Gone" は、ロカビリーで、ブルーズの影響がうかがえる。「それがロカビリーなのさ。カントリーの歌のブルーズのリズムのかけあわせさ。」

カール・パーキンズが「ブルー・スウェード・シューズ」を書いた1日か2日後、サム・フィリップスを電話で呼んで、曲を聞かせた。フィリップスが「いつ録音に来れる?」とたずねたので、パーキンズと彼のバンドは2日後にはスタジオを訪れた。パーキンズは新品のギブソンES-5スイッチマスターのエレキギターを持参した。成功しつつある自分のシンボルとして、自分自身にプレゼントしたものだった。

サン・レコーズのセッションの詳細はおおまかで、ディスコグラフィはどの曲がいつ録音されたか食い違っている。だが、「ブルー・スウェード・シューズ」と「ハニー・ドント」が12月19日より前に一緒に録音されたことは確かだ。たぶん一日前だろう。ほかの二曲 "Sure to Fall" と "Tennessee" は、同じ日か、一日前に録音されている。いずれにせよ、サンの最も有名なアーティスト、エルヴィス・プレスリーがRCAビクターに移籍した一か月後、ミュージシャンたちは一本のマイクに集まり、「ブルー・スウェード・シューズ」を録音した。エルヴィスが去ったので、サム・フィリップスは完全なるロカビリー・スタイルで歌わせることにした。「ブルー・スウェード・シューズ」は三回録音され、次第にヒルビリー・ボップからロカビリーへと変化している。最初のテイクでは "Go, boy, go" だった個所が三度目には "Go, cat, go" に変わり、"drink my corn" が "drink my liquor" に進化している。

1956年の最初の日、「ブルー・スウェード・シューズ」を発売することで、フィリップスはその年の方向を定めた。B面は「ハニー・ドント」で、これもロカビリーだった。伝統的にアップテンポの曲のB面はバラードだったが、高まっているロカビリー熱をあてにした。パーキンズは、エルヴィスがサン・レコーズにいた18か月間になしえなかったことをすぐに達成した。ヒット曲を出したのである。「ブルー・スウェード・シューズ」は6週間後、2月中旬にビルボードの全米カントリーチャートに入た(最終的に1位に三週間君臨し、半年間チャートにとどまった)。3週間後の3月10日にはポップチャートとR&Bチャートにも入った。黒人のリスナーたちはカールの演奏にブルーズを感じ、何よりも自分のオシャレな新しい靴に価値を感じる貧しい少年たちの素朴な物質主義に関係づけたのだろう。「ブルー・スウェード・シューズ」はR&Bチャートの2位に4週間とどまった。ポップス市場では、リトル・リチャードやチャック・ベリーのおかげで、R&B風の音楽にレコード購入者たちが反応し始めていた。ポップチャートでも2位に4週とどまった。1位になるのをはばんだのはプレスリーの最初のヒット「ハートブレイク・ホテル」で、4月から6月まで1位に君臨した。

それでも、「ブルー・スウェード・シューズ」は最初の本当のロックンロール大ヒットだと認められていんる。すべてのチャートをにぎわせたからだ。ときおりR&Bやカントリーのレコードがポップチャートに迷い込むことがあったが、大ヒットは特定のチャートをにぎわすだけだった。しかし、カール・パーキンズによるオシャレな靴に対する讃歌はすべてのチャートをとりこにした最初のレコードだった(「ハートブレイク・ホテル」はポップチャートでは「ブルー・スウェード・シューズ」よりも動きが早かったが、カントリーとR&Bのチャートではおくれをとった)。アメリカ音楽の新たなジャンルは、すぐそこだった。

エルヴィスは1956年1月終わりに「ブルー・スウェード・シューズ」を録音したが、彼はRCAに発表するのを控えてほしいと頼んだらしい。というのも、パーキンズからも級友のサム・フィリップスからもヒット曲を奪いたくなかったからだ。この寛大な態度をパーキンズはいつも評価している。特にエルヴィスが全米テレビ番組で三度歌って以来は。ドーシー・ブラザーズの "Stage Show" で1月と2月に歌い、4月3日に「ミルトン・バール・ショウ」で歌った。(エルヴィスの「ブルー・スウェード・シューズ」は彼の最初の45回転EPとLPに含まれ、のちに「トゥッティ・フルッティ」とのカップリングでシングルとして発売され、5月に20位まで上昇した。)結局、「ブルー・スウェード・シューズ」はその年の初めに10数名のアーティストによってカバーされた。ウエスタン・スイングのピー・ウィー・キング Pee Wee King、R&Bサックス奏者のサム・テイラー、アコーディオン奏者でバンドリーダーのローレンス・ウェルクらもカバーした。

それからの何年間は、ジョン・レノンからイギリスのパンクグループ、トイ・ドールズまで、みんながカバーした。ジョニー・リバーズは1973年にトップ40以内にランクインさせ、コン・ハンリー Con Hunley によって1986年にちょっとしたカントリーヒットとなった。だが、カール・パーキンズのオリジナルがスタンダードであり続け、多くの批評家は1950年代の代表的なレコードの一枚だとしている。これ以上にアメリカの新たに公民権を与えられた労働者階級の戦後の楽天的な雰囲気をとらえたレコードはない。身なりがちゃんとしていない彼らは、数千もの風変わりな流行や崇拝物を生みだした。青く染められたスウェードでできた靴のように。

カール・パーキンズは、「ブルー・スウェード・シューズ」以降も、100曲近くのすぐれたレコードを出したが、ポップチャートに返り咲くことはなかった。1956年の自動車事故が彼の勢いを止めた。10代の市場に入り込むには年をとりすぎていたし、ヒルビリーすぎた。

彼は、10代のアイドル二人に対して大きな影響を与えたことで満足すべきかもしれない。リッキー・ネルソンは彼の曲を二曲ファーストアルバムで歌った。ネルソンは、ロックンローラーになろうとしたのはパーキンズのおかげだと言ったことがある。そして、ジョージ・ハリソンは、カール・パーキンズのレコードを聴いて、ギターをおぼえた。1964年にパーキンズがイギリスをツアーしていたとき、ビートルズが彼を録音セッションに招待した。ビートルズは、カールの曲を三曲録音した。「ハニー・ドント」と、 "Everybody's Trying to Be My Baby" と、ブライド・レモン・ジェファーソンの「マッチボックス」をパーキンズがアレンジしたものだった。

これまで、カール・パーキンズは「ブルー・スウェード・シューズ」を何十万回も歌い、ときどきイライラした。「そんなときにゃ考えるのさ。もしこの曲がなかったらどうなっていたかをね。だから、再び歌うのが幸せなのさ!」


(2013年6月24日)

50
Elvis Presley
Heartbreak Hotel
(1956)

  • カントリーチャート1位(17週)、R&Bチャート3位、ポップチャート1位(8週)
  • カテゴリー: ロカビリー
  • 作者: Mae Axton, Tommy Durden, Elvis Presley
  • レベールと番号: RCA 47-6420、ニューヨーク
  • B面: ”I Was the One" (ポップチャート19位)
  • 録音日・場所: 1956年1月10日、ナッシュビル
  • 発売日: 1956年1月27日
  • なぜ重要か: プレスリーが最初にRCAから発売したシングルであり、最初のナンバーワン・ヒット。南部の斬新なカントリー野郎から国民的なロックンロールのセンセーションとなった。
  • 影響を受けたのは: 新聞記事
  • 影響を与えたのは: ほとんどすべて
  • 重要なカバー: Stan Freberg (ポップチャート79位)、Hank Smith and the Nashville Playboys (別名 George Jones)
  • 重要なリメイク: Roger Miller (ポップチャート84位、1966)、Frigid Pink (ポップチャート72位、1971)
驚くべきことに、RCAビクターは、1955年11月22日にエルヴィス・プレスリーと契約してから、彼をどう扱えばいいのかわからなかった。当時彼らが思いついた最高のアイディアは、プレスリーの最後のサン・レコーズのシングル「ミステリー・トレイン」を再発することだった。この曲は、プレスリーとともにサン・レコーズから獲得したものだった。12月、RCAはやる気なさげに「ミステリー・トレイン」を発売し、結局、売れなかった。RCAの2万5千ドルの投資は無駄になりそうだった。

同様に、1万5千ドルでプレスリーの取引に参加したニューヨークの大手音楽出版社ヒル・アンド・レインジ・ミュージック Hill and Range Music もプレスリーをどう扱っていいのかわからなかった。

その間、フロリダ州のゲインズビルでは、トミー・ダーデン Tommy Durden という地元ミュージシャンがマイアミ・ヘラルド紙の1面を眺めて、死体の写真に目をとめた。見出しは「この男を知っているか」だった。記事によると、この自殺した男の身元がわからないらしい。この男のポケットには「俺は寂しい通りを歩く」というメモしか入っていなかった。

その日、そのメモはダーデンの頭から離れなかった。彼は車で友人のメイ・アクストンの家に行った。アクストンは地元のソングライターで、テレビのパーソナリティで、広報係だった。彼女は、たまに、プレスリーのマネージャーであるトム・パーカー大佐のために働いていた。ダーデンが彼女に新聞記事のことを告げると、彼女はプレスリーのために曲を書こうと提案した。というのも、ナッシュビルで予定されている録音セッションように曲が必要だったからだ。彼女はすでにプレスリーに「あなたには100万枚売れるレコードが必要よ。私が書いてあげる」と言っていたらしい。アクストンのピアノの伴奏でトミー・ダーデンが即興で歌っているうちに、「ロンリー・ストリート」は二人の想像力によって「ハートブレイク・ホテル」になった。1時間もしないうちに、二人は曲を書きあげた。

地元の友人でミュージシャンのグレン・リーヴス Glen Reeves が家に立ち寄り、彼の歌をアクストンのテープレコーダーに録音してデモを作った。リーヴスはプレスリーならどう歌うかを考え、真似しながら歌った。アクストンは支払いのかわりにクレジットに名前を連ねることを申し出たが、リーヴスは断った。「俺がそれまで聴いた中で最もばかげた曲だった。」

RCAのためのプレスリーの最初の録音セッションは、ナッシュビルの古い教会を改造したスタジオで行われた。プレスリーの誕生日から1週間もたっていない1956年1月10日と11日に行われた。エルヴィスをRCAと契約させた責任者でプロデューサーのスティーヴ・ショールズ Steve Sholes は、サン・レコーズのサウンドを引き継ぐことにし、公会堂で演奏しているような深いエコーを強調した。サン・レコーズのプロデューサー、サム・フィリップスも、プレスリーの小さなバンドの音をふくらませるためにエコーを使っていた。ウィンフィールド・スコット・ムーアがギター、ビル・ブラックがベース、そして、あとから、ドラマーのジミー・ロットとジョニー・バーネロ。"The Louisiana Hayride" からはD.J.フォンタナにドラマーが交代した。ショールズは、プレスリーのサウンドをふくらませるために、リズムギター(チェット・アトキンズ)とピアノ(フロイド・クレイマー)を加えた。さらに、ジョーダネアーズのゴードン・ストーカーとスピア・ファミリーのベンとブロックによるゴスペル・トリオも加えた。

ショールズの回想によると、プレスリーはウォームアップのために、ピアノに座り、バックグラウンド・ボーカリストたちと何曲か讃美歌を歌った。録音を開始する時間になると、プレスリーはレイ・チャールズの"I've Got a Woman" を歌いたいと言った。(結局、プレスリーのファンの気分を害させないために、"I've Got a Sweetie" に題名が変わった。)

プレスリーがジャンプしまくるので、マイクから離れてしまうという問題が生じた。以前バーレスクでドラマーをしていたフォンタナの「ストリッパー」ビートがプレスリーをあおった。ショールズは3本のマイクでプレスリーを囲んだ。プレスリーがギターの弦を叩く問題に対して、ショールズはフェルト製のウクレレのピックを与えた。スタジオにはヘッドフォンがなかったので、プレスリーはミュージシャンたちをそばに集めた。満足のいくテイクがとれるまでに、プレスリーは汗まみれになり、ズボンは避けていた。弦を叩いていた指からは血が出ていた。

「なぜやめなかったんだい」とショールズがたずねると、「とても調子が良かったから、中止したくなかったのです」と謙虚に答えた。

次が「ハートブレイク・ホテル」だった。グレン・リーヴスのデモを聴きながら、エルヴィスは、このとき以来彼のパターンとなるものを確立した。彼はデモ歌手のイントネーションをマネした。これは、のちに、プレスリーのパロディみたいに聞こえるデモ歌手をプレスリー自身がマネするというバカバカしさにまで達した。トミー・ダーデンによると、プレスリーは、グレン・リーヴスと同じ個所で息つぎした。

プレスリーはグロテスクなまでに大げさで、わざとらしい曲にした。サム・フィリップスのエコー技術を知らなかったショールズは、エコーをかけすぎて、幽霊のようなサウンドになった。録音の歴史の中で「ハートブレイク・ホテル」のようなものは、ほかにない。

ヒル・アンド・レインジ・ミュージックがパーカー大佐とRCAに投資した1万5千ドルの取引にしたがって、「ハートブレイク・ホテル」は、この音楽出版社のものとなり、プレスリーの名前は3番目にクレジットされた。RCAは、ヒル・アンド・レインジのカントリー "I Was the One" をB面に入れ、その月の終わりに発売したが、ほとんど何も起こらなかった。

RCAが「ハートブレイク・ホテル」を発売した翌日の1月28日、ドーシー兄弟のCBS番組「ステージ・ショー」にプレスリーは出演した。彼は、「ハートブレイク・ホテル」ではなく、ビッグ・ジョー・ターナーの「シェイク・ラトル・アンド・ロール」と「アイブ・ゴット・ア・ウーマン」を歌った(この2曲はプレスリーのデビューアルバムに収録されることになる)。1週間後、ふたたび同じ番組に出演し、"Baby, Let's Play House" と「ブルー・スウェード・シューズ」を歌った。奇妙なことに、ヒル・アンド・レインジはどちらの曲も出版権を持っていなかった。パーカー大佐が音楽出版社と駆け引きをしていたからか、プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」を歌う気にならなかったからか。

2月11日、3度目の「ステージ・ショー」で、ついにプレスリーは、「ブルー・スウェード・シューズ」とともに、「ハートブレイク・ホテル」を歌った。3月、この騒ぎはなんだと知りたがってチャンネルを合わせる人が増えたので、プレスリーはもう2回「ハートブレイク・ホテル」を歌い、レコードが爆発的に売れ始めた。

4月に「ハートブレイク・ホテル」は1位になり、6月中旬まで1位にとどまった。

ヒル・アンド・レインジがRCAから約25万ドルの印税を受けとったとき、この音楽出版社は現金に換えることを拒んだ。0をひとつ多くつけ間違えたんじゃないかと会計課が思ったからだ。

「ハートブレイク・ホテル」は1956年最大のヒットとなり、プレスリーは20世紀最大のエンターテイナーとなった。あきらかにロックンロールが完全に到来したのだ。

(2013年6月25日)



TEXT THANKS for 気まぐれ音楽館

backto; ayukawa makoto/ have rock will travel


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